きらきらと、煌めく街並みを見下ろしながら、手にした缶コーヒーに口をつける。
「苦っ……」
缶に視線を向ければ、無糖の文字。あまり深く考えずに買ってしまったことを少しばかり後悔する。
今日は朝からついていない。朝食の少し焦げたパン。目の前で赤に切り替わる信号。無糖の缶コーヒー。
そして、待ちぼうけ。
小さく溜息を吐く。街の灯りはこんなにも煌びやかだというのに、気分は重く沈んでいる。
連絡はない。自分から連絡してみるべきかとも思うが、何となくそれも億劫だった。
「まぁ、イルミネーションは綺麗だしな」
自身に言い聞かせるように呟いて、街の灯りを見下ろした。
「お兄さん」
声をかけられて、肩が揺れる。
気づけば、街の灯りは暗く沈んでいる。停電ではない。灯りが点いていても、妙に暗いのだ。
「お兄さん」
もう一度呼ばれ、ゆっくりと振り返った。
そこには、兎のぬいぐるみを抱きかかえた少女が立っていた。
少女以外の人影はない。この高台の付近には民家もなく、幼さの残る少女が一人きりでいることに眉を寄せた。
「あのさ……」
「お兄さんは、迷子なの?」
言葉を遮るように問われ、目を瞬く。
迷子。一呼吸遅れてその意味を理解し、小さく溜息を吐いた。
「迷子じゃない。待ち合わせをしてんの」
「ここで?」
小首を傾げ、少女は目を瞬く。心底不思議そうな表情に、じわりと不安が込み上げてくるのを感じた。
思わず少女から視線を逸らし、街の灯りを見下ろした。
少し前まで煌めいていたはずの街並みの陰りに、今更ながらに異様さを感じ始めた。
もう一度、少女に視線を向ける。ぬいぐるみの無機質な目が揺らいだように見えて、口元が引き攣った。
「あの、さ。もしかして、ここって……」
予想が外れてほしいと願いながら、それが正しいのだと理解し始めている。それでもほんの僅かな希望に縋り少女に問いかければ、腕の中のぬいぐるみの頭が肯定するように傾いだ。
「裏側の世界だよ」
裏側とはつまり、人ならざるモノの領域のことだろう。
肩を落とし、項垂れる。またか、と心の中で呟いて、溜息を吐いた。
「お兄さん。何度かこっちに来てるでしょ?さっきも、ずっとぼんやりしてたものね」
少女の声に憐みが混じっているような気がして居たたまれない。
確かに少女の言う通り、気づけばこうして不思議な世界に足を踏み入れていることがあった。何度も経験している内に、最初の頃のように取り乱すこともなくなった。
嫌な慣れ方に危機感を覚え、次こそはと気を張るものの、今のところ効果はない。自分でも気づかない間に起こる現象に、最早諦めてしまった方がいいのではとも思い始めている。
「お兄さん」
少女が呼ぶ。それに何も言わずに視線だけを向ければ、少女はぬいぐるみの手を持ち軽く手招いた。
「元に戻るならこっち。着いてきて」
そう言われ、おとなしく少女の後に続いて歩き出す。
木々の間を抜け、小さな鳥居の前で足を止めた。
「この先が、表側に通じているよ。次からは気をつけてね」
「あ、はい……」
頷きはするものの、それは無理な話だろうと内心で諦めている。何をしても無駄だった過去が、気をつけるという行為すら億劫にさせていた。
「優しすぎるのは、あんまり良くないんだよ」
「え?」
「優しいと、縋りたくなるの。だから手を引かれて迷子になっちゃうから、気をつけて」
言っている意味が、よく分からない。
誰かに優しくした記憶はなく、手を引かれた覚えもなかった。
「待ち合わせをしながら、ずっと心のどこかで考えていたでしょう?例えば、焦げたパンも美味しかった。信号が赤になったから、少し落ち着くことができた。苦いコーヒーは大人になった気分にさせてくれた」
一つ一つあげられていく出来事に、頬が熱を持ち出した。
誰にも言っていなかった。そもそもさっき出会ったばかりの少女には分かりようのないことだ。それなのに、と羞恥に叫びたくなる気持ちを、必死に堪える。
「今も恐いって思うより、恥ずかしいって感じてる。悪戯する側としては張り合いがなくてつまらないけど、全部受け止める優しさは、皆大好きなんだよ」
「えっと、それって……」
「ほら、早く行って。これ以上変なことを考えないで」
少女が鳥居へ指を差せば、風が強く背を押した。その強さに耐えられず、転がるようにして体が鳥居を潜りぬけた。
「裏側でも、煌めく街並みが見れたらいいなんて、変なこと考えてないで。私たちには、あれくらいが丁度良いの。それに見たくなったら見にいけるんだから」
呆れた声がして、風が自分の周りで渦を巻き始めた。
くすくすと、複数の笑い声。風に翻弄されながらも、少女の方へと振り返り――。
「おまたせっ!」
聞こえた待ち人の声に、世界がぐるりと回った気がした。
「ちょっと、大丈夫?」
いつの間にか閉じていた目を開ける。
視界に広がるのは、きらきらと煌めく街の灯り。
振り返れば、待ち人が心配そうに眉を寄せていた。
「体調悪いの?なら、今日はもう帰ろうか」
「あ、いや。別に悪くはないけど」
悪くはないはずだ。不思議に思いながら、何気なく手元に視線を落とす。
「あれ?」
「どうしたの?」
何も言えずに首を振る。
暖かな缶コーヒー。けれども口をつけたはずの缶は、まだ未開封だった。印字されていた無糖の文字も、どこにも見えない。
ふと、缶を持つ手に冷たい白が降りた。忽ちに溶けてしまった白に驚き、空を見上げる。
「あ、雪」
「本当だ。道理で寒いわけだね」
次々と振る雪を追って視線を下げる。煌めく街に白が舞い、幻想的な光景を作り出していた。
風に乗って、微かに笑い声がした。鈴の音と共に歌声が聞こえてくる。
「何か面白いことあった?」
「え、なんで?」
「だって笑ってるよ」
指摘されて自分が笑っていたことに気づく。
「冬だから、かな?」
呟いて、手の中の缶コーヒーの蓋を開けた。
一口飲めば、ミルクが多めの甘いコーヒーの味の喉を通り過ぎる。ほぅ、と息を吐いて、煌めく街並みを見下ろした。
「意味分かんない」
「うん。俺も分かんない」
そう言って笑う。
甘いコーヒーに、煌びやかな街の灯り。そして深々と降る雪。
今日はとても良い日だったと、どこか浮かれた気持ちでそう思った。
20251205 『きらめく街並み』
「あれ……?」
ポストに入っていた白い封筒を取り出し、首を傾げた。
切手を貼っておらず、直接投函されたことが分かる封筒。裏を見ても何も書かれてはいない。
ただ自分の名前だけが書いてある封筒に、どうするべきかを悩む。
知り合いに、手紙を出すような人はいない。抜け落ちた記憶の中にはいたのかもしれないが、今の自分の居場所を知っているとは思えない。
見ない振りをするべきだろうか。けれど中に入っているものが気になった。
光に翳せば、便箋が入っているのが見える。厚さからして一枚だけだろう。何が書かれているのか、誰が書いたのかが、気になって仕方がなかった。
そっと封を破り、中の便箋を取り出す。
震える指で、便箋を開いた。
「――あれ?」
目を瞬く。
便箋には何も書かれてはいなかった。
裏を返しても変わりはない。
「いたずら?」
拍子抜けして、肩を落とした。
一呼吸遅れて、落胆している自分に驚く。
そんなに楽しみだっただろうか。覚えている記憶の中では、手紙を貰った記憶は殆どない。その僅かに貰った手紙を喜ぶ気持ちもなかったはずだ。
眉を寄せて便箋を見る。途端に浮かぶ悲しい感情に、そっと息を吐いた。
おそらく忘れてしまった昔の自分には、手紙のやり取りをする、大切な相手がいたのだろう。
「誰だったんだろう」
手紙を見ながら考えるが、影すら浮かばない誰か。
気づけば失っていた記憶を惜しんでも、やはり何も思い出すことはなかった。
もう三年も前になるだろうか。
目が覚めると見知らぬベッドで寝かされていた。
話を聞いた所によると、近くの雑木林の中で倒れていたらしい。
大きな怪我をしている訳ではない。病気という訳でもない。
しかし目が覚めた時、自分が誰なのか、住んでいる場所も名前すらも何一つ覚えていなかった。
保護してくれた人の好意で、新しく生きていくことはできている。最近では、過去の記憶のことを苦しく思うこともなくなっていたはずだった。
「手紙……」
便箋を折りたたみ、丁寧に封筒にしまう。何も書かれてはいないが、雑に扱うのは気が引けた。
封筒に書かれた自分の名前を一撫でして考える。
この手紙は、誰が何のためにポストに入れたのだろうか。
もう一度封筒を見つめる。開いた封から中を覗き、そこで便箋とは違うものが入っていることに気づいた。
封筒を逆さにし、手のひらにそれを落とす。鮮やかな紫色を湛えたそれは、とても小さな藤の花びらだった。
季節外れのその花を見て、眉を寄せる。忘れている何かを思い出させるような、瑞々しい紫。
耳の奥で、誰かの囁く声がする。
――ずっと、ともだちでいよう。
無邪気な子供の声と共に、鮮やかな緑が浮かぶ。
森の中。二人だけの秘密の空間。お互いに手渡す、秘密の手紙。
「っ、行かないと」
気づけば、鞄を掴んで走り出していた。
浮かんだ場所がどこなのか、聞こえた声は誰のものなのかも分からない。それでも足は迷うことはなく、駅に向かって走っている。
戸惑いはするが、恐怖はない。
会いたいという衝動にも似た気持ちで、電車へと駆け込んだ。
「ここ……?」
葉の落ちた木々を見渡して、眉を寄せる。
見覚えのあるものは、何もない。懐かしいとも感じない、知らない場所。
鞄から封筒を取り出す。中から便箋を取り出すも、変わらず真白いままで何も書かれてはいない。
藤の花びらも、いつの間にかなくなってしまっていた。
「あんた、こんなとこで何してんだ」
途方に暮れていれば、声をかけられた。低い声に、びくりと肩が揺れる。
振り返り、見知らぬ男の姿を認めてさらに困惑する。無意識に手に力が入り、くしゃりと便箋に皺が寄った。
「あ、えっと……」
「手紙?」
目の前の男が、手の中の手紙を見て僅かに眉を寄せた。その視線に落ち着かなくなり、視線を彷徨わせながら口を開く。
「今朝、ポストに入っていて……何も書かれていなかったんですけど、代わりに藤の花びらが入ってて。それで、その……どうしてか、ここに来なきゃいけない気がして……」
しどろもどろに説明する自分を一瞥し、男はある一本の木へと近づいていく。
木の種類は分からない。しかし他よりも、一回りほど太くしっかりとしている木だった。
その根元に手を差し入れ、男は古ぼけた箱を取り出した。こちらを向いて、ゆっくりと箱を開けていく。
「あ……」
中に入っていたのは、色鮮やかな藤の蒔絵が施された手鏡と、数枚の便箋。
「子供の頃、友人とやりとりをした手紙だ。だが友人の存在を誰もが忘れちまった。俺も友人の顔を覚えてないし、手紙もこの通りただの白紙になった……本当にいたかどうかも、今では分からない」
目を細めて男は便箋に触れ、手鏡の藤を指先でなぞる。
「この鏡は、母の形見だ。これ以上なくしたくなくて、こうして鏡と手紙を一緒にしている」
そして男は視線をあげ、こちらを見つめた。
その目の強さに息を呑む。記憶にはないその真っ直ぐな目を、知っている気がした。
「あんた、名前は?」
静かに問われ、唇が震える。
自分の名前が出てこない。答えを求めて便箋と一緒に握り締めた封筒に視線を向けるも、そこには何も書かれてはいなかった。
本当の名前ではないからだ。何故かそう思い、力が抜けてその場に崩れ落ちた。
「私、私は……」
俯いて頭を振り、必死に記憶を手繰り寄せる。
何も思い出せない。そのことが苦しくて堪らない。
救いを求めるように、ゆっくりと顔を上げて男を見つめた。
「私は、誰なのでしょうか?」
声は掠れて、すぐに消えていく。
だが男には伝わったようだ。目の前まで歩み寄り、膝をついた。
「分からないなら、見てみればいい」
箱から取り出した手鏡を手渡され、促されるままに鏡を見る。
鏡に映っているのは、今の自分の姿。けれどそれに重なるように、子供の姿が浮かび上がった。
笑みを浮かべた子供は、胸に白い手紙を抱いている。大切な手紙なのだと、その表情が語っている。
――ずっと、ともだちでいよう。
見えなくても何が書かれているのかが分かり、胸が苦しくなった。
覚えている。なくしたと思っていた記憶が告げる。
手紙を書いたのだ。二人だけの秘密の手紙を書いて、交換した。
ずっと一緒だと。友達でいようと、確かに書いたのだ。
「今も……」
声が震える。視界が滲み、胸が、息が苦しくなっていく。
目の前の男は――友人は何も言わない。続く言葉を待っている。
「今も、友達だと……思ってもいいですか?」
ぱりん、と。
小さな音を立て、鏡が割れた。
「俺たちは友達だ。今までも、これから先も」
願うように問いかけた言葉に、友人は真っ直ぐに答えを返す。強く抱き締められて、耐えきれなかった嗚咽が溢れ落ちた。
「ごめん。本当にごめんな」
只管に謝り続ける友人の肩が濡れていく。
謝らないでほしいと思うのに、言葉が出てこない。
「おかえり。戻ってきてくれてありがとう」
優しく背を撫でられて、さらに涙が込み上げる。声を上げて泣けば、手が宥めるように背を叩く。
まるで生まれたばかりの赤ん坊になったようだ。
しゃくり上げながら顔を上げ、震える唇を必死に動かす。
「ただ、いまぁ……っ!」
言葉を返せば、友人の呼吸が乱れた。
背を叩く手が止まり、縋り付くように抱き締められる。抱き返すようにその背に手を回せば、友人もまた声を上げて泣き出した。
涙が、声が枯れるまで只管に泣き続ける。
何も書かれていない手紙が、手から離れても気にしてはいられなかった。
その手紙に。箱の中の手紙に。
じわりと文字が浮かび上がる。子供の頃に渡した手紙に戻っていく。
そのことに気づいたのは、お互い目を赤く腫らして笑い合った夕暮れのことだった。
20251204 『秘密の手紙』
さく、さく、さくり。
音を立てて霜柱を踏みつけ遊ぶ弟を見ながら、そっと手に息を吹きかけた。
冷たい木枯らしが吹き抜け、体を震わせる。少し前までの暖かさなど欠片も抱かない風と遠い陽に、眉を下げ空を見上げた。
さく。さくり。
小さな足音。落ち葉の道を歩いた時のような、けれども少し違う音に季節が過ぎていることを感じる。
秋は過ぎてしまった。今、ここに在るのは冬なのだと、風や大地が教えてくれていた。
手のひらに収まるほど小さな箱。中に入っていた白い貝殻に、恐る恐る指先を触れさせた。
「なんで……これ……」
忘れることのできない、遠い過去が脳裏を過ぎる。
青の海。青の空。白い砂浜で二人、時を忘れて遊んだ幸せな思い出。
胸の苦しさに耐えるように、箱を抱き締め俯いた。
――約束。
懐かしい声が、耳の奥で響く。潮騒と混ざり合い、幼い頃の記憶を鮮やかに浮かばせる。
思わず閉じた瞼の裏で、小さな影が手を差し出した。
――これは友達の証。それから約束の印。
その手には、白く可愛らしい貝殻。指切りの代わりに、交換した大切なもの。
あの日、大好きだった友人と、ひとつの約束を交わした。
交わしたはずだった。
「約束……」
腕の中で、箱の中の貝殻が小さく音を立てる。
約束だと、笑う声を覚えている。あの日の海や空の姿も、潮騒も霞むことはない。
けれど何を約束したのか。自分は何を交換したのか。記憶は朧気で酷く霞んでいた。
箱を見つめ、机の上へと視線を移す。あの日の海や空を思わせる青いリボンと包装紙を認めて、眉を寄せた。
それらは、ほんの少し前まで手の中の箱を彩っていたものだった。
そこでようやく、この箱の異様さに気づく。
気づけば机の上に置かれていた、綺麗にラッピングされていた箱。その中に収まっていた、引き出しの奥にしまわれていたはずの貝殻。
箱に気づいた時、怖いとは感じなかった。開けなければという気持ちが込み上げ、戸惑いもなく箱に手を伸ばしリボンを解いていた。
ふるり、と肩を震わせる。
誰がこの箱を置いたのか。この貝殻は、あの日に交換した貝殻なのか。
箱を机の上に置く。震える手で、机の引き出しを開けた。
奥にしまわれていた古ぼけたお菓子の缶を取り出し、二を開く。知ることを怖れるように一度目を閉じ、一呼吸してゆっくりと目を開いた。
「ない……」
缶の中には、何もない。ならば箱の中の貝殻は、本当にあの日交換したものなのだろう。
缶を戻し、引き出しを閉める。
箱に手を伸ばしかけ、その無意識の行動に愕然とした。大切な思い出であるはずの貝殻が、途端に怖ろしいもののように感じ、後退る。
とん、と下がる足が部屋の扉に当たり、その瞬間、強い目眩を感じて目を閉じた。
「――っ」
ぐるぐると、世界が回っているかのような浮遊感。立っていられずに蹲り、目眩が治まるのを只管に待った。
不意に、潮騒が聞こえた気がした。波が引くように目眩もまた引いていき、そっと目を開ける。
「海……?でも、なんで……」
眼前に広がるのは、約束を交わしたあの懐かしい海。
記憶の中で青く煌めいていたはずの海は深い黒を宿して、寄せては返す波がまるで手招いているかのようだ。
呆然と見上げた空は、月のない夜に染まっている。細々とした星明かりが夜の昏さを際立たせていた。
「約束」
そっと背後から囁く声に、息を呑んだ。
懐かしい海で聞こえる、懐かしい声。けれども今、振り返るのが恐い。
小さな影が、動けずにいる自分の横を通り過ぎる。
夜の暗さは影の輪郭すら曖昧にしている。それなのに影が手にしているものは、机の上に置いたはずの箱だと、何故か確信していた。
「これは友達の証。それから約束の印」
正面に立つ影が、箱を差し出す。暗闇の中で貝殻の白がぼんやりと浮かび上がり、苦しさを覚えた。
「受け取れない」
首を振る。
「約束を覚えていない。交換できるものもない」
込み上げる涙を、唇を噛みしめることで堪えた。
不思議と恐怖はなく、あるのは空しさは悲しみだけだ。
「約束」
影が囁く。手を取られ、半ば無理矢理に箱を渡される。
嫌だと拒もうとすることを許さないと、箱を強く握らされた。
「忘れたなら、思い出して」
顔を覗き込まれ、間近で見る目の真っ直ぐさに肩が震えた。幼い眼は、瞬きをする旅に成長し、今の自分の姿と変わらない程までになっていく。
「贈り物の形で記憶を揺さぶったんだから、ちゃんと受け取って思い出して……もう一度、この海に来るの。私の宝物《おまもり》を持って、戻ってきてよ!約束なんだからっ!」
「あ、あぁ……」
かちり、と音が聞こえた気がした。途端に忘れていた記憶が、自分の中で溢れかえる。
約束をした。必ず戻ってくると。
走り回れる程元気になって、大切な貝殻《おまもり》を返しにくると、確かに約束をしたのだ。
「戻っておいで。ちゃんと待っていてあげるから。いつまでも待つから」
「うん……うんっ!絶対、帰ってくるから」
じわりと視界が滲む。友人の笑顔が見えなくなっていく。
ゆっくりと離れていく友人の手首に巻かれた青いリボンを認めて、笑みが浮かんだ。
「もしもまた忘れそうになったら、同じように贈り物の形にして思い出させてあげる。青いリボンを解いて、箱の中の貝殻を見れば、こうして思い出せるから」
「大丈夫。もう忘れたりしないから」
笑いながら目を閉じる。
箱を抱き締め、耳を澄ませた。
潮騒が遠くなり、代わりに無機質な電子音が近くなる。弱々しいながらも、確かに胸の鼓動を感じる。
強い目眩がした。箱を抱き締め、浮遊感に耐える。
音が近い。意識を向ければ、さらに音が近づく。
閉じた瞼の向こう側で、微かに光を感じた。光を追いかけ手を伸ばすように、光の先を意識して――。
目を開けた。
泣きそうな母の顔が見えた。
目が合って、驚いたように目を見張った母の口元が何かを語りかけている。
まだ聞こえない。けれど見えている。
もう大丈夫。
根拠のない確信に、微かに笑みを浮かべてみせる。
青いリボンが巻かれた、贈り物の中の約束を思い出したのだから。
だから自分はもう、大丈夫だ。
20251202 『贈り物の中身』
窓辺に座り、暗い空を見上げる。
細い三日月が笑う星空は、どれだけ見ていても動く様子はない。
凍てつき、時を止めてしまったかのような星々に誰かの背が重なって、眉を寄せ唇を噛み締めた。
嫌なものを思い出した。視線を下ろし、暗いばかりの周囲を見つめる。星空以上に冷たさしか感じられない暗闇。重なる何かを振り切るように、窓に背を向け部屋の隅で蹲る。
目を閉じれば、すぐに意識は微睡んでいく。
この行為に意味があるのかは分からない。眠り、朝を迎えた所で、同じ日を繰り返すだけだ。
何度繰り返しても変わらない。どうすればいいのかも分からない。
嘆息し、諦めたように眠りにつく。
どうか、と願う言葉すら、もう浮かんではこなかった。
「おはよう。ご飯、できてるわよ」
キッチンから聞こえる母の声に、特に返事を返さず席に着く。
それを誰かに咎められることはない。テーブルの向こうで新聞を読む父も、見るともなしにテレビを見ている兄も、変わりはない。
「今夜の天体観測のイベント。あんたも行くんでしょ?」
何度も繰り返し聞いた言葉に、思わず顔を顰める。込み上げる溜息を殺して、静かに首を振った。
「行かない。興味ない」
「夜は冷えるからね。ちゃんと暖かくしないとダメよ」
殺しきれなかった溜息が溢れ落ちた。
自分が何を言っても、どんな行動を取っても母の言葉は変わらない。
「今の時期は空気が澄んで、星が良く見えるからな。楽しみだろう」
「俺、やっぱ行きたくないんだけど。寒いし。面倒だし……お前に付き合ってやるんだから感謝しろよ」
母だけではなく、父や兄、出会う人々すべての行動に変化はなかった。
自分一人だけ、同じ時間を繰り返しに気づいている。時間が巻き戻っているのではない。まるで舞台の上にいるかのように、あらかじめ決められた台詞、行動を自分以外が取っている。
「お兄ちゃんは相変わらず素直じゃないのね。前々から楽しみにしていたでしょう」
「か、母さんっ!それは内緒にするって言ったじゃんか!」
自分一人だけが異様だ。目を逸らすように無言で朝食をかき込み、席を立つ。
家族は変わらず、楽し気に会話を楽しんでいる。変わらない内容。変わらない仕草。目にするのも嫌で、部屋を出た。
「お前、本当に星が好きだよな……俺のジャンパー貸してやるから、風邪だけは引くんじゃないぞ」
「なら、俺のコートはお兄ちゃんに貸してやろう」
「やだよ。父さんでかいから、俺が小さく見えるじゃん」
「心配しなくても、俺の子なんだからすぐに大きくなるさ」
自分がいなくとも、家族の団欒は続く。
耐え切れず、耳を塞いで走り出した。
部屋に駆け込み、目を閉じ耳を塞ぐ。
何故こんなことになっているのか。一番最初の記憶を思い出そうとするが、繰り返し過ぎたためにどれが始まりだったのかすら曖昧だ。
「なんで、どうして……」
疑問を口にしても、答えはない。
代わりに感じるのは、強い目眩。立っていられず、ずるずると座り込む。
目の前が白く点滅して、目を開けていられない。頭を押さえ、目を閉じた。
次に目が覚めた時には、夜になっているのだろう。どんな行動を取った所で、例え逃げ出した所で、結局最後に行くのは天体観測が行われる天文台だ。
父と兄と、三人で向かった天体観測。凍てつく星空を思い、それに重なる去って行く背を思い、強く唇を噛みしめた。
「やっぱ、夜は冷えるな……寒くないか?」
兄の声がして、閉じていた目を開ける。
見上げた空は、一面の星空。天文台の敷地内になる丘の上で、望遠鏡を前に立ち尽くしていた。
誰も星も月も動きを止めていることに気づく様子は無い。皆楽しげに望遠鏡を覗き、興奮したようにはしゃいでいる。
「ほら、これでちゃんと見えるはずだ。試しに覗いてみろ」
父に促され、兄は望遠鏡を覗き込む。少しして感嘆の溜息が出るのも、何度も見て知っている。
前回は、天文台の中に逃げ込んだ。今回はそんな気力さえ沸かない。
「すっげぇ!お前も覗いてみろよ!」
笑顔の兄が、こちらを見る。その後ろで、父もまた微笑ましげに見つめている。
見た所で変わらないはずだ。けれど逆らった所で、何かが変わる訳でもない。
小さく溜息を吐いて、望遠鏡を覗き込む。
凍てつき、動くことを止めた星々。それが見えるはずだった。
「――っ!」
最初に見えたのは、黒だった。
烏の羽。一瞬そう思ったものの、すぐに違うものだと気づく。
それは人のように見えた。黒い翼を生やした少年がこちらを見て佇んでいる。
慌てて望遠鏡から顔を離し、空を見上げる。遠くに見えた影が。瞬きの間に目の前に降り立った。
「お前、こんな所で何してんの?」
「えっと……?」
首を傾げながら問う少年に、同じように首を傾げ困惑する。
「記憶の中に落ちてるなんて、器用だな……いや、もしかして、お前ごと記憶を閉じてるのか?」
自分にはまったく分からないことを言われ、口籠もる。居心地の悪さに視線を彷徨わせ、そこで辺りの異変に気づいた。
周りの人々が固まっている。星空のように凍てつき、少しも動かない。
「なに、これ……」
「あぁ、何にも知らないのか。迷い込んだっていうより、閉じ込められたって方が正しいのかもしれないな」
怯える自分とは対照的に、少年はどこか悲しげに目を細めてこちらを見ている。少年の口ぶりからこの異変の原因ではないことは分かるが、それでも怖ろしさを感じ後退る。
「そんな怖がらなくてもいいと思うんだけどさ……というかお前、これからどうすんだ?」
「どうするって……?」
「このままここで、動かないでいるのか。それともここを出て、先に進むのか……ここにいるなら俺は行くけど、ここを出るって望むんなら一緒に行くこともできる」
少年の言葉に息を呑んだ。
ここを出る。つまりこの繰り返しから抜け出せるということ。明日を迎えるということだ。
無意識に握り締めた手が汗ばみ、震える。視線が彷徨い、それでも足を踏み出せば、ぐいと強く誰かに腕を引かれた。
「なっ……!」
振り向いた先の黒い影に、肩が震える。見慣れたシルエットから兄のものだと分かる影が、逃さないとばかりに腕に絡みついていた。
恐怖で立ち竦んでいれば、今度は逆の腕を掴まれた。振り向く視線が背の高い父の影を認め、声にならない悲鳴を上げた。
「やだっ!離して……離してっ!」
がむしゃらに腕を振るが、振り解くことができない。
恐怖と困惑と、そして怒りの感情に頭が真っ白になっていく。
「嫌だ!手を離したくせに!置いていったくせにっ!」
自分でも訳の分からない感情が、ぐるぐると渦を巻いている。
誰かの背が脳裏に浮かび、振り払うように暴れた。
「進むんだから、これ以上邪魔をしないでっ!」
感情にまかせて叫べば、強く風が吹き抜けた。
目も開けていられない程の強風。耐えきれず目を閉じ蹲れば、掴む腕が離れていくのを感じた。
自分の中の感情のように、風が渦を巻いている。ふわりと体が持ち上がる感覚がして、次の瞬間には何も感じなくなった。
「そろそろ目を開けても大丈夫だと思う」
少年の声がして、恐る恐る目を開けた。
「――あ」
眼前に広がるのは、果てのない星の海。地上から見た時のような凍てつき止まった感じはなく、時折煌めいては流れ落ちていく。
「きれい……」
「ん。よかったな」
気づけば少年と手を繋ぎ、空を飛んでいた。少年の背の翼が羽ばたけば柔らかな風が起こり、頬を撫でて過ぎていく。
「進むって望んだから、途中までは送る。でもその後は、自分で歩いて行かないと駄目だから」
「分かった……大丈夫。ちゃんと歩けるから。ありがとう」
礼を言えば、少年は大きく羽ばたいた。いくつもの星が横を過ぎて、すぐに見えなくなる。
まるで流れ星のようだ。少し前の激しい感情の渦のことなどすっかり忘れ、過ぎる星を見つめ目を細める。
「そろそろ降りるから。手を離すなよ」
言われて、強く手を握る。同じように握り返してくれる手の熱が、近づく大地に対する恐怖を解かしてくれている。
とん、と地面に降り立てば、足に伝わるその固さに一度だけふらついた。少年が手を引く前に、足に力をいれて真っ直ぐに立つ。
「大丈夫。一人でもちゃんと立てるし、進めるから」
だから、と少年の手を離した。
一人でも立てていることに、密かに安堵する。気持ちが揺れてしまう前にと、少年に背を向けて歩き出した。
「頑張れよ」
少年の声に手を上げて答える。
振り向くことはしない。歩みを止めることもない。
見上れば、美しく煌めく星空が広がっていた。
あの繰り返しから、前へと進めたのだろう。
星空を見ながら、切り取られ繰り返したあの日のことを考える。
ただの夢だったのか。誰かか、或いは自分の願望だったのか。
「何だっていいか」
苦笑して、視線を下ろし前を見た。
原因が何であれ、もう今の自分には関係がない。
振り返らずに進むのだと。そう決めたのだから。
20251201 『凍てつく星空』