パソコンの前で、燈里《あかり》は溜息を吐いた。
画面には一文字も打ち込まれていない。彼此一時間が経つものの、増えるのは文字ではなく溜息だけだった。
「燈里」
見かねて冬玄《かずとら》が声をかける。肩に手を置けば燈里はのろのろと顔を上げ、冬玄を見上げた。
「そろそろ休憩した方がいい。気分転換でもすればすぐに書き出せるだろう」
「――違うの」
ゆるゆると頭を振り、燈里は違うのだと否定する。パソコンの画面を一瞥し、ここ数日起きたことを思い返す。
睦月《むつき》の見た夢から始まった、方相氏と鬼の話。夏煉《かれん》から記事にしてしまえと許可が出ていたが、本当に書いてしまっていいのかを燈里は悩んでいた。
今まで燈里が書いてきたものとは違う。時代と共に人が絶え、集落がなくなったことで途絶えた風習でも、実際に体験し、見届けてきた祀りとも異なる儀式。追儺の形を取ってはいるが、実際は堕ちた神を封じるための措置だった。
「書いてはいけない気がするの。安易に言葉にして、それでさらに歪めてしまったらどうしようって思うと、どうしても書けない」
「相変わらず真面目だな」
呆れたように息を吐きながらも、燈里の頭を撫でる冬玄の手はどこまでも優しい。
「燈里なら悪いようには書かないだろう。それを知ってるからこそ、南も書けと言ったのだろうに」
人の噂によって認識が歪んだ結果を燈里も冬玄も知っている。ある一部の事実を誇張し、娯楽のための嘘を交えて語られた物語によって楓《かえで》が存在したことを覚えていた。
だからこそ、燈里ならば大丈夫だという確信が冬玄にはあった。経験と燈里本人の気質が正しく事実を伝えられると、そう信じている。
「うん……でも、やっぱり書くのは止めとこうかな。明日、編集長に連絡する……書くならちゃんと見届けないといけない気がするから」
苦笑する燈里の言葉に、冬玄は眉を顰めた。見届けるということは、つまり行方のしれない堕ち神と接触する可能性がある。
危険が伴うことだと燈里も十分に承知しているのだろう。話はこれで終わりとばかりにパソコンの電源を落とし、立ち上がる。
「なんだかお腹が空いてきちゃった。夜食でも作ろうかな」
「簡単なものなら作ってある。元々休憩に誘うつもりだったからな」
「さすが冬玄!ありがとう」
笑顔で喜びを露にする燈里に、冬玄も微笑む。
どこか張りつめた空気が消えたことに安堵して、燈里の肩を抱き居間へと向かった。
夜。
か細くすすり泣く声に、夏煉はコーヒーを飲みながら息を吐いた。
「自業自得だ。私は言ったはずだぞ。宮代《みやしろ》には手を出すなと」
「だって、だって……」
暗闇の中、何かが宙を漂っている。仄かな月明かりに浮かぶそれは、凍り付いた翁の面だった。
泣く声が響く度、剥がれ落ちた氷の結晶が地に落ちる。溶けない氷が床を覆いつくしていくのを見て、夏煉はコーヒーを飲みながら僅かに眉を顰めた。
「東」
「だって西を止められないんですもの。どんなに探しても、全然見つからないのよ。もう、北を頼るしかないじゃない」
「だからといって宮代に手を出すのはやめろ。次は北だけでなく私も容赦はしない」
コーヒーを飲み干し、夏煉は立ち上がる。新しいコーヒーを淹れるために、泣く面の横を通り過ぎた。
夏煉の足跡から小さな金の焔が上がり、床の氷を溶かしていく。焔が消えた後には、水一滴すら残ってはいない。
「どうして北も南も、あの人間を気にかけるのかしら。どうして誰も、子供たちのことを気にかけてくれないのかしら」
「気にかけてはいる。子供たちを忘れたことは一時もないよ」
恨みごとのような東の言葉に、コーヒーを淹れる手を止めず夏煉は告げる。
それに、と言葉を続け、手を止める。窓の外に視線を向け、一瞬だけ悲痛に顔を歪めた。
「宮代は気にするだろう。あの子は私たちなどよりも子供たちに心を砕き、自身にできることを模索し始めるのかもしれない」
「何故そう言い切れるの?縁もゆかりもない人間じゃない」
分からないと言いたげに、面が夏煉の周囲を漂い出す。それを片手で払いのけ、コーヒーを片手に夏煉はソファに座り直した。
そっと笑みを浮かべる。それはどこか悲しげで、それでいて愛しさが混じり合った、そんな笑みだった。
「それが宮代だからだ。冬のようにすべてを受け入れ包み込む。どんなものにも手を差し伸べる、真っすぐな子だからだよ」
面の動きが止まる。訝しげに、困惑するかのような気配が伝わる。
それに何も言わず、夏煉はコーヒーに口を付けた。
「おかしな人間。でも、話してみたいわ……謝ったら許してくれるかしら」
「北は許すとは思えないが、宮代ならきっと笑って気にしていないというだろうな」
くすりと笑う声を最後に、沈黙が落ちる。
とても静かだった。外の喧騒も室内までは届かない。
ゆらり、と宙を漂う面が揺らいだ。暗がりに解けるように、その姿は次第に薄くなっていく。
だがその姿が完全に消える前に、電話のコール音が鳴り響いた。
「どうした、宮代。珍しいこともあるものだ」
着信画面を一瞥し、夏煉は迷いなく電話に出る。
宮代の名に面が輪郭を濃くし、興味深げに夏煉の側に近寄った。
「北か?何故宮代の電話に……村の場所?教えるのは構わないが……どういうことだ?」
次第に夏煉の表情が険しさを増す。端的に村の場所を伝え電話を切ると、息を吐いた。
「東。村に戻るぞ」
「どうしたの、急に。電話が関係あるのかしら」
コーヒーを飲み干し立ち上がる夏煉に、面は問う。影を揺らめかせ、固い声音で夏煉は答えた。
「宮代の家に居候している娘と妖が消えたらしい。宮代が見た夢で、日本人形らしき何かを抱いた金の髪の男から逃げる時にはぐれたようだ……間違いなく西だろうな」
「それは……でもどうして村に」
「三方を柊で囲われた社。逃げ込んだ社務所の奥で、方相氏の面と黒く塗りつぶされた木札を見たと宮代が言っている」
「方相氏と成るために子供たちの名を塗りつぶした木札ね、きっと」
「急ぐぞ」
呟くと同時に、夏煉の体が自身の影に飲み込まれていく。面もまた、姿を暗がりに解かしていく。
夏煉を飲み込んだ影が周囲に散った。そこには夏煉の姿はない。
面も消え、部屋には最初から誰もいなかったように静寂が満ちていた。
20260207 『どこにも書けないこと』
2/8/2026, 2:45:38 PM