「あれ……?」
ポストに入っていた白い封筒を取り出し、首を傾げた。
切手を貼っておらず、直接投函されたことが分かる封筒。裏を見ても何も書かれてはいない。
ただ自分の名前だけが書いてある封筒に、どうするべきかを悩む。
知り合いに、手紙を出すような人はいない。抜け落ちた記憶の中にはいたのかもしれないが、今の自分の居場所を知っているとは思えない。
見ない振りをするべきだろうか。けれど中に入っているものが気になった。
光に翳せば、便箋が入っているのが見える。厚さからして一枚だけだろう。何が書かれているのか、誰が書いたのかが、気になって仕方がなかった。
そっと封を破り、中の便箋を取り出す。
震える指で、便箋を開いた。
「――あれ?」
目を瞬く。
便箋には何も書かれてはいなかった。
裏を返しても変わりはない。
「いたずら?」
拍子抜けして、肩を落とした。
一呼吸遅れて、落胆している自分に驚く。
そんなに楽しみだっただろうか。覚えている記憶の中では、手紙を貰った記憶は殆どない。その僅かに貰った手紙を喜ぶ気持ちもなかったはずだ。
眉を寄せて便箋を見る。途端に浮かぶ悲しい感情に、そっと息を吐いた。
おそらく忘れてしまった昔の自分には、手紙のやり取りをする、大切な相手がいたのだろう。
「誰だったんだろう」
手紙を見ながら考えるが、影すら浮かばない誰か。
気づけば失っていた記憶を惜しんでも、やはり何も思い出すことはなかった。
もう三年も前になるだろうか。
目が覚めると見知らぬベッドで寝かされていた。
話を聞いた所によると、近くの雑木林の中で倒れていたらしい。
大きな怪我をしている訳ではない。病気という訳でもない。
しかし目が覚めた時、自分が誰なのか、住んでいる場所も名前すらも何一つ覚えていなかった。
保護してくれた人の好意で、新しく生きていくことはできている。最近では、過去の記憶のことを苦しく思うこともなくなっていたはずだった。
「手紙……」
便箋を折りたたみ、丁寧に封筒にしまう。何も書かれてはいないが、雑に扱うのは気が引けた。
封筒に書かれた自分の名前を一撫でして考える。
この手紙は、誰が何のためにポストに入れたのだろうか。
もう一度封筒を見つめる。開いた封から中を覗き、そこで便箋とは違うものが入っていることに気づいた。
封筒を逆さにし、手のひらにそれを落とす。鮮やかな紫色を湛えたそれは、とても小さな藤の花びらだった。
季節外れのその花を見て、眉を寄せる。忘れている何かを思い出させるような、瑞々しい紫。
耳の奥で、誰かの囁く声がする。
――ずっと、ともだちでいよう。
無邪気な子供の声と共に、鮮やかな緑が浮かぶ。
森の中。二人だけの秘密の空間。お互いに手渡す、秘密の手紙。
「っ、行かないと」
気づけば、鞄を掴んで走り出していた。
浮かんだ場所がどこなのか、聞こえた声は誰のものなのかも分からない。それでも足は迷うことはなく、駅に向かって走っている。
戸惑いはするが、恐怖はない。
会いたいという衝動にも似た気持ちで、電車へと駆け込んだ。
「ここ……?」
葉の落ちた木々を見渡して、眉を寄せる。
見覚えのあるものは、何もない。懐かしいとも感じない、知らない場所。
鞄から封筒を取り出す。中から便箋を取り出すも、変わらず真白いままで何も書かれてはいない。
藤の花びらも、いつの間にかなくなってしまっていた。
「あんた、こんなとこで何してんだ」
途方に暮れていれば、声をかけられた。低い声に、びくりと肩が揺れる。
振り返り、見知らぬ男の姿を認めてさらに困惑する。無意識に手に力が入り、くしゃりと便箋に皺が寄った。
「あ、えっと……」
「手紙?」
目の前の男が、手の中の手紙を見て僅かに眉を寄せた。その視線に落ち着かなくなり、視線を彷徨わせながら口を開く。
「今朝、ポストに入っていて……何も書かれていなかったんですけど、代わりに藤の花びらが入ってて。それで、その……どうしてか、ここに来なきゃいけない気がして……」
しどろもどろに説明する自分を一瞥し、男はある一本の木へと近づいていく。
木の種類は分からない。しかし他よりも、一回りほど太くしっかりとしている木だった。
その根元に手を差し入れ、男は古ぼけた箱を取り出した。こちらを向いて、ゆっくりと箱を開けていく。
「あ……」
中に入っていたのは、色鮮やかな藤の蒔絵が施された手鏡と、数枚の便箋。
「子供の頃、友人とやりとりをした手紙だ。だが友人の存在を誰もが忘れちまった。俺も友人の顔を覚えてないし、手紙もこの通りただの白紙になった……本当にいたかどうかも、今では分からない」
目を細めて男は便箋に触れ、手鏡の藤を指先でなぞる。
「この鏡は、母の形見だ。これ以上なくしたくなくて、こうして鏡と手紙を一緒にしている」
そして男は視線をあげ、こちらを見つめた。
その目の強さに息を呑む。記憶にはないその真っ直ぐな目を、知っている気がした。
「あんた、名前は?」
静かに問われ、唇が震える。
自分の名前が出てこない。答えを求めて便箋と一緒に握り締めた封筒に視線を向けるも、そこには何も書かれてはいなかった。
本当の名前ではないからだ。何故かそう思い、力が抜けてその場に崩れ落ちた。
「私、私は……」
俯いて頭を振り、必死に記憶を手繰り寄せる。
何も思い出せない。そのことが苦しくて堪らない。
救いを求めるように、ゆっくりと顔を上げて男を見つめた。
「私は、誰なのでしょうか?」
声は掠れて、すぐに消えていく。
だが男には伝わったようだ。目の前まで歩み寄り、膝をついた。
「分からないなら、見てみればいい」
箱から取り出した手鏡を手渡され、促されるままに鏡を見る。
鏡に映っているのは、今の自分の姿。けれどそれに重なるように、子供の姿が浮かび上がった。
笑みを浮かべた子供は、胸に白い手紙を抱いている。大切な手紙なのだと、その表情が語っている。
――ずっと、ともだちでいよう。
見えなくても何が書かれているのかが分かり、胸が苦しくなった。
覚えている。なくしたと思っていた記憶が告げる。
手紙を書いたのだ。二人だけの秘密の手紙を書いて、交換した。
ずっと一緒だと。友達でいようと、確かに書いたのだ。
「今も……」
声が震える。視界が滲み、胸が、息が苦しくなっていく。
目の前の男は――友人は何も言わない。続く言葉を待っている。
「今も、友達だと……思ってもいいですか?」
ぱりん、と。
小さな音を立て、鏡が割れた。
「俺たちは友達だ。今までも、これから先も」
願うように問いかけた言葉に、友人は真っ直ぐに答えを返す。強く抱き締められて、耐えきれなかった嗚咽が溢れ落ちた。
「ごめん。本当にごめんな」
只管に謝り続ける友人の肩が濡れていく。
謝らないでほしいと思うのに、言葉が出てこない。
「おかえり。戻ってきてくれてありがとう」
優しく背を撫でられて、さらに涙が込み上げる。声を上げて泣けば、手が宥めるように背を叩く。
まるで生まれたばかりの赤ん坊になったようだ。
しゃくり上げながら顔を上げ、震える唇を必死に動かす。
「ただ、いまぁ……っ!」
言葉を返せば、友人の呼吸が乱れた。
背を叩く手が止まり、縋り付くように抱き締められる。抱き返すようにその背に手を回せば、友人もまた声を上げて泣き出した。
涙が、声が枯れるまで只管に泣き続ける。
何も書かれていない手紙が、手から離れても気にしてはいられなかった。
その手紙に。箱の中の手紙に。
じわりと文字が浮かび上がる。子供の頃に渡した手紙に戻っていく。
そのことに気づいたのは、お互い目を赤く腫らして笑い合った夕暮れのことだった。
20251204 『秘密の手紙』
12/6/2025, 8:55:49 AM