呼び声に応え、目を開けた。
見知らぬ社の中。最初に見たものは無心で祝詞を奏上する、見たことのない宮司だった。
その宮司には二人の子供がいた。幼い年子の姉妹。好奇心旺盛で、活発で、自分たちの姿を見ることができる稀有な子供たち。
新しく祀られた社は居心地がよかった。宮司だけでなく村の人間はすべて優しく、祝詞の分だけ応えた恵みを心から喜ぶ謙虚さも持ち合わせていた。
何より純粋に自分たちを慕う子供たちの温もりを愛おしいと感じていた。自分だけではなく、東西も同じなのだろう。陽が暮れるまで東は子供たちと遊び回り、帰宅して西の説教を受けることが、いつの間にか日常と化す程だ。
心穏やかな日々が続いていくのだと、自分を含めて誰もが思っていた。子供たちが大人の手伝いで共に麓の町へと行ったきり、帰らなかった時までは。
夕刻になっても戻る者は誰一人いなかった。残った皆が村の周囲や麓までの道も探したが、見つかることはなかった。
帰ってきたのは一晩過ぎ、陽が昇り始めてからだ。
誰もが傷つき、無言だった。何があったのか、話すことすらできない。
そこに姉妹はいなかった。
それから七日が過ぎ、麓への道の途中で姉が倒れているのを東が見つけた。
東に抱きかかえられ、村に戻った姉の姿は、先に戻ってきていた者たちよりも酷いものだった。辛うじて生きていたが、目を覚まさない。
あのまま目を覚まさなければ、東は確実に堕ちていたのだろう。それほど気配が変質しかけていた。姉の生が東を神として留めていた。
その頃になって、断片的ではあるが大人たちから話を聞けるようになっていた。
帰ろうと町を出た瞬間に、薄暗いどこかの屋敷にいたらしい。
鬼がいたと言った。人間の姿をしているが、在り方は鬼だったと。
その鬼に襲われたが、姉妹が身を挺して助けてくれたと話していた。
姉は目を覚まさず、妹の行方は分からないまま。
一月が過ぎ、二月が過ぎて。一つの季節が過ぎた時、妹を探していた西が戻らなくなった。
東は何も言わなかったが、お互いに西の異変を察していた。
感じる根本的な何かが変わっている。それに混じり伝わる悲しみと怒りに、最悪が起きたのだと理解した。
「私たちが堕ちた末路が災厄になるなど、あの時までは気づこうともしなかった。草木が枯れ、人間たちは苦しみ倒れ伏す……本当に酷いものだ。だが、私はそれよりも西の腕に抱かれた妹の姿に痛みを覚えたよ」
穏やかに夏煉《かれん》は微笑んだ。
その目に浮かぶ後悔が、何に対するものなのか。冬玄《かずとら》には分からない。ただ一人だけを案じてしまったことか。それとも、大切な者を守れなかったことなのか。
分かる必要もないと、冬玄は表情一つ変えず、無言で夏煉の話の続きを待つ。
彼にとって大切なのは、燈里《あかり》ただ一人だけだった。
「昔話が長くなってしまったな」
そんな冬玄の姿に夏煉は苦笑し、静かに息を吐く。過去に浸る思考を切り替え、冬玄の目を見据え告げた。
「西は堕ち、災厄を振りまく形に変わった。宮司は西を封じ込めるため追儺の形で、儀を執り行った」
「その方相氏として名乗り出たのが姉か。残りの三人は何だ?」
「あぁ、知ってたのか」
夏煉は僅かに目を見張り、しかしすぐにそれは穏やかな笑みに変わる。小正月に送り出した燈里が連れ帰ってきた睦月《むつき》という少女は過去や未来を夢で見ると、話しに聞いていた。
「あの子供たちは巻き込まれ、姉妹に助けられた子だよ。目覚めたばかりで歩くのも覚束ないというのに、一人で事を成そうとしている姉を言い含めたんだ」
「止めなかったのか?」
「もちろん私も東も止めたさ。だが止められなかった。だから私たちも巻き込まれることにした」
冬玄の気配がほんの僅か鋭くなった。影が揺れるのを一瞥し、夏煉は冬玄の目を見据えて告げる。
「東が西を繋ぎとめる鎖になり、子供たちが四方を囲い封じ込めた。そして私は西を戻すための方法を調べるためにここにいる。あれを戻さなければ、子供たちはずっと解放されることはないからな」
暗に害にはならないと伝えるものの、冬玄の警戒が緩む様子はない。かつての共に在った時とはまるで異なる彼の姿に、夏煉は驚きと共にその変化をどこか嬉しく思った。
ふふ、と堪えきれず笑みを溢し、次の瞬間には真摯に冬玄に向き直る。表情を改めて夏煉は低く告げた。
「子供たちに危害を加えない限り、私は北と敵対するつもりはない。子供たちも西ではないと気づいたのだから関わることもないだろう……だが西は分からない。あれがまだ意思を持っているのかさえ、封じる前から判断できなかった」
「今になって外に出た理由は何だ?」
冬玄の問いに、夏煉は机の上に置かれたファイルを手に取った。
付箋がされているページをめくる。そこには、とある地域の開発事業の計画書が記されていた。
「最近、山が切り開かれてな。子供たちが立てた柊が崩れてしまったんだ。どこにいるのか、子供たちが探しているが、まだ見つからないようだ」
冬玄に向けて開かれたページには、大きな公園の写真がいくつか載っている。無人のブランコの写真を一瞥して、冬玄は何も言わずに踵を返した。
だが扉の前で立ち止まり、振り返ることなく静かに問いかける。
「西にとって……お前たちにとって、その宮司の姉妹はどんな存在だ?」
問われて夏煉は虚を突かれたように目を瞬いた。次いで柔らかく微笑み、窓の外へと視線を向ける。
「そうだな。北にとっての宮代が、私にとっての子供たちだった。敢えて聞きはしなかったが、東も西も同じだっただろう……特に、西は口や態度には出さないだけで、一等二人を大切にしていたよ」
自身の在り方すら歪ませるほどに、姉妹を想っていた。
失ったことを悲しみ、自身の無力さを嘆き、そして奪った相手を激しく憎んだ。
その溢れ出した気持ちが厄となり、全てを苦しませてしまうほど、西は姉妹を愛していたのだろう。
「西と同じ末路は辿ってくれるなよ、北。私は宮代のことも大切なんだ」
「言われずとも分かっている。燈里の手を離すつもりはない。手を離す時が来たとしても、無理に繋ぎ留めることもない……燈里を泣かせるつもりはないからな」
扉を開け、挨拶もなく冬玄は部屋を出ていく。
一人残った夏煉は、ファイルを仕舞いながら淡く微笑んだ。
「言葉にしたからには守ってくれ」
どうか、と呟く言葉は祈りのようだ。
かつて愛した子供たちの姿を浮かべながら、夏煉はそっと目を伏せた。
20260205 『溢れる気持ち』
あれから数日が過ぎた。
燈里《あかり》も睦月《むつき》も、あれきり方相氏に関しての夢を見てはいない。数日程は誰もが落ち着かずどこか張りつめた空気が流れていたが、穏やかな日々にようやく以前の日常を取り戻し始めていた。
「結局、あれは何だったんだろう?」
台所で拭いた食器を棚に戻しながら、睦月はぽつりと呟いた。
皿を洗っていた燈里はその疑問に手を止める。詳しく話さずとも、睦月が何を疑問に思っているのかはすぐに理解できた。
「合っているかは分からないけれど」
そう前置きをして、燈里は何かを思い出すように宙を見つめる。僅かに眉を顰め、静かに語り出した。
「冬玄《かずとら》のことについて、前に話したことを覚えてる?」
「トウゲン様っていう、守り神だったって話?覚えているし、村にいた時から夢で燈里ねぇのことを見たから分かるよ」
神さまらしくはないけれど。そう心の中で付け足した睦月の思考を察して、燈里は思わず苦笑しながら話を続けた。
「前にね、私のことで冬玄が堕ちかけたことがあるの。今はもう大丈夫だと思うけどその時の何かが彼に残っていて、それを方相氏たちが感じ取ったのかもしれない」
「つまり、方相氏がおじさんを鬼だって勘違いしたってこと?それで勘違いだって気づいたから、もう夢に出なくなったのかな?」
「おそらくはね」
首を傾げる睦月に、燈里は僅かに目を細めた。
方相氏がこの先、燈里たちの元へ訪れることはないだろう。方相氏たちの言動から燈里はそう考えている。
だが睦月に対して、もう大丈夫の一言が告げられなかった。
不安という形にならない程度の、微かな違和感が燈里の中から消えてなくならない。方相氏はもう現れないと口にしても、続く言葉はかもしれないという曖昧な言葉だ。
無意識に右手の薬指に触れる。硬く滑らかな感覚に縋るように、指ごと指輪を握り込んだ。
「あの子たちはきっと長い間、厄を鬼ごと村の外に追い出して封じ込めていた。それが何か理由があって、封じていた鬼が外へと出てしまったから追いかけているんだと思う……そしてその鬼は、元々村の守り神として祀られていた」
「何があったんだろう?外に出ちゃった原因もそうだけど、何があって神さまが鬼になっちゃったのかな?」
「何でだろうね。神様にとって堕ちるほど強い何かがあったのは確かだと思うけど」
小さく息を吐いて、燈里は後片付けを再開する。それを見て睦月も拭き終わった皿を手に、片付け始めた。
「燈里。ちょっといいか」
片付けが終わり、燈里と睦月が台所を出ようとしたタイミングで、冬玄《かずとら》が声をかけた。
「どうしたの?」
何かを悩んでいるような冬玄の様子に、燈里は訳もなく不安を覚える。それを感じ取り、冬玄は燈里の頭を撫で、安心させるように微笑んだ。
「これから仕事だろう?帰る時に迎えに行ってもいいか、聞こうと思ってな」
「え?」
冬玄の言葉に目を丸くし驚いたような声を上げたのは睦月だった。燈里は何度か目を瞬き、何も言わずに俯く。その耳がじわじわと赤くなっていくのに睦月は意地悪く笑い揶揄おうと口を開きかけるが、その前に冬玄は話を続けた。
「編集長っていう奴に会いたいんだ」
「は?」
睦月の笑みが、一瞬で訝しげなものに変わる。顔を上げた燈里の横顔に翳りが見え、眉を寄せて一歩前に出る。
睦月の行動に今度は冬玄が眉を顰めた。だが燈里の表情に、自身の言葉の足りなさに気づき焦りを浮かべながら首を振る。
「別にやましいことじゃないんだ。ただ少し確認したいことがあってだな……」
「燈里が気落ちしているのはそこじゃないよ。馬鹿」
不意に冬玄の後ろから声がした。後ろで様子を伺っていた楓《かえで》が、我慢できずに呆れながら冬玄の背を叩く。
「痛っ」
「本当にどうしようもないな……燈里。悪いんだけど、こいつに繋ぎを取ってくれないかい?たしか、南方《みなかた》とかいったっけ」
「いいけど……どうして?」
両手を握りしめ、不安げな表情をする燈里に、楓は肩を竦めてみせる。冬玄を一瞥し、小さく息を吐きながら答えた。
「前から同族の気配を感じていたらしい。馬鹿なことは起きないし、なんだったら監視をするから頼まれてくれる?」
同族、ということは、南方も人ではないということだ。
驚くと同時に、彼女の纏う不思議な空気の意味を理解した。
何故今になって冬玄が南方に会いたいのかは分からない。何を話すのか、彼女と会ったことでこの関係は変わってしまうのか。
分からないこと、不安なことだらけだ。
「無理にとは言わない。俺も方相氏の件がなかったら会うつもりもなかった」
「方相氏が追っているのが、南方編集長だってこと?」
普段の南方を思い浮かべ、燈里は困惑する。
色々と気にかけてくれる彼女が、厄を振り撒く鬼だとは思えなかった。
疑問を口にすれば、冬玄は違うと首を振る。一瞬言葉にするのを躊躇う素振りをみせ、ゆっくりと口を開いた。
「堕ちた気配は感じない。それにあれが堕ちるはずもない」
「冬玄?」
「南方という奴の気配は俺と同じだ。同じでありながら、正反対の質を持つあれは……南方は、シキの南だろう」
冬玄の言葉に、燈里は息を呑んだ。
シキ。それは冬玄が宮代の守り神となる前の、とある村での呼び名だった。社の東西南北に飾られた翁の面。年に一度行われる、祭りの形をした人身御供を、燈里は忘れられない。
「村が絶え、俺以外のシキは消えたのだと思っていたが別の場所で祀り直されたのだろうな。そして南がいるとなると、東西の面も在るはずだ」
「東西の、面……」
「方相氏から僅かだか馴染みのある気配を感じた。気のせいだと思っているが、どうしても違和感が拭えない。それを確かめるために、南に話を聞きたいんだ」
真剣な眼差しに、燈里は何も言えなかった。
冬玄は何も言わないが、東西の面のどちらかが堕ちたのだと思っているのだろう。その真偽を確かめ、どちらかの面が堕ちたと知った後はどうするのか。
込み上げる不安を鎮めるように、指輪に触れる燈里の肩を、冬玄は何も言わずに抱き寄せる。目を合わせて、真摯に告げる。
「話を聞くだけだ。堕ちて鬼になった面に、接触しようとは思わない。ただ燈里にとって危険かどうかを判断したいんだ」
燈里を守るため。宮代の守り神としてではなく、燈里の婚約者としての言葉に、燈里は頬を染め俯いた。
冬玄は柔らかく微笑み、燈里の額に口付ける。突然のことに燈里は驚いて顔を上げた。
「そんなに時間をかけるつもりもない。すぐに終わらせるから、一緒に帰ろう」
囁いて燈里の右手を取り、今度は薬指の指輪に口付ける。
声にならない悲鳴を上げて固まってしまった燈里に、今まで様子を見ていた楓が睦月の目を塞ぎながら呆れたように溜息を吐いた。
「そういう所だけ大胆なのはなんなんだろうね」
「楓ねぇ。いいとこなのに、隠さないでよ」
「子供にはまだ早い。というか、燈里が見られたことを知ったら泣くだろうから我慢しなさい」
燈里のためだと言われ、睦月は膨れながらも大人しくなる。
素直な睦月にいい子と呟いて、楓は動かない二人に視線を向ける。
愛しげに目を細めて燈里を見つめる冬玄に、疲れたような溜息がまた溢れ落ちた。
楽しげな子供たちの声が近づいてくる。
また泥だらけになって帰ってきたのだろうか。そんなことを思いながら、出迎えるために玄関へと向かう。
扉が開き、笑い声が玄関に響く。眩いばかりの笑顔を浮かべた子供たちが飛び込んでくる。
小さな泥だらけの体を抱き留めながら、子供たちに続いて入ってきた東に視線を向けた。
子供たちに負けず劣らず、その体は泥だらけだ。楽しげな笑みを浮かべているが、すぐに焦り泣きそうな顔に変わるのだろう。
あと何度、西の説教を受ければ落ち着くのだろうか。次第に強張っていく東の顔を見ながら思う。
変わらないのかもしれない。だが、それも悪いことではないのだろう。
子供たちが喜んでくれる。神を見て声を聞く子供たちが喜んでくれるのならば、全ては些事でしかない。
東も西も、それは強く思っているのだろう。特に西は表にこそ出さないが、子供たちを誰よりも大切に思っているのだろうから。
左右の頬にそれぞれ子供たちの口付けを受けながら、東西の強い視線を感じ、堪えきれずに声を上げ笑った。
ノックの音に、ぼんやりと過去に浸っていた南方夏煉《かれん》は扉に視線を向けた。
「入っていいぞ」
告げればゆっくりと扉が開き、冬玄が静かに入ってくる。懐かしい同胞の姿に、夏煉は目を細めて笑った。
「久しぶりだな、北。元気そうで何よりだ」
「前振りはいい。お前も、回りくどいのは嫌いだろう」
夏煉とは対照的に、冬玄は表情なく告げる。燈里には決して見せない態度に、だが夏煉は気にする様子もない。
「そうだな。宮代を待たせては可哀想だ……聞きたいのは、子供たちが追う鬼のことだろう?どこまで話せばいいだろうか」
「鬼がどちらか。そして燈里に害はあるのか。それだけでいい」
「そうか。けどある程度は話しておこうか。宮代はきっと気にする」
そう言って、夏煉はどこか悲しい目をして語り出した。
20260204 『Kiss』
「追儺《ついな》を執り行う」
宮司の言葉に、集まった者たちが一様に騒めいた。
「鬼ではないのだぞ!?」
「神を相手に意味はあるのか?」
「誰が方相氏《ほうそうし》の役を行うというのだ」
誰もが皆、不安を口にする。疲弊した彼らには、これ以上足掻く力は残されていないのだろう。
それを理解していながらも、宮司の表情は変わらない。強い意志を湛えた澄んだ眼差しで一同を見つめ、誰もが口を閉ざした後、ゆっくりと口を開いた。
「方相氏の役は我が子が負う。招いた神を祀った責は、我が一族で果たそう」
酷く静かな声だった。そこに哀しみの色はない。表情と同じく澄んだ響きが、部屋に落ちる。
「本来ならば私が執り行うべきことなのだろうが、厄移しの形代《かたしろ》を作らねばならない。それにこの子の方が適役だ」
いつの間にか、宮司の背後には方相氏の四つ目の面を被った子供が控えていた。何も言わず、微動だにしない子供に方々で息を呑む音がし、次いで先程よりも大きく周囲の騒めき出す。
「馬鹿なことを!」
一人が叫ぶように宮司の言葉を否定する。それを皮切りに、宮司を止めようと皆が必死に声を上げた。
「考え直せ!責などと……神の恩恵を享受した我らも同罪だろうに」
「この神社は村の拠り所なのだ。どうかその血筋を途絶えさせないでくれ」
「どうしても追儺を行うというならば、わしらが方相氏の役を担う。だからどうか……!」
だが皆の懇願にも宮司の表情は変わらない。控える子供も姿勢を崩すことなく、困惑し嘆く者たちの姿を見据えていた。
「私が父に願いました」
不意に、沈黙を保っていた子供が告げた。宮司と似た静かで迷いのない声に、辺りは一瞬で静まり返る。
「追儺の形を取りますが、村から追いやった後は封じます。厄が漏れ出てくることがないようにしっかりと閉じます」
子供の覚悟に、誰も声を上げることはできない。
止められぬのだと、理解してしまったのだ。自身の無力さに誰もが唇を噛み締め、強く拳を握り締めた。
「私ならできます。私は――だから」
行燈の灯りが揺らぐ。中の蝋燭の芯がじじ、と音を立て、炎を揺らめかせる。
「三方を柊で囲い、残る一方を……」
炎の揺らぎに合わせて、方相氏の面に陰が落ちる。
悲壮な覚悟を決める子供の代わりに、怒り、哀しみに暮れているようだ。
「私が村を守ります。それが十年でも、百年でも……たとえ千年先であっても、鬼の厄を閉じてみせます」
部屋の隅で彼らの嘆く声を聞きながら、燈里《あかり》は目を伏せ、繋いだ睦月《むつき》の手を握りしめた。
「鬼はー外!福はー内!」
楽しげな子供たちの声に、燈里はびくりと肩を揺らした。
節分の今日は、あちらこちらで豆まきのイベントが行われている。楽しげな街の様子とは裏腹に、燈里の気持ちは重く沈んでいく。
今朝見た夢の内容が頭から離れない。宮司の目が、方相氏の面を被る子供の声が、節分を楽しむ街を見る度脳裏を過ぎていく。
嘆息して、燈里は手にした買い物袋を持ち直した。気分転換に一人で買い物に出たが、徒労に終わったようだった。
「燈里ねぇ!」
不意に睦月の呼ぶ声が聞こえて振り返る。学校帰りの睦月が燈里に駆け寄り、どこか沈んだ顔をしてごめん、と呟いた。
「朝も言ったけど、気にしないの。夢を見ただけで、特に何かが起こったわけじゃないんだから」
「でも、わたしが見た夢に燈里ねぇまで巻き込んで……」
俯く睦月の頭を撫でながら、燈里は大丈夫だと繰り返す。
ただどこかの村の、いつかの一場面を見ただけだ。朝から落ち込む睦月に何度か伝えるも、彼女の罪悪感は少しも軽くはならないらしい。
恐ろしい体験をしたのは睦月も同じ。むしろ燈里が方相氏の姿を見る時には側に睦月はいたが、一番初めの方相氏との接触の際には彼女は一人きりだった。
数日前の怯えていた睦月の姿を思い出し、燈里は表情を暗くする。
「私のことより、睦月は大丈夫なの?学校では何もなかった?」
睦月と共に帰路に就きながらの問いかれば、睦月は首を振って力なく笑った。
「何もなかったよ。ただ今日は節分だからあちこちで豆まきの声が聞こえて落ち着かなかったけど」
燈里も先程似たような経験をしたばかりだ。急に恥ずかしさが込み上げ、頬が赤く染まる。
「仕方ないよ。鬼は外って聞くと、あの方相氏が思い浮かぶから」
「燈里ねぇもなの?」
「ついさっきね。豆まきのイベントをしてたのを聞いて」
睦月と目を合わせて燈里は笑う。
張りつめていた空気が少しだけ和らぐのを感じて余裕ができたのか、燈里は手にした買い物袋を睦月に向けて掲げ軽く揺らした。
「今日は節分だから恵方巻を作るよ」
「やった!お手伝いは任せてね」
「気にしなくていいのに」
笑い合いながら、道の角を曲がる。見えた家の前で、冬玄《かずとら》が落ち着きなく待っている姿を認めて、睦月はどこか揶揄い交じりに声を上げて笑った。
「ちょっとだけ買い物にでただけなんだけどな」
「相変わらずの心配性だよね。それでいて肝心な所はぐずらもずら《ぐずぐず》先延ばしにするんだから」
「睦月……」
流石に言い過ぎだとは思うものの、あながち間違いではない。そう思い、燈里は何も言えずに苦笑して歩み寄ってくる冬玄に手を振った。
「燈里」
「心配しなくても――」
大丈夫。
そう続けるはずの燈里の言葉が不自然に止まる。
「燈里っ!」
目を見開き硬直する燈里を睦月ごと庇うように、冬玄は一瞬で二人の前に立ち振り返った。
「鬼は外、鬼は外」
「例の方相氏か」
誰にも気配を悟らせることなく、方相氏は佇んでいた。
手には柊の葉のついた枝を持ち、鬼は外と無感情に繰り返している。
「村から外へ、遠くへ追いやれ」
右側から声がした。視線を向ければ、同じように方相氏の姿をした子供が柊の枝を手に立っている。
「柊立てて、転じて内へ」
「四方を打ちて、閉じ込めよ」
左側と背後から、声がした。
「鬼は外」
正面の方相氏がざり、と音を立てながら一歩距離を詰める。一呼吸遅れて、三方から土を踏み締める音が聞こえた。
いつの間にか四方を囲われていることに、冬玄は忌々しげに舌打ちする。
せめて燈里と睦月だけでも。
そう考え、冬玄の影が揺らぎ始めた時だった。
「――違う」
正面の方相氏の動きが止まった。
「まだ堕ちてはいない。鬼ではない」
ざわ、と、三方の気配が揺れる。
戸惑いを露わに、それぞれから声が上がる。
「鬼と同じ匂いがする」
「気配も同じ。神と人と、混じっている」
「違うというならば、鬼はどこに?」
困惑する冬玄たちを気にかけることもなく、同じ、違うと方相氏たちは口にする。
ふと燈里の脳裏に浮かぶのは、今朝見た夢のこと。
神を相手にすると誰かが言っていた。厄が漏れ出ぬように閉じると方相氏の役を担う子供も言っていたはずだ。
同時に思い出すのは、去年の梅雨の時期のこと。とある寺で見せた冬玄の異様な姿に、燈里の口からあぁ、と呻くような声が漏れた。
「鬼は外」
騒めき、困惑する気配を静かだが鋭さを持った声が鎮める。正面の方相氏は冬玄を見据えたまま、声を上げる。
「鬼を追わなければ。漏れ出る厄を閉じなければ」
その声を合図に、三方の方相氏がそれぞれ散っていく気配がする。それを見届け、正面の方相氏もまた止める間もなく遠くへ駆けていってしまった。
「――どういうことだ?」
困惑を強める冬玄に、燈里は何も言えなかった。
冬玄が恐ろしいわけではない。
ただ、揺らぐ冬玄の影に、言いようのない何かを感じていた。
20260203 『1000年先も』
「子供の方相氏か」
眉を寄せ、冬玄《かずとら》は息を吐いた。
居間に沈黙が下りる。重苦しい空気に、睦月《むつき》は泣きそうに表情を歪めた。
「ごめんなさい。迷惑をかけて」
「睦月のせいじゃないよ」
俯く睦月の背を撫で、燈里《あかり》は優しく微笑んだ。
睦月の目覚めを待って、燈里たちは彼女から詳しい話を聞いた。
夕暮れの見知らぬ公園の夢。揺れる無人のブランコ。四つ目の面をつけた子供。
夢から目覚めたというのに、その子供が現れ告げた言葉。
「鬼を閉じろ、か。言葉通りなら、村から追いやった鬼をどこかに閉じ込めろってことだけど」
冬玄を見ながら楓《かえで》は首を傾げる。その視線の意味する所を知って、冬玄は嫌そうに眉を顰めた。
「その鬼が俺だって言いたいのか」
「もしくは僕かの二択だろうさ」
冬玄の視線を受け流し、楓は肩を竦めてみせる。
「一度堕ちかけた守り神に、人間の記憶に巣食う妖。燈里と睦月に厄はついていないんだから、それ以外に思い当たることはないだろう?」
「だとしたら、燈里の夢に入り込むはずだ。ちびの夢に方相氏が現れた理由が分からん」
「睦月の素質によるものじゃないかな。ヒガタの件で色々夢を見たらしいし……とはいえ、確かに理由としては弱いかな」
ちらりと俯く睦月に視線を向け、楓は溜息を吐いた。
睦月が見た夢の内容だけでは分からないことが多すぎる。方相氏の告げた言葉も曖昧であるが故に解釈が困難だ。
そもそも四つ目の面の特徴から方相氏だと認識しているが、それも本当かどうか判断はつかなかった。
「方相氏が鬼を追いやるのは、追儺《ついな》の方法として正しい。でも追儺では鬼を閉じ込めることはない。邪を払う柊を立てる、四方を打つってことは、つまり鬼を封じ込めているって意味にとれる……なんで鬼を封じなきゃならないんだろうね」
「元は方相氏ではないのかもな。子供を従え鬼を追うのが方相氏の認識だ。獣神として在ったこともあるらしいが、子供の方相氏は人間の認識に当てはまらないだろう。ヒガタのように混じりモノか、形を模しただけという可能性が高いな」
冬玄と楓の話に耳を傾けながらも、燈里は睦月が心配で堪らなかった。
俯き、必死で泣くのを耐えている姿。睦月のせいではないのだと何度言葉にしても、彼女には届いていないようであった。
「睦月……」
固く握り締めている睦月の手を繋ぐ。小さく肩を震わせ睦月は顔を上げて燈里を見た。
「燈里ねぇ」
「大丈夫。方相氏は鬼を追い払ってくれる存在だから、怖くないよ」
「でも……」
方相氏が本物ではなかったとしたら。そう言いかけて睦月は口を噤んだ。
代わりに力なく笑みを浮かべ、繋いだ手を握る。強がりながらも不安を隠せない睦月に燈里は安心させるように微笑み、繋ぐ手に力を込めた。
「燈里ねぇ。あのね……」
何かを言いかけた睦月の笑顔が消えた。
「睦月?」
燈里の呼びかけに答える余裕はないのだろう。表情を強張らせ辺りに視線を彷徨わせている睦月は、不意にびくりと肩を震わせて繋いだ手を離し、背後を振り返った。
「睦月、一体何が……っ!」
睦月を追って視線を背後に向け、燈里は息を呑んだ。
――鬼は外。
何故気づかなかったのか。無感情でありながら子供特有の高めの声音が辺りに響く。
居間の入口に立つ異形の姿から目を逸らせない。
黒い衣に朱の裳を着た小さな姿。鬼のような形相の面の、その金の目は四つ。
「方相氏……」
面の奥の黒い目が、逸らすことなく真っすぐに燈里たちを見据えている。息苦しさを覚えるほど、力強い意志を湛えた目。
燈里は喘ぐように浅い呼吸を繰り返しながら、救いを求めて冬玄たちの方へと振り返った。
「え……?」
冬玄、と名を呼ぼうとして、燈里は目を見張り硬直する。
冬玄と楓の姿がない。それどころか、そこは見慣れた居間ですらなかった。
「ここは……どこ……?」
一面に広がる青い花。空は厚い雲に覆われ、陽を見ることは叶わない。
ふと、遠くに誰かの姿を見た。
目を引く金の煌めき。稲穂を思わせる長い髪の誰かがゆっくりと去っていく。女なのか男なのかは分からない。その腕には何かが抱かれているように見えた。
「鬼は外。鬼は外」
背後で声がする。
その言葉を合図に、三人の方相氏の姿をした子供たちが去っていく誰かを追いかけていく。
「村から外へ、遠くへ追いやれ」
「柊立てて、転じて内へ」
「四方を打ちて、閉じ込めよ」
外だというのに声が反響し、まるで四方を囲われているような錯覚に燈里は強い眩暈を覚えた。
去っていく誰かが鬼なのだろうか。追いかける方相氏たちは、しかしその鬼との距離を縮められていない。
「鬼は外。外から内へ」
無感情に声は告げる。遠くから鬼は外、と声が返る。
背後で何かが崩れ落ちる音がした。
小さな呻く声。倒れる睦月の姿が思い浮かび、燈里はふらつくのも構わず立ち上がった。
「睦月!」
「――燈里?」
困惑した声。
はっとして、燈里は辺りを見回した。
いつの間にか辺りはあの青い花が咲き乱れる外ではなく、見慣れた居間に戻っていた。
振り返れば、脱力したように睦月が椅子に座っている。戸惑うように視線を彷徨わせ、燈里と目が合うと一筋の涙を流した。
「燈里ねぇ……」
「大丈夫。ここにいるから」
離れた手を再び繋ぐ。大丈夫だと繰り返せば、睦月は肩を震わせ静かに泣き出した。
「燈里。一体何があった?」
「僕には何も感じられなかった。急に動きが止まって、次の瞬間には立ち上がったんだよ。記憶を共有しているはずなのに、今も何も分からない……燈里は何を見たんだい?」
険しさを滲ませる冬玄と楓の声に、燈里は視線を向ける。
先程見たものを告げようと口を開き、だが溢れ落ちたのは全く別の言葉だった。
「勿忘草だ……」
一面に咲き乱れる青い花。浮かぶその名に、燈里はそっと目を伏せる。
忘却を恐れる小さな花は、何の記憶を留めようとしているのか。
金の髪の鬼。それを追う子供の方相氏。外から内へ、鬼を閉じ込めるという言葉の意味。
「燈里。何を見たのか教えてくれ」
側に寄り、冬玄はそっと燈里の肩に手を伸ばした。
だがその手は一瞬だけ止まる。
「冬玄?」
「いや、何でもない」
そう言って冬玄は笑うが、燈里は不安げな面持ちで唇を震わせる。けれど何も言えずに、睦月と繋いだ手に力を込めた。
「気にするな。一瞬だけ何かを感じたと思ったんだが、気のせいだったようだ」
燈里の頭を撫でながら、冬玄は気のせいだと繰り返す。
自身に言い聞かせるような響きを持つその言葉。感じた冬玄も違和感が拭えないのだろう。
「俺のことはいい。それよりも話を聞かせてくれ。勿忘草は何を意味しているんだ」
だが今は燈里の見たものが何であるのかの方が重要だ。そう結論付けて、冬玄は燈里に問いかける。
違和感が予感に変わる。
子供の声音で鬼は外と囁くようで、冬玄は密かに拳を握りしめた。
20260202 『勿忘草(わすれなぐさ)』
夕暮れに染まる公園には、誰の姿もない。
誰かが置き忘れたのだろうか。砂場に築かれた山には、スコップが刺さっている。滑り台には溶け残った雪が滑り面の終端部を濡らしていた。
とても静かだった。昼間は子供たちの笑い声で満たされている公園の別の顔に、訳もなく落ち着かなくなる。
早く帰らなければ。
帰りを待つ人がいる。帰りが遅いと心配させてしまうだろう。迎えに来てしまうのかもしれない。
帰らなければ。
焦燥感にも似た思いが込み上げ、公園から目を逸らして踵を返す。
一歩、足を踏み出した時だった。
――きぃ。
公園から、微かな音が聞こえた。金属の擦れるような、悲鳴のようにも聞こえるか細い音。
振り向きたくはないのに、体は意思に反してゆっくりと振り向いていく。
――きぃ。
公園の奥から音は聞こえてくる。大きな滑り台の後ろ。入口からは見えない場所から途切れ途切れに響いている。
気づけば足は勝手に奥へと向かい進んでいた。
帰らなければいけない。焦る気持ちとは裏腹に、奥へと進む足取りに迷いはない。確かめなければという強い思いが浮かび、焦りをじわりと塗りつぶしていく。
――きぃ。
滑り台を通り過ぎる。
そこで立ち止まり、視線を奥へと向けた。
「ブランコ……」
小さく呟けば、答えるようにブランコがきぃ、と音を立てる。
誰も乗ってはいない。風もないというのに、小さくブランコが揺れていた。
まるで、見えない誰かがブランコに座っているかのように。
――鬼は……。
不意に声が聞こえた。ブランコが立てる音に重なり、はっきりとは聞こえない。
――鬼は、外……鬼は外……。
次第に明瞭になる言葉。ブランコが揺れ、不自然な影が纏わりついていく。
それは次第に小さな子供の影を作り出した。ブランコにただ座り、深く俯いている。
――鬼は外。鬼は外……内へ……閉じ込め……。
歌だろうか。繰り返す言葉に思い浮かぶのは、数日後の節分のことだ。
鬼は外。福は内。豆をまきながら唱える言葉が過ぎていくが、何か違うような気もした。
ゆっくりとブランコに近づいていく。俯く影は顔を上げない。ただ鬼は外と繰り返すだけ。
何が違うのか。それを知るため、聞こえなかった言葉を拾おうと耳を澄ませる。
そしてブランコの前に立った時だった。
「鬼は外、鬼は外。村から外へ、遠くへ追いやれ。柊立てて、転じて内へ。四方を打ちて、閉じ込めよ」
影が顔を上げた。
「――っ」
息を呑む。
露わになったその姿。細い手足。黒い衣と赤い下衣。
金の四つ目の仮面の奥で、静かな目がこちらを見据えている。
「鬼は外」
幼さが滲む声。異様な姿をした子供がブランコから降りる。
ざり、と地面を擦り、子供が足を踏み出す。
「外から内へ。鬼を閉じろ」
そこで、目が覚めた。
「いやっ!」
小さく悲鳴を上げ、継枝《つぐえだ》睦月《むつき》はベッドから飛び起きた。
「ゆ、め……?」
かたかたと震える肩を抱きながら視線を巡らせる。慣れ親しんだ古めかしい和室ではなく、どこか殺風景な洋室に一瞬だけ混乱する。
「あ……そっか。燈里《あかり》ねぇと一緒に村から出たんだっけ」
緩く頭を振り、睦月は苦笑した。
村を出て二週間以上経つというのに、未だに実感は薄い。小正月前の数日間の濃い出来事を思い出す度、今の穏やかさが夢ではないかと疑ってしまう。
「慣れないとなぁ。こんなんじゃ、燈里ねぇに気を使わせちゃう」
優しい家主を思い、小さく息を吐いた。
睦月がこの家で暮らし始めてから、家主である宮代《みやしろ》燈里は何かと気にかけてくれている。
不便はないか。足りないものはないか。押しかけた身であると自認している睦月にとって燈里の気遣いが、逆に申し訳なく思う。せめてできることをしようと率先して家事を手伝っているが、それが燈里の庇護欲に拍車をかけていることに睦月は気づいていなかった。
「っと。ご飯の準備をしないと」
カーテン越しの仄かな明るさに気づいて、睦月はベッドを抜け出した。夢の残滓を消すように大きく伸びをして、深く息を吐き出した。
「それにしても何だったんだろう?あの夢」
見覚えのない公園だった。ブランコに乗っていたあの異形の面をつけた子供も、見たことはない。
所詮は夢だと思いながら気にかかるのは、睦月が故郷の村で起きた悲劇を夢に見ていたからだろうか。
ヒガタという、小正月の来訪神を思い出しながら、何気なく枕元の時計に視線を向けた。
聞こえた悲鳴に、目覚めたばかりで微睡んでいた燈里の意識は一瞬で覚醒した。
「睦月!?」
自室を飛び出し、隣の部屋の戸をノックもなしに開け放つ。薄暗い部屋の電気を点ければ、ベッドの脇で、楓《かえで》にしがみつきながら震えている睦月の姿が目に入った。
「睦月!」
「燈里ねぇ……」
睦月の体を抱きしめ背を撫でながら、燈里は楓に視線を向ける。何があったのかと視線で問いかけられ、楓はどこか困惑げに眉を寄せ口を開いた。
「四つ目の面をつけた子供がいたらしい」
「四つ目?」
燈里も同じように眉を寄せた。
四つ目の仮面で思いつくものはあるが、それが何故睦月の部屋に出るのかが分からない。
室内を見回すが、睦月のいう子供の姿はどこにもない。
「四つ目って……方相氏《ほうそうし》のことかな?」
「特徴からしてそうだろうね。金の四つ目。黒と赤の装束……大晦日は過ぎたけど、節分は数日後だ。関係はあるのかもしれない」
だとしても、何故睦月の元に現れたのかが分からない。そう言いたげな楓に、燈里はさらに困惑を強めた。
腕の中で震えている睦月を見る。彼女には酷だが、もう少し話を聞けば何かが見えてくるかもしれない。
そう思った時だった。
「何をしているんだ?ちびの部屋に集まって」
部屋の入り口で、冬玄《かずとら》は不思議そうに声をかけた。どうやら朝食の時間になっても誰も来ないため様子を見にきたらしい。
「四つ目の面をつけた子供が出たんだってさ」
燈里の元へと歩み寄る冬玄に、楓は簡潔に答えた。
「四つ目?方相氏のことか?」
予想もしていなかったのだろう楓の言葉に冬玄は目を瞬き、次いで訝しげに周囲を見る。何の気配も感じられないことに息を吐き、どこか呆れを滲ませて口を開いた。
「何も感じられないな。そもそも俺がいる限り、この家に何かが入り込めるはずはないだろう」
今は燈里の婚約者ではあるものの、冬玄は今も宮代の守り神だ。その冬玄が何も感じないというのであれば、本当に何もいないのだろう。
「節分も近いことだしな。何かの影響を受けて夢で見た可能性は否定できないが……」
特に問題はない。
そう続けるはずだった冬玄の言葉は、睦月の姿を見て途切れた。
膝をつき、目を合わせる。困惑と僅かな険しさを浮かべ、冬玄は低く呟いた。
「入ってきているな」
「え?」
「夢を介して入り込んできている」
冬玄の言葉に、途端に燈里は不安げに睦月を見つめた。かたかたと震え続ける睦月は、先程から一言も話してはいない。それ程に怖い思いをしたのかもしれないが、睦月の性格から考えれば不自然だった。
「それは悪いモノかい?」
楓の問いに、冬玄は首を振る。睦月の頭に触れ、目を細めた。
「方相氏は鬼を追いやる存在だろう?」
悪いモノであるはずがない。
言外に告げて手を握りしめ、何かを引き摺り出す仕草をした。
びくりと睦月の体が震え、脱力する。
「睦月!?」
反応のない睦月に燈里は慌てるが、穏やかな寝息に安堵の息を吐く。
睦月に何をしたのか分からず冬玄を見るものの、彼は自身の握った手に視線を向けたまま動かない。
「冬玄?」
「悪いモノではないが、良いことが起きるわけでもなさそうだな」
嘆息して、冬玄はゆっくりと握っていた手を開いていく。
「これって……」
「柊の葉……?」
冬玄の手の中に収まっていた、特徴的な棘のような葉。
一枚の柊の葉に、燈里は言いようのない不安が込み上げてくるのを感じた。
20260201 『ブランコ』