sairo

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12/14/2025, 9:32:34 AM

遠くで鐘が鳴っている。
教会の鐘だろうか。厳かに響く音に、顔を上げて空を見た。
薄い青を滲ませる空から、ふわりと冷たい白が舞い降りてくる。
風花。季節はすっかり冬へと変わってしまった。
鐘が鳴る。澄んだ空気を震わせて、聞き馴染みのない音が響く。
雪と共に風が歌を運んだ気がして、逃げるように家路を急いだ。



ぎぃ、と木が軋む音がする。
ざざ、と聞こえる波の音。
目を開ければ青白い月の浮かぶ夜空の下、果てない海を進む船の上にいた。
船が揺れる。ぎぃ、と音を立てる度体が竦み、強く手を握り締めた。
船内からは、異国の声が聞こえている。祈りの言葉。咄嗟に耳を塞ぎ、その旋律から逃げ出した。
船が進む。辺りは深く黒い海に囲まれ、どれだけ目を凝らしても陸地は見えない。

「――いやだ」

震えた声で呟く。一刻でも早く、船を降りたくて堪らない。
船の向かう先が恐ろしい。行くのか、帰るのかは分からない。だがどちらだとしても辿り着く先は同じであり、そこに光はないのだと知っている。

ぎぃ、と軋んだ音が響く。ざざ、と耳の奥に波の音が刻まれていく。
耳を塞いでも、隙間を擦り抜け響いている。祈りの言葉が、神を讃える歌が、逃げられないのだと囁きかける。
そっと船べりに寄り、海を見下ろした。深い藍、そこの見えない黒い奈落に、だが落ちることができたのなら楽になれるだろうかと考える。
耳から手を離し、船べりに手をつく。
声が、歌が響く。遠くから微かに鐘の音が聞こえ、それらから逃げるように身を乗り出す。

このまま、落ちてしまえば――。

「どうした。気分が悪いのか」

異国の言葉ではない、耳に馴染んだ声。
咄嗟に体を戻し、振り返る。
月明かりを浴び手を組み祈るその姿に、胸が鈍く痛み出した。

どうして。問いたくとも、声は喉に張り付き掠れた吐息しか出てはこない。
迷いのない目は、何を見ているのだろう。彼の視線を追っても、黒々と広がる海しか見えない。
敬愛する主か、見たこともない神なのか。
船に乗った時の覚悟は、すでに自分にはない。あるのは逃げ出したいという衝動だけ。
彼はまだ、信じているのだろうか。

息苦しさに両手を胸に当て、俯いた。
きつく目を閉じる。聞こえる声と歌、波と船の音が混ざり合い、首筋に一瞬だけ鋭い痛みが走る。

「信じているのかは、正直私にも分からん。だが、殿の勅命は私の全てだった……ただそれだけだ。其方を縛る鎖とする必要はどこにもない」

暗闇に静かな声が降る。
聞こえるはずのない鐘の音が鼓膜の内側で鳴り響いているようで、胸の前で手を合わせ身を屈めた。

「――あぁ」

音に翻弄されながら、自嘲した笑みが浮かぶ。
祈りを否定し、逃げ出そうとしている自分。だが今の姿はまるで祈っているよう。

「ごめんなさい、兄さん」

渇いた笑いが込み上げる。彼とは異なり弱く愚かな自分が惨めで、笑いながら泣いていた。





鐘の音が鳴っている。
咄嗟に離れようとする足を止め、逡巡する。
いつもならば迷わない。だが今朝見た夢の名残が、足を止めていた。
目覚めた時には、大半が失われていた夢。
とても恐ろしかったように思う。怯え、逃げ出そうと藻掻き、そんな自分が哀れに思えた、そんな夢だった。
悩み迷いながらも、竦む足に力をいれる。手を握り、音の聞こえる方へと歩き出す。
いつまでも逃げる訳にはいかないと、感じる衝動に唇を噛み締めた。


辿り着いた先は、小さな教会。
中から聞こえる旋律に、無意識に足が後ろに下がる。
体が震える。昔から何故か、教会やそれに関するものが恐ろしくて堪らなかった。
今ならば引き返せる。まだ船には乗っていない。
じりじりと後ずさりながら、首に手を当てた。焼けつくような痛みと、息苦しさに、いっそ泣き叫んでしまいたくなる。

旋律が止み、しばらくして教会の扉が開かれた。
教会から出てくる十字を抱いた人々。皆微笑みを湛えており、恐怖に立ち竦んでいるのは自分だけだ。
やがて人の波が途絶え、知らず詰めていた息を吐き出した。
改めて教会を見上げる。
恐ろしさの象徴を前に、震える足を前に出した。

教会の中には、ただ一人だけ祈りを捧げている人がいた。

「兄さん」

祈るその背に声をかける。
顔を上げこちらを振り返った兄は、驚いたように僅かに目を見張った。

「珍しいな。お前はここを怖がっていただろうに」
「兄さん。聞きたいことがあるの」

体が震えぬよう強く手を握り締め、兄の側に寄る。真っすぐに彼の目を見つめ、長い間聞けずにいた問いを投げかけた。

「どうして、祈れるの?」

祈りの先に救いがあるのだと、本当に信じているのか。
兄が教会に通い出してから、ずっと問い質したいと思っていた。だが信じ切れずに祈れない自分の弱さをさらけ出すようで何も言えず、気づけば兄と距離を取っていた。

「そうだな。残ったのがこれしかなかったから、だろうな」

教会のステンドグラスに視線を向け、兄は目を細めて微笑んだ。
その目にどうしようもない苦さが浮かんでいるのを見て、込み上げる胸の痛みに手をあてる。

「すべてが無駄だと、切り捨てたくはなかった。己が成したことは、意味があることなのだと信じていたかっただけだ」
「兄さん……」
「帰ろう。顔色が悪い。これ以上、無理をしてここにいる必要はないよ」

兄に肩を抱かれ、教会を出る。
その足取りには迷いはない。それが意外で、けれど兄らしさも感じて、強張り微かに震える体から力が抜けていく。

教会を出て帰る途中、白の混じる赤い花を抱いた青年とすれ違った。
途端に込み上げるのは、怖さと怒り。知らぬ人に対する感情ではないと思いながらも、顔を逸らす。
しかし兄は違う感情を抱いたらしい。立ち止まり、青年の背をいつまでも見つめている。

「兄さん。あの人、知り合い?」
「いや……」

否定しながらも、兄は視線を逸らさない。
切なげに細まる目を見てその視線を追えば、すれ違った青年は教会の中へと入って見えなくなった。

「似てただけだ。昔私が尊敬し、信頼していたお方に」

そう言って、兄は穏やかに笑う。
あの青年が教会に行ったことを、心から喜んでいる。そんな気がした。

不意に目の前を白が過ぎていく。
顔を上げれば、曇る空からちらちらと雪が降っていた。体に触れる雪の冷たさに、思わず肩を震わせる。

「降ってきたな。急いで帰るぞ。風邪を引いたら大変だ」

兄に促され、足早に家路に就く。
ちらりと見上げた兄の横顔には、険しさはない。
彼はもう、船の上にはいないのだ。当たり前なことを考えながら、それに酷く安堵していた。

背後から遠く鐘の音が響く。
けれども兄は立ち止まらない。自分も逃げ出したりはしない。
恐怖はある。ただ逃げ出すほどではなくなったというだけのこと。

鐘が鳴る。
どこからか祈りの言葉が、讃美歌が聞こえてくる。

海の彼方から聞こえるその遠い音を、今は逃げずに聞いていた。



20251213 『遠い鐘の音』

12/13/2025, 10:03:06 AM

スノードームの中で降る雪を見ながら、小さく溜息を吐いた。
窓の外を見る。青く晴れ渡る空のどこにも雪の気配はない。
逆さまにすれば、ドームの中で雪は繰り返し降り続ける。この家も逆さにすれば、雪は降ってくれるだろうか。そんなおかしなことを考えながら、スノードームを机に置いて、ベッドへと倒れ込んだ。
仰向けで見上げた窓の外。逆さまの空には、やはり雪の気配はなかった。



くすくす、笑う声が聞こえて目を開ける。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。微睡みから抜けきらない意識で窓を見れば、外はとっくに陽が落ちて暗くなってしまっていた。

「ゆ、き……?」

不意に白がちらついた気がして、目をこする。ベッドから起き上がり、ふらつきながらも窓へと近寄った。

「雪、だ……」

小さく息を呑み、窓を開ける。途端に吹き込む風が、部屋の中に雪を招き入れた。
そっと手を伸ばす。だがその手をすり抜けて、雪は部屋の中を自由に舞い出した。
笑い声が響く。歌うようないくつもの囁きが部屋を満たしていく。
気づけば雪は硝子のような透明な翅を持つ少女たちになり、楽し気に部屋の中で舞い踊っていた。

――いつまでここにいるのかしら。

軽やかな声が問う。

――あなたを繋ぎ留めるものなんて、もうどこにもないのに。

囁く声に俯きかけた顔を上げ、机の上に置かれたスノードームに視線を向ける。逆さにしてはいないのにドームの中で降り続ける雪を見ながら、強く手を握り締めた。

「でも、ここにいないと」

ドームの中では、家の前で笑顔を浮かべた子供が空に向けて両手を上げている。降る雪を喜ぶその子供の顔は、自分のものと瓜二つだ。
どこにも行けない。スノードームを見る度にそう思う。
この家で、雪を待つことしかできないのだと、強く感じている。

――壊してしまいなさい。

声は言う。無慈悲に、残酷な響き伴って囁きかける。

――それが足枷になるのなら、いっそ壊してしまえばいい。

首を振る。
壊したくはない。失うのが恐ろしい。最後に残されたものがなくなった後、もう一度歩き始めるのが怖くて堪らない。
だが声は、周りの雪たちは、壊せと告げる。雪の少女たちの一人が目の前でくるりと回り、こちらを見据えて口を開く。

――過去の夢に縋っても、何も戻っては来ない。そろそろ自由になるべきよ。

ひゅっと、喉が鳴った。
否定しようと開いた口からは掠れた吐息しか出ず、静かに項垂れる。
本当は理解しているのだ。過去に縋り、ここで雪を待っていても意味がないことを。

「自由に、なってもいいの?」

それでも臆病な自分は、立ち止まる言い訳を求めて視線を彷徨わせる。ぽつりと呟く声は、笑える程に震えていた。

――進みなさい。もう分かっているのでしょう。

迷いを断つような鋭い言葉。これ以上否定することはできないと、唇を噛み締めた。
ふらふらと机に歩み寄り、スノードームを手に取る。中の子供の笑顔を暫く見つめ、そっとドームを撫でた。
少女の一人がドームの上に降り立った。真っすぐな少女の目に何も言わずに頷いて、窓の側へと歩いていく。
深々と降る雪が、辺りを白に染めている。窓の外へとスノードームを持つ手を突き出し、小さく息を吸い込んだ。

「――さよなら」

手を離す。
かしゃん、と硝子が割れる儚い音を聞きながら、静かに目を閉じる。
笑い声が部屋に満ちていく。宥めるように背を、頭を撫でる手を感じる。
体が解けていく感覚。囁く声が近く、温もりが遠くなっていく。

――おかえり、頑張ったね。

いくつもの優しい声が聞こえた。吹き込む風に身を任せながら、そっと目を開ける。
そこはもう部屋の中ではなかった。
どこまでも広がる夜空。雪に囲まれながら、宙を漂っている。
抱きしめられ、頭を撫でられて笑みが浮かぶ。手を繋ぎ、風に乗って舞い踊りながら戻ってきたことを実感した。

「ただいま」

そう告げれば、口々におかえりなさいと声がかかる。それが嬉しくて、くるりと回り空を見上げた。
吹き上げる風に乗って高く舞う。
自由になれたのだ。どうせなら遠くへ行ってみたかった。
背中の翅を揺らし風に乗る。
ちらりと見下ろした大地には、煌めく灯りとたくさんの家。

自分がいた家がどれだったのか、もう分からない。





「お母さん」

久しぶりに戻って来た娘は、困ったように眉を寄せながら母を呼んだ。

「どうしたの?」
「部屋に置いてあったスノードーム知らない?」
「机の上に置いてあったんじゃないの?」

記憶を思い返しながら、母は言う。時折掃除には入っているものの、今はほとんど物置と化している部屋だ。朧げな記憶を辿るも細部までは覚えてはいない。

「机の上にも、どこにもないのよ……困ったな。今度の子供会のクリスマスパーティーで使いたかったのに」

溜息を吐きながら、娘は疲れたようにソファに座る。それをどこか呆れたように見ながら、母は問いかけた。

「出ていく時に持って行かなかったからそうなるのよ。そのスノードームじゃなきゃダメなの?」
「そういう訳じゃないよ。ただパーティーでプレゼント交換することになってるから、ちょうどいいかなって思ってただけ。ないんだったら、他にないか探してみる」

そう言いながらも動かない娘に、母はひっそりと溜息を吐いた。嫁ぎ家を出て何年も経つが、娘の性格は変わらないらしい。
スノードームは娘が子供の頃、今はなくなった商店街の雑貨屋で購入したものだった。これが欲しいと泣きながら訴えていたのを思い出す。
娘なりに大切にしていたものであったから、捨てるよりは顔見知りの誰かにあげる方がいいと思っていたのだろう。強がってはいるものの内心ではかなり落胆している娘に、母は苦笑して立ち上がる。

「探してあげるから、そんなに落ち込まないの」
「落ち込んでない。プレゼントを何にするか考えてるだけ」
「はいはい」

素直でない娘を置いて、母はかつての娘の部屋へと入る。ひっそりと静まり返った部屋は、娘が家を出てから急速に寂れてしまっていた。

「どこに行ったのかしらね」

机に視線を向けながら、母は目を細める。娘が子供の頃の懐かしい思い出が浮かび、そっと息を吐いた。

ふと窓の外に視線を向け、母は小さく声を上げた。
重く厚い雲に覆われた空から雪が降ってきている。
毎年見慣れているはずの光景。けれどもなぜか目が離せない。
ふわふわと風に乗り、雪が舞う。雲の薄い部分から差し込む光を反射して、美しく煌めいている。

まるでスノードームの中にいるかのように、それはとても幻想的な光景だった。



20251212 『スノー』

12/12/2025, 9:42:46 AM

白い月に照らされた道を、無心で駆け抜けていく。
ちらりと一瞥した空には、無数に煌めく星々。今にも落ちてきそうで、ふるりと体を震わせた。
朝はまだ来ない。この道を越えた先にあるのだろう。
足はまだ動く。息苦しさはあるが、我慢できない程ではない。いつまでもここに留まっているよりも、多少無理をしてでも先に進みたい。
きっと一度でも立ち止まってしまったのなら、二度と走れないのだろうから。



「いつまで走るの?」

重い足を引き摺りながらそれでも立ち止まらずに走り続けていれば、何処からか声が聞こえた。
淡々とした、感情が乗らない声音。足を止めずに辺りを見回すが、誰の姿も見つけることはできない。

「どこまで走れば、終わりが来るの?」

声は問う。だが答えることはできない。
いつまでなのか、どこまでなのか。走り続けている自分でさえも分からなかった。
空を見上げる。白い月も無数の星々も、凍り付いたように動いてはいない。
朝は来ない。思い浮かんだそれを否定するように首を振り、足に力を入れた。

「朝は来ない」

だが否定した思いを、声が告げる。無機質な冷たさで、まるで事実だと言わんばかりに朝は来ないと繰り返した。

「朝は……」

否定しようと口を開くが、最後まで言葉にならない。
足が重い。段々と速度が遅くなり、足も上がらなくなってくる。
前へ進めない。足が前にでない。次の一歩が出ず、地に着いたまま僅かにも動かせずに立ち止まる。

止まってしまった。


荒い息を吐きながら、もう一度辺りを見回した。
広い草原。生き物の気配のしない、見知らぬ場所。変わらない夜空。

「朝は来ない」

聞こえた声に、振り返る。

「――あぁ」

呻くような声が漏れた。声と同じく無表情に佇む親友の姿から目を逸らせない。
膝が震え、崩れ落ちる。喘ぐように浅い呼吸を繰り返し、ただ目の前の親友を見上げていた。

「朝は来ない。抱えたものが多すぎて、それが朝を遠ざける」

動けない自分を見下ろして、親友が指をさす。それを目線だけで追いかければ、月明かりに伸びた自分の影を見た。

「抱えた、もの……」

目を見張り、影を凝視する。自分の影でありながら、歪に膨れ蠢くその醜い形。
これが抱えたものだというのだろうか。無数の手が絡みつき、誰かの頭が聞こえない呪詛を叫び続けている。元の自分の形すら分からぬ程に膨れ上がってしまっている。

「置いていって。夜を超えるために、余計なものは切り捨てろ」

親友は告げる。
今もなお膨張し続ける影に近づき、膝をついて手を差し入れた。
ややあって引いた手に握られていたのは、どろどろとした黒い何か。影から取り出された瞬間に、歪な言葉を響かせる。
悲しみ比較して、罵倒する。最後にはお前が代わりになればと願われる。
永遠と続く呪いの言葉を、親友は表情一つ変えずに握り潰した。ぐちゃりと気持ちの悪い音を立て、辺りに静寂が取り戻される。
親友は何度も影に手を差し入れては、黒い何かを引き摺り出し握り潰すのを繰り返す。時折絡みつく黒い腕を引き出しては、腕を振り草原の向こうへ投げ捨てる。
呆然としている間に、自分の影は段々と元の形を取り戻していった。

「これでまた、走れる。夜を越えていける」

最後らしき黒い腕を引き抜いて、親友は呟いた。
こちらを振り返る親友と視線を交わす。無表情の目の奥にかつての穏やかさが見えて、手を強く握りしめた。
親友と目を合わせながら、ゆっくりと立ち上がる。軽くふらつくものの、倒れることはない。
影が元に戻ったからだろうか。体がとても軽く感じられた。

「――ありがとう」

言いたいことはたくさんある。けれど言葉にできたのは、たったそれだけだった。
親友は淡く微笑んだ。途端に込み上げる苦しさを誤魔化すように、周囲を見渡した。
思わず笑いが込み上げる。景色は変わっていないというのに、何故気づかなかったのだろう。

「そういえばここで、何度も星を見上げては夜空を旅するもしもの話を、二人でしていたっけ」

空を見上げれば、昔と変わらない無数の星々が煌めいていた。懐かしい思い出に浸りながら、行くべき場所に視線を巡らせる。
気づけば親友の姿はない。夜空の下、一人きり。
不思議と寂しいとは思わなかった。あるのは、たくさんの夢を語り信じていたあの頃の、星のように煌めく胸の高鳴りだけ。
一つ深呼吸をして、走り出す。いつまで走るのか、どこが終わりなのかは、やはり分からない。
終わりはないのかもしれない。思い出の夜空を越えて朝を迎えても、その先が続いている限り走り続けるのだろう。

白い月が照らす道を、無心で駆け抜けていく。
足はもう止まらない。立ち止まりたくなるような、体の重さはどこにもない。

「頑張って」

声が聞こえた気がした。
小さく笑みを浮かべ、答えの代わりに走る速度を上げ夜空の下を駆けていった。





駅のベンチに座って列車を待ちながら、震え続けるスマホに視線を落とし、眉を顰める。
着信とメールの多さに辟易する。溜息を吐いてスマホの電源を落とし、バックの中にねじ込んだ。
後で新しいものに買い替えよう。密かに決意して、遠くに見えた列車に気づき、立ち上がる。

どこに行くかは決めていない。けれど今なら、どこへだって行ける気がした。
ふと夜空を走る列車を親友と語り合ったことを思い出す。夜空を越えた先に何があるのかを想像し、二人で笑い合っていた。
ふっと笑みが溢れ落ちる。行き先を決めず終点まで向かう自分を親友が知れば、あの時のように想像を膨らませ笑ってくれるだろうか。そんなことを思いながら列車に乗り込んだ。
体が軽い。見知らぬ場所に行く不安はなく、あるのは煌めく期待だけ。

幼い頃のような無邪気さで、夜空を越えた先に見える景色を待ち望んでいた。



20251211 『夜空を越えて』

12/11/2025, 8:23:55 AM

手を繋ぐ。
触れた場所から伝わる熱が染み込んで、互いの輪郭を曖昧にさせていく。
暖かく、愛おしい。泣きたくなるほどの優しい思いに触れて、口元が綻んでいく。

「あったかい」
「うん。とっても暖かい……このまま眠ってしまいそう」

くすくす笑い合う。離れないように、どちらからともなく繋いだ手に力を込めた。

「一緒にいようね」
「一緒だよ。ずっと一緒」

顔を寄せて囁き合う。
小指を絡めるように、ずっと一緒の約束を歌うように繰り返した。





楽しそうに笑い合いながら、手を繋いで歩いていく親子の姿が見えた。
思わず目を逸らす。誰とも繋がれていない自分の手が視界に入り、無意識に唇を噛み締めた。
何度も繰り返し見る夢を思い出す。
誰かと手を繋いでいる夢。寂しさや悲しみを包み込んで、溶かしてくれるようなぬくもりを感じていた幼い頃の記憶。
けれどその誰かの姿を覚えてはいない。夢から覚めた瞬間に、誰かの輪郭が解けて消えていってしまう。
本当に自分の記憶なのか、それとも作り出した幻を記憶だと思い込んでいるだけなのか。

「ずっと、一緒」

手を握りしめる。呟く言葉はまるで呪いのようで、渇いた笑いが込み上げた。
所詮はただの夢。たとえ本当に幼い頃の記憶だとしても、手を繋いでいた誰かは今ここにはいない。
結局は一人が寂しいだけだ。暗い家を思い浮かべながら小さく息を吐き、歩き出した。





手を繋ぐ。
ただそれだけで、幸せに笑みが浮かぶ。
温もりが広がって、段々と意識が微睡んでいく。ふふ、と小さく笑い声を上げながら、手を繋いだまま擦り寄った。

「甘えたさん」

困ったな、と言いながらも、優しく頭を撫でてくれる。髪を梳く手つきすら心地よい。

「ねぇ、一緒にいてくれる?」
「一緒にいるよ。ずっと一緒」

視線を交わし、笑い合う。繋いだ手をきゅっと握れば、同じように握り返してくれるのが嬉しい。
暖かくて優しい、とても大切な人。側にいられるこの瞬間が何よりも幸せなのだと、穏やかな気持ちで目を閉じた。





かたかたと、風が窓を揺らす音で目が覚めた。
辺りは暗く、朝はまだ来ないのだと告げている。起き上がる気力もなく、嘆息して目を閉じた。
何も見えない暗闇で、聞こえるのは風の音。唸りをあげ外で暴れまわり、窓を叩きつけるような勢いで揺らしている。窓が割れるのではという不安が込み上げ、頭まで布団を被り小さく丸まりながら必死で目を瞑る。
一人きり。怖くても泣きたくても、側には誰もいてくれない。
唇を噛み締める。風の音から逃げ出すように耳を塞ぎ、さらに強く目を瞑った。

ふと、塞いだ耳の奥で、風とは違う何かを聞いた気がした。
手を離しかけ、けれども確かめることも恐ろしくなり、慌てて耳を塞ぎなおす。
ベッドが軋む。誰かの存在を感じて、ぎくりと体が強張った。
家には自分以外に誰もいないはずだ。それなのに今、誰かがベッドの端に座っている気配がする。
かたかたと、体が震えだす。確かめる勇気はない。
どうすればいいのか分からず硬直していれば、布団越しに誰かにそっと頭を撫でられた。

「――っ」

息を呑む。安心させるような、宥めるようなその手つきを知っていた。
戸惑い迷いながら、そっと片手だけ耳から離す。布団の中で彷徨う手を、入り込んできた誰かの手がそっと繋いだ。
暖かい。触れた部分からじわりと温もりが伝わって、恐怖や孤独が消えてなくなっていく。

「大丈夫」

穏やかな声が聞こえた。決して大きくはないはずなのに、風の音に搔き消されることなくはっきりと聞こえている声。その優しい響きに、いっそ泣き叫んでしまいたい衝動に駆られ、閉じた瞼の裏側でじわりと涙が滲み出した。

「もう怖くないよ。大丈夫」
「怖くはないけど、寂しいよ」

大丈夫だと囁く声に、寂しいのだと訴える。目を開けそろりと布団から顔を出せば、寄り添う誰かの影が、静かに笑っていた。

「寂しいの?」

問われて頷いた。顔が見たくて、手を繋いだまま起き上がる。
近くで見ても、辺りが暗いためかよく見えない。眉を寄せ顔を近づければ、くすくすと楽しそうな笑い声が響く。

「変な顔」
「だって見えないから」
「見たいの?」

小首を傾げ、繋いだ手を軽く揺すられる。揺れる手の動きに気を取られ、顔が見たいという気持ちが凪いでいく。
代わりに込み上げてきたのは、この手を離される時の悲しみ。また一人になる寂しさに、繋ぐ力が籠る。

「一緒だって、約束したのに」

噛み締めるように呟けば、揺れる手が止まり引き寄せられた。ぬくもりに包まれながら、優しく頭を撫でられる。

「一緒だよ。ずっと一緒」
「嘘つき。今まで何処にもいなかった」

囁く声に眉が寄る。言い返せば、撫でる手がさらに優しくなった。

「ここにいるよ。ちゃんといる」

優しさとぬくもり、柔らかな囁きに、次第に意識が微睡み始める。
風の音はもう気にならない。けれどぬくもりが離れていってしまうかもしれないことが、怖くて寂しい。
縋りつくように服を掴む。瞼が重くなり意識が沈んでいくのを、穏やかに見守る誰かの微笑みを感じていた。





次に目が覚めた時、側には誰の姿もなかった。
夢だったのだろうか。小さく溜息を吐きながら、起き上がる。
目覚めた瞬間から解けていく夢の内容を感じながら、いつものように身支度を整えていく。

いつもと違うことに気づいたのは、朝食を取るためにリビングに向かった時だった。
ふわりと甘い匂いが鼻腔を擽る。それに眉を寄せながら、ゆっくりとリビングの扉に手をかけた。

「おはよう。ちょうどよかった。ご飯できたよ」
「え……?」

扉を開けば、リビングには朝食の準備をしている女性がいた。パンケーキの乗った皿を手に、こちらを見て微笑む。
知らない女性だ。記憶にはないはずだというのに、ここにいることが当たり前のように感じてしまう。

「どうしたの?調子でも悪い?」

入口で立ち尽くす自分を心配して、皿を置いた女性が近づいてくる。額に手を当てられ、小さく肩が跳ねた。
暖かい。触れた部分から、ぬくもりが広がっていく。

「熱はないみたいだけど。夜中に起きちゃったから、寝不足なのかな」

額から離れた手が、頭を撫でる。その優しい手つきに、無意識に擦り寄っていた。

「お姉ちゃん」
「どうしたの?」

浮かぶ言葉を口にすれば、首を傾げて微笑まれる。
思い出した。何故忘れていたのだろう。
夢のせいだろうか。ぬくもりを宿した記憶が、頭の中でぐるぐると回っている。

「眠い。でもお腹すいた」
「じゃあ、食べられるだけ食べてから寝なさい。ほら、連れて行ってあげるから」

手を繋がれる。そのぬくもりを、目を細めて受け入れた。
夢と現実の堺がはっきりと別れていく。夢の中の一人だった記憶が薄れ、現実の姉と二人の記憶が輪郭を明瞭にし始める。
手を引かれて椅子に座りながら、おかしな夢を見たと一人笑った。

「どうしたの?急に笑って」
「変な夢を見た気がする。それもとっても長い夢」

忘れてしまったけれど。そう付け足せば、姉は楽しそうに笑った。

いつもと変わらない朝。優しい姉と二人きり。
夜のあの激しかった風も止んで、とても静かだ。
姉の声と、自分の声。それ以外には何も聞こえない。

「お姉ちゃん」

そっと手を伸ばす。その手を繋いで、姉は穏やかに微笑んだ。

「ずっと一緒?」
「そうだね。ずっと一緒」

繋いだ手から伝わるぬくもりが、全身に広がっていく。境界を溶かして、互いの輪郭を曖昧にしていく。
そんな錯覚を覚えながら、ただ笑う。

悲しみも寂しさもなくなって、幸せだと呟いた。



20251210 『ぬくもりの記憶』

12/10/2025, 3:57:38 AM

震える体を温めるように、腕を伸ばした。小さな背を包み込む。とくとくと聞こえる鼓動に柔らかな熱を感じ、笑みが浮かぶ。
まるで踊っているようだ。とくとく、とくとくと規則正しいその音を聞きながら、楽しげにステップを踏む姿を思い浮かべる。ふふ、と思わず漏れた声に、腕の中の温もりが小さく身じろいだ。
腕を伝う手の冷たさに、肩が跳ねる。腕から手首を辿り、そのまま手を繋がれた。

「冷たい」

囁きが、空気に溶けていく。手を包まれ、軽く擦られる。

「冷たいね」
「そっちこそ、冷たいよ」

冷たいけれど、暖かい。凍える指先が触れ合えば、そこから熱がじわりと広がっていく。
愛しいその熱に目を細め、ほぅと吐息を溢した。

「帰ろうか」
「もう少し、遊ぼうよ」

くすくすと、笑う声。甘えるその響きに、仕方がないと同じように微笑んだ。

「何して遊ぶ?」

問いかければ、煌めく目がふんわりと笑みを形どる。まるで宝石のように、その煌めきが増していく。
手を引かれ、促されるままに立ち上がった。そのまま外へと歩いていく。

「今度は外で遊ぼう?雪が降って、真っ白で、とっても綺麗なんだ!」

戸を開ければ、外は一面雪景色。
恐る恐る踏み出した足が、雪に跡を残していく。ぎゅっと、踏みしめる音が楽しくて、気づけば辺りを駆け回っていた。

「こっち!」
「待ってよ」

声を上げて、笑いながら雪を堪能する。時折雪を投げ合い、それもまた楽しくて夢中になってはしゃぎ回る。

温め合っていた熱がなくなり冷たさを感じられるようになった頃、ようやく遊ぶのを止めて雪の上に寝ころんだ。
どちらからともなく手を繋ぐ。お互いに冷え切った指先は、繋いでいるだけでは温まらない。

「帰ろうか」
「もう少し」

問いかける言葉に、けれども首を振られる。
そっと視線を向ける。先程まで煌めいていた瞳はどこか陰り、帰り道を見つめていた。
来ない迎えを待っている。冷えた指先を温め、優しく包み込んでくれる温もりを待ち続けている。
そっと視線を逸らし、目を伏せた。
何度伝えても伝わらない。耳を塞ぎ、目を閉じて、空っぽの部屋に帰るのを拒んでいる。
このままではいられない。けれどどうすればいいのか分からない。
唇を噛み締め、繋いだ手を強く握った。


不意に、遠くから誰かを呼ぶ声が聞こえた。

「呼んでるね」
「誰かを探しているのかな」

顔を見合わせ、目を瞬く。体を起こし、声が聞こえる方へと視線を向けた。

「あ……」

厚手のコートを着込み、手袋をマフラーを身に着けた小柄な影が近づいてくる。見慣れたその人影に息を呑んだ。
迎えに来るはずがない。彼女は寒いのがとても苦手で、最近はずっと部屋に閉じこもっていたのだから。
彼女の澄んだ目がこちらを見つめる。踏み出した足が雪を滑り、体制を崩しかけたのを見て、咄嗟に駆け出していた。

「大丈夫?気を付けて」
「今日はとっても寒いのに、どうしてこんな所まで来ちゃったの」

倒れてしまわないように、二人で左右から体を支えた。辛うじて尻もちをつかずに済んだ彼女は、何処か不満げに眉を寄せて口を開く。

「迎えに、来た、んでしょうがっ!全然、帰ってこないんだから……!」
「お迎え?」
「来て、くれたの?」

くしゅん、と小さなくしゃみを聞きながら、恐る恐る聞き返した。
迎えに来た。その言葉が、じわりじわりと全身に広がって、胸の奥が暖かくなってくる。
なんだか落ち着かない。同じようにそわそわとしている片割れと目が合い、赤くなりながら笑う。
お礼を言おうと顔を上げた瞬間、片割れと共に小脇に抱えあげられ慌てて身をよじった。

「こら、暴れるな。転んだらどうするの。このお馬鹿狸!」

文句を言われるものの、気にせず彼女の腕から抜け出した。片割れも抜け出し、彼女と手を繋ぐ。

「帰るなら、こっちの方がいいな」
「おてて繋いで一緒に帰りたいな」
「まったく……仕方ないな」

溜息を吐きながらも、手を振りほどく様子はない。それが嬉しくて、先程までの悲しい気持ちなど忘れて笑みが浮かんだ。

笑いながら、鼻歌交じりに三人で帰る。

「またお迎え来てくれる?」
「三人で一緒に帰ってくれる?」
「嫌だよ。寒いのは苦手だって、知ってるでしょ」

眉を寄せて彼女は首を振るものの、きっとまた迎えに来てくれるのだろう。
片割れと視線を交わし、くすくすと笑い合う。きゅっと手を握れば、手袋越しに暖かさを感じた。

「あぁ、そうだ。ちょっと離して」

握られるのは嫌だったのだろうか。繋いでいた手を離され、途端に胸が苦しくなる。
温もりを失って、手が冷える。縋るように見上げれば、彼女は手袋を外してポケットの中に入れた。
何をしているのだろう。彼女の行動の意味が分からずただ見つめていると、外した手を差し出し、もう一度手を繋いでくれた。

「冷たっ。こんなに冷えるまで遊んでないでよ。狸って、どうして、こう……!」

ぶつぶつと文句を言われるが、彼女は手を離さない。
凍えた指先が、彼女の手から伝わる熱でじんわりと暖かくなっていく。熱と共に彼女の優しさも伝わって、ふわふわとした気持ちで歩いていく。

「帰ろうか」
「帰ろうね」
「何言ってるの。帰ってるじゃない」

呆れた溜息を聞きながら、二人で笑い合う。
迎えは来ない。母がいなくなってから、迎えはないのだと思っていた。
けれど彼女が来てくれた。どこにも行けずに震えていた自分たちに手を差し伸べてくれた。
新しい家は空っぽなんかではない。大好きな彼女がいる、大切で温かな場所だ。
手を握る。握り返してくれる温もりに、指先だけでなく全身が温まっていく。

「ずっと一緒にいてね」
「手を繋いでいてね」

彼女は何も言わない。けれど繋いだ手は離れない。
きっとそれが、彼女なりの答えなのだろう。



20251209 『凍える指先』

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