スノードームの中で降る雪を見ながら、小さく溜息を吐いた。
窓の外を見る。青く晴れ渡る空のどこにも雪の気配はない。
逆さまにすれば、ドームの中で雪は繰り返し降り続ける。この家も逆さにすれば、雪は降ってくれるだろうか。そんなおかしなことを考えながら、スノードームを机に置いて、ベッドへと倒れ込んだ。
仰向けで見上げた窓の外。逆さまの空には、やはり雪の気配はなかった。
くすくす、笑う声が聞こえて目を開ける。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。微睡みから抜けきらない意識で窓を見れば、外はとっくに陽が落ちて暗くなってしまっていた。
「ゆ、き……?」
不意に白がちらついた気がして、目をこする。ベッドから起き上がり、ふらつきながらも窓へと近寄った。
「雪、だ……」
小さく息を呑み、窓を開ける。途端に吹き込む風が、部屋の中に雪を招き入れた。
そっと手を伸ばす。だがその手をすり抜けて、雪は部屋の中を自由に舞い出した。
笑い声が響く。歌うようないくつもの囁きが部屋を満たしていく。
気づけば雪は硝子のような透明な翅を持つ少女たちになり、楽し気に部屋の中で舞い踊っていた。
――いつまでここにいるのかしら。
軽やかな声が問う。
――あなたを繋ぎ留めるものなんて、もうどこにもないのに。
囁く声に俯きかけた顔を上げ、机の上に置かれたスノードームに視線を向ける。逆さにしてはいないのにドームの中で降り続ける雪を見ながら、強く手を握り締めた。
「でも、ここにいないと」
ドームの中では、家の前で笑顔を浮かべた子供が空に向けて両手を上げている。降る雪を喜ぶその子供の顔は、自分のものと瓜二つだ。
どこにも行けない。スノードームを見る度にそう思う。
この家で、雪を待つことしかできないのだと、強く感じている。
――壊してしまいなさい。
声は言う。無慈悲に、残酷な響き伴って囁きかける。
――それが足枷になるのなら、いっそ壊してしまえばいい。
首を振る。
壊したくはない。失うのが恐ろしい。最後に残されたものがなくなった後、もう一度歩き始めるのが怖くて堪らない。
だが声は、周りの雪たちは、壊せと告げる。雪の少女たちの一人が目の前でくるりと回り、こちらを見据えて口を開く。
――過去の夢に縋っても、何も戻っては来ない。そろそろ自由になるべきよ。
ひゅっと、喉が鳴った。
否定しようと開いた口からは掠れた吐息しか出ず、静かに項垂れる。
本当は理解しているのだ。過去に縋り、ここで雪を待っていても意味がないことを。
「自由に、なってもいいの?」
それでも臆病な自分は、立ち止まる言い訳を求めて視線を彷徨わせる。ぽつりと呟く声は、笑える程に震えていた。
――進みなさい。もう分かっているのでしょう。
迷いを断つような鋭い言葉。これ以上否定することはできないと、唇を噛み締めた。
ふらふらと机に歩み寄り、スノードームを手に取る。中の子供の笑顔を暫く見つめ、そっとドームを撫でた。
少女の一人がドームの上に降り立った。真っすぐな少女の目に何も言わずに頷いて、窓の側へと歩いていく。
深々と降る雪が、辺りを白に染めている。窓の外へとスノードームを持つ手を突き出し、小さく息を吸い込んだ。
「――さよなら」
手を離す。
かしゃん、と硝子が割れる儚い音を聞きながら、静かに目を閉じる。
笑い声が部屋に満ちていく。宥めるように背を、頭を撫でる手を感じる。
体が解けていく感覚。囁く声が近く、温もりが遠くなっていく。
――おかえり、頑張ったね。
いくつもの優しい声が聞こえた。吹き込む風に身を任せながら、そっと目を開ける。
そこはもう部屋の中ではなかった。
どこまでも広がる夜空。雪に囲まれながら、宙を漂っている。
抱きしめられ、頭を撫でられて笑みが浮かぶ。手を繋ぎ、風に乗って舞い踊りながら戻ってきたことを実感した。
「ただいま」
そう告げれば、口々におかえりなさいと声がかかる。それが嬉しくて、くるりと回り空を見上げた。
吹き上げる風に乗って高く舞う。
自由になれたのだ。どうせなら遠くへ行ってみたかった。
背中の翅を揺らし風に乗る。
ちらりと見下ろした大地には、煌めく灯りとたくさんの家。
自分がいた家がどれだったのか、もう分からない。
「お母さん」
久しぶりに戻って来た娘は、困ったように眉を寄せながら母を呼んだ。
「どうしたの?」
「部屋に置いてあったスノードーム知らない?」
「机の上に置いてあったんじゃないの?」
記憶を思い返しながら、母は言う。時折掃除には入っているものの、今はほとんど物置と化している部屋だ。朧げな記憶を辿るも細部までは覚えてはいない。
「机の上にも、どこにもないのよ……困ったな。今度の子供会のクリスマスパーティーで使いたかったのに」
溜息を吐きながら、娘は疲れたようにソファに座る。それをどこか呆れたように見ながら、母は問いかけた。
「出ていく時に持って行かなかったからそうなるのよ。そのスノードームじゃなきゃダメなの?」
「そういう訳じゃないよ。ただパーティーでプレゼント交換することになってるから、ちょうどいいかなって思ってただけ。ないんだったら、他にないか探してみる」
そう言いながらも動かない娘に、母はひっそりと溜息を吐いた。嫁ぎ家を出て何年も経つが、娘の性格は変わらないらしい。
スノードームは娘が子供の頃、今はなくなった商店街の雑貨屋で購入したものだった。これが欲しいと泣きながら訴えていたのを思い出す。
娘なりに大切にしていたものであったから、捨てるよりは顔見知りの誰かにあげる方がいいと思っていたのだろう。強がってはいるものの内心ではかなり落胆している娘に、母は苦笑して立ち上がる。
「探してあげるから、そんなに落ち込まないの」
「落ち込んでない。プレゼントを何にするか考えてるだけ」
「はいはい」
素直でない娘を置いて、母はかつての娘の部屋へと入る。ひっそりと静まり返った部屋は、娘が家を出てから急速に寂れてしまっていた。
「どこに行ったのかしらね」
机に視線を向けながら、母は目を細める。娘が子供の頃の懐かしい思い出が浮かび、そっと息を吐いた。
ふと窓の外に視線を向け、母は小さく声を上げた。
重く厚い雲に覆われた空から雪が降ってきている。
毎年見慣れているはずの光景。けれどもなぜか目が離せない。
ふわふわと風に乗り、雪が舞う。雲の薄い部分から差し込む光を反射して、美しく煌めいている。
まるでスノードームの中にいるかのように、それはとても幻想的な光景だった。
20251212 『スノー』
12/13/2025, 10:03:06 AM