誰もいない廃駅で、来ない汽車を待っていた。
針の止まった駅舎の時計。錆びつき、文字の読めなくなった看板。
アスファルトの割れ目からは、名も知らぬ草が茂っている。
小さい駅でありながらも、隅々まで手入れが施され、賑やかだった面影はどこにもない。
汽車が来る度に、はしゃいでいた幼い頃。幼馴染みと、よく未来について話していたことを思い出す。
夏休みになったら、何をしたいか。
大人になったら、何になりたいか。
あの汽車に乗って、どこへ行きたいか。
明日のことから、何年も先のことまで。
たくさんのことを話した。どんな些細なことでも、真剣に向き合ってくれた。
二つ年上の幼馴染み。彼は自分の憧れであり、唯一恋をした相手でもあった。
遠く、微かに警笛の音が聞こえた気がした。
ぼんやりと視線を向ける。電灯も潰えた暗いこの場所からは、闇に呑まれた線路の先に何も見ることはできない。
ほぅ、と吐息を溢した。光を求めて見上げる空もまた暗く、僅かに星々が瞬くのみ。
新月だ。だからこんなにもくらいのだと、今更なことを思い笑う。
汽車を待って、どれだけの時が過ぎたのだろう。時間の感覚さえ忘れてしまった。それほど長く、ここに留まっていた。
後悔しているのだ。あの日、素直になれなかったことを。
幼馴染みがこの駅から汽車に乗って旅立った日。
自分は幼馴染にただ一言だけ告げて、背を向けた。
――またいつか。
さよならの代わりの言葉。素直になれなかった自分の、精一杯の強がりだった。
何かを言いかけた幼馴染みから逃げるように、見送ることもなく駅を出た。
泣くのが怖かった。縋り付いて行かないでと言ってしまいそうで、それが怖ろしくて堪らなかった。
もう二度と幼馴染みは戻ることはないのだと。それを知りながら敢えて告げた言葉は、まるで呪いのようだ。
こうして長い間、自分を駅に縛り付けている。
幼馴染みを縛る呪いでなかったのだけは、唯一の救いだった。
遠く、警笛の音が聞こえた。
かたん、かたん、と線路の鳴る音。
はっとして立ち上がる。ふらふらと線路に近づいて、どこか祈るような気持ちで視線を向けた。
「――あぁ」
暗い線路の先で、光が見えた。
汽笛。静寂を切り裂くように響き渡る。
駅舎の屋根が眩い光に揺らいだ。光の向こうに煙が見える。
記憶と変わらないその姿。
呆然と立ち尽くす自分の前で、ゆっくりと汽車は止まった。
暗い車両の中では、いくつかの影が揺らいでいるのが見える。
何も変わらない。
あの日、幼馴染みを乗せて去って行った汽車が、長い時の果てに帰ってきていた。
ゆっくりと扉が開いていく。中の影が揺らぐのを見て、静かに扉の脇へと避けた。
影が下りる。迎えの火を目印に、家に帰っていくのだろう。
帰ってきた彼らを見送って、汽車へと向き直った。
夜よりも黒いその色。懐かしさに口元が綻んだ。
やがて汽笛を鳴らして、汽車は再び動き出す。次の駅に向かい、線路を鳴らして去って行く。
遠ざかる汽車を見つめ、小さく手を振った。幼い頃と同じように、一度も乗ることのなかった汽車に思いを馳せながら。
やがて汽車は見えなくなる。静寂が場を満たして、駅は再び眠りについていく。
笑みを浮かべたまま、静かに歩き出す。どこか満たされた充足感を抱きながら、また汽車を待つためベンチへと向かい。
不意に、腕を引かれた。
突然のことに抵抗ができぬまま体が傾ぐ。倒れる体を抱き留めて、腕を引いた誰かは声を震わせた。
「こんな所にいたのか」
びくりと肩が跳ねた。
耳に馴染むその低めの声を、忘れたことは一度もない。
「随分と遅くなった。すまない」
抱き留める腕の力が強くなる。声と同じく震えるその腕に、そっと触れた。
「――どうして?」
辛うじて紡ぐことのできた言葉は、消え入りそうなほど微かに震えて。
だが伝わったのだろう。腕に触れた手を取り指を絡め、誰か――幼馴染みは、耳元に唇を寄せた。
「迎えに来た……約束を果たさせてほしい」
約束。記憶にないそれに、顔を上げる。視線を向ければ、泣くように微笑む幼馴染みの顔が、暗闇の中でもはっきりと見えた。
「行こう」
肩を抱かれ、歩き出す。
駅舎を出て、自分と幼馴染みの家のある方向へと向かう。
「またいつか」
不意に幼馴染みが呟いた。
強がり、素直になれなかった言葉。自分を駅に留めた呪いの言葉に、僅かに眉が寄る。
「俺を待ってくれる。それが救いだった……家にいるのかと思っていたから、気づかなくて悪かった」
「――え?」
いつの間にか離れた幼馴染みの手の上には、精霊馬が乗せられていた。馬は手のひらの上で跳ね、宙を駆けて去って行く。
「今回は汽車に乗って正解だった。還る時も汽車に乗ろうか。今度は一緒に」
微笑む幼馴染みに、戸惑いながらも小さく頷いた。
何故だが気恥ずかしくなって、視線を前へ向けた。
向かう先に見える火は、自分の家のものだろうか。
火を前に、腕を組んで待つ懐かしい姿を認め、思わず息を呑んだ。
「お父さん」
幼馴染みと同じく帰ってこなかった父の姿に、僅かに涙が滲む。
父だけではない。母や弟たち、家族が家の前で待っていた。
「行こう。お前の来世を貰う挨拶をさせてくれ」
穏やかな声に、目を瞬いて幼馴染みを見る。穏やかな笑みに遅れてその言葉の意味を理解して、声にならない悲鳴が漏れた。
頬が熱い。視線の行き場に迷い、逃げるように再び繋がれた手に視線を落とした。
「左様ならなど、仕方がないと別れるのでなく。またいつかと、再会の約束をくれてありがとう」
縛り付ける呪いではなく、再会を約束する言葉。
優しく囁かれて、幼馴染みの胸に凭れ、一筋涙を流した。
20250722 『またいつか』
縁側に座り、少女はぼんやりと空を見上げていた。
夏休みに入り、初めて一人で泊まった祖父母宅。どこか落ち着かない気持ちに、少女は溜息を吐く。
学校の宿題は、絵日記と自由研究を残すのみ。初日に両親に連れられてから、三日目にはすでに殆どの宿題が終わってしまっていた。
田舎には娯楽が少ない。テレビは退屈な大人向けの番組ばかりで、子供用のゲームなどもありはしない。そも、少女はテレビやゲームよりも読書を好んでいた。
しかし、祖父母の家の書架には本があるものの、幼い少女にはまだ難しい内容のものばかり。故に現時点でできる宿題を終えた後は、こうして縁側の片隅で空を見上げている事が多かった。
「――ごめんください」
不意に、玄関から声がした。
子供特有の、高めの声音。少女は玄関の方へ顔を向けながら、意味もなくおろおろと視線を彷徨わせた。
今、この家にいるのは少女だけだ。祖父は畑仕事に出てしまったし、祖母は先ほど買い物に出たばかりだ。
「おじゃまします」
その言葉に、少女は益々狼狽える。
誰かが許可もなく家の中に入ってくる。都会暮らしの少女には理解できない田舎特有の感覚に、どうすればいいのか分からない。
近づく足音に、少女の目には次第に涙の膜が張る。縁側の先に小さな人影を認めて、耐えきれなくなった涙が一筋、少女の頬を伝い流れていた。
「あぁ、やっぱりいたんだ。返事がないから勝手に上がったけど」
影が少女に近づき、その姿を明確にする。
少女と然程変わらない年頃の少年。人好きの笑みを浮かべて、少女の側に歩み寄る。
「怖がらないで。大丈夫、君のお祖母ちゃんに言われて来たんだ。一緒に遊んで欲しいって」
小さく蹲る少女の頬に手を伸ばし、流れる涙を拭いながら少年は優しく告げる。祖母の名が出たことで、少女の警戒はいくらか緩くなった。
目を瞬いて涙を溢しながら、少年を見つめる。
少女よりも頭一つ高い背丈。笑顔を浮かべながらも、少しだけ下がった眉。優しく涙を拭う手つき。
恐怖とは違う鼓動の高鳴りを感じた。切なく胸を締め付ける知らない感情に、少女は戸惑うことしかできない。
懐かしい。
ふと込み上げた思いに、少女は何故だか無性に泣きたくなった。
「ここを案内してあげる……おいで」
差し出された手を取って、泣く代わりに少女は控えめに微笑んだ。
少年に手を引かれ訪れた場所は、まるで別世界のように少女を魅了した。
神社でのかくれんぼ。小川での水遊び。
蝉やザリガニを捕まえるのも、何もかもが初めての経験だった。
「ほら」
駄菓子屋で買ったアイスを、ぱきんと二つに割って、少年はその片方を少女に手渡した。
「――ありがとう」
軽く俯いて礼を言う少女の頬が赤い。誰かとこうして何かを分けるということすら、少女は初めてだった。
少年の隣に座り、少女はそっとアイスに口を付ける。
ほんのり甘く、冷たい氷の味。
初めての味に、しかし少女の胸を不思議な懐かしさが過る。
既視感、とでもいうのだろうか。少年と過ごし経験するすべてが懐かしく、そして愛おしくて堪らなかった。
横目でアイスを囓る少年を密かに覗う。
お互いに初対面であるはずだ。だというのに、何故こんなにも懐かしく思うのだろうか。
少女には分からない。痛みすら覚える、切ない感情の名を、幼さ故に少女は知らなかった。
「アイス、溶けるよ?」
少年の指摘に、少女は慌ててアイスを囓る。
きん、とした頭の痛みに、笑い合った誰かのいつかの記憶が過ぎた気がした。
「最後に、とっておきの場所に連れて行ってあげる」
そう言って笑う少年に手を引かれ、少女が最後に訪れたのは、小さな廃駅だった。
「ここ?」
「そうだよ。今日は特別なんだ」
困惑し立ち止まる少女に、少年は穏やかに告げる。
少年らしからぬ、何かを想う達観した大人のような目をして廃駅を見つめていた。
少女は少年と繋いでいた手に力を込めた。何かに縋っていなければ、今にも崩れてしまいそうだった。
懐かしい。
覚えのないその感情に、呼吸が乱れていく。泣き叫びたいような、笑いたいような、そんな不思議な感覚に目眩がした。
少年に手を引かれ、駅舎の中に入り込む。
廃駅となって幾分か傷みはあるものの、中は大分綺麗だ。
慣れた様子で改札に向かう少年に、少女は何かを言いかけ。結局何も言えずに、少年に手を引かれるままに改札を抜けた。
「――え?」
改札を抜けた瞬間に、すべてが変わった。
高く昇っていたはずの陽は何処にも見えない。
月のない夜空を、少女は呆然と見上げた。
「大丈夫、今日は特別だから」
少年に促され、歩き出す。
駅には、夜の闇よりも黒い汽車が静かに止まっていた。
「汽車……」
不思議と恐怖はなかった。
ただ込み上げる名前の知らない思いに、少女の目には涙の膜が張りだした。
一筋、頬を伝う。その涙を拭う少年の姿に、誰かが重なって見えた気がした。
「行こう」
そっと囁かれて、少女は小さく頷いた。
手を引かれるまま、車両に乗り込む。音もなく扉が閉まり、汽笛が鳴った。
少年と少女、二人だけを乗せて汽車は走り出す。
「この汽車、どこに向かっているの?」
少年の向かいに座り、少女は窓の外を見ながら呟いた。
「特別な場所……ほら、線路を越えて海に出るよ」
少年の言葉とほぼ同時、車両内が小さく揺れた。
ふわりと小さく浮かんだ汽車が、音もなく海の上に降り立った。線路のない、凪いだ水面を走り抜けていく。
星を映した水面が煌めいた。まるで夜空を走っているようだ。
どこかで、微かに鈴の音のような音が聞こえた。それは汽車の車輪が水面にさざめく音だったのかもしれない。
遠く、いくつも連なる灯が海に浮かんでいた。初めて見るはずのその火の名が、少女の唇から溢れ落ちる。
「――不知火」
本来ならば、夏の終わりと共に見られる現象。
海辺に座り、遠く連なり揺らぐ火を見た記憶が過ぎていく。
少女のものではない記憶。隣に座り、その火の名を教えてくれたのは、誰だっただろうか。
「渡したいものがあるんだ」
静かな声に、少女は少年へと視線を向ける。
「左手、出してくれる?」
真剣な面持ちの少年に、少女はゆっくりと左手を差し出した。
少女の前で膝をついた少年は、恭しくその手を取る。薬指に軽く唇を触れさせて、そっとその指に何かを嵌めた。
「――指輪?」
それは小さな赤い石のついた、玩具の指輪だった。
「本物じゃなくてごめん。でも、今の俺にはこれしか渡せないから」
眉を下げてはにかんで、少年は手を離す。
膝をついたままで少女を見上げ、強い目をして今日を忘れてもいいけれど、と静かに思いを口にする。
「覚えていなくても構わない。ただこれだけは知っていてほしい……お前がくれた約束を、俺は決して忘れはしない。前世も今世も、そして来世も。俺はお前だけを愛している。例え結ばれなくとも、俺の愛はお前だけのものだ」
ひゅっと、少女は息を呑んだ。
少年の姿に、学生服を着た青年の姿が重なる。
遠い過去、少女が少女となる前の記憶が弾けて、涙となって落ちていく。
少女は震える手を伸ばした。少年に引き寄せられるままにその胸に飛び込んで、強くしがみつく。
「ずっと、言えなかったことがあるの」
小さくしゃくり上げながら、必死で言葉を紡ぐ。背を撫でる少年の優しさに泣きながらも笑い、別れの日に言えなかった本当の思いを打ち明けた。
「行かないでほしかった。ずっと、側にいてほしかった……私のこと好きだって、お嫁さんにしてくれるって。子供の頃の約束を守ってほしかった」
少女の言葉に、少年は目を閉じ、あぁと声を溢した。
一度強く抱きしめてから、体を離す。額を合わせて、そっと囁いた。
「今度は必ず守る。結婚の約束も、俺の船で不知火を探しに行く約束も……前世でできなかったことをすべて、今世で叶えよう」
夜の海を、汽車が走っていく。
重なった二人の影を乗せて。
ただひとつの、永遠とも言える愛を内に抱いて。
少女が目覚めた時、そこは汽車の中ではなく、見慣れた祖父母の家だった。
体を起こし、部屋を見回す。少年の姿はどこにもない。
夢だったのだろうか。少女は小さく息を吐いて、何気なく左手に視線を落とした。
「――っ」
左薬指に嵌められた、赤い煌めき。
夢ではない確かな約束に、少女は泣くように微笑んだ。
20250723 『true love』
7/24/2025, 9:08:02 PM