赤や茶色が敷き詰められた道を歩いていく。さくり、さくりと歩くたびに乾いた音が鳴る。見上げる木々は寒々としているのに、足下はとても鮮やかだ。
悪戯な風が辺りに赤や茶色を舞上げ、視界を覆う。思わず立ち止まる体に、かさりと落ち葉が降り積もった。
「鍵はこの家のどこかにあるよ。頑張って探してね」
そう言って笑いながら消えた彼女を思い出し、何度目かの溜息を吐く。
探し始めて何時間が経過したのだろうか。広い家の中から、小さな鍵を見つける。途方もない行為に、最初から無理だと察してはいたが、やはり手がかりひとつ見つからない。
近くの椅子に腰掛け、眉間に刻んだ皺を伸ばしつつ目を閉じる。
もう、諦めてしまおうか。
何度も込み上げた気持ちを、何度も同じように否定する。
諦める訳にはいかない。
鍵がなくとも、生きることに支障はない。しかし、鍵がなくては生きる意味がないのだから。
「――探すか」
椅子から立ち上がり、もう一度鍵を探し始める。
玄関。リビング。キッチン。
棚の上や引き出しの奥まで、探せる場所はすべて探した。ほんの僅かな隙間さえも、隅々まで確認した。
やはり鍵は見当たらない。そもそも本当はこの家に鍵はなく、彼女が持っているのかもしれない。
ベッドに倒れ込み、溜息を吐いた。
やはり諦めるべきなのだろう。これ以上鍵を探しても、空しさが広がるだけだ。
横になったまま手を伸ばし、サイドテーブルの引き出しを開けて中から箱を取り出した。
手の中に収まる程度の小さな箱。鍵穴を一撫でして、眉を下げ笑う。
「いい加減に手放せって……そういうことなんだろうな」
探している鍵は、この箱の鍵だ。鍵を失って開けられず、中身に触れられなくなった箱を暫し見つめ、体を起こした。
そっと箱に手をかけた。開かないとは分かっている。ただ諦める切っ掛けがほしかった。
「――え?」
けれども想像を裏切り、箱は小さな音を立てて開いた。中には古ぼけたいくつもの写真。そして探していた鍵と、一枚の手紙。
震える手で手紙を取り出し、ゆっくりと開く。中には彼女の字で。
――記憶には、鍵がかからない。
ただ一言、書かれていた。
「やっと見つけた。このまま諦めちゃうのかなって思ってたよ」
いつの間にか彼女はベッドの傍らに立ち、開いた箱の中身を見て笑う。
「これは流石に、狡くない?」
箱を開けるための鍵がその箱の中に入っているなど、考えもしなかった。思わず愚痴を溢すが、彼女は声を上げて笑うだけで気にする様子はない。
「狡くない。ちゃんと家の中にあったでしょ?」
そう言って止める間もなく手を伸ばし、箱の中の写真を取り出した。
一枚、一枚。懐かしむように目を細めながら写真を見つめる。時折こちらを見ては、意味ありげに笑った。
「何?不気味なんだけど」
「別に?体だけは大きくなったなって……中身はあんまり変わらないのにね」
揶揄いではなく、只管に優しい声音で彼女は呟く。何枚かの写真を目の前に並べて、指で指し示した。
「諦めないでくれてよかった。大切な記憶なんだから、簡単に手放そうなんて考えちゃだめだよ」
「昔の記憶なんてさっさと手放してしまえって意味かと思ってた」
「そんな訳ないでしょ。これらを手放してしまったら、あなたはあなたじゃなくなっちゃうじゃない。過去があって、あなたはこうしてあなたとして今ここにいるんだから」
彼女の言葉を聞き流しながら、目の前の写真に手を伸ばした。
幼い頃の家族写真。まだ何も知らずに幸せに笑っていられた記憶を思いながら、一枚手に取り眺め見た。
「こんな痛いだけの記憶なんかなくても、生きていけるのに」
「お馬鹿さん」
無意識に呟いた言葉に、彼女は溜息を吐きつつ背を叩いた。急な衝撃と痛みに前のめりになりながら不満を込めて彼女を見つめれば、もう一度溜息を吐かれた。
「記憶がなかったら、自分が分からなくなるじゃない。さらに痛みが強くなるだけで、その内何で生きているのかも分からなくなっちゃうわ」
そう言って彼女は優しく笑う。何も言えなくなってしまった自分を寝かしつけて、広げた写真を丁寧に箱に戻していく。
最後に箱を箱を締め、引き出しにしまう。鍵はかけていない。箱の中に隠してあった鍵は、彼女の手の中に収まっていた。
「思い出に鍵なんていらないでしょ?勝手に消えたり、誰かに取られることなんてないんだから……だから鍵はまた、私がどこかに隠しておいてあげる」
優しく頭を撫でられて、急な眠気に目が閉じていく。静かな部屋にそっと子守歌が響き渡る。
「おやすみなさい……あの人のこと、憎まないでいてくれてありがとうね」
「憎んではないけど、大嫌いだよ」
子守歌の合間の囁きに、眉を顰めて呟いた。
微睡む意識で、ふと思う。
彼女は一体誰なのか。
子守歌。触れる手の温もり。あの人。
過ぎていく記憶に、一つの形が浮かぶ。それが正しいのか、それとも誤りなのかは分からない。
ただ彼女の笑顔は、幼い頃に見たアルバムの中の、母の若い頃の姿によく似ていたから。
「おやすみ……かあさん」
そっと呟く。
撫でる手がさらに優しくなって、褒めてもらえたようで笑みが浮かんだ。
聞こえるアラームの電子音に、微睡む意識が浮かび上がる。
目を開ける。自分以外誰もいない部屋に何故か違和感を感じながら体を起こした。
アラームを止めて、部屋を見渡す。いつもと変わった様子はない。
首を傾げながらもベッドから抜け出し、大きく伸びをする。軽く頭を振って、眠気を散らした。
「そう言えば……」
ふと直前まで、何か夢を見ていたことを思い出す。詳しくは覚えていないが、何かを必死に探している夢だった。
「何、探してたんだっけ?」
思い出そうとすればするほど朧気になる夢に、溜息を吐いて思い出すのを諦める。きっと昼頃までには、夢を見たことすら忘れているだろう。
苦笑し、サイドテーブルの引き出しを開けた。奥に入っている一枚の写真を取り出す。
幼い頃、まだ母が生きていた時に撮った家族写真。笑っている両親と自分を見ながら、同じように笑ってみる。
今ではこんな風に無邪気に笑うことも、父に会うことすらもなくなってしまった。
「――さて、今日も一日、頑張るか」
写真を引き出しの中にしまい、自分に言い聞かせるように呟いた。
何故だろうか。今日はとても気分がいい。
今なら何年も会っていない父と、感情的にならずに話ができるかもしれない。
そんなことを思いながら、スマホを取り出した。
20251124 『君が隠した鍵』
その懐中時計は壊れていた。
ガラスはひび割れ、黒の針は沈黙を続けている、耳を澄ませても、僅かにも音は聞こえない。
「どうして、壊れた時計を持っているの?」
夜の公園。ベンチに座る青年の横で、幼子は懐中時計を見つめながら問いかける。
「いつか、必要になる時が来るからだよ」
首を傾げる幼子の頭を優しく撫でながら、青年は淡く微笑んだ。時を止めた懐中時計に視線を落とし、動かない針をガラス越しになぞる。
「時間を必要とする誰かが現れた時、時計はまた動いてくれるんだ」
穏やかに、残酷に。
青年は幼子に向けて語る。
その微笑みは慈しみに満ちて、幼子の目には何故か泣いているように見えていた。
「――誰かは、現れてくれるの?」
吐息のような幼子の微かな声。青年は目を細め、遠く空を見つめ口を開いた。
「時間を必要とする人はたくさんいるよ」
その呟きは、どこか寂しげな色を湛えている。どこか後悔を滲ませた、そんな静かな声だった。
「僕も、必要としてしまったからね」
懐中時計を撫でる指が微かに震えているのを、幼子はただ見つめている。そして青年の目を見つめ、首を傾げた。
「後悔、しているの?時間を必要としたから?」
幼さ故か、問う言葉に遠慮はない。真っ直ぐな視線に、青年は小さく息を呑んだ。
そっと手の中の懐中時計を撫でる。幼子の視線から逃れるように視線を彷徨わせ、やがて力なく微笑み目を伏せた。
「後悔してはいけないよ。あの時時間を必要として、この時計を受け取り使ったのは、確かに僕の意思だったんだから」
青年の震える唇が、吐息を溢す。
「この時計はね、人の命の砂を動力に動いているんだ。誰かの命の時間を使って持ち主を生かす。悲しい時計なんだよ」
そう言って、青年は静かに語り出した。
在りし日の、青年の最後の願い。それに応え、手渡された懐中時計に込められた、小さな命を。
青年は元から病弱で、蝕む病により長くは生きられない体だった。
最後の時。青年の意識は、ひとつの悔いを胸に抱きながら自身の体を見下ろしていた。
もう少しだけ。数日だけ時間が欲しかった。友人と交わした約束を守りたかった。
「泣いているの?」
不意に聞こえた声に、青年はゆっくりと顔を上げた。
振り返ると、そこには幼い少女が一人。胸に抱いた猫のぬいぐるみを抱き締め、無垢な瞳で青年を見つめていた。
「体が痛むの?おまじないをしてあげようか」
眠る青年の体に近づき、少女は片手を伸ばす。
「いたいの、いたいの、とんでいけ」
頭や体を撫でながらおまじないを繰り返す少女に、青年はそっと少女の手を止めた。
「ありがとう。でも、大丈夫。もう痛みはないんだ」
「じゃあ、どうして泣いているの?」
首を傾げ、少女は今度は青年の顔に手を伸ばした。頬を伝う滴を拭われ、そこで初めて泣いていることに気づく。
自覚してしまえば、さらに涙が込み上げる。悲しみに暮れる家族や友人たちの顔を思い浮かべ、唇を噛みしめた。
「何が悲しいの?」
少女はただ問いかける。
純粋な疑問を宿した声音。真っ直ぐな瞳。
不思議と話してしまいたい気持ちになった。
「友達と約束をしたんだ。次に来る時には、この街の写真をたくさん撮ってきてくれるって……あまり、外には出られなかったから」
その時の友人の笑みが思い浮かぶ。だからもう少し頑張れと、指切りした時の小指の熱をまだ覚えている。
それが叶いそうにないことが悲しいのだと、青年は少女に語った。
「もう少し時間があれば、ちゃんとお別れを言えたのに。間に合わないことが、とても悔しい」
「時間があれば、悲しくないんだ」
唇を噛みしめた青年を見て、少女は小さく頷いた。ぬいぐるみの背を一撫でし、中へと手を差し入れる。
しばらくして、少女はぬいぐるみから手を引き抜くと、その手には銀色に煌めく懐中時計が握られていた。
「これあげる」
「え?」
戸惑う青年の手に、少女は懐中時計を押しつける。無垢な瞳が、ほんの僅か柔らかく綻んだように見えた。
「わたしには、必要ないから……お迎えも来てるし、もう行くね」
「待って……!」
引き留める間もなく、少女の姿が霞み消えていく。伸ばした手がすり抜けて、青年は目を瞬いた。
さらさらと砂が溢れ落ちる音がして、白い光が目を焼いた。
咄嗟に強く目を閉じ。
「夢……?」
次に目を開けた時、青年はベッドの上で横たわっていた。
重い腕を持ち上げる。手の中には、少女に渡された銀の懐中時計が静かに時を刻んでいた。
「この時計が時を刻んで、僕は友人との約束を守ることができた。その時は時計が何なのか、まったく分かっていなかった」
慈しむように懐中時計を撫でながら、青年は語り続ける。
「時計について知ったのは、一ヶ月も後になってからだったよ。隣の病室にいた女の子が、僕が目覚めた日に亡くなったって話を聞いた……その子は、僕に時計をくれた女の子だった」
顔を上げ、青年は眉を下げ笑った。けれどそれは笑っているというよりも、泣いているように見えた。
「僕はね、その子の命を消費して生きていたんだ。それを知った時すぐに時計を手放したけど、その子が戻るはずもない。それに……結局、時計は僕の元に戻ってきてしまった」
その時にはもう、懐中時計は壊れていたのだという。死者の時は進まないということだろうと、青年は語った。
幼子は青年の手の中の懐中時計を見た。壊れ、動かない時計。誰かの命。
ゆっくりと目を瞬いて、青年と目を合わせた。
「時計を、返したいの?」
幼子の真っ直ぐな問いに青年は目を見張り、微笑んだ。
褒めるように頭を撫でて、壊れた懐中時計を幼子に差し出した。
首を傾げて幼子は懐中時計を見て、そして青年を見つめた。ゆるゆると首を振り、違うと呟いた。
「わたしのじゃないよ。これはわたしの時計じゃない」
小さな手が、青年の頬に触れる。流れる滴を手で拭い、幼子はふわりと微笑んだ。
「これね、猫さんの時計なの」
「猫の……時計?」
「うん。九つある命のひとつをくれたんだよ。お迎えが来る間、退屈だろうからって」
青年の手を、差し出す懐中時計ごと幼子は両手で包み込む。軽く振って手を離せば、壊れていたはずの懐中時計は、傷一つない美しい銀色を煌めかせながら時を刻みだした。
「お兄さんが最後まで使ってくれてよかったんだよ……ごめんね。わたしが何も言わなかったせいで、お兄さんを悲しませちゃった」
「違うっ!僕は……!」
青年の否定の言葉は、唇に触れた幼子の人差し指で消える。口を閉ざせばそっと指は離れ、そのまま青年の手を取って幼子は立ち上がった。
「お兄さんもいらないなら、手放しに行こう」
「手放しに?それって、どういう……」
幼子の言葉に疑問を口にしかけるが、返るのは微笑みのみ。軽く手を引かれ、それ以上問うこともできずに青年もまた立ち上がった。
幼子に導かれ、夜の公園を抜けていく。見慣れた住宅街に出るはずの出入り口は、過ぎた瞬間に木々に囲まれた知らない場所へ二人を連れ出した。
「ここは……?」
「こっちだよ」
目の前には、枯れかけの巨木。呆然と見上げる青年の手を引いて、幼子は木の根元まで歩いていく。
「ここに時計を埋めるの。そうしたら綺麗な花を咲かせてくれるんだよ」
「時計を埋めるの?」
「うん、そう。手放した時間の分だけ、優しい夢を見せてくれるの」
にこにこと笑う幼子に促され、青年は木の根元に膝をつき土を掻いた。ある程度掘り進め、できた穴の中へと懐中時計を入れて、そっと土をかけていく。
懐中時計が見えなくなった瞬間。ざわりと空気が震えた。顔を上げた青年の前で、枯れていたはずの木に葉が茂り、美しい花を咲かせていく。
風が、花弁を空に舞い上げた。月の光を浴びる純白の花は雪のように儚く、蛍の光のように幻想的に夜を彩っていく。
「あぁ……」
「ね?綺麗でしょ」
思わず溢れた感嘆の吐息に、幼子は嬉しそうに木を見上げながら笑う。両手を広げ、空を舞う花弁を追いかけた。
不意に、どこかで猫の鳴き声が聞こえた。その声に幼子は木を見上げ、大きく手を振り出す。
「猫さんだ!お迎えが来たよ」
幼子のように木を見上げる青年の前で、枝がしなり葉が音を立てた。小さな影がしなやかな動きで下りてくる。とん、と小さな音を立て地に降り立ったのは、二つの尾を持つ、美しい黒い毛並みの猫だった。
「時間をありがとう。前に教えてくれたように、使わなかった時間は土に埋めて手放したよ。わたしもお兄さんもあんまり使わなかったから、とっても綺麗な花が咲いたね」
そう言って再び花弁を追いかけ始めた幼子を、黒猫はゆらりと尾を揺らしながら見つめる。そして立ち尽くす青年へと視線を向けて、小さく鳴き声を上げた。
「え、あ……その……」
状況を理解しきれていない青年は、視線を彷徨わせる。木と、幼子と、黒猫に順に視線を向けて、一呼吸の後に深く頭を下げた。
「ありがとうございます。時間があったから約束を守ることができました」
感謝の言葉を述べる青年を、黒猫は暫し見つめ。
「欲に溺れなかったのは、褒められるべきこと」
穏やかに語りかけ、月を見上げて高く鳴き声を上げた。
「出発だね。お兄さん、一緒に行こう」
猫の声に戻ってきた幼子が、青年と手を繋いだ。二人を一瞥し歩き出す黒猫を追って、幼子は歩き出す。手を引かれるままに青年も歩き出した。
「次はきっと、余るくらい時間がたくさんあると思うよ。我慢しないで、好きなことをしようね」
「うん……そうだね。今度は色々な所へ行こう」
笑う幼子に、青年も微笑みかける。繋いだ手を揺らし、黒猫の後を歩いていく。
風が吹き抜け、花弁を散らす。
猫と二人が去った後、木は再び葉を落とし。
時間を手放す誰かが訪れるまで、静かに佇んでいた。
20251123 『手放した時間』
ぽとりと紅の花が落ちた。
美しかった花は落ちた瞬間に腐り、褪せた花びらを地面に散らしていく。
酷く醜い。咲き誇っていた花を愛でていたことも忘れて、顔を顰めた。
目を逸らして、咲き始めの花に視線を向ける。
これから美しく咲くであろう花。だがやがては地に落ちて、腐っていくのだろう。
また一つ花が落ちる。
咄嗟に手を伸ばした。手の中で花びらを散らすが、腐る様子はない。
地に視線を落としても、そこに落ちた花は一輪もなかった。
「どうして」
何故かそれが悲しくて、寂しくて、胸が苦しくなる。
思わず膝をつきかけた瞬間。
「何してんだ?」
訝しげな声と、肩に触れた熱。
感じた苦しさなど千々に消え、気づけば道の真ん中で立ち尽くしていた。
「え?あれ……?」
困惑に眉を寄せながら辺りを見回す。見慣れた景色と幼馴染みの姿に、眉間に皺が寄る。
「こんな所に突っ立ってるな。通行の邪魔だ」
幼馴染みに腕を引かれ道の端に寄る。礼を言いかけ、けれど何も言えずに口を閉ざしたのは、幼馴染みの首元飾るチョーカーが見えたからだ。
思わず視線を逸らし、数歩距離を取る。いつの間にか身についてしまった行動に、幼馴染みが何かを言ったことはない。成長するにつれ疎遠になっていったこともあり、自分の行動や幼馴染みの沈黙を敢えて考えたことはなかった。
「じゃあな。気をつけろよ」
そう言って去って行く幼馴染みの背を見送り、小さく息を吐いた。
何故。今更ながらに疑問が込み上げる。
幼い頃は、幼馴染みから距離を取ることはなかった。手を繋ぎ、色々な場所へ遊びに行ったことを覚えている。
いつから。何が切っ掛けか。尽きない疑問と同時に思い浮かぶのは、やはりあのチョーカーだった。
気づけば身につけていた、あの銀のクロスがついたチョーカー。あれが視界に入る度に、言い様のない不快感が込み上げる。
理由は自分でも分からない。分からないからこそ幼馴染みには何も言えず、側を離れるという選択肢しか選べなかった。
あれから、幼馴染みがチョーカーを外している姿を見たことはない。ならばきっと、不快感の理由を知って伝えた所で、自分たちの関係は変わらなかったのだろう。
もう一度息を吐く。ちくりとした微かな胸の痛みを感じたが、気づかない振りをした。
紅の花が落ちていく。
腐り、褪せた花びらが地面を覆う。その様を唇を噛みしめ顔を歪めながら、ただ見つめていた。
また一つ、花が落ちる。咲き始めの幼い花の散る様に、他と同じく腐り褪せていく様に、眉を寄せ顔を上げた。
「――っ」
いつの間にか、花の傍らに虚ろな人影が立っていた。人影は次々と花を手折り、地に散らしていく。
酷く不快で、醜い行為。躊躇いなく、ただ機械的に花を毟り続けるその行為に、顔を顰めて吐き気を堪えた。
「何故……」
耐えきれず、影に近寄りその腕を掴む。込み上げる怒りにも似た疑問に、掴んだ手に力が籠もった。
「なんでっ……あなたが招き入れ、守ると受け入れたのが最初なのに!なんで、こんな簡単に……っ!」
何を言っているのか、自分でも分からない。
ただ許せなかった。受け入れたものを簡単に切り捨てる行為が。
また一つ、花が落ちる。
咄嗟に手を伸ばした。手の中で、色を失わない美しい紅が花びらを散らす。
気づけば、咲く花も散る花もない。
あるのはただ、祈り救いを信じた者たちの、力なく臥した躯だけだった。
「あなたの言葉は、最初からすべて偽りだった。くだらない夢のために、多くの花が散った」
「多数ではない。少数だ」
淡々とした声に、影へと視線を向ける。黒の影が揺らいで、誰かの姿を浮かばせては消していく。
「切り捨てなければ、すべてを失うことになった。少しでも多くを守るための選択だった」
「馬鹿みたい」
思わず鼻で笑う。必要な犠牲。仕方がないこと。
理解はできても、納得はできない。それでは何のために、多くの人々が船を作り、海の向こうまで長旅を命ぜられたのか。
不意に、脳裏を広大な青の海が過ぎていく。
空から振る、海猫の声。響く空砲に、巨大な船を見た気がした。
「――あ」
はっとして、顔を上げた。
辺りを見渡せど、地に臥す人々も、船も、海すらも見えなかった。
あるのは、目の前で咲き誇る紅の花。見覚えのない、けれども知っている場所に、困惑に眉が寄った。
「何してんだ。こんな所で」
静かな声に、ゆっくりと振り返る。
近づく幼馴染みの目を、何も言わずに見つめる。感情の読めない目。その奥に、隠し切れない痛みを見た。
「何しにきたの?」
問い返すが、幼馴染みは何も言わない。自分の横を通り過ぎ、紅の花の前で膝をついた。
幼馴染みの首元で、銀のクロスが光を反射する。手を組む姿に、込み上げるのは軽蔑だった。
「否定し、切り捨てた者たちの真似事をするのは楽しい?どこまで愚弄すれば気が済むの?」
「愚弄しているつもりはない……約束だったから」
こちらを振り返りもせず、幼馴染みは今度は鞄から白い布を取り出すと、地に落ちた花びらを広い集めていく。
「今は自由だから……だからこうして、自己満足だろうと好きにできる」
「なにそれ……本当に、馬鹿みたい」
乾いた笑いが漏れた。
笑うしかできなかった。頬を伝う滴は、きっと気のせいだ。
「――かえる」
呟いて、掌に載せたままの紅の花びらを握り潰した。
ぱらぱらと地に紅が振る。まるであの日の光景のようだとぼんやり考えながら、体が解けていくのを感じた。
こちらを振り返り、僅かに顔を歪める幼馴染みに微笑んだ。何かを言いかけるその前に、手の中に残った紅を風に乗せて空に散らした。
「思い出しちゃったから、還らないと。彼らの祈りを咲かせ続けるって、あの日宣言してしまったしね」
「なら俺は、その咲き誇り散った花が踏みにじられないように、拾い集める……お前がまた、戻ってくるまで」
真剣な眼差しに、苦笑が漏れる。聞こえる祈りの声に耳を澄ませながら、そっと目を閉じた。
「仕方ないな。なら彼らの祈り、紅の記憶の色が抜けて、白になったら戻ってくるよ。それまでさよならだ」
「あぁ、またな」
遠い昔。
一国の長だった幼馴染みは、海の向こうとの繋がりを求めた。
けれど海を越えて齎された祈りを、幼馴染みは否定し排除した。そうしなければ、国は滅びた。
自分には、祈る彼らの気持ちは分からない。命を賭して信じ続けたその唯一の存在の大きさを知らず、そして幼馴染みの苦悩も理解できなかった。
ただ受け入れたはずの者たちを切り捨てることの理不尽さが、何を言っても変わらない無力さが悲しかった。
だからあの日、無慈悲に手折られる花に手を伸ばした。散る自身の紅は大地に染み込み彼らの祈りと混じり合い、紅の花を咲かす木になった。
ここで彼らの祈りを咲かせることに、悔いはない。祈りの言葉は心地好く、嫌いではなかった。
ひとつ、花を落とす。
咲き終えた花。誰かの祈り終えた証。
地に落ちたそれを、幼馴染みが丁寧に白の布に包んでいく。
紅の花の端が、僅かに白に滲んでいることに、幼馴染みはいつ気づくだろうか。
20251122 『紅の記憶』
手を繋いで歩いていく。
ここがどこなのか、どこに行くのかは分からない。
ただ繋ぐ手の熱が、自分にとっての唯一で、すべてだった。
目を覚ます。
まだ薄暗い部屋の天井をぼんやりと見つめながら、低く息を吐いた。
夢を見ていた。
一本道を、手を引かれながら只管に歩いている夢。
辺りは薄暗く、手を引く誰かの姿すら見えない。覚えているのは、引かれている手の熱くらいなものだ。
繋がれていた手を上げ、目の前に翳す。
今は繋がれていない手。だが夢の中では、確かに繋いでいた。
もう一度息を吐いて、手を下ろす。
変な時間に目が覚めてしまったせいで、夢と現実との区別がはっきりとしないのだろう。
そう結論付けて、目を閉じる。
もう一度夢に落ちていく刹那、するりと誰かに手を繋がれた感覚がした。
久しぶりに、幼い頃に住んでいた街を訪れた。
特に目的があった訳ではない。強いて言えば、この辺りで一番大きな神社の祭りを懐かしく思ったからだろうか。
浮き足立つような周囲の空気を感じながら、神社へと向かい歩いていく。幼い頃の記憶はかなり朧気で、知っているはずの街並みが、全く知らない景色に見えた。
「早く行こうよ!今回はぼくたちの番なんだから!」
「う、うん。でも……」
「怖くないって。かみさまに手を引いてもらえたら、とってもいいことがあるんだって、ママが言ってたよ」
子供たちが神社へと走っていく姿を見送りながら、まだ続いている祭事を思い目を細めた、
この街で七つを迎える子供は、神社の参道を一人で歩かされる。そこで手を引いて一緒に歩いてもらうことができたのなら、その子供は怪我や病気なく過ごせるのだと古くから言い伝えられてきた。
実際に友人たちも皆、七つになって祭の時に本殿へと向かう長い山道を一人で歩いた。その時に、誰かに手を引いてもらえたのだと話していたのを思い出す。
自分も皆と同じように、七つになった年に参道を歩いた。けれどもどれだけ歩いても、誰かに手を引かれることはなかった。
だからだろうか。病弱な体は入退院を繰り返し、数年後には緑豊かな田舎へと引っ越した。
誰にも繋がれていないはずの手に視線を向ける。最近は誰かに手を引かれる夢ばかり見る。その影響なのか、ふと気づくと誰かと手を繋いでいる感覚を覚えるようになった。
「神様に、手を引いてもらえたのなら……」
先ほど走って行った子供たちの言葉を呟いて、苦笑する。
病を克服し、制限なく動けるようになった今でも、幼い頃の記憶はなくならないらしい。
自分だけ、手を引かれなかったこと。自分だけ皆と一緒に学校を卒業できなかったこと。
今更なことを思いながら、神社に背を向けた。
縁日を冷やかしてもいいが、久々の遠出だったからかやけに疲れている。神社の祭りも数日かけて行われるため、今日でなければならないという訳でもない。
神社へ向かうのは明日にして、この後は宿でゆっくり過ごしたい。
予約していた宿に向かう途中、ふと誰かに手を繋がれた気がした。だが視線を向けても、やはり誰の姿も見えなかった。
手を繋いで歩いていく。
薄暗い山道。ここはどこで、どこへ行くのかは分からない。
視線を向けた手は、確かに誰かと繋がれている。その姿は見えない。誰の手なのかと注視すると、その手は途端に霞みぼやけてしまう。
何も言わず、視線も向けずに、山奥へと向けて進んでいく。
ふと誰かに名を呼ばれた。手を繋ぐ誰かではない。もっと先、進む細道の先で呼んでいる。
呼ばれているのだから、早く行かなければ。足を速めようとするが、繋ぐ手がそれを許さない。
速すぎず、遅すぎることもない。変わらない歩みに、急いた心が次第に落ち着いていく。
そんなに急がずとも、こうして向かっているのだから必ず辿り着くはずだ。落ち着く心は再び急くこともなく、道のりを楽しむ余裕まで持たせている。
繋ぐ手の熱が心地好い。優しく暖かなそれを話さないように、繋ぐ手に力を込めた。
「っ!……また、夢が……」
目が覚めて、暗い天井を見つめ息を吐いた。
手を上げ、眼前に翳す。誰にも繋がれていない手。熱の名残を感じて落ち着かない。
ふと声が聞こえた気がした。物音に掻き消されてしまうほどの微かな声。呼ばれているようで、さらに落ち着かなくなる。
「行かないと」
耐えられず、体を起こし身支度を整える。音を立てぬよう注意しながら、そっと部屋を抜け出した。
声を辿って辿り着いたのは、祭を行っているはずの神社だった。
声はもう聞こえない。人のいない神社はひっそりと静まりかえり、夜の暗さと相俟ってどこか不気味さを漂わせていた。
戻るべきかを悩む。そもそも呼ばれた気がしたからといって、こんな所まで来る必要はあったのだろうか。冷静な思考が、恐怖を掻き立て身を震わせた。
戻ろう。そう思い振り返る手に誰かが触れた気がした。
「――っ!?」
視線を向けても、誰の姿も見えない。それなのに手を引かれた感覚と共に、体が勝手に歩き出す。
神社の参道。恐怖と戸惑いの感情を置き去りに、体は迷うことなく足を踏み入れる。瞬間に灯籠に火が灯されて、連なる鳥居と奥へ続く参道を照らした。
そのまま手を引かれ、ゆっくりと歩いていく。奥へと進む程に恐怖は薄れ、残るのは不思議な安堵感だ。
「どこへ行くの?」
夢の中では口にできなかったそれを問いかける。
答えはない。それに不満を覚えることもなかった。
いずれは辿り着くのだから、無理に聞く必要はない。
そんなことを思っていれば、逆の手も同じように繋がれた。
視線を向ける。暗闇にぼんやりと浮かぶ、大きな誰かの姿に、無意識に笑みが溢れ落ちた。
反対の手を見れば、小柄な誰かの姿が浮かんでいる。嬉しくなって、ふふ、と小さく声が漏れた。
手を繋ぎ三人で歩いていく。
やがて鳥居を抜けて、本殿へと辿り着いた。
手を離される。代わりに背を押され、一歩前へと歩を進めた。
本坪鈴の紐を掴み、ゆっくりと鳴らす。からん、からんという音を聞きながら、静かに礼をした。
柏手を打ち、再び礼をする。特に願うことはなく、何気なく浮かんだ言葉を口にする。
「ありがとう」
神にではなく、手を繋いでくれた誰かに向けた言葉。
すっ、と胸が軽くなり、後ろを振り返ると深く礼をした。
「本当にありがとう」
感謝の言葉を繰り返す。顔を上げれば、するりと手が繋がれ、参道を戻っていく。
入口まで戻れば、再び手を離された。背を押され、そのまま歩き出す。
帰らなければ。自分はもう、手を引かれなくとも歩いていけるほど、成長したのだから。
「行くのか」
不意に声をかけられ立ち止まる。気づけば目の前に、白い狐が座っていた。
「もう一度やり直すこともできる」
狐の言葉に、引かれていた手を見つめ、そして振り返る。連なる鳥居の向こう側で、寄り添う男女の影を認め、緩く首を振った。
「大丈夫。ずっと手を繋いでもらっていたから。だからここにはもう、帰ってこない」
「そうか」
自分の答えに狐はそれ以上何も言わず、鳥居の向こう側へと去っていく。その背を見つめ前を向けば、柔らかな風が頬を撫でて過ぎていく。
「取りこぼしてしまい、すまなかった」
微かに聞こえた声に、可笑しくなって小さく笑いが溢れ落ちた。
カーテン越しの、朝の陽射しに目が覚める。
夢を見ていた。どんな夢だったのかは思い出せない。
起き上がり、何気なく手を見つめた。仄かな温もりを感じた気がして、穏やかな心地に目を細めた。
「ありがとう」
覚えてはいないけれど、とても温かな夢だった。微かに残る夢の断片が、それを伝えてくれている。
ベッドを抜けだし、カーテンを開いた。外は快晴。抜けるような青空の向こうで、白い雲が流れている。
まるで白い狐が駆け抜けているようだ。
「頑張って」
忙しそうな狐の形をした雲に声をかければ、その白い尾が揺れたような気がした。
20251121 『夢の断片』