sairo

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かち、かち、と、無機質で規則正しい音が響く。
居間には睦月《むつき》と楓《かえで》が二人だけ。お互い何も話さず、ゆっくりと時間が流れていく。

かち、かち、かち。
普段は気にもならない時計の針の音が、やけに大きく聞こえる気がして、睦月は壁掛けの時計に視線を向けた。いつもと変わらぬ一定の速度で針が進んでいくのを長めながら、ふと気になっていた疑問を口にする。

「おじさんは、何を怖がっているの?」

唐突な睦月の言葉に、楓はきょとりと目を瞬き首を傾げた。問われた言葉を思い返し、おじさんと呼ばれた冬玄《かずとら》の姿を浮かべ、苦笑する。

「燈里《あかり》が離れていってしまうこと、かな。少し前までは、燈里が唯一になることが一番怖かったみたいだけど」
「唯一って一番大切ってこと?どうしてそれが怖いことになるの?」

今度は睦月が首を傾げる。
睦月の目には、冬玄は誰よりも燈里を大切にしているように見えた。それは幸せそうで、切なげで、けれどもそれは恐怖ではなかったはずだった。

「怖いさ。僕だって燈里と近すぎることが時々怖くなることがあるよ」
「楓ねぇも怖いの?思いが通じ合うって、とても素敵なことだと思うけど」

睦月はまだ誰かをそこまで深く思ったことはない。けれど物語の中や大人たちの様子から、好きな人、大切な人と互いに思い合うことはとても素敵なことだと感じていた。
テレビで見た手を繋ぎ微笑みあう恋人たち。見ることは叶わなかったが、今朝の冬玄と燈里も同じような表情をしていたのだろうか。それを想像するだけで睦月はどこかむず痒い気持ちに襲われるものの、嫌な気はしない。
恋に恋をする無垢な睦月に、楓は妖についてどこまで伝えるのかを逡巡する。
知らないのであれば、知らない方が心穏やかに暮らせるだろう。だがこの家に住む上で、必要となることでもあった。

「睦月はさ、妖とか守り神とか……人間ではない存在についてどこまで知っているんだい?」

楓の問いに睦月は眉を寄せ、宙に視線を彷徨わせる。燈里から教えられた話。村で聞いていた先祖の話。そして、来訪神と地蔵の話。
見たもの聞いたものが、どこまでに当たるのかは分からない。分からないからこそ、聞いたま
まを言葉にしていく。

「人に寄り添ってくれる存在。人を好きだっていう気持ちを奇跡っていう形で表してくれる、優しい存在」
「燈里よりも偏屈な答えだね。妖ってのは、そんな砂糖菓子のように甘ったるい存在なんかじゃないよ」

思わず吐いた溜息に、睦月は不思議そうに首を傾げた。
本気で信じているのだろう。もう一度溜息を吐き、楓は訂正するために口を開きかけた。

「甘ったるくはないけど、人には優しいでしょ?人が願ったことをある程度は見返りを求めないで応えてくれるんだから。それに、同じ人よりも正直だよ」

しかしそれが言葉になるより早く、睦月は感じたままを口にする。それは夢見がちな見当はずれの言葉ではない。睦月なりに真剣に考え見てきたものの答えに、楓は呆れながらも柔らかく笑った。

「楓ねぇ?」
「面白い考え方だと思ってさ……確かに、正直ではあるかな。求められるから応えるってのが妖の本質だからね」

くすりと笑いながら楓は立ち上がり、睦月の頭を雑に撫でて台所へと向かう。
しばらくしてお茶と菓子をいくつか乗せた盆を持ち戻ってくると、睦月の前にお茶と歌詞を置いて元の席へと戻った。

「求めたものに応えることが妖にとって重要なんだ。求めたのが誰かなんて大したことじゃない。だから一人だけを想うってことは、とてもリスクのあることなんだ」
「リスク?」
「誰の求めでも、どんなことでも応えられればそれでよかったのがただ一人だけってなったら、その子がいなくなったら本質から崩れてしまうだろう?……まあ、それは建前で、その子が大切過ぎて失うことが耐えられないっていうのが正直な所だけど」

失った瞬間に変質し、堕ちるのだろう。
こともなく告げる楓を見て、睦月は小さくそうか、と呟いた。
楓の目を見据える。すべてを見通すような目をして、睦月は静かに呟いた。

「妖って、削がれていることを理解しているんだね」

悲しみが深過ぎて泣けない。感情が削がれて、まだ生きているのに生きていけない。
以前楓が分からない感覚だと切り捨てたものだった。それを突きつけられ、楓は息を呑む。

かち、かち。
時計の針が、居間に響く。睦月も楓も、何かを話す気配はない。

かち、かち、かち。
動き続ける時計に、二人はそれぞれ視線を向ける。
燈里が戻るのはまだ先だ。冬玄の件があるから、いつもよりも遅くなるのかもしれない。
はぁ、と楓は息を吐いた。のろのろと湯呑みに手を伸ばし、口をつける。それを合図にしたかのように、睦月も湯呑みを取り、口をつけた。





微かに泣く声が聞こえた気がした。

目を開ける。だが辺りは暗く、誰の姿も見えない。

――鬼は……。

聞こえた声に視線を向ける。
暗がりにぼんやりと何かが漂っている。何かを探しているようにも、ただ風に流されているようにも見えるそれ。
気になって、一歩足を踏み出した。

「駄目だよ。燈里ねぇ」

手を繋がれ、立ち止まる。振り返れば、暗闇の中でもはっきりと睦月の姿が見えた。

「駄目だよ。あれは違う。分からないけど、そんな気がする」

首を振り、睦月は駄目だと繰り返す。それを不思議に思いながらも、もう一度何かへと視線を向けた。
その正体を見極めようとするかのように、目を凝らす。暗闇に慣れてきた目が漂う何かの輪郭を捉え、その正体に目を見張る。

――鬼はどこ。

それは、所々が欠けた翁の面だった。只管に鬼を探してふらふらと彷徨っている。

――鬼はどこ。わたしの可愛い子供たちに酷いことをする、鬼に成った西は何処にいるの。

虚ろな声音。西という言葉に理解した。
脳裏に浮かぶのは、昔見た夢。過去の記憶。
社の中心で蹲る小さな影を飲み込む翁の面。
無感情に告げられた、豊穣の約束を果たすため西が頂くという言葉。

「燈里ねぇ?」

不安げな睦月の声に答える代わりに、繋いだ手に力を込める。
視線は翁の面に注がれたまま。何も言えずに立ち尽くしていた。

――北。

不意に面の動きが止まる。

――北がいれば、西は変わるかしら。北に叱られれば、たくさん折檻されれば、西も反省してくれるかしら。

面がこちらを見つめた。
ふらつくように宙を漂いながらも、ゆっくりと近づいてくる。小さな悲鳴と共に手を引かれる感覚はあったが、足は根を張ったように一歩も動かない。

――北。北の愛し子。

面が呼びかける。願いに似た響きで、語られる。

――貴女を連れていけば、北は戻ってきてくれるかしら。

面が近づく。
夢で見た影が伸びてくるのを感じる。

「燈里ねぇ!」

睦月の叫ぶ声がする。

――あの子たちのために。

影に囚われる、その瞬間。
吹き抜ける風と共に舞う白が視界を覆い、意識が暗転する。



「燈里」

呼ばれて、燈里は目を開けた。
静かにこちらを見つめる冬玄の姿に目を瞬く。

「冬玄?」

辺りに視線を巡らせれば、そこは見慣れた職場の一室。かちかちと音を立てる時計に目を向ければ、冬玄を待ってから三十分も経っていなかった。

「冬玄、私……」
「帰るぞ。あいつらが待ってる」

優しいながらも有無を言わさぬ冬玄に、燈里はただ頷いた。
差し出される手を取り、立ち上がる。
かちかちと、何故か強く感じる時計の針の音を背に、無言のまま家路に就いた。



20260206 『時計の針』

2/7/2026, 10:18:41 AM