蔵の外では、まだ足音が聞こえていた。
近づき、遠くなる。何かを探しているようなその足音は、けれども蔵の中に入ってくる様子はない。
「いなくならないね」
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、睦月《むつき》はぽつりと呟いた。それに楓《かえで》は答えることはなかったが、ややあって小さく息を吐く。
「楓ねぇ?」
「燈里《あかり》たちがこっちに向かってきている。後他にも何人か集まってきているね……まったく、無理はしてほしくないんだけどな」
「ごめんね。楓ねぇ」
そう言って、睦月は悲しげに俯いた。
自分が見た夢に、燈里や楓を巻き込んでしまったと思っているのだろう。だが実際の所は定かではない。
外の足音――堕ちた神との縁であれば、睦月よりも冬玄《かずとら》との繋がりが深い燈里の方が強い。最初に方相氏の夢を見たのは睦月ではあるものの、それすら一緒に暮らしていたが故に、冬玄の影響を受けてしまったのだと楓は考えていた。
「睦月よりもあの馬鹿の方が重罪だよ。だから落ち込むより、帰った後に馬鹿をどうしてやるかを考えた方がいい」
「それって全員で?」
「もちろん、全員に決まってる。あれの同胞のせいで面倒なことになってるんだから」
小さく息を吐き、楓はそれにしても、と横目で蔵の入口に視線を向ける。
緊迫した状況の中でもこうして取り留めのない話ができる理由を見つめ、安堵のような、呆れのような笑みを無意識に浮かべた。
「これ、正直僕がいなくても大丈夫だよね」
入口に佇む黒い影に、思わず本音が漏れる。楓の言葉にしゃん、と錫杖を鳴らし、黒い影――ヒガタと呼ばれた地蔵菩薩は答えた。
睦月と共にこの蔵に逃げ込んだ瞬間、ヒガタが入口に現れたおかげで外からはこの蔵が認識できなくなった。
元々地蔵菩薩は辻や山の麓などの境界で、害あるものから守護する役目を負う。一時は来訪神と習合していたことはあったが、地蔵本来の役割は難なく果たせるのだろう。
笑みを引き攣らせ、楓は辺りを彷徨う足音に耳を澄ませる。ある程度近づくものの、やはりこの蔵に来る気配はない。
「こうやって自由に動けるなら、無理に来訪神と習合しなくてもよかったんじゃ」
「何言ってるの、楓ねぇ。ヒガタだからこうやって来てくれたんだよ。地蔵様だったら動けないじゃない」
「あぁ……まあ、そうか……」
不思議そうな睦月に、楓の笑みが更に引き攣る。結局それ以上何も言えずに、楓は密かに溜息を吐いた。
「燈里、そんなに急ぐな。俺か南から離れないという約束だろう」
先を急ぐ燈里に、冬玄は静かに声を掛ける。
そこで自分が先に進んでいることに気づいたらしい。小さく肩を震わせ後ろを振り返る燈里は、気まずげな、それでいて落ち着かない表情をしながらも冬玄の側に戻る。
先ほどから何度か繰り返したやり取りだ。それだけ燈里に余裕はないのだろう。
だが取り乱す程ではないのは、睦月の側に楓がいてくれるという強い信頼があるからだ。
「焦るな。楓を信じてるんだろう」
「分かってる。ごめんなさい」
素直に謝る燈里に、冬玄は笑って彼女の頭を撫でる。乱れた髪を直しながら冬玄に寄り添って歩き出すのも、何度か見た光景だった。
「あれは本当に北なのかしら。偽物ではないの」
そんな二人のやり取りを見て、宙に浮かぶ翁の面が訝しげな声を上げる。
かつての同胞の変化がまだ信じられないのだろう。少し離れて歩く夏煉《かれん》の側を漂いながら、しきりに偽物ではないかと呟いていた。
「まあ、信じられんが、あれは間違いなく北だ。宮代《みやしろ》と出会ったことで変わったのだろう」
面とは異なり、夏煉は冬玄の変化を特に気にする様子はない。冬玄と燈里の関係は壊れてしまう前の自分たちと同じだと、夏煉は痛い程に理解していた。
それに気づいたのか、翁の面はそれ以上何も言わずに夏煉の側につき進む。寄り添いながら歩き、時折目を合わせて何かを話しては柔らかく微笑む冬玄と燈里の姿に、羨望とも悲哀ともつかぬ吐息を溢した。
古びた鳥居をくぐり抜けた瞬間、空気が変わった。
神域だというのに、澱み粘ついた風が頬を撫でる。ぞわりとした悪寒に体を震わる燈里を抱き寄せ、冬玄は険しい目で辺りを見回した。
懐かしくも悍ましい気配に視線が鋭さを増す。曖昧にしか感じられぬ睦月と楓の気配に警戒を強め、一歩足を踏み出そうとした。
「いるわ。鬼がいる。ようやく西を見つけたわ」
しかし踏み出した足が地に就く前に、吹き抜ける春の嵐のような激しさで、翁の面が冬玄の脇を通り過ぎる。
瞬く間にその姿は奥へと消え、冬玄は思わず舌打ちをした。
「あの馬鹿……!」
「そう怒るな。東は子供たちとの約束を守ることで自身を留めているんだ」
冬玄の隣に並び、夏煉は静かに告げる。目を細め、それに、と穏やかな声で付け加えた。
「西に関しては、私たちが対処すべきものだ。宮代たちは探すべき人間がいるのだろう?」
燈里を見つめ、夏煉は優しく微笑む。何も言えない彼女の頭を撫で、面の後に続くように奥へと消えていった。
「――冬玄」
燈里に呼ばれ、冬玄は僅かに眉を寄せた。
落ち着いた声音。以前の燈里ならば間違いなく自身の無力さに嘆いていただろうに、それが欠片も感じられない。
「どうした、燈里」
それでも感じた戸惑いを態度には出さず、冬玄は答えた。
腕の中で向きを変え、燈里は冬玄の目を見据える。澄んだ眼差しが、冬玄の目を捕えたままふわりと微笑んだ。
「私たちも奥に行くよ」
「燈里」
「奥にいる。隠れたのはいいけど、そのまま出られなくなっているから迎えに行かないと」
手を繋ぐ。指を絡め、互いの薬指に嵌るリングを重ね合わせた。
「大事なことは睦月たちを助けに行くことだってちゃんと分かってる。でも我慢できなくて手を伸ばしそうになったら、止めてくれる?それで、もし冬玄がいいよって思えたら、少しだけ南方《みなかた》編集長に手を貸してあげてほしいの」
一瞬、何を願われたのか冬玄は分からなかった。一呼吸の後にじわじわと燈里の思惑を理解して、冬玄の顔に呆れたような笑みが浮かぶ。
「ずるいな、燈里は」
「ごめんね。でも、部外者の私と違って、冬玄は関わった方がいいと思ったから」
ふふ、と燈里は楽しげに笑う。
その笑顔に文句を言う代わりに額に軽く唇を触れさせて。
「行くぞ」
繋いだ手を握り、冬玄は燈里と共に奥へと向かい歩き始めた。
20260208 『スマイル』
2/9/2026, 10:32:58 AM