sairo

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遠くで鐘が鳴っている。
教会の鐘だろうか。厳かに響く音に、顔を上げて空を見た。
薄い青を滲ませる空から、ふわりと冷たい白が舞い降りてくる。
風花。季節はすっかり冬へと変わってしまった。
鐘が鳴る。澄んだ空気を震わせて、聞き馴染みのない音が響く。
雪と共に風が歌を運んだ気がして、逃げるように家路を急いだ。



ぎぃ、と木が軋む音がする。
ざざ、と聞こえる波の音。
目を開ければ青白い月の浮かぶ夜空の下、果てない海を進む船の上にいた。
船が揺れる。ぎぃ、と音を立てる度体が竦み、強く手を握り締めた。
船内からは、異国の声が聞こえている。祈りの言葉。咄嗟に耳を塞ぎ、その旋律から逃げ出した。
船が進む。辺りは深く黒い海に囲まれ、どれだけ目を凝らしても陸地は見えない。

「――いやだ」

震えた声で呟く。一刻でも早く、船を降りたくて堪らない。
船の向かう先が恐ろしい。行くのか、帰るのかは分からない。だがどちらだとしても辿り着く先は同じであり、そこに光はないのだと知っている。

ぎぃ、と軋んだ音が響く。ざざ、と耳の奥に波の音が刻まれていく。
耳を塞いでも、隙間を擦り抜け響いている。祈りの言葉が、神を讃える歌が、逃げられないのだと囁きかける。
そっと船べりに寄り、海を見下ろした。深い藍、そこの見えない黒い奈落に、だが落ちることができたのなら楽になれるだろうかと考える。
耳から手を離し、船べりに手をつく。
声が、歌が響く。遠くから微かに鐘の音が聞こえ、それらから逃げるように身を乗り出す。

このまま、落ちてしまえば――。

「どうした。気分が悪いのか」

異国の言葉ではない、耳に馴染んだ声。
咄嗟に体を戻し、振り返る。
月明かりを浴び手を組み祈るその姿に、胸が鈍く痛み出した。

どうして。問いたくとも、声は喉に張り付き掠れた吐息しか出てはこない。
迷いのない目は、何を見ているのだろう。彼の視線を追っても、黒々と広がる海しか見えない。
敬愛する主か、見たこともない神なのか。
船に乗った時の覚悟は、すでに自分にはない。あるのは逃げ出したいという衝動だけ。
彼はまだ、信じているのだろうか。

息苦しさに両手を胸に当て、俯いた。
きつく目を閉じる。聞こえる声と歌、波と船の音が混ざり合い、首筋に一瞬だけ鋭い痛みが走る。

「信じているのかは、正直私にも分からん。だが、殿の勅命は私の全てだった……ただそれだけだ。其方を縛る鎖とする必要はどこにもない」

暗闇に静かな声が降る。
聞こえるはずのない鐘の音が鼓膜の内側で鳴り響いているようで、胸の前で手を合わせ身を屈めた。

「――あぁ」

音に翻弄されながら、自嘲した笑みが浮かぶ。
祈りを否定し、逃げ出そうとしている自分。だが今の姿はまるで祈っているよう。

「ごめんなさい、兄さん」

渇いた笑いが込み上げる。彼とは異なり弱く愚かな自分が惨めで、笑いながら泣いていた。





鐘の音が鳴っている。
咄嗟に離れようとする足を止め、逡巡する。
いつもならば迷わない。だが今朝見た夢の名残が、足を止めていた。
目覚めた時には、大半が失われていた夢。
とても恐ろしかったように思う。怯え、逃げ出そうと藻掻き、そんな自分が哀れに思えた、そんな夢だった。
悩み迷いながらも、竦む足に力をいれる。手を握り、音の聞こえる方へと歩き出す。
いつまでも逃げる訳にはいかないと、感じる衝動に唇を噛み締めた。


辿り着いた先は、小さな教会。
中から聞こえる旋律に、無意識に足が後ろに下がる。
体が震える。昔から何故か、教会やそれに関するものが恐ろしくて堪らなかった。
今ならば引き返せる。まだ船には乗っていない。
じりじりと後ずさりながら、首に手を当てた。焼けつくような痛みと、息苦しさに、いっそ泣き叫んでしまいたくなる。

旋律が止み、しばらくして教会の扉が開かれた。
教会から出てくる十字を抱いた人々。皆微笑みを湛えており、恐怖に立ち竦んでいるのは自分だけだ。
やがて人の波が途絶え、知らず詰めていた息を吐き出した。
改めて教会を見上げる。
恐ろしさの象徴を前に、震える足を前に出した。

教会の中には、ただ一人だけ祈りを捧げている人がいた。

「兄さん」

祈るその背に声をかける。
顔を上げこちらを振り返った兄は、驚いたように僅かに目を見張った。

「珍しいな。お前はここを怖がっていただろうに」
「兄さん。聞きたいことがあるの」

体が震えぬよう強く手を握り締め、兄の側に寄る。真っすぐに彼の目を見つめ、長い間聞けずにいた問いを投げかけた。

「どうして、祈れるの?」

祈りの先に救いがあるのだと、本当に信じているのか。
兄が教会に通い出してから、ずっと問い質したいと思っていた。だが信じ切れずに祈れない自分の弱さをさらけ出すようで何も言えず、気づけば兄と距離を取っていた。

「そうだな。残ったのがこれしかなかったから、だろうな」

教会のステンドグラスに視線を向け、兄は目を細めて微笑んだ。
その目にどうしようもない苦さが浮かんでいるのを見て、込み上げる胸の痛みに手をあてる。

「すべてが無駄だと、切り捨てたくはなかった。己が成したことは、意味があることなのだと信じていたかっただけだ」
「兄さん……」
「帰ろう。顔色が悪い。これ以上、無理をしてここにいる必要はないよ」

兄に肩を抱かれ、教会を出る。
その足取りには迷いはない。それが意外で、けれど兄らしさも感じて、強張り微かに震える体から力が抜けていく。

教会を出て帰る途中、白の混じる赤い花を抱いた青年とすれ違った。
途端に込み上げるのは、怖さと怒り。知らぬ人に対する感情ではないと思いながらも、顔を逸らす。
しかし兄は違う感情を抱いたらしい。立ち止まり、青年の背をいつまでも見つめている。

「兄さん。あの人、知り合い?」
「いや……」

否定しながらも、兄は視線を逸らさない。
切なげに細まる目を見てその視線を追えば、すれ違った青年は教会の中へと入って見えなくなった。

「似てただけだ。昔私が尊敬し、信頼していたお方に」

そう言って、兄は穏やかに笑う。
あの青年が教会に行ったことを、心から喜んでいる。そんな気がした。

不意に目の前を白が過ぎていく。
顔を上げれば、曇る空からちらちらと雪が降っていた。体に触れる雪の冷たさに、思わず肩を震わせる。

「降ってきたな。急いで帰るぞ。風邪を引いたら大変だ」

兄に促され、足早に家路に就く。
ちらりと見上げた兄の横顔には、険しさはない。
彼はもう、船の上にはいないのだ。当たり前なことを考えながら、それに酷く安堵していた。

背後から遠く鐘の音が響く。
けれども兄は立ち止まらない。自分も逃げ出したりはしない。
恐怖はある。ただ逃げ出すほどではなくなったというだけのこと。

鐘が鳴る。
どこからか祈りの言葉が、讃美歌が聞こえてくる。

海の彼方から聞こえるその遠い音を、今は逃げずに聞いていた。



20251213 『遠い鐘の音』

12/14/2025, 9:32:34 AM