あれから数日が過ぎた。
燈里《あかり》も睦月《むつき》も、あれきり方相氏に関しての夢を見てはいない。数日程は誰もが落ち着かずどこか張りつめた空気が流れていたが、穏やかな日々にようやく以前の日常を取り戻し始めていた。
「結局、あれは何だったんだろう?」
台所で拭いた食器を棚に戻しながら、睦月はぽつりと呟いた。
皿を洗っていた燈里はその疑問に手を止める。詳しく話さずとも、睦月が何を疑問に思っているのかはすぐに理解できた。
「合っているかは分からないけれど」
そう前置きをして、燈里は何かを思い出すように宙を見つめる。僅かに眉を顰め、静かに語り出した。
「冬玄《かずとら》のことについて、前に話したことを覚えてる?」
「トウゲン様っていう、守り神だったって話?覚えているし、村にいた時から夢で燈里ねぇのことを見たから分かるよ」
神さまらしくはないけれど。そう心の中で付け足した睦月の思考を察して、燈里は思わず苦笑しながら話を続けた。
「前にね、私のことで冬玄が堕ちかけたことがあるの。今はもう大丈夫だと思うけどその時の何かが彼に残っていて、それを方相氏たちが感じ取ったのかもしれない」
「つまり、方相氏がおじさんを鬼だって勘違いしたってこと?それで勘違いだって気づいたから、もう夢に出なくなったのかな?」
「おそらくはね」
首を傾げる睦月に、燈里は僅かに目を細めた。
方相氏がこの先、燈里たちの元へ訪れることはないだろう。方相氏たちの言動から燈里はそう考えている。
だが睦月に対して、もう大丈夫の一言が告げられなかった。
不安という形にならない程度の、微かな違和感が燈里の中から消えてなくならない。方相氏はもう現れないと口にしても、続く言葉はかもしれないという曖昧な言葉だ。
無意識に右手の薬指に触れる。硬く滑らかな感覚に縋るように、指ごと指輪を握り込んだ。
「あの子たちはきっと長い間、厄を鬼ごと村の外に追い出して封じ込めていた。それが何か理由があって、封じていた鬼が外へと出てしまったから追いかけているんだと思う……そしてその鬼は、元々村の守り神として祀られていた」
「何があったんだろう?外に出ちゃった原因もそうだけど、何があって神さまが鬼になっちゃったのかな?」
「何でだろうね。神様にとって堕ちるほど強い何かがあったのは確かだと思うけど」
小さく息を吐いて、燈里は後片付けを再開する。それを見て睦月も拭き終わった皿を手に、片付け始めた。
「燈里。ちょっといいか」
片付けが終わり、燈里と睦月が台所を出ようとしたタイミングで、冬玄《かずとら》が声をかけた。
「どうしたの?」
何かを悩んでいるような冬玄の様子に、燈里は訳もなく不安を覚える。それを感じ取り、冬玄は燈里の頭を撫で、安心させるように微笑んだ。
「これから仕事だろう?帰る時に迎えに行ってもいいか、聞こうと思ってな」
「え?」
冬玄の言葉に目を丸くし驚いたような声を上げたのは睦月だった。燈里は何度か目を瞬き、何も言わずに俯く。その耳がじわじわと赤くなっていくのに睦月は意地悪く笑い揶揄おうと口を開きかけるが、その前に冬玄は話を続けた。
「編集長っていう奴に会いたいんだ」
「は?」
睦月の笑みが、一瞬で訝しげなものに変わる。顔を上げた燈里の横顔に翳りが見え、眉を寄せて一歩前に出る。
睦月の行動に今度は冬玄が眉を顰めた。だが燈里の表情に、自身の言葉の足りなさに気づき焦りを浮かべながら首を振る。
「別にやましいことじゃないんだ。ただ少し確認したいことがあってだな……」
「燈里が気落ちしているのはそこじゃないよ。馬鹿」
不意に冬玄の後ろから声がした。後ろで様子を伺っていた楓《かえで》が、我慢できずに呆れながら冬玄の背を叩く。
「痛っ」
「本当にどうしようもないな……燈里。悪いんだけど、こいつに繋ぎを取ってくれないかい?たしか、南方《みなかた》とかいったっけ」
「いいけど……どうして?」
両手を握りしめ、不安げな表情をする燈里に、楓は肩を竦めてみせる。冬玄を一瞥し、小さく息を吐きながら答えた。
「前から同族の気配を感じていたらしい。馬鹿なことは起きないし、なんだったら監視をするから頼まれてくれる?」
同族、ということは、南方も人ではないということだ。
驚くと同時に、彼女の纏う不思議な空気の意味を理解した。
何故今になって冬玄が南方に会いたいのかは分からない。何を話すのか、彼女と会ったことでこの関係は変わってしまうのか。
分からないこと、不安なことだらけだ。
「無理にとは言わない。俺も方相氏の件がなかったら会うつもりもなかった」
「方相氏が追っているのが、南方編集長だってこと?」
普段の南方を思い浮かべ、燈里は困惑する。
色々と気にかけてくれる彼女が、厄を振り撒く鬼だとは思えなかった。
疑問を口にすれば、冬玄は違うと首を振る。一瞬言葉にするのを躊躇う素振りをみせ、ゆっくりと口を開いた。
「堕ちた気配は感じない。それにあれが堕ちるはずもない」
「冬玄?」
「南方という奴の気配は俺と同じだ。同じでありながら、正反対の質を持つあれは……南方は、シキの南だろう」
冬玄の言葉に、燈里は息を呑んだ。
シキ。それは冬玄が宮代の守り神となる前の、とある村での呼び名だった。社の東西南北に飾られた翁の面。年に一度行われる、祭りの形をした人身御供を、燈里は忘れられない。
「村が絶え、俺以外のシキは消えたのだと思っていたが別の場所で祀り直されたのだろうな。そして南がいるとなると、東西の面も在るはずだ」
「東西の、面……」
「方相氏から僅かだか馴染みのある気配を感じた。気のせいだと思っているが、どうしても違和感が拭えない。それを確かめるために、南に話を聞きたいんだ」
真剣な眼差しに、燈里は何も言えなかった。
冬玄は何も言わないが、東西の面のどちらかが堕ちたのだと思っているのだろう。その真偽を確かめ、どちらかの面が堕ちたと知った後はどうするのか。
込み上げる不安を鎮めるように、指輪に触れる燈里の肩を、冬玄は何も言わずに抱き寄せる。目を合わせて、真摯に告げる。
「話を聞くだけだ。堕ちて鬼になった面に、接触しようとは思わない。ただ燈里にとって危険かどうかを判断したいんだ」
燈里を守るため。宮代の守り神としてではなく、燈里の婚約者としての言葉に、燈里は頬を染め俯いた。
冬玄は柔らかく微笑み、燈里の額に口付ける。突然のことに燈里は驚いて顔を上げた。
「そんなに時間をかけるつもりもない。すぐに終わらせるから、一緒に帰ろう」
囁いて燈里の右手を取り、今度は薬指の指輪に口付ける。
声にならない悲鳴を上げて固まってしまった燈里に、今まで様子を見ていた楓が睦月の目を塞ぎながら呆れたように溜息を吐いた。
「そういう所だけ大胆なのはなんなんだろうね」
「楓ねぇ。いいとこなのに、隠さないでよ」
「子供にはまだ早い。というか、燈里が見られたことを知ったら泣くだろうから我慢しなさい」
燈里のためだと言われ、睦月は膨れながらも大人しくなる。
素直な睦月にいい子と呟いて、楓は動かない二人に視線を向ける。
愛しげに目を細めて燈里を見つめる冬玄に、疲れたような溜息がまた溢れ落ちた。
楽しげな子供たちの声が近づいてくる。
また泥だらけになって帰ってきたのだろうか。そんなことを思いながら、出迎えるために玄関へと向かう。
扉が開き、笑い声が玄関に響く。眩いばかりの笑顔を浮かべた子供たちが飛び込んでくる。
小さな泥だらけの体を抱き留めながら、子供たちに続いて入ってきた東に視線を向けた。
子供たちに負けず劣らず、その体は泥だらけだ。楽しげな笑みを浮かべているが、すぐに焦り泣きそうな顔に変わるのだろう。
あと何度、西の説教を受ければ落ち着くのだろうか。次第に強張っていく東の顔を見ながら思う。
変わらないのかもしれない。だが、それも悪いことではないのだろう。
子供たちが喜んでくれる。神を見て声を聞く子供たちが喜んでくれるのならば、全ては些事でしかない。
東も西も、それは強く思っているのだろう。特に西は表にこそ出さないが、子供たちを誰よりも大切に思っているのだろうから。
左右の頬にそれぞれ子供たちの口付けを受けながら、東西の強い視線を感じ、堪えきれずに声を上げ笑った。
ノックの音に、ぼんやりと過去に浸っていた南方夏煉《かれん》は扉に視線を向けた。
「入っていいぞ」
告げればゆっくりと扉が開き、冬玄が静かに入ってくる。懐かしい同胞の姿に、夏煉は目を細めて笑った。
「久しぶりだな、北。元気そうで何よりだ」
「前振りはいい。お前も、回りくどいのは嫌いだろう」
夏煉とは対照的に、冬玄は表情なく告げる。燈里には決して見せない態度に、だが夏煉は気にする様子もない。
「そうだな。宮代を待たせては可哀想だ……聞きたいのは、子供たちが追う鬼のことだろう?どこまで話せばいいだろうか」
「鬼がどちらか。そして燈里に害はあるのか。それだけでいい」
「そうか。けどある程度は話しておこうか。宮代はきっと気にする」
そう言って、夏煉はどこか悲しい目をして語り出した。
20260204 『Kiss』
2/5/2026, 12:11:47 PM