sairo

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風が通り過ぎていく。
鼻腔を掠めた匂いに、燈里《あかり》は眉を顰めた。
鼻をつく、甘い匂い。腐った果実のような不快なそれに、冬玄《かずとら》も眉を寄せ舌打ちする。

「燈里。あまり吸い込むな」

燈里の体を引き寄せる。冬玄の周りで薄い氷の膜が張り、陽の光を反射して煌いた瞬間、澄んだ音を立てながら砕け散った。
不快な匂いは感じられない。息を吸い込めば、冬の冷気が肺を満たしていく。その中に仄かな蝋梅の香りを感じ取り、燈里はほぅ、と吐息を溢した。

「燈里」

冬玄に呼ばれ、燈里は徐に腕を上げる。道の先、木々の間から僅かに見える建物を指さし、静かに告げた。

「あそこ。あの蔵の中」

目を凝らすものの、冬玄にはその蔵らしい建物がぼやけて見えた。異様に気配が薄い。いくつもの膜に覆われているような、目を逸らした途端に認識できなくなるような、そんな違和感に眉が寄る。

「随分と目が滑るな。結界か?」
「行こう。二人が待ってる」

燈里に促され歩き出す。だがいくら近づけど、蔵の気配は霞んだままだ。
その奥からは昏く沈んだ気配が揺蕩っている。冷たい痛みが全身を貫く錯覚に息が詰まる。燈里を守るように、冬玄は震える肩を抱き寄せた。

「ここか?」

蔵の前で立ち止まる燈里に、冬玄は戸惑いの表情を浮かべた。
目の前には両開きの重厚な蔵戸。だが冬玄には見えていないのだろう。その視線が戸を注視することはなく、蔵やその周囲を彷徨っている。

「燈里」
「大丈夫。ここだよ」

燈里の声に迷いはない。その目は真っすぐに蔵戸を見つめ、取っ手に手をかけた。
ぎぃ、と重く軋んだ音を立て、戸が開かれていく。そこで蔵戸の存在に気づき、冬玄は慌てて手を添え力を込める。

「何だ?」

細く開いた戸の前で何かが佇んでいるのを認め、冬玄は目を細めた。一度手を止めると、燈里の手を戸から離させる。
纏う空気が張りつめていく。視線を戸の隙間から離さず燈里を背後に下がらせると、一気に戸を引き開けた。

「――見えないわけだ。まさかあの時の地蔵がいるとはな」

目を閉じ。微笑みを浮かべて立つヒガタ。息を呑み、次いで深く息を吐いて、冬玄は警戒を少しだけ緩めた。

「ありがとうございました」

冬玄の横を燈里が通り抜け、燈里はヒガタの前に立つと深く礼をする。答えの代わりにしゃんと錫杖を鳴らし、ヒガタの微笑みが深くなる。

「燈里ねぇ!」
「睦月《むつき》!楓《かえで》!」

その後ろ、近づく睦月と楓の姿に、燈里は安堵の息を吐く。
駆け寄る睦月の体をしっかりと抱き留め、よかったと小さく呟いた。
見た所、睦月と楓に怪我はないようだ。それならばすぐにでもここから離れた方が良いのだろう。
そう思い、燈里が後ろにいる冬玄を振り返ろうとした時だった。

「――っ、冬玄!?」

突然冬玄に背を押され、燈里は睦月と共に蔵の床に倒れ込んだ。
咄嗟に身を捩ったことで睦月を圧し潰さずに済んだものの、冬玄の行動の意図が分からない。身を起こし後ろを向くが、視界を塞ぐように楓が蔵戸との間に立ち塞がった。

「楓?」

一体何が起きているのか。
こちらに背を向けているため、楓の表情は見えない。呼びかけても返事がないことに底知れぬ不安が込み上げ、燈里は倒れたまま動かない睦月へと視線を向けた。
睦月、大丈夫?」

意識がないのか反応はない。抱き起そうと肩に触れ、手から伝わる異様な熱に息を呑んだ。
酷く熱い。膝に頭を乗せ、赤い顔をしてうなされている睦月の汗を拭う。
誰も言葉を発しない。それが不気味で、燈里は楓の背を食い入るように見つめた。蔵の外に何があるのか見透かそうと目を細め、不意に感じた匂いに体が硬直する。
甘い香り。どろりと粘つき、吸い込んだ者の内側から腐らせるかのような悍ましさに燈里の眉が寄る。息苦しさに視界が滲み、頭の奥が鈍く痛み始める。

これは、穢れだ。
厄という名の、死の穢れ。夏に足を踏み入れた、荒れた墓地の匂いに似ている。
気づいた瞬間、燈里の脳裏にある姿が浮かぶ。長い金の髪に、翁の面。腕に抱かれた日本人形の腕には枯れた花束が握られていた。

「久しいな、北」

低くもなく、高くもない声が冬玄を呼ぶ。対峙する冬玄は言葉を返さず、その目は鋭く相手を睨みつけている。

「通してくれ、北よ。その蔵の中にいる娘たちに用がある」

冬玄は何も言わず、微動だにしない。だがその影は揺らぎ、対峙する相手と酷似した翁の面を冬玄の前へ浮かばせた。

「北も他と同じく、西の障害となる選択をするというのか。なれば押し通るが構わぬか」
「――理由くらいは聞いてやる。何の用だ?何故接点のないはずの人間に執着する?」

低い冬玄の声に相手の動きが止まる。首を傾げ、腕に抱いた人形へ視線を落とした。

「鈴《すず》が一人を寂しがる。かつての友は封じられていた間に絶えた故、新しい友が必要だ」

当然と言わんばかりの声音だった。腕の中の人形のために、新しい友を宛がう。そこに相手の意思はどこにも存在しない。

「断る。貴様の人形遊びに付き合わせるつもりはない」

冬玄の影が揺れ動き、相手の足元に鋭い氷に棘を生じさせた。相手と冬玄とを隔てる棘は、だがしかし、西の面が一歩踏み出したと同時に音もなく粉々に砕け散ってしまう。
冬玄の気配が鋭さを増す。面に手を伸ばしながら、辺りを無差別に凍らせていく。

「人形……」

ぽつりと落ちた言葉。
冬玄が気にする様子はなかった。しかし浮かぶ映像として見ていた燈里は、その不思議そうな響きが酷く気にかかった。
西の面に抱かれているそれに意識を集中する。
赤子よりかは大きなその姿。枯れた花束。漂う甘い匂い。
それは枯れた花の匂いではない。

「何を言っている。鈴は人形などではない」

虚ろに開いた目が、ほんの僅か動いた気がした。

まだ、生きている。
ふと浮かんだ言葉。虚ろな目が瞬き、こちらに向けられる。

視線が交わる瞬間。
燈里の意識は暗転した。



20260209 『花束』

2/10/2026, 2:27:37 PM