ふっと吐息を溢せば、途端にそれは白い氷の結晶となって地に降り注ぐ。
「綺麗だね……」
惚けたような声に、肩が跳ねた。じわじわと熱が顔に集まって、堪らず彼に背を向ける。
恥ずかしい。今まで当たり前だと思っていた行為を褒められるなど、初めてだ。どう反応すればいいのか分からなくて、落ち着かない。
「ごめん。嫌だった?」
咄嗟に首を振る。
嫌ではない。それを伝えなければと思うのに、震える唇からは何も言葉が出てこない。
ほぅ、と溜息が溢れる。
「あ……」
いつもならばすぐに凍ってしまうだろう息は、けれども凍らずに空気を白く染めて消えていった。
まただ。
彼の側にいると、時々息が凍らないことがある。
彼の言葉一つで体中に不思議な熱が広がって、くらくらと目眩がしそうだ。
決して嫌ではない思いにもう一度凍らない吐息を溢し、目を細める。まるでただの人間になった気がして、緩みかけた口元を慌てて引き締めた。
勘違いをしてはいけない。触れたものをすべて凍らせるような化け物が、人間であるはずがないのだから。
「どうしたの?」
黙ったまま動かない私を心配して、側に来た彼に顔を覗き込まれた。
肩が跳ねる。近づく距離に、益々熱が上がっていく。
「な、なんでもないよ」
首を振るが彼は僅かに眉を寄せ、離れていく様子はない。
「そう?気分が悪いんだったら、無理はしないで」
「大丈夫。そっちこそ気を付けて。私と違って、あなたは寒さに強いわけではないんだから」
自分とは違うのだから。
そう心の中で繰り返す。浮ついた心を戒めるように、自分が今まで凍らせてきたものたちを思い浮かべた。
草花。動物。そして人間。
終わりに向かっていくそれらを引き留めようと、凍らせて時を止めた。
零れ落ちていく命を引き留めたかった。一人、置いていかれたくはなかった。
けれども一度止めた時を再び動かすことはできず、目覚めない眠りについた体だけが増えていくだけだった。
ただ一人、彼を除いて。
「最近は寒いとか、あんまり感じなくなってるけど……そうだね。気を付けるよ」
凍らせた時が再び動き出した、特別な彼。
今でも普通の人間よりも体温が低く、定期的に通院しなければならないらしい。それでも彼の鼓動は止まることなく、しっかりと時を刻んでいる。
「救ってもらった命なんだ。大切にする」
微笑む彼から視線を逸らす。
そっと胸に手を当てると、とくとくと鼓動が速くなっていくのを感じた。
化け物でも鼓動は刻めるらしい。思わず自嘲して、彼に背を向けた。
「気を付けて。今度凍ってしまったら、溶けても動けなくなるだろうし」
「帰るの?」
「うん。じゃあね」
これ以上は自分が惨めに感じられるだけだ。そう思い歩き出せば、しかし後ろから伸びた手に腕を掴まれ止められてしまう。
「待って」
ぐい、と腕を引かれ、彼へと倒れこむ。慌てて距離を取ろうとするものの彼の手は離れず、焦りだけが募っていく。
このままでは、彼がまた凍ってしまう。振りほどくためにその手を掴むのすら怖かった。
「ちょっと……っ!」
「大丈夫。凍らない」
彼に視線を向ければ穏やかな目に見据えられ、途端に動けなくなってしまう。
吐く息が白い。掴まれた場所からじんわりと熱が広がって、自分を化け物から人間へと戻してくれるような錯覚に息を呑む。
「少し前から思ってたんだけどさ」
真っすぐな目に絡めとられ、指先一つ動かせない。掴まれた腕を上げられ手を繋がれるのを、悲痛な思いで見つめていた。
触れてしまったなら、すべてが凍ってしまう。耐えきれずに目を閉じ、失われていくであろう熱を思って唇を嚙み締めた。
「凍らないよ。だからそんなに怖がらないで」
「――え?」
予想した結末とは違い、繋いだ手からは温もりが伝わってくる。大丈夫だと穏やかに告げられ恐る恐る目を開ければ、優しく笑う彼と目が合った。
「ほら、大丈夫だった……思ってたんだ。今の君なら、きっと何でも凍らせることはないって」
彼の声が、どこか遠い。目の前で起こっている奇跡に、思考が追い付かない。
何故、どうして。ぐるぐると回る疑問に、段々と視界が滲み出す。
「君も気づいていたんだよね?だから最近、手袋をしなくなった」
何も言えずに俯いた。
気づいていた訳ではない。ただの願望だった。
息が凍らないのなら直接触れ合えることができるのではと、甘い夢を見ていただけのこと。
「これは勝手な想像だけど」
優しい声に、鼓動が速くなる。つきりとした痛みを覚えて、さらに視界が滲んでいく。
瞬きをした弾みで溢れ落ちた涙は、けれど途中で凍ることなく地面に落ちていった。
「君自身が凍っているから、息も涙も、触れたものも凍るんだ。だからもっと、誰かと一緒にいた方がいい」
「誰かとって......誰と?」
そっと顔を上げる。滲んだ視界越しにも、彼が楽しそうに笑っているのが見えた。
「誰でもいいけど......例えば、俺なんかどう?自惚れだけど、俺と一緒にいることで息も涙も溶けてくんだって思ってるから」
その笑顔に息を呑んだ。
遅れてじわじわと、顔も繋いだ手も熱くなっていく。
自惚れなんかではない。彼だから熱が生まれて、体中に広がるのだ。
けれどもそれを言葉にはできず。ただ小さく頷くのが精一杯の答えだった。
体が熱い。彼も体温は低いはずなのに、繋いだ手から熱を感じて溶けてしまいそうだ。
間近で見る彼の笑顔に、鼓動が跳ねる。その激しさに息が苦しい。
「なら、まだ帰らないで一緒にいようか。このまま散歩するのもいいね」
頷いて、彼と共に歩き出す。
手は繋いだまま。吐き出す息は白く、拭った涙は凍ることはない。
歩きながら、彼を見る。繋いだ手を見て、そこから伝わる熱を感じてあぁ、と声を出さずに吐息を漏らした。
この熱の正体が何なのか。
ようやく分かった気がした。
20251207 『白い吐息』
目の前には、一面の白が広がっていた。
空は重く、厚い雲に覆われて、時間の感覚を曖昧にさせている。大地もまた厚い雪に覆われ、空と地平の堺すら分からない。
何もない。あるのは雪の白だけだ。
足を踏み出す度に雪に刻まれる足跡も、やがては消えてなくなるのだろう。
それでも足は止まらなかった。
行く理由はない。
けれども、戻る理由も見つからなかった。
しばらく歩みを進めていれば、遠くに白以外の何かが見えた。
殆どが雪に埋もれたそれは、どうやら道標のようだった。
近づいて、そっと雪を払ってみる。しかし文字は雪に削られ、読むことは叶わない。
道標が指し示すのは、二点。今まで歩いてきた方角と、これから進むべき方角。
自分が何処から来て、何処へ行くのかはやはり分からない。
誰が何のために立てたのか。立てた誰かは、この雪原の先に何があるのかを知っていたのか。
一人きり、進むことの意味を知っているだろうか。
一度だけ後ろを振り返り、消えていく自分の足跡を一瞥する。
道標へと視線を移し、そして指し示す先を見た。
ゆっくりと歩き出す。
この先に何があるのかは分からない。
けれどもやはり、今更戻る理由はなかった。
歩き続けて、また白以外の何かが落ちているのに気づく。
どうやらそれは、片方だけの赤い手袋のようだった。
手袋を前に、拾い上げるかどうかを悩む。
持ち主は、手袋を落としたことに気づいて戻ってくるだろうか。ここで自分が拾い上げてしまったら、戻って来た時にすれ違ってしまうかもしれない。
周囲をぐるりと見渡した。変わらず空は雲に覆われ、何処までも続く雪原の果てと境界を溶かしてしまっている。
辺りに人影はない。持ち主は落としたことにも気づかず、先へと進んで行ったのだろう。
あるいは、わざと落としていったのか。自身の存在を残すために。
ふっ、と息を吐く。
手袋はそのままに、前を向いて歩き出す。
進まなければいけない。
何故か、そう思った。
いくら進めど、雪原の光景は変わらない。
変わるとするならば、時折誰かが遺していったものが雪の白に色を添えているくらいだ。
人やものの影はなく、自分の吐息や雪を踏みしめる足音以外には何の音も聞こえない。
とても静かだ。世界に一人だけ取り残されてしまったかのよう。
また一つ、前方に誰かが遺した何かが落ちていた。
近づいて、殆ど雪に埋もれたそれを掘り起こす。現れた青い毛糸で編まれたマフラーを認め、小さく息を呑んだ。
見覚えのあるそれが、誰のものだったかを覚えてはいない。けれども、とても大切にしていたことを覚えている。
「どうして......?」
問いかけても、答える声はない。
所々ほつれた、手編みと分かるマフラーに触れても何も分からない。
置いて行ってしまった。事実が胸を苦しめる。
置いていくべきなのだろう。持ち主が置いて行ったものを、拾い上げる意味はないはずだ。
そう思うものの、マフラーを手放すことができない。
前を見て、マフラーを見る。胸に抱えたまま、静かに歩き出した。
行かなければならない。
追いかけて、伝えなければ。
ただそれだけを思い、進む足を速めていった。
「あれは......」
向かう先に微かに見えたものに、思わず足を止める。
足跡だ。雪に消されていない足跡が、雪原の先へと続いている。
人影は見えない。けれども確かに、ここに誰かがいたのだろう。
振り返らず、足跡は真っすぐに続いている。
今ならば、間に合うはずだ。手にしたマフラーを抱きしめ、足跡の先を見つめる。
一呼吸おいて、駆け出した。
どれほど走り続けたのだろう。
不思議と疲れは感じなかった。ただ変わらない景色に、見えない人影に焦りにも似た感情が沸き上がる。
ふと遥か遠く、ほんの僅かに光が見えた。雪の白とはまた違う光に、走る速度を上げる。
「っ、待って......!」
光は小さく、まだ遠い。それでも光に向けて、必死に手を伸ばす。
行かなければ。引き留めなければ。
溢れる感情に翻弄されながらも、足を止めることはない。
ただ只管に光に向かい、雪原の先へ行くため走り続けた。
光が近づく。その先に誰かの背が見える。
「行かないでっ!」
誰かの背に向かい、手を伸ばす。
その手が肩に届く、その瞬間。
真っ白に染まる視界の中、誰かが振り向いた。
そんな気がした。
ばさり。落ちた何かが立てた音に、はっとして顔を上げた。
見慣れた自分の部屋。机の上に置かれたアラームの時計が、午後の三時を告げている。
「夢……?」
眉を寄せながら、窓の外を見た。
どんよりと厚い雲に覆われた空。ちらちらと白い雪が舞っている。
落ちた本を拾い、机の上に置きながら記憶を巡らせる。
夢を見ていたのだろうか。当てもなく歩き続けていた夢だったようにも思う。
何故だか心が落ち着かない。どこか浮ついた足取りで窓に近づき、外を眺める。
雪の白に染まり始めた外はとても静かだ。時折過ぎていく人々はどこか俯きがちで、足を止め周りを見るような余裕はなさそうだ。
心がざわつく。行かなければという思いに急き立てられるように、部屋を飛び出した。
コートとマフラーを身に着け、スマホと財布、家の鍵だけを持って家を出る。
行く当てはない。ただ、会いたい人はいた。けれど、会うのはとても怖かった。
迷うように首に巻いたマフラーを握り締める。二年前にもらった手編みのマフラーは、使っているうちにすっかりくたびれてしまった。それでも感じる温もりは、もらった時から何一つ変わらない。
マフラーに顔を埋めて、深呼吸をする。急いた心が静まって、会いたい気持ちだけが膨らんでいく。
会いに行こう。怖いからと、会いに行かずに後悔するのは嫌だから。
ゆっくりと足を踏み出した。体が軽く、次第に足が速くなっていく。
「会いたい」
思いを声に出せば、雪のように白く染まる。焦れて駆け出せば、迷いも怖さも消えていくような気がした。
少しでも早く会いたくて、息が切れるのも構わずに雪の降る道を駆け抜けていく。息苦しさとは裏腹に、口元には笑みが浮かぶ。
何を話そうか。浮つく気持ちのままに見る景色は、まるで雪原のようにどこまでも白く染まっていた。
20251208 『雪原の先へ』
その屋敷の灯りは絶えないのだという。
電気が通っている様子はない。だが玄関先の提灯の灯りや、障子越しに見える灯りは、ゆらゆらと影を揺らめかしている。
不思議なことに、灯りが揺らめく屋敷の中に人の気配はなかった。
人の話し声も、物音もない。時折微かに、蝋燭の芯が燃える音がするだけだった。
薄暗い座敷で、少女は目を覚ました。
微睡みから抜けきらない意識で体を起こす。視線を巡らせれば、座敷の隅に置かれた行燈の灯りが目についた。
ふらつきながらも立ち上がり、行燈の元へと歩み寄る。中を覗けば、橙色の焔がゆらゆらと揺らめいていた。
暫し焔の揺らめきを見ていた少女だが、ふとその異様さに気づき僅かに目を細めた。
行燈の中には焔だけが浮かんでいる。蝋燭も油もなく、それでも絶えることのない焔が行燈の中を漂っていた。
焔の異様さを見ても、少女に怯えた様子はない。それどころか、そっと行燈の中に手を差し入れ、焔を掬い上げた。
少女の手の中で焔が揺れる。まるで行き先を示すかのように、一点に向け火の粉を散らしていく。
「――いかないと」
散る火の粉の先を見て、少女は呟いた。ゆっくりと足を踏み出し、座敷の外へと向かっていく。
座敷の外に出れば、薄暗い廊下が続いていた。
見える範囲に人影はなく、また物音一つ聞こえない。立ち止まる少女を急き立てるように焔が揺らぎ、火の粉を散らした。
そろりと足を踏み出せば、ぎぃ、と床板が音を立てる。小さく肩を震わせた少女は、しかし足を止めることはなかった。
焔の導くまま、少女は廊下を進んでいく。そしてある部屋の前までくると、焔は部屋を示すように火の粉を障子戸へと散らした。
足を止めた少女は、そっと戸に手をかける。一瞬の躊躇の後、静かに戸を開いた。
そこは、少女が目覚めた場所に似た、それでいてとても広い座敷だった。そっと足を踏み入れ、暗い座敷に視線を巡らせる。部屋の隅に置かれた行燈を認め、少女の目が細まる。灯りの絶えた行燈に近づき、中を覗き込んだ。
そこには白い蝋燭が一つ。火を待つ蝋燭に、少女は手の中の焔を近づけた。
焔が爆ぜて蝋燭へと飛び、火が灯る。僅かに明るくなった座敷に、改めて少女は視線を巡らせる。部屋の四方、薄暗がりの中に、同じように灯りの消えた行燈を認めた。
行燈に火を灯そうと、踏み出しかけた足が止まる。少女の視線は座敷の中心に向けられたまま、動かない。
何もないそこに、染みのような影がじわりと浮かぶ。
瞬きの間に広がり、朧気だった影は次第に輪郭を濃くし、二つの影を形作る。
長い髪の女らしき大人の影と、幼い子供の影。
女の影が腕を広げれば、幼子の影はその胸に迷いなく飛び込んだ。
抱き合う影は親子のものだろうか。甘えるように擦り寄る幼子の影の頭を。女に影が撫でている。
気づけば人影が増えている。女の影の肩へ手を置いた男らしき影と、幼子の側で恐る恐る手を伸ばす幼子よりも大きな影。
家族の幸せな一時を再現したかのような、人影の動き。やがてそれは霞み消えて、座敷には少女のみが残された。
少女は三方の行燈へと視線を向ける。
行燈に火を灯す。それが役目だと言わんばかりに、少女は迷いなく残る行燈へと歩み寄った。
暗い行燈の中を覗く。白い蝋燭を認めて、手の中の焔を近づけた。
先ほどと同じように、爆ぜた焔が蝋燭の芯に飛び、火が点いた。座敷の中心に視線を向ければ、再び人影が浮かび出す。
二つの影。だが先ほどとは様相が異なっていた。
一方がもう一方に馬乗りになり、何度も手を上げている。別の何人かの影が浮かび、馬乗りになる影を引き剥がしたが、影は藻掻き暴れている。少しでも拘束が緩めば、もう一方の影へと何度も向かって行こうとする。
随分と荒々しい。感情を剥き出しにする影とは異なり、襲われていた影はぐったりと横になったままだ。
怪我で動けなくなっているというよりは、何もかもを諦めている感じを受ける。抵抗も反論もすべて意味はなく、受け入れることが唯一許されているかのように。
正反対の感情を宿した影も、次第に薄れ消えていく。
明るさを増した座敷を無言で見つめ、少女は残る灯りの絶えた行燈へと向かい足を踏み出した。
先二つの行燈と同じく、中の白い蝋燭へと火を近づける。爆ぜた焔が蝋燭に火を灯し、ややあって座敷の中心で影が浮かび上がる。
今度は複数の影が形作られた。何かを囲うようにして座っている。
不意に別の影が現れ、ふらふらと影らが囲う何かの元へと近づいていく。その影に気づき、左右に割れる影らの間から見えたのは、横たわったまま微動だにしない影だった。
側まで近づくと、影は静かに崩れ落ちた。震える手を伸ばし、動かない影の頬に触れる。
頬を撫で、力なく手が滑り落ちる。項垂れる影の背を、別の影が軽く叩く。
首を振り、動かない影の姿が消えていく。他の影も消え、少女は静かに立ち上がった。
行燈に灯りを灯す度、浮かぶ影の異様さを少女は怖れてはいない。だが影が浮かぶ度に、どこか虚ろな瞳の奥で、感情が灯り始めていた。
灯りの消えた行燈は、あと一つ。向かう足取りに。迷いは見られなかった。
最後の行燈に火が灯る。だがしかし、しばらく待てども、影が浮かぶ様子はなかった。
目を瞬く。手の中の焔を見つめ、行燈を、座敷の中心を見つめる。
眉を寄せ思案する少女はもう一度焔を見つめると、火の点いた蝋燭に近づけ、手を傾けた。
焔が蝋燭に落ち、刹那、激しく燃え上がる。座敷が一瞬で明るさを増し、中心に小さな影を浮かばせた。
色を濃くした影は、ただ少女を見つめている。少女もまた影を見つめ、ゆっくりを歩み寄る。
手を伸ばせば触れ合える程の距離で立ち止まる。無言で見つめ合いながら、どちらからともなく手を差し出した。
手を繋ぐ。きゅっと握り締めれば、影は解けるように薄くなっていく。代わりに座敷に響いたのは、子供の笑い声だった。
きゃらきゃらと、二人分の声が笑う。辺りを駆け回り、遊んでいる。
やがて駆け去るように声が遠くに消えていき、影も消え、座敷には少女が一人きり。
ふと、影と繋いでいた手を開くと、そこには小さな橙色の袋があった。
暖かな袋。握り締めれば、じわりと誰かの想いが体に染み込んでいく。
――かえってきてくれますように。
切ない程真っ直ぐなそれは、祈りの声だ。
少女の虚ろな瞳に光が灯り、人形のように表情の抜け落ちた顔が、泣くように歪んだ。
忘れていたものを取り戻したかのように、新しく生まれるように。
絶望の中に微かな希望を見たような、そんな表情だった。
「いかないと」
呟いて、歩き出す。
障子戸を開ければ、その先は薄暗い廊下ではなく外に繋がっていた。
石畳の道を、左右の灯籠が照らしている。遠くから、太鼓と笛の音が響いてくる。
少女は迷わずに足を踏み出した。
音のする道の奥へと向かい、歩いていく。
振り返らず、前だけを見て歩く少女の背後で、音もなく障子戸が閉じた。揺れる灯りに誰かの影が浮かび、消えていく。
灯りが揺らぐように閉じた障子戸が揺らぎ、少女の姿が道の奥へと消えて行くのと同時に消えていった。
その屋敷の灯りは絶えないのだという。
誰かがいる気配はない。音もまた聞こえない。
だが屋敷は時折、外から人を招き入れ、部屋に火を灯させることがあるらしい。
その灯りは誰かの想い。誰かに向けられた切なる祈り。
行くべき場所を忘れて漂う魂を引き留め、あるいは送り出すための導《しるべ》。
誰かを想う祈りがある限り、迷う魂がある限り、その屋敷は存在する。
屋敷の灯りは、今も消えることはない。
20251206 『消えない灯り』
きらきらと、煌めく街並みを見下ろしながら、手にした缶コーヒーに口をつける。
「苦っ……」
缶に視線を向ければ、無糖の文字。あまり深く考えずに買ってしまったことを少しばかり後悔する。
今日は朝からついていない。朝食の少し焦げたパン。目の前で赤に切り替わる信号。無糖の缶コーヒー。
そして、待ちぼうけ。
小さく溜息を吐く。街の灯りはこんなにも煌びやかだというのに、気分は重く沈んでいる。
連絡はない。自分から連絡してみるべきかとも思うが、何となくそれも億劫だった。
「まぁ、イルミネーションは綺麗だしな」
自身に言い聞かせるように呟いて、街の灯りを見下ろした。
「お兄さん」
声をかけられて、肩が揺れる。
気づけば、街の灯りは暗く沈んでいる。停電ではない。灯りが点いていても、妙に暗いのだ。
「お兄さん」
もう一度呼ばれ、ゆっくりと振り返った。
そこには、兎のぬいぐるみを抱きかかえた少女が立っていた。
少女以外の人影はない。この高台の付近には民家もなく、幼さの残る少女が一人きりでいることに眉を寄せた。
「あのさ……」
「お兄さんは、迷子なの?」
言葉を遮るように問われ、目を瞬く。
迷子。一呼吸遅れてその意味を理解し、小さく溜息を吐いた。
「迷子じゃない。待ち合わせをしてんの」
「ここで?」
小首を傾げ、少女は目を瞬く。心底不思議そうな表情に、じわりと不安が込み上げてくるのを感じた。
思わず少女から視線を逸らし、街の灯りを見下ろした。
少し前まで煌めいていたはずの街並みの陰りに、今更ながらに異様さを感じ始めた。
もう一度、少女に視線を向ける。ぬいぐるみの無機質な目が揺らいだように見えて、口元が引き攣った。
「あの、さ。もしかして、ここって……」
予想が外れてほしいと願いながら、それが正しいのだと理解し始めている。それでもほんの僅かな希望に縋り少女に問いかければ、腕の中のぬいぐるみの頭が肯定するように傾いだ。
「裏側の世界だよ」
裏側とはつまり、人ならざるモノの領域のことだろう。
肩を落とし、項垂れる。またか、と心の中で呟いて、溜息を吐いた。
「お兄さん。何度かこっちに来てるでしょ?さっきも、ずっとぼんやりしてたものね」
少女の声に憐みが混じっているような気がして居たたまれない。
確かに少女の言う通り、気づけばこうして不思議な世界に足を踏み入れていることがあった。何度も経験している内に、最初の頃のように取り乱すこともなくなった。
嫌な慣れ方に危機感を覚え、次こそはと気を張るものの、今のところ効果はない。自分でも気づかない間に起こる現象に、最早諦めてしまった方がいいのではとも思い始めている。
「お兄さん」
少女が呼ぶ。それに何も言わずに視線だけを向ければ、少女はぬいぐるみの手を持ち軽く手招いた。
「元に戻るならこっち。着いてきて」
そう言われ、おとなしく少女の後に続いて歩き出す。
木々の間を抜け、小さな鳥居の前で足を止めた。
「この先が、表側に通じているよ。次からは気をつけてね」
「あ、はい……」
頷きはするものの、それは無理な話だろうと内心で諦めている。何をしても無駄だった過去が、気をつけるという行為すら億劫にさせていた。
「優しすぎるのは、あんまり良くないんだよ」
「え?」
「優しいと、縋りたくなるの。だから手を引かれて迷子になっちゃうから、気をつけて」
言っている意味が、よく分からない。
誰かに優しくした記憶はなく、手を引かれた覚えもなかった。
「待ち合わせをしながら、ずっと心のどこかで考えていたでしょう?例えば、焦げたパンも美味しかった。信号が赤になったから、少し落ち着くことができた。苦いコーヒーは大人になった気分にさせてくれた」
一つ一つあげられていく出来事に、頬が熱を持ち出した。
誰にも言っていなかった。そもそもさっき出会ったばかりの少女には分かりようのないことだ。それなのに、と羞恥に叫びたくなる気持ちを、必死に堪える。
「今も恐いって思うより、恥ずかしいって感じてる。悪戯する側としては張り合いがなくてつまらないけど、全部受け止める優しさは、皆大好きなんだよ」
「えっと、それって……」
「ほら、早く行って。これ以上変なことを考えないで」
少女が鳥居へ指を差せば、風が強く背を押した。その強さに耐えられず、転がるようにして体が鳥居を潜りぬけた。
「裏側でも、煌めく街並みが見れたらいいなんて、変なこと考えてないで。私たちには、あれくらいが丁度良いの。それに見たくなったら見にいけるんだから」
呆れた声がして、風が自分の周りで渦を巻き始めた。
くすくすと、複数の笑い声。風に翻弄されながらも、少女の方へと振り返り――。
「おまたせっ!」
聞こえた待ち人の声に、世界がぐるりと回った気がした。
「ちょっと、大丈夫?」
いつの間にか閉じていた目を開ける。
視界に広がるのは、きらきらと煌めく街の灯り。
振り返れば、待ち人が心配そうに眉を寄せていた。
「体調悪いの?なら、今日はもう帰ろうか」
「あ、いや。別に悪くはないけど」
悪くはないはずだ。不思議に思いながら、何気なく手元に視線を落とす。
「あれ?」
「どうしたの?」
何も言えずに首を振る。
暖かな缶コーヒー。けれども口をつけたはずの缶は、まだ未開封だった。印字されていた無糖の文字も、どこにも見えない。
ふと、缶を持つ手に冷たい白が降りた。忽ちに溶けてしまった白に驚き、空を見上げる。
「あ、雪」
「本当だ。道理で寒いわけだね」
次々と振る雪を追って視線を下げる。煌めく街に白が舞い、幻想的な光景を作り出していた。
風に乗って、微かに笑い声がした。鈴の音と共に歌声が聞こえてくる。
「何か面白いことあった?」
「え、なんで?」
「だって笑ってるよ」
指摘されて自分が笑っていたことに気づく。
「冬だから、かな?」
呟いて、手の中の缶コーヒーの蓋を開けた。
一口飲めば、ミルクが多めの甘いコーヒーの味の喉を通り過ぎる。ほぅ、と息を吐いて、煌めく街並みを見下ろした。
「意味分かんない」
「うん。俺も分かんない」
そう言って笑う。
甘いコーヒーに、煌びやかな街の灯り。そして深々と降る雪。
今日はとても良い日だったと、どこか浮かれた気持ちでそう思った。
20251205 『きらめく街並み』
「あれ……?」
ポストに入っていた白い封筒を取り出し、首を傾げた。
切手を貼っておらず、直接投函されたことが分かる封筒。裏を見ても何も書かれてはいない。
ただ自分の名前だけが書いてある封筒に、どうするべきかを悩む。
知り合いに、手紙を出すような人はいない。抜け落ちた記憶の中にはいたのかもしれないが、今の自分の居場所を知っているとは思えない。
見ない振りをするべきだろうか。けれど中に入っているものが気になった。
光に翳せば、便箋が入っているのが見える。厚さからして一枚だけだろう。何が書かれているのか、誰が書いたのかが、気になって仕方がなかった。
そっと封を破り、中の便箋を取り出す。
震える指で、便箋を開いた。
「――あれ?」
目を瞬く。
便箋には何も書かれてはいなかった。
裏を返しても変わりはない。
「いたずら?」
拍子抜けして、肩を落とした。
一呼吸遅れて、落胆している自分に驚く。
そんなに楽しみだっただろうか。覚えている記憶の中では、手紙を貰った記憶は殆どない。その僅かに貰った手紙を喜ぶ気持ちもなかったはずだ。
眉を寄せて便箋を見る。途端に浮かぶ悲しい感情に、そっと息を吐いた。
おそらく忘れてしまった昔の自分には、手紙のやり取りをする、大切な相手がいたのだろう。
「誰だったんだろう」
手紙を見ながら考えるが、影すら浮かばない誰か。
気づけば失っていた記憶を惜しんでも、やはり何も思い出すことはなかった。
もう三年も前になるだろうか。
目が覚めると見知らぬベッドで寝かされていた。
話を聞いた所によると、近くの雑木林の中で倒れていたらしい。
大きな怪我をしている訳ではない。病気という訳でもない。
しかし目が覚めた時、自分が誰なのか、住んでいる場所も名前すらも何一つ覚えていなかった。
保護してくれた人の好意で、新しく生きていくことはできている。最近では、過去の記憶のことを苦しく思うこともなくなっていたはずだった。
「手紙……」
便箋を折りたたみ、丁寧に封筒にしまう。何も書かれてはいないが、雑に扱うのは気が引けた。
封筒に書かれた自分の名前を一撫でして考える。
この手紙は、誰が何のためにポストに入れたのだろうか。
もう一度封筒を見つめる。開いた封から中を覗き、そこで便箋とは違うものが入っていることに気づいた。
封筒を逆さにし、手のひらにそれを落とす。鮮やかな紫色を湛えたそれは、とても小さな藤の花びらだった。
季節外れのその花を見て、眉を寄せる。忘れている何かを思い出させるような、瑞々しい紫。
耳の奥で、誰かの囁く声がする。
――ずっと、ともだちでいよう。
無邪気な子供の声と共に、鮮やかな緑が浮かぶ。
森の中。二人だけの秘密の空間。お互いに手渡す、秘密の手紙。
「っ、行かないと」
気づけば、鞄を掴んで走り出していた。
浮かんだ場所がどこなのか、聞こえた声は誰のものなのかも分からない。それでも足は迷うことはなく、駅に向かって走っている。
戸惑いはするが、恐怖はない。
会いたいという衝動にも似た気持ちで、電車へと駆け込んだ。
「ここ……?」
葉の落ちた木々を見渡して、眉を寄せる。
見覚えのあるものは、何もない。懐かしいとも感じない、知らない場所。
鞄から封筒を取り出す。中から便箋を取り出すも、変わらず真白いままで何も書かれてはいない。
藤の花びらも、いつの間にかなくなってしまっていた。
「あんた、こんなとこで何してんだ」
途方に暮れていれば、声をかけられた。低い声に、びくりと肩が揺れる。
振り返り、見知らぬ男の姿を認めてさらに困惑する。無意識に手に力が入り、くしゃりと便箋に皺が寄った。
「あ、えっと……」
「手紙?」
目の前の男が、手の中の手紙を見て僅かに眉を寄せた。その視線に落ち着かなくなり、視線を彷徨わせながら口を開く。
「今朝、ポストに入っていて……何も書かれていなかったんですけど、代わりに藤の花びらが入ってて。それで、その……どうしてか、ここに来なきゃいけない気がして……」
しどろもどろに説明する自分を一瞥し、男はある一本の木へと近づいていく。
木の種類は分からない。しかし他よりも、一回りほど太くしっかりとしている木だった。
その根元に手を差し入れ、男は古ぼけた箱を取り出した。こちらを向いて、ゆっくりと箱を開けていく。
「あ……」
中に入っていたのは、色鮮やかな藤の蒔絵が施された手鏡と、数枚の便箋。
「子供の頃、友人とやりとりをした手紙だ。だが友人の存在を誰もが忘れちまった。俺も友人の顔を覚えてないし、手紙もこの通りただの白紙になった……本当にいたかどうかも、今では分からない」
目を細めて男は便箋に触れ、手鏡の藤を指先でなぞる。
「この鏡は、母の形見だ。これ以上なくしたくなくて、こうして鏡と手紙を一緒にしている」
そして男は視線をあげ、こちらを見つめた。
その目の強さに息を呑む。記憶にはないその真っ直ぐな目を、知っている気がした。
「あんた、名前は?」
静かに問われ、唇が震える。
自分の名前が出てこない。答えを求めて便箋と一緒に握り締めた封筒に視線を向けるも、そこには何も書かれてはいなかった。
本当の名前ではないからだ。何故かそう思い、力が抜けてその場に崩れ落ちた。
「私、私は……」
俯いて頭を振り、必死に記憶を手繰り寄せる。
何も思い出せない。そのことが苦しくて堪らない。
救いを求めるように、ゆっくりと顔を上げて男を見つめた。
「私は、誰なのでしょうか?」
声は掠れて、すぐに消えていく。
だが男には伝わったようだ。目の前まで歩み寄り、膝をついた。
「分からないなら、見てみればいい」
箱から取り出した手鏡を手渡され、促されるままに鏡を見る。
鏡に映っているのは、今の自分の姿。けれどそれに重なるように、子供の姿が浮かび上がった。
笑みを浮かべた子供は、胸に白い手紙を抱いている。大切な手紙なのだと、その表情が語っている。
――ずっと、ともだちでいよう。
見えなくても何が書かれているのかが分かり、胸が苦しくなった。
覚えている。なくしたと思っていた記憶が告げる。
手紙を書いたのだ。二人だけの秘密の手紙を書いて、交換した。
ずっと一緒だと。友達でいようと、確かに書いたのだ。
「今も……」
声が震える。視界が滲み、胸が、息が苦しくなっていく。
目の前の男は――友人は何も言わない。続く言葉を待っている。
「今も、友達だと……思ってもいいですか?」
ぱりん、と。
小さな音を立て、鏡が割れた。
「俺たちは友達だ。今までも、これから先も」
願うように問いかけた言葉に、友人は真っ直ぐに答えを返す。強く抱き締められて、耐えきれなかった嗚咽が溢れ落ちた。
「ごめん。本当にごめんな」
只管に謝り続ける友人の肩が濡れていく。
謝らないでほしいと思うのに、言葉が出てこない。
「おかえり。戻ってきてくれてありがとう」
優しく背を撫でられて、さらに涙が込み上げる。声を上げて泣けば、手が宥めるように背を叩く。
まるで生まれたばかりの赤ん坊になったようだ。
しゃくり上げながら顔を上げ、震える唇を必死に動かす。
「ただ、いまぁ……っ!」
言葉を返せば、友人の呼吸が乱れた。
背を叩く手が止まり、縋り付くように抱き締められる。抱き返すようにその背に手を回せば、友人もまた声を上げて泣き出した。
涙が、声が枯れるまで只管に泣き続ける。
何も書かれていない手紙が、手から離れても気にしてはいられなかった。
その手紙に。箱の中の手紙に。
じわりと文字が浮かび上がる。子供の頃に渡した手紙に戻っていく。
そのことに気づいたのは、お互い目を赤く腫らして笑い合った夕暮れのことだった。
20251204 『秘密の手紙』
さく、さく、さくり。
音を立てて霜柱を踏みつけ遊ぶ弟を見ながら、そっと手に息を吹きかけた。
冷たい木枯らしが吹き抜け、体を震わせる。少し前までの暖かさなど欠片も抱かない風と遠い陽に、眉を下げ空を見上げた。
さく。さくり。
小さな足音。落ち葉の道を歩いた時のような、けれども少し違う音に季節が過ぎていることを感じる。
秋は過ぎてしまった。今、ここに在るのは冬なのだと、風や大地が教えてくれていた。