暗闇の中、太鼓の音が鳴り響いていた。
その音に導かれるようにして、少年はそっと目を開く。
いくつも連なる提灯の灯り。夜道を淡く照らし、奥へと誘う。
夜祭りだろうか。左右に並ぶ屋台からは、香ばしい匂いが漂っていたが、不思議なことに、どの屋台にも人影はない。
祭を楽しむ気配すら感じられなかった。
ふと、太鼓に混じり、甲高い笛の音が聞こえた。
どこか不安を誘う、その旋律。鼓動のように一定の間隔で響く太鼓の音と混じり合う。
その音の方へ、少年はじっと視線を向ける。
その目は恐怖を色濃く浮かべながらも、強い意志を湛え。
やがて少年は目を閉じ、深く呼吸をする。心の中でゆっくり十数えて、再び目を開けた。
静かに歩き出す。
まだ幼いはずの少年にしては、不釣り合いなほどしっかりとした足取りだった。
太鼓と笛の音に誘われ辿り着いたのは、大きな神楽殿のある開けた場所だった。
大勢の顔の見えない観客が、舞台を取り囲む。面を被った奏者たちが、途切れることなく音を奏でている。
その中心で、男が一人舞っていた。
だが、その動きは酷く鈍い。呼吸は荒く、今にも倒れてしまいそうなほどだ。
男が動く度に、汗が舞台に滴り落ちる。あるいはそれは、男の涙だったのだろうか。
笛が一際高く、鋭い旋律を奏でる。
太鼓が力強く打ち鳴らされるが、男の体はもう持たない。
膝をつき、地面に手をついた。
太鼓の音が止まる。
笛が、悲鳴のような高音を一つだけ響かせ、沈黙する。
聞こえるのは、男の荒い呼吸のみ。
それすらも、次第に浅くか細くなっていく。
不意に、舞台の暗がりが蠢いた。
ぞわり、と黒い影が男の足に絡みつき、沈めていく。
「あ……あぁ、まだ……いやだっ……!」
男は怯えた様子で、這いずりながら舞台から逃げようと踠く。
だが沈む足は止まらず、男の体はゆっくりと舞台に呑まれていく。
「助けて……助けてくれ……まだ、終わりたくない……誰か……」
男の悲痛な叫びを、誰一人聞こうとしない。
必死に伸ばされた手を取るモノはない。
走者も観客も、微動だにせず。
ただ、男の終焉を静かに見つめていた。
「どうして……こんな……」
小さな嘆き。
掻き消すように一度だけ、太鼓の音が響く。
それを最後に、男は舞台に呑まれて消えた。
「次は坊主の番だな。舞台に上がってくれ」
不意にかけられた声に、少年の肩が小さく震えた。
ゆっくりと視線を巡らせる。
舞台の上の奏者が、観客が、少年が舞台に上がるのを待っていた。
震える足に力を入れて、少年は舞台に歩み寄る。
階段に足をかければ、太鼓の枹を手にした男が目の前に立った。
「坊主はまだ七つになってないのか。なら、舞台に上がらなくてもいいぞ」
そう言われて、逡巡する。だが静かに首を振り、少年は足を進めた。
「そうか。なら励むことだ……よく聞け。オレの打ち鳴らす音は、坊主の鼓動だ。途中で止まれば、オレも手を止める。そうすれば終わり。一回きりだ……もし、苦しくて諦めそうになるなら、笛の音を聞け。あの音は、坊主が聞いている音だからな」
ちらりと枹を持つ男が、笛を持つ男に視線を向ける。
笛の男はひとつ頷いて、旋律を奏で始めた。
柔らかな音色。しかしもの悲しい旋律に、少年はそっと胸に手を当て目を閉じる。
聞こえる音は次第に少年の中で形を変え、声になった。
ぼんやりとして、言葉として聞き取れない。それでも悲しみ祈る声が、少年の鼓動に熱を持たせた。
笛の音が止まり、少年は目を開ける。
階段を上がり、舞台に立つ。
枹を持つ男もまた、太鼓の前に立ち。
枹を構えながら、不意に少年へと視線を向けて、言葉をかけた。
「坊主。約束はあるか。何でもいい。未来の約束だ」
問われて、少年は首を傾げる。
ややあって、はっきりと頷いた。
「じゃあ、問題ない。坊主は戻れるだろうよ――さぁ、始めるぞ」
力強く、太鼓の音が打ち鳴らされ。
少年は静かに舞い始めた。
太鼓と笛の音に合わせ、少年の手足が動く。
正しい舞い方などはない。心の赴くまま、鼓動の示すままに、只管舞い続ける。
息が上がる。体が重くなり、足が縺れそうになる。
それでも止まらない。少年の目は光を失わず、強く足を踏み鳴らした。
――元気になったら、海を見に行こうか。
両親の言葉を思い出す。
海を見たことのない少年のための約束。
元気になると答えた、あの日の鼓動の高鳴りは、今も忘れたことがなかった。
笛が高らかに旋律を奏でる。
息苦しさに視界が滲む。動きが次第に鈍くなる。
歯を食いしばり、重だるい腕を上げて、くるりと回った。
――誕生日プレゼント。楽しみにしてろよ。
兄の笑顔がよぎる。
明日に控えた誕生日を、兄は祝ってくれると約束した。
ケーキとお菓子と、そしてプレゼント。聞いても教えてくれなかった中身が、楽しみだった。
その時に感じた温かな熱が、じわりと胸に広がる。
一層力強く、太鼓が打ち鳴らされる。
少年の動きはもはや舞うというよりも、辛うじて動いているといった方が正しい。
震える足が何度も止まりそうになり、眩む視界は何も映さない。
胸が痛む。呼吸ができない。
それでも――。
浅い呼吸を繰り返し、限界を訴える体を動かして、少年は必死で踠き続けた。
――また、明日ね。
少年よりも幼い少女との約束が思い浮かぶ。
たくさんの管に繋がれ、それでも笑みを絶やさない少女。一日の終わりに必ず交わす指切りが、痛みとは違う鼓動となって少年を奮い立たせた。
些細な約束。けれどそれは、互いにとって決して破ってはいけない、生きるための楔だった。
いくつもの未来の約束が、少年の中で熱を持つ。それは体中に広がり、熱い鼓動となって少年に力を与えた。
笛の音が響く。太鼓が打ち鳴らされる。少年が力強く舞う。
舞台に光が差し込んだ。提灯の淡い灯りとは異なる、鋭い光。その暖かさに、少年は最後の力を振り絞り手を伸ばす。
見えない誰かが少年の手を掴み、引いた。光はさらに強くなり、その眩しさに耐えきれず少年は目を閉じた。
強く、激しく。太鼓が打ち鳴らされる。
抗うこともできず、そのまま意識は深く沈んでいった。
目が覚めると、少年は病室のベッドでたくさんの管に繋がれていた。
涙で赤くなった目をして、兄が笑う。その後ろでは、静かに泣く母の肩を抱いて、父が目元を潤ませながら微笑んでいた。
「おかえり。頑張ったな」
兄に頭を撫でられて、少年は目を細めた。
とくとくと、自身の鼓動が強く感じられる。それは太鼓の音のように聞こえて、少年は目を瞬いた。
長い夢を見ていた気がする。しかし夢から覚めてしまった今はもう、何も思い出せない。
「七歳の誕生日、おめでとう。プレゼント、楽しみにしてろよ」
兄の言葉に、あ、と小さく声を上げる。
誕生日。今日で七つになったのだ。
とくん、と鼓動が跳ねる。遠くで、力強く太鼓が打ち鳴らされた気がした。
胸に手を当てる。ふわりと微笑んで、少年は家族を見つめ。
「――ただいま」
神の手を離れ、現世に戻ってきたのだと、誇らしい気持ちで帰還の言葉を告げた。
202507230 『熱い鼓動』
8/1/2025, 6:29:37 AM