呼び声に応え、目を開けた。
見知らぬ社の中。最初に見たものは無心で祝詞を奏上する、見たことのない宮司だった。
その宮司には二人の子供がいた。幼い年子の姉妹。好奇心旺盛で、活発で、自分たちの姿を見ることができる稀有な子供たち。
新しく祀られた社は居心地がよかった。宮司だけでなく村の人間はすべて優しく、祝詞の分だけ応えた恵みを心から喜ぶ謙虚さも持ち合わせていた。
何より純粋に自分たちを慕う子供たちの温もりを愛おしいと感じていた。自分だけではなく、東西も同じなのだろう。陽が暮れるまで東は子供たちと遊び回り、帰宅して西の説教を受けることが、いつの間にか日常と化す程だ。
心穏やかな日々が続いていくのだと、自分を含めて誰もが思っていた。子供たちが大人の手伝いで共に麓の町へと行ったきり、帰らなかった時までは。
夕刻になっても戻る者は誰一人いなかった。残った皆が村の周囲や麓までの道も探したが、見つかることはなかった。
帰ってきたのは一晩過ぎ、陽が昇り始めてからだ。
誰もが傷つき、無言だった。何があったのか、話すことすらできない。
そこに姉妹はいなかった。
それから七日が過ぎ、麓への道の途中で姉が倒れているのを東が見つけた。
東に抱きかかえられ、村に戻った姉の姿は、先に戻ってきていた者たちよりも酷いものだった。辛うじて生きていたが、目を覚まさない。
あのまま目を覚まさなければ、東は確実に堕ちていたのだろう。それほど気配が変質しかけていた。姉の生が東を神として留めていた。
その頃になって、断片的ではあるが大人たちから話を聞けるようになっていた。
帰ろうと町を出た瞬間に、薄暗いどこかの屋敷にいたらしい。
鬼がいたと言った。人間の姿をしているが、在り方は鬼だったと。
その鬼に襲われたが、姉妹が身を挺して助けてくれたと話していた。
姉は目を覚まさず、妹の行方は分からないまま。
一月が過ぎ、二月が過ぎて。一つの季節が過ぎた時、妹を探していた西が戻らなくなった。
東は何も言わなかったが、お互いに西の異変を察していた。
感じる根本的な何かが変わっている。それに混じり伝わる悲しみと怒りに、最悪が起きたのだと理解した。
「私たちが堕ちた末路が災厄になるなど、あの時までは気づこうともしなかった。草木が枯れ、人間たちは苦しみ倒れ伏す……本当に酷いものだ。だが、私はそれよりも西の腕に抱かれた妹の姿に痛みを覚えたよ」
穏やかに夏煉《かれん》は微笑んだ。
その目に浮かぶ後悔が、何に対するものなのか。冬玄《かずとら》には分からない。ただ一人だけを案じてしまったことか。それとも、大切な者を守れなかったことなのか。
分かる必要もないと、冬玄は表情一つ変えず、無言で夏煉の話の続きを待つ。
彼にとって大切なのは、燈里《あかり》ただ一人だけだった。
「昔話が長くなってしまったな」
そんな冬玄の姿に夏煉は苦笑し、静かに息を吐く。過去に浸る思考を切り替え、冬玄の目を見据え告げた。
「西は堕ち、災厄を振りまく形に変わった。宮司は西を封じ込めるため追儺の形で、儀を執り行った」
「その方相氏として名乗り出たのが姉か。残りの三人は何だ?」
「あぁ、知ってたのか」
夏煉は僅かに目を見張り、しかしすぐにそれは穏やかな笑みに変わる。小正月に送り出した燈里が連れ帰ってきた睦月《むつき》という少女は過去や未来を夢で見ると、話しに聞いていた。
「あの子供たちは巻き込まれ、姉妹に助けられた子だよ。目覚めたばかりで歩くのも覚束ないというのに、一人で事を成そうとしている姉を言い含めたんだ」
「止めなかったのか?」
「もちろん私も東も止めたさ。だが止められなかった。だから私たちも巻き込まれることにした」
冬玄の気配がほんの僅か鋭くなった。影が揺れるのを一瞥し、夏煉は冬玄の目を見据えて告げる。
「東が西を繋ぎとめる鎖になり、子供たちが四方を囲い封じ込めた。そして私は西を戻すための方法を調べるためにここにいる。あれを戻さなければ、子供たちはずっと解放されることはないからな」
暗に害にはならないと伝えるものの、冬玄の警戒が緩む様子はない。かつての共に在った時とはまるで異なる彼の姿に、夏煉は驚きと共にその変化をどこか嬉しく思った。
ふふ、と堪えきれず笑みを溢し、次の瞬間には真摯に冬玄に向き直る。表情を改めて夏煉は低く告げた。
「子供たちに危害を加えない限り、私は北と敵対するつもりはない。子供たちも西ではないと気づいたのだから関わることもないだろう……だが西は分からない。あれがまだ意思を持っているのかさえ、封じる前から判断できなかった」
「今になって外に出た理由は何だ?」
冬玄の問いに、夏煉は机の上に置かれたファイルを手に取った。
付箋がされているページをめくる。そこには、とある地域の開発事業の計画書が記されていた。
「最近、山が切り開かれてな。子供たちが立てた柊が崩れてしまったんだ。どこにいるのか、子供たちが探しているが、まだ見つからないようだ」
冬玄に向けて開かれたページには、大きな公園の写真がいくつか載っている。無人のブランコの写真を一瞥して、冬玄は何も言わずに踵を返した。
だが扉の前で立ち止まり、振り返ることなく静かに問いかける。
「西にとって……お前たちにとって、その宮司の姉妹はどんな存在だ?」
問われて夏煉は虚を突かれたように目を瞬いた。次いで柔らかく微笑み、窓の外へと視線を向ける。
「そうだな。北にとっての宮代が、私にとっての子供たちだった。敢えて聞きはしなかったが、東も西も同じだっただろう……特に、西は口や態度には出さないだけで、一等二人を大切にしていたよ」
自身の在り方すら歪ませるほどに、姉妹を想っていた。
失ったことを悲しみ、自身の無力さを嘆き、そして奪った相手を激しく憎んだ。
その溢れ出した気持ちが厄となり、全てを苦しませてしまうほど、西は姉妹を愛していたのだろう。
「西と同じ末路は辿ってくれるなよ、北。私は宮代のことも大切なんだ」
「言われずとも分かっている。燈里の手を離すつもりはない。手を離す時が来たとしても、無理に繋ぎ留めることもない……燈里を泣かせるつもりはないからな」
扉を開け、挨拶もなく冬玄は部屋を出ていく。
一人残った夏煉は、ファイルを仕舞いながら淡く微笑んだ。
「言葉にしたからには守ってくれ」
どうか、と呟く言葉は祈りのようだ。
かつて愛した子供たちの姿を浮かべながら、夏煉はそっと目を伏せた。
20260205 『溢れる気持ち』
2/6/2026, 9:50:01 AM