くしゅん。
小さなくしゃみと共に、毛が逆立った。
「そろそろ寒くなってきたからね」
くすくすと彼女は笑いながら、四本の尾で体を包んでくれる。
暖かい。逆立つ毛を丁寧に毛繕いしてくれる神使の姿の彼女は、白くてきらきらしていて、とても綺麗だった。
「さて、今度はどんな物語が聞きたい?それとも遊びに行こうか」
柔らかな彼女の声と、毛繕いの気持ち良さに目が細まる。
次は何をしようか。そう考えて、ふと気になっていたことが口から溢れ落ちた。
「神使のことについて知りたいな」
神使とは、ただの役割だと彼女は言った。お役目を持って長くを生きた狐。それが自分なのだと。
「そうだねぇ。神様のお使いがほとんどかな。人間からのお願い事は、私は専門外だったし」
聞きたい?そう聞かれて頷いた。
彼女のことが知りたい。秘密を知って前よりも仲良くなれて、なのにさらにもっとと欲しくなる。
我が儘だろうか。そう思うが、彼女の尾が優しく背を撫でて、思わず甘えて擦り寄った。
「じゃあ、特別に教えてあげる。昔々――」
そう言って物語を語るように、彼女はゆっくりと語り出した。
ある所に、一匹の狐がおりました。
狐に親はなく、他の狐と群れもせず、常に一人でおりました。他の狐よりも長くを生き、悠久の果てに神に仕える神使となっておりました。
狐は神使として、数多の生きとし生けるものに神の言葉を届けました。
神の言葉に従い、雨風を操ることもありました。
そうしていつしか、狐は望みを持ちました。
それは、とても小さくて些細な望みでした。
それは、誰にも応える事が叶わぬ望みでもありました。
誰にも告げられぬ想いを抱え、狐は虚ろに神使として在り続けました。
そんな狐を哀れんだのでしょうか。
ある日、神は狐に一つのお役目を与えました。
――この地を離れ、旅に出なさい。
新しいお役目に、狐は目を瞬いて。
それはそれは幸せそうに、ゆうるりと微笑みを浮かべて礼をしました。
そうして狐は当てのない旅に出ます。
神から頂いた、小さな灯り一つを持って。
狐の抱いた、望みに応えてくれるものを探して。
人間に紛れ、命の始まりから終わりまでを寄り添いました。
人間の望みに応え目覚めた妖と、言葉を交わすこともありました。
様々な場所に赴き命を見つめ、思いを聞き、そして数多を知りました。
けれどもどれだけ旅を続けても、狐の望みに応える存在は現れることはありませんでした。
狐は常に、ひとりきり。
これからもずっと、それは変わらぬものなのだと、狐は諦めかけてしまっておりました。
「諦めちゃったの?その望みって何?わたしじゃ応えられないの?」
「落ち着いて。話の途中だよ」
彼女の尾が背を撫でる。焦る気持ちが少しずつ落ち着いて、ほぅと小さく吐息が溢れた。
彼女を見つめる。金の瞳はとても静かで、彼女が何を思っているのかは分からない。
悲しんでいるのだろうか。それとも、悲しむこともできないくらいに、気持ちが沈んでしまっているのだろうか。
彼女の望みを考えてみる。ささやかで、それでいて誰にも叶えられないようなもの。
いくら考えても少しも思いつかず、彼女の役に立てないのだと、力なく耳を垂らした。
「話、続けてもいい?」
優しく囁く彼女の声に、返事の代わりに小さく尾を揺らす。
聞きたいと言ったのはわたしなのだから、最後まで聞かなくては。そう心の中で気持ちを切り替える。
「聞かせて」
彼女を見つめ願えば、静かな声が続きを語り始めた。
ある日。人間に紛れ、狐が学校に通っていた時のことでした。
一人の少女が狐に近づき、あどけない笑顔でこう言いました。
――ねぇ!わたしと友達になろうよ!
それは初めてのことでした。人間に紛れていたとしても、狐に近づく者は誰もおりませんでした。
狐は戸惑いに目を瞬き、そして少女から伸びる獣の影を見て得心が行きました。同じ獣同士。人間と群れるよりも、居心地が良いのだろうと。
しかし少女と友達となり、その関係が親友に変わってからも、少女が狐の正体に気づく様子はありませんでした。
無邪気に笑い、時に何かを悩み、戸惑いなく近づき触れる。
そのすべてが狐にとって初めてで、何よりも大切なものになっていきました。
それは少女が自分の正体を明かし、秘密の約束を交わした瞬間から、狐の望みを叶える期待となりました。
狐の望み。
小さくて些細な、けれども誰にも応えることが叶わぬと思われたもの。
少女と出会い、同じ時を過ごし、約束を交わして。
そしてようやく、その望みは応えられたのです。
「望みが叶い、狐の長い旅は終わりを迎えましたとさ。めでたしめでたし、ってね」
「え?望み……叶ったの?」
今の話のどこで望みが叶ったのだろうか。彼女を見つめるが、ゆるりと尾を振るだけ。
首を傾げて話の内容を思い返すも、よく分からない。ただ、彼女の話に出てきた少女がわたしのことだと察して、次第に落ち着かなくなってくる。
一緒にいることが大切だと言ってもらえた。そのことがとても嬉しくて、気恥ずかしい。
じっとしていられなくて、彼女から離れその場をぐるぐると回り出す。
「常盤《ときわ》」
静かな声に呼ばれて立ち止まる。彼女を見れば小首を傾げ、誘うようにゆるりと尾を揺らされた。
「おいで、常盤。側にいてよ」
大切な親友にそう言われてしまえば、離れる訳にはいかない。気恥ずかしさは残るものの、それを振り切るように彼女の元へ飛び込んだ。
暖かな尾に包まれる。優しく、けれどどこかしがみつくような力強さに、ふと思いついたことを口にした。
「ずっと寂しかったの?」
小さな呟きに、彼女は目を見張り、そして柔らかく細めた。甘えるように擦り寄られて、驚きに尾が揺れた。
「そうだよ。ずっとね、誰かとこうして寄り添ってみたかった。神使じゃなくてただの狐として、遊んだり、笑い合ったりしてみたかった」
どこか切ない声音。何も言えずに彼女を見つめれば、揺らぐ金の目と交わった。
寂しさが浮かぶ目だ。きっとまだ足りないのだろうと、彼女の目を見たまま問いかける。
「どうしたら寂しいのが全部なくなるの?」
小さく息を呑んで、彼女は迷うように視線を揺らした。
金色が、少しだけ色を落としてゆっくりと瞬く。少しして呟かれた言葉は、どこか不安に掠れていた。
「名前を呼んでほしい、かな」
意外な言葉に目を瞬いた。
それだけでいいのだろうか。そうは思うが、彼女が望むのならば叶えるべきだと、息を吸い込む。
「えっと……久遠《くおん》?」
「もっと」
「久遠」
もっと、と願われる度に名前を呼ぶ。その度に彼女の尾が揺れて、金の目がきらきらと煌めいた。
何だか気恥ずかしい。そんな気持ちはすぐになくなり、ただ嬉しくて仕方ない。
ふふ、と笑って彼女の名を呼ぶ。同じように名を呼び返してくれることが、とても幸せだった。
「ねぇ、久遠」
「何?常盤」
ふと思いついて、彼女を見る。
優しい眼差しに、願うように尾を揺らす。
「さっきのお話。めでたしめでたしで終わらせないでほしいの」
「どういうこと?」
「久遠の旅は終わったって言うけど、二人で一緒にいるのはまだ先があるでしょ。だからおしまいじゃなくて、続くにしてよ」
一人で続けた物語を、二人で紡ぐ物語にしてほしい。
わたしの思いを汲み取って、彼女が楽しげに笑った。
「じゃあ、次は常盤が話して。私と出会う前の常盤の話が聞きたい」
「そんなに話すことはないんだけど」
「それでもいいから。二人の物語にするなら、私と常盤の話を重ねないとね」
それもそうかと思いながら、記憶を巡らせる。
「本当に、話すことなんてほとんどないんだけどな」
小さく愚痴りながらも、ゆっくりと語り出す。
彼女とわたしの物語を重ねて、二人の新しい物語を紡ぐために。
20251130 『君と紡ぐ物語』
口を開き、息を吐き出した。
喉は震えない。ただ息が溢れ落ちるだけ。
「大丈夫。必ず治るよ」
優しく頭を撫でて姉は言う。それに小さく頷きを返すものの、それを心から信じられるほど子供ではなかった。
声は出ない。
きっと二度と歌えないのだろう。
喉に手を当て、何度か呼吸を繰り返す。
心配そうにこちらを見つめる姉に、へらりと笑ってみせた。
不思議と悲しみは強くはない。
声が出なくても、歌えなくても、生きていくことはできる。誰かに何かを伝える手段は、他にもある。
そんなことを思いながら、今にも泣きそうな姉へと手を伸ばし、そっと頭を撫でてみる。驚いたように目を見張った姉は、次の瞬間にはくしゃりと顔を歪めて一筋涙を溢した。
「馬鹿っ。私の心配じゃなくて、自分の心配をしなさい!あなたはいつもそうやって……」
言葉を詰まらせ俯く姉に戸惑い、慌てて頭から手を離した。恐る恐る顔を覗き込もうとするが、その前に腕を掴まれ強く抱き締められる。
「こういう時はね、泣いてもいいの。我慢なんてしなくていいんだから」
震える声に、苦笑する。
別に我慢をしている訳ではない。ただ本当に、悲しさがないだけだ。
代わりに胸の中にあるのは、不思議な安堵だけ。安らぎにも似た穏やかさだけだった。
姉の背をさすりながら、それが何故かを考える。すぐに出てきた答えに、密かに苦笑した。
これ以上歌いたくなかったのだ。ひとりきりで、届かない歌を歌い続ける苦しさに耐えられなかった。
いつも姉が褒めてくれる歌は、鎮魂の歌だ。本来ならばいくつもの響きが重なり、切なる祈りを紡ぐもの。
幼い頃は、何も知らずに歌えていた。けれどいつからか、歌と共に浮かぶ光景に、胸が苦しくて堪らなくなった。
優しい人たちが去っていく。歌声がひとつ、またひとつ減って、最後には何も聞こえなくなっていく。
白く鋭い煌めきを遮るように抱き締められ、空からいくつもの赤い花が降り続く。
ただの夢だと思っていた。けれども何度も見る夢は、繰り返す度に輪郭をはっきりとさせ、今では本当との区別がつかないほどだ。
誰かの記憶。歌に刻まれた光景が浮かぶ度に、本当は泣きたくて仕方がなかった。
「本当に頑固ね。このままだと、本当に泣きたい時に泣けなくなっちゃうわよ」
顔を上げた姉に額を小突かれて、肩が跳ねる。
姉の目に、涙はない。呆れたような、悲しむような目と視線が交わり、何故か後ろめたさを感じてしまう。
思わず視線を彷徨わせれば、姉は優しく微笑んで柔らかく抱き締めてくれた。
「無理に泣けって言っている訳じゃないけどね。いつも泣きそうなのに泣かないのだもの。今くらいは、声が出ないせいにして泣いてもいいと思うわ」
ひゅっと息を呑んだ。
何かを言わなければと口を開き、音のない吐息が溢れ落ちる。姉の眼差しに痛みを覚えて、逃げるように強く抱きついた。
「ごめんね。もっと早くに、歌わなくていいよって言えばよかった。歌に救われていたからなんて、なんの言い訳にもならないのに」
背を撫でる優しい手の温もりに、静かに目を閉じる。
暖かい。とくとく、と聞こえる力強い鼓動の音が、痛いほどに嬉しくて堪らなかった。
「いつも皆のために歌ってくれてありがとう。必ず治す方法を見つけるから、それまではゆっくり休んでね」
包み込まれるような温もりに、意識が微睡んでいく。
薄く開いた唇が吐息を溢す。ありがとうの言葉ひとつすぐに伝えられなくなったことに、ようやく気づいた。
一筋、頬を滴が伝う。遠く姉の歌声を聞きながら、ゆっくりと意識が沈んでいった。
不思議な夢を見た。
赤い花が咲き乱れる木の前で、誰かが歌っている。
辿々しい旋律。歌い慣れていないのだろう。時折音を、歌詞を誤っては、けれどそれを気にすることなく歌い続けている。
ここからはその表情は見えないが、歌声はどこか楽しげだ。その姿は時に霞み、花開くように輪郭を濃くしていく。歌に呼応するように花の赤が空に溶け出して、白くなった花がぽとりと地に落ちた。
空に溶けた赤は歌声となって、誰かの歌に重なり響き合っていく。花が落ちる度に誰かは受け止め、花の赤が歌へと変わっていく。
それをただ見ていれば、誰かがこちらを振り向いた。
懐かしい。繰り返し見た夢で抱き締められた温もりを思い出す。
花になった人。祈りにすべてを捧げるのではなく、祈る人々にすべてを捧げた優しい人。
誘われるように、足を踏み出した。ふらふらと近づいて、木の前で静かに膝をついた。
手を組み、目を閉じる。聞こえる歌声に重ねるように、口を開いた。
声は出ない。ただ吐息を歌に重ねていく。失ってしまった響きを、空に溶かしていく。
不意に肩に誰かの手が置かれた。目を開けて視線を向ければ、美しい着物を纏った姉が静かに微笑んでいた。
「我らの祈りを忘れず、その身に宿してくれたこと。その献身に深く感謝します。時代も立場も違えど、絶えぬ思いを知ることができ、とても嬉しく思いました……本当にありがとう」
促され、立ち上がる。歌い続ける誰かを見つめ、姉と共に深く礼をした。
「誰かのためにと無理をする必要はないよ。自分の祈りは終わったのだから、後は好きに生きるのが一番いい」
顔を上げた自分の前に、赤が抜けた白い花を差し出された。怖ず怖ずと花を受け取れば、寄り添う姉は再び礼をした。
「言葉は時と共に戻るだろう。けれど歌はどうなるかは分からない。この子は祈り終えてしまっているからね」
「ご慈悲に深く感謝致します」
凜とした姉の所作に、どこかの姫のようだとぼんやり思う。こちらに視線を向けて微笑んだ姉はとても美しかった。
「参りましょうか」
姉の言葉に頷いて、赤い花と誰かに背を向け歩き出す。
歌声が辺りに響き、それが見送ってくれるようで何故か胸が熱くなった。
「場所も時代も違えど、祈りは同じか。あの時の彼が知ったらどう思うのかな」
意識が沈む間際、小さな呟きが聞こえた気がした。
「おはよう」
微笑む姉に、頷きを返す。
声はまだ戻らない。それを少しだけ惜しく思いながら席についた。
「もうすぐ出来上がるから、待っててね」
マグカップを手渡す姉に、大丈夫だと笑ってみせる。頭を撫でて戻っていく姉の背を見ながら、湯気を立てるマグカップの中のホットミルクに息を吹きかけた。
姉は今日も忙しそうだ。それでもとても楽しそうにしている。
少し調子の外れた歌声に、思わず溢れた笑いを噛み殺す。代わりに、その歌にそっと吐息を重ね合わせた。
歌と息が響き合い、懐かしい旋律が部屋を満たしていく。
例え声が戻っても、歌うことはないのだろう。
それでも、こうして重ねることはできることが、今はなによりも幸せだった。
20251129 『失われた響き』
肌寒さに目が覚めた。
微睡む意識で、周りを見渡す。
まだ薄暗い部屋の中、カーテンが微かに揺れているのが見えた。
窓を開けた記憶はない。自分の他に窓を開けるような誰かもいない。
何故窓が開いているのだろうか。込み上げる疑問に、だが窓を確かめる気力はなかった。
体が鉛のように重い。気を抜けばすぐにでも瞼が閉じてしまいそうだ。
ぼんやりと、揺れるカーテンを見る。強く風が吹き込んだのか大きくカーテンが揺れ、僅かに外が覗いた。
薄暗く、寒々しい空。葉の落ちた木。窓の結露。
きっと、外は霜が降りているのだろう。
はぁ、と息を吐き出す。暗がりの中でも息が白に染まるのが見えて、小さく体を震わせた。
布団に潜り込むが、寒さは少しも和らぐことはない。逆に段々と体温が奪われていくようで、危機感を覚えて無理矢理に布団から抜け出した。
重い体を引き摺って、窓へと向かう。手を伸ばし、カーテンを引いた。
「――っ」
しん、と静まり返った外に、息を呑んだ。見慣れた景色がまったく知らない景色に見えて、訳もなくこの場から逃げてしまいたい衝動に駆られた。
僅かに開いていた窓に手を伸ばす。締めようと力を込めた手は、けれど何故か少しも動かない。戸惑いに手を離そうとするが、意思とは反対に手は勝手に窓を開け放っていく。
「なんで……」
呟いて、自分の手を見つめた。
不思議と恐怖はない。寒さで意識がはっきりとしていないからなのかもしれないが、自分にはよく分からなかった。
視線を手から窓の外へと移す。霜の降りた寒々しい光景に、ふとひとつの足跡を見つけ目を瞬いた。
「動物の、足跡?」
先が二つに割れた小さな蹄の跡。窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして足跡を見る。
見たことがあるはずなのに、それがどんな動物だったのかを思い出せない。思考がまとまらず、何を考えていたのかすらも曖昧になっていく。
はぁ、と息を吐けば、白い靄が空気に溶けていく。体は確かに寒さを訴えているはずだが、それすらもどこか遠く感じられた。
ふと、誰かに見られている気がして、顔を上げた。ゆっくりと周囲に視線を向ける。
誰もいない。あるのは葉の落ちた木々と霜と足跡。霜の白にくっきりと刻まれた、こちらに向かう蹄の跡。
彷徨う視線が、木とは違う何かを認めた。枝のようで、明らかに違う何か。それは獣の角のように見えた。
黒く濡れた瞳が、静かにこちらを見つめている。その瞳と目を合わせたまま、さらに体が前へと傾いでいく。
からん。
鐘の音が響き、弾かれたように体を起こした。
どれだけ時間が経ったのか。体はすっかり冷え切り、かたかたと震えて必死に熱を産生しようとしている。危機感を感じて、凍える指先に力を入れ窓を閉め鍵をかけた。
窓から見える空には、高く陽が昇っている。地面の霜は溶け、足跡一つ残ってはいなかった。
「夢……?」
どこからが夢で、どこまでが現実なのだろうか。改めて周りを見ても、何も見つけられはしない。
最後に見た瞳を思い出す。真っ黒な瞳。何もかもを見通すような、感情の乗らない獣の眼。
見極められていた。根拠のない確信に、寒さからではない震えを感じて、誤魔化すように暖房のスイッチを入れた。
そのままベッドに倒れ込む。じわりと暖まる部屋と体に、忘れかけていた眠気が込み上げ、小さく欠伸を漏らした。
今日の予定を思い浮かべつつ、このまま眠ってしまおうかと目を閉じる。すぐに意識が微睡んで、沈んでいく端でぼんやりと思う。
足跡はこちらに向かうものだけだった。もしかしたら、今もいるのだろうか。
からん、と鐘がなる。それを疑問に思う間もなく、意識が深く沈んでいく。
閉じた瞼の裏側であの黒く濡れた瞳を、その奥に広がる深い雪に沈む街の姿を見た気がした。
遠く聞こえる電子音に、沈んでいた意識が浮上する。
目を開ければ、見慣れない天井が目に入った。それを疑問に思いながら、視線だけで辺りを見渡した。
三方を仕切るカーテン。無機質なベッド柵。布団の下から伸びるいくつもの管。規則正しく波形を刻む何かの機械。
何故、と疑問に思いながら、重い体を無理矢理に起こす。途端に鳴り響くアラーム音に身を竦めていれば、こちらに近づく複数の足音が聞こえた。
呆然としている間にカーテンを開けられ、看護師たちが顔を覗かせる。僅かに目を見張り、慌ただしく行き交う様子をどこか他人事のように眺めていた。
様々な検査を受けながら、開け放たれたカーテンの向こう側の窓へと視線を向けた。
広がる青空に、厚い雲は見えない。視線を下ろしても雪の白はなく、いつもと変わらない無機質な街並みが見えるだけだった。
長い夢を見ていた気がする。どんな夢を見ていたかなど、起きてしまった今は霞み揺らいで、酷く曖昧だ。
雪を待っていたのだろうか。それとも雪に連れて行かれることに怯えていたのだろうか。
浮かぶ思いは、訪れた医師の言葉に消えていく。
どの質問に対しても首を振るしかできない。倒れる前に何があったのかどころか、今の自分の状態すらはっきりしない。
気づけば倒れていた。何日も目を覚まさなかった。原因は分からない。
与えられた情報からも、何一つ分かるものはなかった。
不意に眠気が込み上げ、瞼が重くなっていく。そんな自分に、医師は僅かに険しい顔をしたが、看護師にいくつか指示を出し去っていく。リクライニングを倒され横になれば、もう目を開けていられなくなった。
周囲の音が遠くなる。沈む意識の中、小さく体を震わせた。
今日は随分と冷え込んでいる。布団を被っていても、寒さを感じるほどに。
微睡みの中、思う。
きっと明日の朝には、霜が降りていることだろう。
20251128 『霜降る朝』
息を深く吸い込み、吐き出す。
ただそれだけの動作を繰り返す。
目はまだ開けられない。胸の鼓動は少しも凪ぎはしない。
気づけば苦しさに、胸の前で手を組んでいた。きつく組んだ手の熱に、そのまま溶けていきそうな錯覚を覚える。
薄く目を開ける。組んだ手に視線を向け、その滑稽さに乾いた笑いが込み上げた。
目を閉じ、胸の前で手を組むその姿。
それはまるで、祈りを捧げているように思えた。
目を閉じて、自嘲する。
何を祈ることがあるのか。今更誰に祈りを捧げるというのか。
空っぽになってしまった自分には、もう何もない。あるのは埋まらない欠落のみで、そこに願いは存在しない。
深く息を吸い込み、吐き出した。
きんと冷えた空気が、肺を満たす。痛みすら覚えるその冷たさに、浮かぶ感情が凪いでいく。
けれども感じる胸の鼓動は変わらないまま。速くもなく遅くもないその規則正しさが、苦しくて堪らない。
「誰か……」
喘ぐような呼吸に紛れ、無意識に呟いた言葉が鼓膜を震わせる。
まるで子供のようだ。ぼんやりとした意識で、そう思う。
きつく組んだ手を伸ばせず、立ち尽くしたままどこにも行けず。それでも誰かが気づいて、手を差し伸べてくれることを待っている。どこまでも他力本願な自分に、吐き気がしそうだ。
息を深く吸い込み、吐き出した。
それだけで何もかもが鎮まっていく。
残るのは、鼓動と呼吸。決して止まることのない二つだけ。
不意に、空気の流れが変わった。
自分の横を、誰かが通り過ぎていく。そんな感覚に、小さく息を呑んだ。
目は開けられない。誰がいて、誰がいないのか。まだ見る勇気がなかった。
目を開ける代わりに唇を噛みしめれば、背中に仄かな温もりを感じた。
優しく、愛おしいその温もり。ふわりと薫る懐かしい匂いに、鼓動が跳ね呼吸が乱れる。
背中を包み込むように、後ろから抱き締められている。
いつもそうだ。一人で泣いていれば必ず気づいて、こうして泣き止むまで抱き締めてくれた。
慰めの言葉はない。ただ泣き止むまで、側にいる。それだけで不思議と悲しみは消え、涙の代わりに笑みが溢れていたことを思い出した。
「――大丈夫だよ」
掠れた声で呟いた。泣くのを堪えた、か細い震えた声。
届いたかは分からない。それでも伝えなければと、息を吸い込んだ。
「大丈夫。ちゃんと一人で歩けるから。もう手を引かれなくても、迷ったりはしないから」
だから大丈夫。
そう繰り返せば、優しい温もりが頭に触れた。褒めるように撫でられて、耐えきれず一筋頬を滴が伝う。
息を深く吸い込み、吐き出した。
きつく組んだ手を、ゆっくりと離していく。凪ぐことのない胸の鼓動が、穏やかに旋律を刻んでいく。
温もりが離れていく。とん、と背中を押されて、一歩足が前に出た。
「ありがとう」
笑みを浮かべ、感謝の言葉を口にする。
最後まで優しい人だった。
自分を導き、守ってくれた唯一。
もういない。
「大丈夫。一人で歩けるよ」
息を深く吸い込んで、吐き出す。
顔を上げて、閉じていた目を開けた。
「――っ」
網膜を焼くような、色彩の鮮やかさに息を呑んだ。
手を引かれていた時には分からなかった。それだけ自分の中の世界は狭かった。
澄んだ空の青。赤や黄に色づいた葉。枯れることを知らない山の緑。
「あぁ……」
思わず声が漏れる。
世界は美しいのだと、いつか言われたことを思い出す。
あの時は、信じていなかった。世界とは怖ろしく、醜いものでいっぱいなのだと、根拠もなくそう思っていた。
今になって、一人きりになってようやく理解した。
息を吸い、吐く。
冷えた空気が胸を刺した。
痛みすら覚えるその冷たさ。その中に懐かしい匂いを感じて、涙の代わりに笑みが浮かぶ。
一歩、足を踏み出した。さくり、と落ち葉が音を立てる音すら美しい。
前を向いて歩き出す。目を閉じることも、手を組むこともしない。
無条件に差し伸べられる手を失った今、祈り、誰かの助けを待つことはない。
「大丈夫。世界は綺麗なんだから」
呟けば、そっと風が過ぎていく。
冷たさに混じる、どこか甘さを感じる匂い。吸い込んで吐き出せば、それだけで心が軽くなる気がした。
20251127 『心の深呼吸』
糸を紡ぐ。
からからと、くるくると、見えない糸が紡がれる。
手を止めて、紡いだ糸の先を見た。宙に揺れる見えない糸は次第に色づき、先を誰かの右手に巻き付け繋いでいく。
目を凝らす。遠く見える誰かが繋がれた手に視線を向け、こちらを振り向いた。
思わず息を呑む。
紡いだ糸が繋ぐ先は、自分自身だった。
「なんで……」
「何が?」
溢れ落ちた声に返事が返り、咄嗟に振り返った。
「え?あれ……?」
そこは糸を紡いでいた作業小屋の中ではなかった。
高く昇った陽が煌めく、穏やかな午後の空。咲き乱れる菊の花が、庭に彩りを添えている。
「おばあちゃんの……お屋敷?」
困惑に目を瞬いた。
いつからいたのだろうか。記憶を辿るも、霞みがかって酷く曖昧だ。
「さっきからどうしたの?急に黙り込んだと思ったら、信じられないものを見る目でこっちを振り返るし」
呆れを滲ませそう言いながら、従姉妹はこちらに近づいて額に手を触れた。
「熱はない……というか、冷えてるじゃない。あんた、いつから外に出てたのよ」
額に触れていた手が離れ、腕を掴まれた。何かを言う前に掴んだ腕を引かれ、屋敷へと歩き出す。
何故、自分はここにいるのだろう。尽きない疑問を従姉妹へと投げかけようとして、何も言えずに口を噤む。聞いても答えはもらえないという諦めではない。何から聞けばいいのか、分からない程何も覚えていないことに気づいたからだ。
不自然な空白が、自分の中に存在している。ぽっかりと空いた穴は、まるで奈落のように底なしの昏さを湛えているかようだ。ふるりと身震いをすれば、それに気づいて従姉妹の歩む速度が少しばかり速くなった。
「戻ったら、取りあえず炬燵に入って暖まりなさいね。生姜湯でも作ってきてあげるから」
「あ、ありがとう」
小さく礼を言えば、答えの代わりに腕を掴む手の力が緩んだ。そのまま下がり、手を繋がれる。
見えない糸が絡んだ右手。
繋いだ手を見ながら糸を紡いでいた自分と、糸に繋がれた自分を思い出す。
随分と可笑しな夢だった。白昼夢とでもいうのだろうか。糸など紡いだ経験などないのにどうしてそんな夢を見たのか。
不思議に思いながら、従姉妹に気づかれぬようそっと嘆息した。
「はいどうぞ。熱いから、気をつけなさいね」
「ありがとう」
手渡されたマグカップを両手で包み、立ち上る湯気に息を吹きかけた。
そんな自分を見て従姉妹は表情を少しだけ和らげ、炬燵に入る。自分のものと同じように湯気が立ち上るマグカップに口をつけながら、それで、と静かに疑問を口にした。
「どうしてあんな所にいたのよ?すごくびっくりしたんだけど」
問われて、思わず眉が下がる。
どう答えたらいいのか分からない。自分でも何故、祖母の屋敷の庭先にいたのか覚えていなかった。
「気づいたらいた、というか……なんでおばあちゃんのお屋敷にいるのも、覚えてないというか……」
途切れ途切れに答えると、従姉妹はあぁ、と訳知り顔で一人頷いた。
頭を撫でられる。従姉妹の浮かべる笑みの優しさに、益々困惑する。
彼女は何を知っているのだろう。けれどもそれを問う前に、従姉妹は何かを考えるように宙を見ながらゆっくりと口を開いた。
「どこまで覚えてるか分かんないけど……あんた、自分が死にかけたってことは覚えてる?」
「え……?」
従姉妹の言葉に呆然と呟く。そんな自分の反応を見て従姉妹は苦笑し、大丈夫だともう一度優しく頭を撫でた。
「一週間位前にね、おばさんがあんたが何しても起きないってうちに駆け込んで来たの。で、ばあちゃんの指示で、ここで様子を見るってなったんだ」
「なんで、ここ?病院じゃなくて?」
「病気じゃなかったからじゃない?ばあちゃん、若い時はそっち関係の仕事をしてたっていうし」
言っている意味がいまいち分からず、首を傾げる。
目が覚めなかった自分。病気ではないなら、何が原因だったのだろう。
ふと、見えない糸を紡いで自分に繋げていた夢を思い出した。
「さっき……糸を紡いでた。見えない糸を紡いで、それに色がついて……遠くにいる自分に、糸が繋がった……そんな夢を見たけど」
「あぁ。やっぱりあんた、結構危なかったんだね」
静かな呟きに、肩が跳ねた。
危なかった。その言葉の意味を問うべきか逡巡し、視線が彷徨う。どうすればいいか分からず、落ち着かせるようにマグカップの中の生姜湯に口をつけた。
「ばあちゃんね。あんたがここに運ばれてきてから、ずっと部屋で糸を紡いでたんだよ。それで、毎晩あんたの枕元にその糸を置いていたんだ……切れかけた時間を繋ぎ直すための糸だって、そう言ってたよ」
「糸……」
「それをあんたは夢の中で正しく受け取って、遠くに行きかけた自分に繋いだ。きっともう、大丈夫なんじゃないかな」
右手を目の前に翳し、繋がれた糸を探すように目を細めた。
何も見えない。当たり前のそれが、どこか惜しいと感じた。
「しばらくは栄養のあるもの食べて、ゆっくり休みな。あたしもできるだけ一緒にいてあげるから」
「ありがとう。でも、いいの?」
「可愛い従姉妹の一大事なんだから。いいに決まってるでしょ」
にっと笑い、従姉妹はさっきよりも強めに頭を撫でた。
「でもまずは、おばさんに目が覚めたってこと、連絡しないとね。戻る時に蜜柑か何か持ってくるから、ちょっと待ってて」
そう言って、従姉妹は生姜湯を飲み干し立ち上がる。何かを言う前にそのまま部屋を出ていってしまい、思わず苦笑する。
「糸、か……」
祖母が紡いでくれていたという、時を繋ぐ糸。それならば糸が繋がったあの自分は、過去のどこかの時間だったのだろうか。
目を閉じる。従姉妹はもう大丈夫だと言ったが、自分の中にはまだ空白が残っている。離れていってしまった時間は、まだたくさんある。
小さく息を吐いて目を開けた。どうしてこんな状況になったのかは分からない。一度離れてしまった時間が、再びすべて元通りに繋がるのかも分からない。
分からないことだらけだが、不思議と恐怖はなかった。
祖母がいて、従姉妹がいていくれるなら、何とかなるのではないかという安心感の方が強い。
絶対的な信頼に、笑みが溢れ落ちた。
温くなった生姜湯に口をつける。じんわりと体に染み込む温もりに、従姉妹のようだと一人声を出して笑った。
20251126 『時を繋ぐ糸』