誰かが泣いている。
声を押し殺して泣く声に、燈里《あかり》はゆっくりと目を開けた。
「誰かいるの?」
広がる暗闇の奥へ問いかけるが答えはない。辺りを見回すが、見えるものは何もなかった。
きゅっと手を握り締める。震える体に力を入れ、声の聞こえる方へと足を進める。
このまま立ち竦んでいても何も変わらないのだろう。動かなければ、手遅れになってしまう。
込み上げる衝動的な思いに突き動かされているかのように、燈里の足取りに迷いはない。奥を見据える目に怯えもなく、強い意志を湛え声のする方へと歩いていく。
ふと、泣き声に紛れるように声が聞こえた。
話声だろうか。声は聞こえるものの言葉として認識できないそれに、燈里は足を止め眉を寄せる。
目を凝らし辺りを見るが、暗闇に閉ざされやはり何も見えない。
「そこにいるの?」
泣き声が止んだ。
雑音としてしか聞こえない声が、波のようにうねる。
――どちら……ても……約束……
時折明瞭になる声は、何かを伝えている気がした。耳を澄ませば声がうねりを増す。
耳元を過ぎる声の中で、燈里は幾度となく繰り返される言葉に気づいた。
「約束?」
言葉にした瞬間、うねり広がる声が光となった。一瞬で暗闇を染め上げる白い閃光に、燈里は咄嗟に目を閉じる。
瞼の向こう側では、光が飽和してすべてを飲み込んでしまいそうだ。目を閉じて尚感じる強すぎる光に顔を顰めながらも、燈里は取り乱すことなく声を上げる。
「約束とは何?そこにいるなら、伝えてほしい」
その言葉に光が一瞬途切れた。再び差し込む光は、どこか柔らかく穏やかだ。
ゆっくりと目を開ける。白の世界の中心に一人の少女の姿が見えた。
腕に花束を抱き、燈里を見つめている。その眼差しは強く、一瞬前の光を思い起こさせた。
「約束。守らないと」
「その約束とは何ですか?」
少女と対峙し、燈里は問いかけた。それに少女は何も答えずただ燈里を見つめ続け、ややあって背後を見せるかのように数歩脇へと移動する。
「――っ」
景色が変わる。
白一色の世界は薄暗いどこかの室内に変化し、目の前に二人の少女の姿を浮かばせる。
まだあどけなさを色濃く残す少女たちは姉妹だろうか。同じ巫女装束はどちらも煤け、所々が破れてしまっている。よく似た二人の顔も、破れた装束から覗く肌にも無数の傷が刻まれている。
「約束」
片方が手を差し出す。震える手を、もう片方が傷だらけの手で包み込んだ。
「約束する。どちらが戻れても、戻れなくても、皆のことは絶対に守り通す」
「約束する。生きられても、死んだとしても、巫女としての在り方は歪まない」
痛みに顔を歪ませながら、けれどどちらも強い目をしている。視線を合わせ頷いて、同時に手を離した。
その途端に二人の姿が消える。辺りは再び白だけの空間が広がり、燈里は詰めていた息を吐きながら花束を抱いた少女に向き直った。
「約束を守りたいの?」
燈里の問いかけに少女は頷く。その顔は、先程手を差し出した少女のものだ。
「私は、守りたい」
燈里の目を見ながら少女は告げる。
「姉様との約束を守りたい。皆を守りたい……だから力を貸してほしい」
「どうすればいいの?」
燈里はさらに問いかける。少女は口を開きかけ、腕に抱いた花束に視線を落とし逡巡する。
ほんの一瞬、その目が泣くように揺らいだ。だが目を閉じ、次に開いた時には、その揺らぎはどこにも見えなかった。
「私たちを終わらせて」
迷いなく少女は告げる。
燈里は何も答えなかった。ただ花束を抱きしめる腕の震えや真っすぐな少女の眼差しの奥に沈む痛みを見つめていた。
言葉の真意を見定めるような静けさに、少女はきゅっと唇を噛んだ。無意識にだろう、一歩前に足を踏み出し、声を上げる。
「私は父様が守ろうとしていた皆を同じように守りたい。母様が愛したこの地を穢したくはない。私は、私は……!」
ぱさりと花束が揺れ、花びらが地に落ちた。少女は気づかず、叫ぶように願いを口にする。
「私は、私のせいで堕ちたアキシロ様を、鬼のままにしたくない!姉様たちを方相氏のお役目から解いて、名前を返したいっ!だから、だからっ……終わらせるしか……」
真っすぐだった少女の目が揺らぐ。水面のように煌めいて、決壊した滴が頬を伝い流れ落ちていく。
手を伸ばし、燈里はそっとその滴を拭った。そのまま頭を抱き寄せ、静かに髪を撫でる。
「ごめんね。それはできないよ」
「――っ!」
「終わらせることを誰も望んでいないから」
顔を上げた少女に微笑み、燈里は後ろを指さした。
「あ……」
振り返る少女の視界を、風に舞う色とりどりの花びらが覆う。
無邪気に笑う声がする。花びらが高く舞い上がり、開けた視界には一面の花畑が広がっていた。
遠く、花畑に埋もれるように小さな影が二つ見えた。座る影が手にした花冠を、その隣で様子を伺う影の頭に乗せる。
「可愛い!ありがとう、姉様」
「どういたしまして。ずっと一緒にいられるように願いを込めて編んだから、大切にしてね」
「ずっと一緒?」
「そう、ずっと一緒。私たちも神様たちも、皆ずっと一緒」
楽しげな笑い声が響く。互いに手を繋ぎ立ち上がって、花畑の向こう側へと駆けていく。
影が見えなくなるにつれ、花畑が揺らいでいく。花束から落ちた花びらをその場に残して、
霞むように消えていく。
「ずっと……一緒……」
噛み締めるように、少女は呟いた。
誰もが皆変わらず幸せでいられると信じていた遠い日々。それを思い出して、新たに涙が溢れ落ちていく。
「今、南方《みなかた》編集長が、堕ちた神を戻す方法を探し求めているの。だからもう少しだけ待ってあげてほしい」
燈里の言葉に、少女は困惑する。
元に戻す方法など本当にあるのか、それはいつになれば見つかるのか。
もう少しとは、あとどれくらいなのだろうか。
ただの夢物語のような言葉に、少女は燈里の目を見つめる。燈里も少女を見つめふわりと微笑んだ。
「私も探すから……誰もがみんな、笑えるように」
だからもう少しだけ。
そう願う燈里の目を見つめたまま、少女はまた一筋涙を溢す。
答えはない。
それでも少女は燈里と目を合わせ、はっきりと頷いた。
20260210 『誰もがみんな』
風が通り過ぎていく。
鼻腔を掠めた匂いに、燈里《あかり》は眉を顰めた。
鼻をつく、甘い匂い。腐った果実のような不快なそれに、冬玄《かずとら》も眉を寄せ舌打ちする。
「燈里。あまり吸い込むな」
燈里の体を引き寄せる。冬玄の周りで薄い氷の膜が張り、陽の光を反射して煌いた瞬間、澄んだ音を立てながら砕け散った。
不快な匂いは感じられない。息を吸い込めば、冬の冷気が肺を満たしていく。その中に仄かな蝋梅の香りを感じ取り、燈里はほぅ、と吐息を溢した。
「燈里」
冬玄に呼ばれ、燈里は徐に腕を上げる。道の先、木々の間から僅かに見える建物を指さし、静かに告げた。
「あそこ。あの蔵の中」
目を凝らすものの、冬玄にはその蔵らしい建物がぼやけて見えた。異様に気配が薄い。いくつもの膜に覆われているような、目を逸らした途端に認識できなくなるような、そんな違和感に眉が寄る。
「随分と目が滑るな。結界か?」
「行こう。二人が待ってる」
燈里に促され歩き出す。だがいくら近づけど、蔵の気配は霞んだままだ。
その奥からは昏く沈んだ気配が揺蕩っている。冷たい痛みが全身を貫く錯覚に息が詰まる。燈里を守るように、冬玄は震える肩を抱き寄せた。
「ここか?」
蔵の前で立ち止まる燈里に、冬玄は戸惑いの表情を浮かべた。
目の前には両開きの重厚な蔵戸。だが冬玄には見えていないのだろう。その視線が戸を注視することはなく、蔵やその周囲を彷徨っている。
「燈里」
「大丈夫。ここだよ」
燈里の声に迷いはない。その目は真っすぐに蔵戸を見つめ、取っ手に手をかけた。
ぎぃ、と重く軋んだ音を立て、戸が開かれていく。そこで蔵戸の存在に気づき、冬玄は慌てて手を添え力を込める。
「何だ?」
細く開いた戸の前で何かが佇んでいるのを認め、冬玄は目を細めた。一度手を止めると、燈里の手を戸から離させる。
纏う空気が張りつめていく。視線を戸の隙間から離さず燈里を背後に下がらせると、一気に戸を引き開けた。
「――見えないわけだ。まさかあの時の地蔵がいるとはな」
目を閉じ。微笑みを浮かべて立つヒガタ。息を呑み、次いで深く息を吐いて、冬玄は警戒を少しだけ緩めた。
「ありがとうございました」
冬玄の横を燈里が通り抜け、燈里はヒガタの前に立つと深く礼をする。答えの代わりにしゃんと錫杖を鳴らし、ヒガタの微笑みが深くなる。
「燈里ねぇ!」
「睦月《むつき》!楓《かえで》!」
その後ろ、近づく睦月と楓の姿に、燈里は安堵の息を吐く。
駆け寄る睦月の体をしっかりと抱き留め、よかったと小さく呟いた。
見た所、睦月と楓に怪我はないようだ。それならばすぐにでもここから離れた方が良いのだろう。
そう思い、燈里が後ろにいる冬玄を振り返ろうとした時だった。
「――っ、冬玄!?」
突然冬玄に背を押され、燈里は睦月と共に蔵の床に倒れ込んだ。
咄嗟に身を捩ったことで睦月を圧し潰さずに済んだものの、冬玄の行動の意図が分からない。身を起こし後ろを向くが、視界を塞ぐように楓が蔵戸との間に立ち塞がった。
「楓?」
一体何が起きているのか。
こちらに背を向けているため、楓の表情は見えない。呼びかけても返事がないことに底知れぬ不安が込み上げ、燈里は倒れたまま動かない睦月へと視線を向けた。
睦月、大丈夫?」
意識がないのか反応はない。抱き起そうと肩に触れ、手から伝わる異様な熱に息を呑んだ。
酷く熱い。膝に頭を乗せ、赤い顔をしてうなされている睦月の汗を拭う。
誰も言葉を発しない。それが不気味で、燈里は楓の背を食い入るように見つめた。蔵の外に何があるのか見透かそうと目を細め、不意に感じた匂いに体が硬直する。
甘い香り。どろりと粘つき、吸い込んだ者の内側から腐らせるかのような悍ましさに燈里の眉が寄る。息苦しさに視界が滲み、頭の奥が鈍く痛み始める。
これは、穢れだ。
厄という名の、死の穢れ。夏に足を踏み入れた、荒れた墓地の匂いに似ている。
気づいた瞬間、燈里の脳裏にある姿が浮かぶ。長い金の髪に、翁の面。腕に抱かれた日本人形の腕には枯れた花束が握られていた。
「久しいな、北」
低くもなく、高くもない声が冬玄を呼ぶ。対峙する冬玄は言葉を返さず、その目は鋭く相手を睨みつけている。
「通してくれ、北よ。その蔵の中にいる娘たちに用がある」
冬玄は何も言わず、微動だにしない。だがその影は揺らぎ、対峙する相手と酷似した翁の面を冬玄の前へ浮かばせた。
「北も他と同じく、西の障害となる選択をするというのか。なれば押し通るが構わぬか」
「――理由くらいは聞いてやる。何の用だ?何故接点のないはずの人間に執着する?」
低い冬玄の声に相手の動きが止まる。首を傾げ、腕に抱いた人形へ視線を落とした。
「鈴《すず》が一人を寂しがる。かつての友は封じられていた間に絶えた故、新しい友が必要だ」
当然と言わんばかりの声音だった。腕の中の人形のために、新しい友を宛がう。そこに相手の意思はどこにも存在しない。
「断る。貴様の人形遊びに付き合わせるつもりはない」
冬玄の影が揺れ動き、相手の足元に鋭い氷に棘を生じさせた。相手と冬玄とを隔てる棘は、だがしかし、西の面が一歩踏み出したと同時に音もなく粉々に砕け散ってしまう。
冬玄の気配が鋭さを増す。面に手を伸ばしながら、辺りを無差別に凍らせていく。
「人形……」
ぽつりと落ちた言葉。
冬玄が気にする様子はなかった。しかし浮かぶ映像として見ていた燈里は、その不思議そうな響きが酷く気にかかった。
西の面に抱かれているそれに意識を集中する。
赤子よりかは大きなその姿。枯れた花束。漂う甘い匂い。
それは枯れた花の匂いではない。
「何を言っている。鈴は人形などではない」
虚ろに開いた目が、ほんの僅か動いた気がした。
まだ、生きている。
ふと浮かんだ言葉。虚ろな目が瞬き、こちらに向けられる。
視線が交わる瞬間。
燈里の意識は暗転した。
20260209 『花束』
蔵の外では、まだ足音が聞こえていた。
近づき、遠くなる。何かを探しているようなその足音は、けれども蔵の中に入ってくる様子はない。
「いなくならないね」
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、睦月《むつき》はぽつりと呟いた。それに楓《かえで》は答えることはなかったが、ややあって小さく息を吐く。
「楓ねぇ?」
「燈里《あかり》たちがこっちに向かってきている。後他にも何人か集まってきているね……まったく、無理はしてほしくないんだけどな」
「ごめんね。楓ねぇ」
そう言って、睦月は悲しげに俯いた。
自分が見た夢に、燈里や楓を巻き込んでしまったと思っているのだろう。だが実際の所は定かではない。
外の足音――堕ちた神との縁であれば、睦月よりも冬玄《かずとら》との繋がりが深い燈里の方が強い。最初に方相氏の夢を見たのは睦月ではあるものの、それすら一緒に暮らしていたが故に、冬玄の影響を受けてしまったのだと楓は考えていた。
「睦月よりもあの馬鹿の方が重罪だよ。だから落ち込むより、帰った後に馬鹿をどうしてやるかを考えた方がいい」
「それって全員で?」
「もちろん、全員に決まってる。あれの同胞のせいで面倒なことになってるんだから」
小さく息を吐き、楓はそれにしても、と横目で蔵の入口に視線を向ける。
緊迫した状況の中でもこうして取り留めのない話ができる理由を見つめ、安堵のような、呆れのような笑みを無意識に浮かべた。
「これ、正直僕がいなくても大丈夫だよね」
入口に佇む黒い影に、思わず本音が漏れる。楓の言葉にしゃん、と錫杖を鳴らし、黒い影――ヒガタと呼ばれた地蔵菩薩は答えた。
睦月と共にこの蔵に逃げ込んだ瞬間、ヒガタが入口に現れたおかげで外からはこの蔵が認識できなくなった。
元々地蔵菩薩は辻や山の麓などの境界で、害あるものから守護する役目を負う。一時は来訪神と習合していたことはあったが、地蔵本来の役割は難なく果たせるのだろう。
笑みを引き攣らせ、楓は辺りを彷徨う足音に耳を澄ませる。ある程度近づくものの、やはりこの蔵に来る気配はない。
「こうやって自由に動けるなら、無理に来訪神と習合しなくてもよかったんじゃ」
「何言ってるの、楓ねぇ。ヒガタだからこうやって来てくれたんだよ。地蔵様だったら動けないじゃない」
「あぁ……まあ、そうか……」
不思議そうな睦月に、楓の笑みが更に引き攣る。結局それ以上何も言えずに、楓は密かに溜息を吐いた。
「燈里、そんなに急ぐな。俺か南から離れないという約束だろう」
先を急ぐ燈里に、冬玄は静かに声を掛ける。
そこで自分が先に進んでいることに気づいたらしい。小さく肩を震わせ後ろを振り返る燈里は、気まずげな、それでいて落ち着かない表情をしながらも冬玄の側に戻る。
先ほどから何度か繰り返したやり取りだ。それだけ燈里に余裕はないのだろう。
だが取り乱す程ではないのは、睦月の側に楓がいてくれるという強い信頼があるからだ。
「焦るな。楓を信じてるんだろう」
「分かってる。ごめんなさい」
素直に謝る燈里に、冬玄は笑って彼女の頭を撫でる。乱れた髪を直しながら冬玄に寄り添って歩き出すのも、何度か見た光景だった。
「あれは本当に北なのかしら。偽物ではないの」
そんな二人のやり取りを見て、宙に浮かぶ翁の面が訝しげな声を上げる。
かつての同胞の変化がまだ信じられないのだろう。少し離れて歩く夏煉《かれん》の側を漂いながら、しきりに偽物ではないかと呟いていた。
「まあ、信じられんが、あれは間違いなく北だ。宮代《みやしろ》と出会ったことで変わったのだろう」
面とは異なり、夏煉は冬玄の変化を特に気にする様子はない。冬玄と燈里の関係は壊れてしまう前の自分たちと同じだと、夏煉は痛い程に理解していた。
それに気づいたのか、翁の面はそれ以上何も言わずに夏煉の側につき進む。寄り添いながら歩き、時折目を合わせて何かを話しては柔らかく微笑む冬玄と燈里の姿に、羨望とも悲哀ともつかぬ吐息を溢した。
古びた鳥居をくぐり抜けた瞬間、空気が変わった。
神域だというのに、澱み粘ついた風が頬を撫でる。ぞわりとした悪寒に体を震わる燈里を抱き寄せ、冬玄は険しい目で辺りを見回した。
懐かしくも悍ましい気配に視線が鋭さを増す。曖昧にしか感じられぬ睦月と楓の気配に警戒を強め、一歩足を踏み出そうとした。
「いるわ。鬼がいる。ようやく西を見つけたわ」
しかし踏み出した足が地に就く前に、吹き抜ける春の嵐のような激しさで、翁の面が冬玄の脇を通り過ぎる。
瞬く間にその姿は奥へと消え、冬玄は思わず舌打ちをした。
「あの馬鹿……!」
「そう怒るな。東は子供たちとの約束を守ることで自身を留めているんだ」
冬玄の隣に並び、夏煉は静かに告げる。目を細め、それに、と穏やかな声で付け加えた。
「西に関しては、私たちが対処すべきものだ。宮代たちは探すべき人間がいるのだろう?」
燈里を見つめ、夏煉は優しく微笑む。何も言えない彼女の頭を撫で、面の後に続くように奥へと消えていった。
「――冬玄」
燈里に呼ばれ、冬玄は僅かに眉を寄せた。
落ち着いた声音。以前の燈里ならば間違いなく自身の無力さに嘆いていただろうに、それが欠片も感じられない。
「どうした、燈里」
それでも感じた戸惑いを態度には出さず、冬玄は答えた。
腕の中で向きを変え、燈里は冬玄の目を見据える。澄んだ眼差しが、冬玄の目を捕えたままふわりと微笑んだ。
「私たちも奥に行くよ」
「燈里」
「奥にいる。隠れたのはいいけど、そのまま出られなくなっているから迎えに行かないと」
手を繋ぐ。指を絡め、互いの薬指に嵌るリングを重ね合わせた。
「大事なことは睦月たちを助けに行くことだってちゃんと分かってる。でも我慢できなくて手を伸ばしそうになったら、止めてくれる?それで、もし冬玄がいいよって思えたら、少しだけ南方《みなかた》編集長に手を貸してあげてほしいの」
一瞬、何を願われたのか冬玄は分からなかった。一呼吸の後にじわじわと燈里の思惑を理解して、冬玄の顔に呆れたような笑みが浮かぶ。
「ずるいな、燈里は」
「ごめんね。でも、部外者の私と違って、冬玄は関わった方がいいと思ったから」
ふふ、と燈里は楽しげに笑う。
その笑顔に文句を言う代わりに額に軽く唇を触れさせて。
「行くぞ」
繋いだ手を握り、冬玄は燈里と共に奥へと向かい歩き始めた。
20260208 『スマイル』
パソコンの前で、燈里《あかり》は溜息を吐いた。
画面には一文字も打ち込まれていない。彼此一時間が経つものの、増えるのは文字ではなく溜息だけだった。
「燈里」
見かねて冬玄《かずとら》が声をかける。肩に手を置けば燈里はのろのろと顔を上げ、冬玄を見上げた。
「そろそろ休憩した方がいい。気分転換でもすればすぐに書き出せるだろう」
「――違うの」
ゆるゆると頭を振り、燈里は違うのだと否定する。パソコンの画面を一瞥し、ここ数日起きたことを思い返す。
睦月《むつき》の見た夢から始まった、方相氏と鬼の話。夏煉《かれん》から記事にしてしまえと許可が出ていたが、本当に書いてしまっていいのかを燈里は悩んでいた。
今まで燈里が書いてきたものとは違う。時代と共に人が絶え、集落がなくなったことで途絶えた風習でも、実際に体験し、見届けてきた祀りとも異なる儀式。追儺の形を取ってはいるが、実際は堕ちた神を封じるための措置だった。
「書いてはいけない気がするの。安易に言葉にして、それでさらに歪めてしまったらどうしようって思うと、どうしても書けない」
「相変わらず真面目だな」
呆れたように息を吐きながらも、燈里の頭を撫でる冬玄の手はどこまでも優しい。
「燈里なら悪いようには書かないだろう。それを知ってるからこそ、南も書けと言ったのだろうに」
人の噂によって認識が歪んだ結果を燈里も冬玄も知っている。ある一部の事実を誇張し、娯楽のための嘘を交えて語られた物語によって楓《かえで》が存在したことを覚えていた。
だからこそ、燈里ならば大丈夫だという確信が冬玄にはあった。経験と燈里本人の気質が正しく事実を伝えられると、そう信じている。
「うん……でも、やっぱり書くのは止めとこうかな。明日、編集長に連絡する……書くならちゃんと見届けないといけない気がするから」
苦笑する燈里の言葉に、冬玄は眉を顰めた。見届けるということは、つまり行方のしれない堕ち神と接触する可能性がある。
危険が伴うことだと燈里も十分に承知しているのだろう。話はこれで終わりとばかりにパソコンの電源を落とし、立ち上がる。
「なんだかお腹が空いてきちゃった。夜食でも作ろうかな」
「簡単なものなら作ってある。元々休憩に誘うつもりだったからな」
「さすが冬玄!ありがとう」
笑顔で喜びを露にする燈里に、冬玄も微笑む。
どこか張りつめた空気が消えたことに安堵して、燈里の肩を抱き居間へと向かった。
夜。
か細くすすり泣く声に、夏煉はコーヒーを飲みながら息を吐いた。
「自業自得だ。私は言ったはずだぞ。宮代《みやしろ》には手を出すなと」
「だって、だって……」
暗闇の中、何かが宙を漂っている。仄かな月明かりに浮かぶそれは、凍り付いた翁の面だった。
泣く声が響く度、剥がれ落ちた氷の結晶が地に落ちる。溶けない氷が床を覆いつくしていくのを見て、夏煉はコーヒーを飲みながら僅かに眉を顰めた。
「東」
「だって西を止められないんですもの。どんなに探しても、全然見つからないのよ。もう、北を頼るしかないじゃない」
「だからといって宮代に手を出すのはやめろ。次は北だけでなく私も容赦はしない」
コーヒーを飲み干し、夏煉は立ち上がる。新しいコーヒーを淹れるために、泣く面の横を通り過ぎた。
夏煉の足跡から小さな金の焔が上がり、床の氷を溶かしていく。焔が消えた後には、水一滴すら残ってはいない。
「どうして北も南も、あの人間を気にかけるのかしら。どうして誰も、子供たちのことを気にかけてくれないのかしら」
「気にかけてはいる。子供たちを忘れたことは一時もないよ」
恨みごとのような東の言葉に、コーヒーを淹れる手を止めず夏煉は告げる。
それに、と言葉を続け、手を止める。窓の外に視線を向け、一瞬だけ悲痛に顔を歪めた。
「宮代は気にするだろう。あの子は私たちなどよりも子供たちに心を砕き、自身にできることを模索し始めるのかもしれない」
「何故そう言い切れるの?縁もゆかりもない人間じゃない」
分からないと言いたげに、面が夏煉の周囲を漂い出す。それを片手で払いのけ、コーヒーを片手に夏煉はソファに座り直した。
そっと笑みを浮かべる。それはどこか悲しげで、それでいて愛しさが混じり合った、そんな笑みだった。
「それが宮代だからだ。冬のようにすべてを受け入れ包み込む。どんなものにも手を差し伸べる、真っすぐな子だからだよ」
面の動きが止まる。訝しげに、困惑するかのような気配が伝わる。
それに何も言わず、夏煉はコーヒーに口を付けた。
「おかしな人間。でも、話してみたいわ……謝ったら許してくれるかしら」
「北は許すとは思えないが、宮代ならきっと笑って気にしていないというだろうな」
くすりと笑う声を最後に、沈黙が落ちる。
とても静かだった。外の喧騒も室内までは届かない。
ゆらり、と宙を漂う面が揺らいだ。暗がりに解けるように、その姿は次第に薄くなっていく。
だがその姿が完全に消える前に、電話のコール音が鳴り響いた。
「どうした、宮代。珍しいこともあるものだ」
着信画面を一瞥し、夏煉は迷いなく電話に出る。
宮代の名に面が輪郭を濃くし、興味深げに夏煉の側に近寄った。
「北か?何故宮代の電話に……村の場所?教えるのは構わないが……どういうことだ?」
次第に夏煉の表情が険しさを増す。端的に村の場所を伝え電話を切ると、息を吐いた。
「東。村に戻るぞ」
「どうしたの、急に。電話が関係あるのかしら」
コーヒーを飲み干し立ち上がる夏煉に、面は問う。影を揺らめかせ、固い声音で夏煉は答えた。
「宮代の家に居候している娘と妖が消えたらしい。宮代が見た夢で、日本人形らしき何かを抱いた金の髪の男から逃げる時にはぐれたようだ……間違いなく西だろうな」
「それは……でもどうして村に」
「三方を柊で囲われた社。逃げ込んだ社務所の奥で、方相氏の面と黒く塗りつぶされた木札を見たと宮代が言っている」
「方相氏と成るために子供たちの名を塗りつぶした木札ね、きっと」
「急ぐぞ」
呟くと同時に、夏煉の体が自身の影に飲み込まれていく。面もまた、姿を暗がりに解かしていく。
夏煉を飲み込んだ影が周囲に散った。そこには夏煉の姿はない。
面も消え、部屋には最初から誰もいなかったように静寂が満ちていた。
20260207 『どこにも書けないこと』
かち、かち、と、無機質で規則正しい音が響く。
居間には睦月《むつき》と楓《かえで》が二人だけ。お互い何も話さず、ゆっくりと時間が流れていく。
かち、かち、かち。
普段は気にもならない時計の針の音が、やけに大きく聞こえる気がして、睦月は壁掛けの時計に視線を向けた。いつもと変わらぬ一定の速度で針が進んでいくのを長めながら、ふと気になっていた疑問を口にする。
「おじさんは、何を怖がっているの?」
唐突な睦月の言葉に、楓はきょとりと目を瞬き首を傾げた。問われた言葉を思い返し、おじさんと呼ばれた冬玄《かずとら》の姿を浮かべ、苦笑する。
「燈里《あかり》が離れていってしまうこと、かな。少し前までは、燈里が唯一になることが一番怖かったみたいだけど」
「唯一って一番大切ってこと?どうしてそれが怖いことになるの?」
今度は睦月が首を傾げる。
睦月の目には、冬玄は誰よりも燈里を大切にしているように見えた。それは幸せそうで、切なげで、けれどもそれは恐怖ではなかったはずだった。
「怖いさ。僕だって燈里と近すぎることが時々怖くなることがあるよ」
「楓ねぇも怖いの?思いが通じ合うって、とても素敵なことだと思うけど」
睦月はまだ誰かをそこまで深く思ったことはない。けれど物語の中や大人たちの様子から、好きな人、大切な人と互いに思い合うことはとても素敵なことだと感じていた。
テレビで見た手を繋ぎ微笑みあう恋人たち。見ることは叶わなかったが、今朝の冬玄と燈里も同じような表情をしていたのだろうか。それを想像するだけで睦月はどこかむず痒い気持ちに襲われるものの、嫌な気はしない。
恋に恋をする無垢な睦月に、楓は妖についてどこまで伝えるのかを逡巡する。
知らないのであれば、知らない方が心穏やかに暮らせるだろう。だがこの家に住む上で、必要となることでもあった。
「睦月はさ、妖とか守り神とか……人間ではない存在についてどこまで知っているんだい?」
楓の問いに睦月は眉を寄せ、宙に視線を彷徨わせる。燈里から教えられた話。村で聞いていた先祖の話。そして、来訪神と地蔵の話。
見たもの聞いたものが、どこまでに当たるのかは分からない。分からないからこそ、聞いたま
まを言葉にしていく。
「人に寄り添ってくれる存在。人を好きだっていう気持ちを奇跡っていう形で表してくれる、優しい存在」
「燈里よりも偏屈な答えだね。妖ってのは、そんな砂糖菓子のように甘ったるい存在なんかじゃないよ」
思わず吐いた溜息に、睦月は不思議そうに首を傾げた。
本気で信じているのだろう。もう一度溜息を吐き、楓は訂正するために口を開きかけた。
「甘ったるくはないけど、人には優しいでしょ?人が願ったことをある程度は見返りを求めないで応えてくれるんだから。それに、同じ人よりも正直だよ」
しかしそれが言葉になるより早く、睦月は感じたままを口にする。それは夢見がちな見当はずれの言葉ではない。睦月なりに真剣に考え見てきたものの答えに、楓は呆れながらも柔らかく笑った。
「楓ねぇ?」
「面白い考え方だと思ってさ……確かに、正直ではあるかな。求められるから応えるってのが妖の本質だからね」
くすりと笑いながら楓は立ち上がり、睦月の頭を雑に撫でて台所へと向かう。
しばらくしてお茶と菓子をいくつか乗せた盆を持ち戻ってくると、睦月の前にお茶と歌詞を置いて元の席へと戻った。
「求めたものに応えることが妖にとって重要なんだ。求めたのが誰かなんて大したことじゃない。だから一人だけを想うってことは、とてもリスクのあることなんだ」
「リスク?」
「誰の求めでも、どんなことでも応えられればそれでよかったのがただ一人だけってなったら、その子がいなくなったら本質から崩れてしまうだろう?……まあ、それは建前で、その子が大切過ぎて失うことが耐えられないっていうのが正直な所だけど」
失った瞬間に変質し、堕ちるのだろう。
こともなく告げる楓を見て、睦月は小さくそうか、と呟いた。
楓の目を見据える。すべてを見通すような目をして、睦月は静かに呟いた。
「妖って、削がれていることを理解しているんだね」
悲しみが深過ぎて泣けない。感情が削がれて、まだ生きているのに生きていけない。
以前楓が分からない感覚だと切り捨てたものだった。それを突きつけられ、楓は息を呑む。
かち、かち。
時計の針が、居間に響く。睦月も楓も、何かを話す気配はない。
かち、かち、かち。
動き続ける時計に、二人はそれぞれ視線を向ける。
燈里が戻るのはまだ先だ。冬玄の件があるから、いつもよりも遅くなるのかもしれない。
はぁ、と楓は息を吐いた。のろのろと湯呑みに手を伸ばし、口をつける。それを合図にしたかのように、睦月も湯呑みを取り、口をつけた。
微かに泣く声が聞こえた気がした。
目を開ける。だが辺りは暗く、誰の姿も見えない。
――鬼は……。
聞こえた声に視線を向ける。
暗がりにぼんやりと何かが漂っている。何かを探しているようにも、ただ風に流されているようにも見えるそれ。
気になって、一歩足を踏み出した。
「駄目だよ。燈里ねぇ」
手を繋がれ、立ち止まる。振り返れば、暗闇の中でもはっきりと睦月の姿が見えた。
「駄目だよ。あれは違う。分からないけど、そんな気がする」
首を振り、睦月は駄目だと繰り返す。それを不思議に思いながらも、もう一度何かへと視線を向けた。
その正体を見極めようとするかのように、目を凝らす。暗闇に慣れてきた目が漂う何かの輪郭を捉え、その正体に目を見張る。
――鬼はどこ。
それは、所々が欠けた翁の面だった。只管に鬼を探してふらふらと彷徨っている。
――鬼はどこ。わたしの可愛い子供たちに酷いことをする、鬼に成った西は何処にいるの。
虚ろな声音。西という言葉に理解した。
脳裏に浮かぶのは、昔見た夢。過去の記憶。
社の中心で蹲る小さな影を飲み込む翁の面。
無感情に告げられた、豊穣の約束を果たすため西が頂くという言葉。
「燈里ねぇ?」
不安げな睦月の声に答える代わりに、繋いだ手に力を込める。
視線は翁の面に注がれたまま。何も言えずに立ち尽くしていた。
――北。
不意に面の動きが止まる。
――北がいれば、西は変わるかしら。北に叱られれば、たくさん折檻されれば、西も反省してくれるかしら。
面がこちらを見つめた。
ふらつくように宙を漂いながらも、ゆっくりと近づいてくる。小さな悲鳴と共に手を引かれる感覚はあったが、足は根を張ったように一歩も動かない。
――北。北の愛し子。
面が呼びかける。願いに似た響きで、語られる。
――貴女を連れていけば、北は戻ってきてくれるかしら。
面が近づく。
夢で見た影が伸びてくるのを感じる。
「燈里ねぇ!」
睦月の叫ぶ声がする。
――あの子たちのために。
影に囚われる、その瞬間。
吹き抜ける風と共に舞う白が視界を覆い、意識が暗転する。
「燈里」
呼ばれて、燈里は目を開けた。
静かにこちらを見つめる冬玄の姿に目を瞬く。
「冬玄?」
辺りに視線を巡らせれば、そこは見慣れた職場の一室。かちかちと音を立てる時計に目を向ければ、冬玄を待ってから三十分も経っていなかった。
「冬玄、私……」
「帰るぞ。あいつらが待ってる」
優しいながらも有無を言わさぬ冬玄に、燈里はただ頷いた。
差し出される手を取り、立ち上がる。
かちかちと、何故か強く感じる時計の針の音を背に、無言のまま家路に就いた。
20260206 『時計の針』