その屋敷の灯りは絶えないのだという。
電気が通っている様子はない。だが玄関先の提灯の灯りや、障子越しに見える灯りは、ゆらゆらと影を揺らめかしている。
不思議なことに、灯りが揺らめく屋敷の中に人の気配はなかった。
人の話し声も、物音もない。時折微かに、蝋燭の芯が燃える音がするだけだった。
薄暗い座敷で、少女は目を覚ました。
微睡みから抜けきらない意識で体を起こす。視線を巡らせれば、座敷の隅に置かれた行燈の灯りが目についた。
ふらつきながらも立ち上がり、行燈の元へと歩み寄る。中を覗けば、橙色の焔がゆらゆらと揺らめいていた。
暫し焔の揺らめきを見ていた少女だが、ふとその異様さに気づき僅かに目を細めた。
行燈の中には焔だけが浮かんでいる。蝋燭も油もなく、それでも絶えることのない焔が行燈の中を漂っていた。
焔の異様さを見ても、少女に怯えた様子はない。それどころか、そっと行燈の中に手を差し入れ、焔を掬い上げた。
少女の手の中で焔が揺れる。まるで行き先を示すかのように、一点に向け火の粉を散らしていく。
「――いかないと」
散る火の粉の先を見て、少女は呟いた。ゆっくりと足を踏み出し、座敷の外へと向かっていく。
座敷の外に出れば、薄暗い廊下が続いていた。
見える範囲に人影はなく、また物音一つ聞こえない。立ち止まる少女を急き立てるように焔が揺らぎ、火の粉を散らした。
そろりと足を踏み出せば、ぎぃ、と床板が音を立てる。小さく肩を震わせた少女は、しかし足を止めることはなかった。
焔の導くまま、少女は廊下を進んでいく。そしてある部屋の前までくると、焔は部屋を示すように火の粉を障子戸へと散らした。
足を止めた少女は、そっと戸に手をかける。一瞬の躊躇の後、静かに戸を開いた。
そこは、少女が目覚めた場所に似た、それでいてとても広い座敷だった。そっと足を踏み入れ、暗い座敷に視線を巡らせる。部屋の隅に置かれた行燈を認め、少女の目が細まる。灯りの絶えた行燈に近づき、中を覗き込んだ。
そこには白い蝋燭が一つ。火を待つ蝋燭に、少女は手の中の焔を近づけた。
焔が爆ぜて蝋燭へと飛び、火が灯る。僅かに明るくなった座敷に、改めて少女は視線を巡らせる。部屋の四方、薄暗がりの中に、同じように灯りの消えた行燈を認めた。
行燈に火を灯そうと、踏み出しかけた足が止まる。少女の視線は座敷の中心に向けられたまま、動かない。
何もないそこに、染みのような影がじわりと浮かぶ。
瞬きの間に広がり、朧気だった影は次第に輪郭を濃くし、二つの影を形作る。
長い髪の女らしき大人の影と、幼い子供の影。
女の影が腕を広げれば、幼子の影はその胸に迷いなく飛び込んだ。
抱き合う影は親子のものだろうか。甘えるように擦り寄る幼子の影の頭を。女に影が撫でている。
気づけば人影が増えている。女の影の肩へ手を置いた男らしき影と、幼子の側で恐る恐る手を伸ばす幼子よりも大きな影。
家族の幸せな一時を再現したかのような、人影の動き。やがてそれは霞み消えて、座敷には少女のみが残された。
少女は三方の行燈へと視線を向ける。
行燈に火を灯す。それが役目だと言わんばかりに、少女は迷いなく残る行燈へと歩み寄った。
暗い行燈の中を覗く。白い蝋燭を認めて、手の中の焔を近づけた。
先ほどと同じように、爆ぜた焔が蝋燭の芯に飛び、火が点いた。座敷の中心に視線を向ければ、再び人影が浮かび出す。
二つの影。だが先ほどとは様相が異なっていた。
一方がもう一方に馬乗りになり、何度も手を上げている。別の何人かの影が浮かび、馬乗りになる影を引き剥がしたが、影は藻掻き暴れている。少しでも拘束が緩めば、もう一方の影へと何度も向かって行こうとする。
随分と荒々しい。感情を剥き出しにする影とは異なり、襲われていた影はぐったりと横になったままだ。
怪我で動けなくなっているというよりは、何もかもを諦めている感じを受ける。抵抗も反論もすべて意味はなく、受け入れることが唯一許されているかのように。
正反対の感情を宿した影も、次第に薄れ消えていく。
明るさを増した座敷を無言で見つめ、少女は残る灯りの絶えた行燈へと向かい足を踏み出した。
先二つの行燈と同じく、中の白い蝋燭へと火を近づける。爆ぜた焔が蝋燭に火を灯し、ややあって座敷の中心で影が浮かび上がる。
今度は複数の影が形作られた。何かを囲うようにして座っている。
不意に別の影が現れ、ふらふらと影らが囲う何かの元へと近づいていく。その影に気づき、左右に割れる影らの間から見えたのは、横たわったまま微動だにしない影だった。
側まで近づくと、影は静かに崩れ落ちた。震える手を伸ばし、動かない影の頬に触れる。
頬を撫で、力なく手が滑り落ちる。項垂れる影の背を、別の影が軽く叩く。
首を振り、動かない影の姿が消えていく。他の影も消え、少女は静かに立ち上がった。
行燈に灯りを灯す度、浮かぶ影の異様さを少女は怖れてはいない。だが影が浮かぶ度に、どこか虚ろな瞳の奥で、感情が灯り始めていた。
灯りの消えた行燈は、あと一つ。向かう足取りに。迷いは見られなかった。
最後の行燈に火が灯る。だがしかし、しばらく待てども、影が浮かぶ様子はなかった。
目を瞬く。手の中の焔を見つめ、行燈を、座敷の中心を見つめる。
眉を寄せ思案する少女はもう一度焔を見つめると、火の点いた蝋燭に近づけ、手を傾けた。
焔が蝋燭に落ち、刹那、激しく燃え上がる。座敷が一瞬で明るさを増し、中心に小さな影を浮かばせた。
色を濃くした影は、ただ少女を見つめている。少女もまた影を見つめ、ゆっくりを歩み寄る。
手を伸ばせば触れ合える程の距離で立ち止まる。無言で見つめ合いながら、どちらからともなく手を差し出した。
手を繋ぐ。きゅっと握り締めれば、影は解けるように薄くなっていく。代わりに座敷に響いたのは、子供の笑い声だった。
きゃらきゃらと、二人分の声が笑う。辺りを駆け回り、遊んでいる。
やがて駆け去るように声が遠くに消えていき、影も消え、座敷には少女が一人きり。
ふと、影と繋いでいた手を開くと、そこには小さな橙色の袋があった。
暖かな袋。握り締めれば、じわりと誰かの想いが体に染み込んでいく。
――かえってきてくれますように。
切ない程真っ直ぐなそれは、祈りの声だ。
少女の虚ろな瞳に光が灯り、人形のように表情の抜け落ちた顔が、泣くように歪んだ。
忘れていたものを取り戻したかのように、新しく生まれるように。
絶望の中に微かな希望を見たような、そんな表情だった。
「いかないと」
呟いて、歩き出す。
障子戸を開ければ、その先は薄暗い廊下ではなく外に繋がっていた。
石畳の道を、左右の灯籠が照らしている。遠くから、太鼓と笛の音が響いてくる。
少女は迷わずに足を踏み出した。
音のする道の奥へと向かい、歩いていく。
振り返らず、前だけを見て歩く少女の背後で、音もなく障子戸が閉じた。揺れる灯りに誰かの影が浮かび、消えていく。
灯りが揺らぐように閉じた障子戸が揺らぎ、少女の姿が道の奥へと消えて行くのと同時に消えていった。
その屋敷の灯りは絶えないのだという。
誰かがいる気配はない。音もまた聞こえない。
だが屋敷は時折、外から人を招き入れ、部屋に火を灯させることがあるらしい。
その灯りは誰かの想い。誰かに向けられた切なる祈り。
行くべき場所を忘れて漂う魂を引き留め、あるいは送り出すための導《しるべ》。
誰かを想う祈りがある限り、迷う魂がある限り、その屋敷は存在する。
屋敷の灯りは、今も消えることはない。
20251206 『消えない灯り』
12/8/2025, 9:17:02 AM