霧が深い朝だった。
数歩先の景色すら曖昧に溶けて、どこまでが道で、どこからが空なのかも分からない。
確かめるように、ゆっくりと足を踏み出した。さくり、と枯れた草が、小さく音を立てる。
行かなければ。
漠然とした思いが胸を焦がす。
行かなければならない。
それが何故かを考え、記憶を巡らしていく。
昨日のことを覚えている。
今日すべきことを理解している。
けれど明日のことは、どれだけ目を凝らしても、耳を澄ませても分からなかった。
それに気づき、足が止まる。見えない先に怯えるように、体が震えた。
「行かないと」
思いを声に出せば、僅かに体の震えが収まった。
そうだ。行かなければ。
例え明日が見えなくとも、進まなければいけない。
義務感のようで、衝動的でもある思い。胸に手を当て、目を閉じてみる。
進むのか、このまま立ち止まっているのか。
自分に問いかけ、ゆっくりと呼吸をする。再び目を開けた時には、体の震えは止まっていた。
一歩、足を踏み出す。
怖くはない。深い霧で見えない先は、それでも怖いとは感じられない。
もう一度呼吸をして、歩き出す。
行かなければ。
自分の中の何かが、囁いた気がした。
深い霧の中を歩いて行く。
どれだけ歩いただろうか。霧の白で霞む景色からは、何一つ分からない。
ふと、前方に黒い影が二つ現れた。ゆらゆらと揺れるそれは、大人と子供の人影のようにも見える。
「おや。ここで誰かに会うなど珍しい」
低く穏やかな声音。歩み寄れば、その人影は初老の男性と幼い少女のようであった。
珍しいとはどういう意味なのだろう。辺りを見渡すが深い霧が回りの景色を隠し、ここがどこなのかも分からない。
「珍しいのですか?」
問いかければ、少女は苦笑し頷いた。
「そうよ。ここは迷う人が来る所だもの」
幼い容姿には不釣り合いな大人びた表情をして、少女は後ろを一瞥し肩を竦める。同じように男性も後ろを振り返り、眉を下げ微笑んだ。
「私が進んできた道は、穏やかな一本道ではなかった。険しく進むのもやっとの道でね。少し疲れてしまったんだ。だからこのまま進んでもいいものか、立ち止まり悩んでいたんだよ」
男性の後ろの道は、霧に隠され分からない。疲れたといいながらも、男性の目にはまだ強い煌めきが宿っているように見えた。
「わたしはこのままおしまいにしようと思ったの。道は平坦ではあったけれど、暗くて冷たかったし。このまま進んでも、きっと明るくはならないと思うもの……それにきっと、終わりにするのが一番正しい形のはずだから」
凪いだ声音で告げる少女に、男性は眉を下げる。どこか悲しげに微笑み、少女の背後を目を細めて見つめた。
「そんなことはないと思うけれどねぇ。君の決めた道に、事情も知らない他人が口出すことではないことは分かってはいるけれども」
そうは言いながらも、男性はおそらく少女を引き留めていたのだろう。少女の表情が僅かばかり迷う様子を見せた。
霧に隠された少女の背後の道に視線を向け、不意に自分の進んできた道が気になった。見えぬだろうと思いながらも、ゆっくりと振り返る。
「――あ」
視界に映るそれに目を見張る。
柔らかな陽射しを浴びて、緑の葉についた朝露が煌めく。雲一つない空はどこまでも遠く、進んで来た道もまた果てが見えない。
静かな道だった。美しくはあるが、絵画のようにそこにあるだけの景色。険しくもなく、暗い冷たさもない。
それでも酷く、寂しい道を自分は進んで来たようだ。
「あなたはどうするの?このまま進むのか、それとも終わりにするのか」
少女に問われ、前に向き直る。
進む道の先は、深い霧に隠され見ることはできない。見えるのは、今ここで立ち止まり悩み続けている男性と少女、そして自分だけだ。
「行かないと」
喘ぐように呟いた。
行かなければならない。その理由は分からないまま、衝動的な思いが言葉として溢れ落ちる。
「それはどうして?」
踏み出した足が止まる。まっすぐな少女の目を見つめ、気まずくなって何も言えずに逸らした。
「君の選択を他人があれこれ言うものではないが、一つだけ言わせてもらおうか。どんな選択も、君自身の意思を伴ったものでなければならないよ。こうしなければならない、こうあるべきなどという思いは、誰かの押しつけに過ぎないのだから」
「自分の……意思……」
男性の言葉を繰り返し、そっと胸に手を当てた。
後ろを振り返る。進んできた静かな道は、何も変わらない。足下に視線を落とし、そして進む先の道へと視線を向ける。
何も見えない道。行かなければいけない理由を、もう一度考えてみる。
霧の向こうで、誰かが手を振っている。そんな姿が一瞬見えた気がした。
「――約束、したから」
呟いた言葉が、自分の中に染み込んでいく。衝動的な思いが凪いで、切望に形を変えた。
「また明日って、手を振った。だから行かないと」
思い出して、会いたくなった。口元が緩み、笑みが浮かぶ。
「いいね。また明日か……そう言えば、私もまた明日と別れたのだった。ならばもう少し、進むことにしようかな」
「わたしも……また明日って言っちゃった。嘘つきになりたくはないから、この道を進むことにするわ」
眩しそうに目を細めながら。
仕方がないと溜息を吐きながら。
男性と少女は微笑んで、それぞれの道の先へと向き直った。
「それじゃあさようなら。もう二度と会うことはないでしょうけれど」
「そうだね。こうやって立ち止まることも、況してや誰かと出会うことも奇跡のようなものだからね……では、ごきげんよう」
笑いながら道の先へと歩いていく。
霧に隠され見えない道の先へ。未来へと向けて歩いていく。
「さようなら。ありがとう」
霧の向こうに消えていく二人の背を見送って、自分が進むべき道の先を見据えた。
ゆっくりと足を踏み出す。さくり、と足下の枯れ葉が音を立てた。
「行かないと」
声に出し、胸を張って歩いて行く。
遠く、僅かに光が見えた。誰かの声が聞こえて、笑みが浮かぶ。
進む足が次第に速くなり、駆け出していた。早く会いたい。光に向けて手を伸ばす。
声が自分を呼んでいる。答えるように、触れた誰かの手を強く握り返していた。
目を開ける。
ぼんやりとする視界の中。こちらを覗き込む親友の姿が見えた。
「この馬鹿」
泣きそうに顔を歪め、頭を叩かれる。訳も分からず目を瞬けば、もう一度馬鹿と繰り返された。
「えっと……」
「心配かけんな、この馬鹿」
布団に突っ伏す親友に、どうしたらいいか分からず視線を彷徨わせた。
四方を覆うカーテンに困惑する。白いベッド。枕元の点滴と、自分から伸びるよく分からない管の数々。
枕元に置かれたボタンを親友が押して、そこでようやくここが病院のベッドの上だと気づいた。
「安心したし、文句も言えたから、もう帰る。これからリハビリとか大変だろうけど、頑張れ。また見舞いに来るから」
「え?あ、うん……」
繋がれていた手を離し、親友は立ち上がった。その背を何も言えずに見送って、入れ違いで入ってきた看護師たちの質問に曖昧に返事をした。
色々な検査を受けながら、不意に横目で窓の外を見る。青空が広がる外に、霧はない。遠くを見ながら、進む道を思い出す。
「また、明日」
小さく呟いて、目を閉じた。
過去のことを覚えている。
今何が起こっているのか、理解し始めている。
けれども未来のことは、どんなに考えても知りようがない。本当に訪れるのかさえも、分からなかった。
閉じた瞼の裏で、あの霧が未来を隠していく。
けれど見えない未来を進むのは、不思議と怖いとは思わなかった。
20251120 『見えない未来へ』
そっと風が吹き抜けた。
顔を上げて空を睨む。落ち葉を舞い上げ去って行く風を、ただ目で追いかけた。
「馬鹿」
そっと呟く声は、誰にも届くことはない。
祈りも希望も、風はすり抜け掻き消していく。
軽く頭を振って視線を戻し、歩き出す。
吹き抜ける風に、もう足は止めない。前だけを見据え、進んでいく。
頬を冷たい何かが伝い落ちるのは、気のせいなんだと言い聞かせた。
「ねぇ……」
声が聞こえた気がした。知っているような、懐かしさを感じるような声。
気のせいに違いない。声など聞こえない。況してやそれが懐かしいなど在るはずがない。
自分自身に言い聞かせながら、足を速める。立ち止まり振り返ってしまえば、二度と前を向けない。それが怖くて、吹き抜ける風に気づかない振りを続けた。
「ねぇ……」
着いてくる声に、唇を噛みしめる。どれだけ歩いても離れず、半ば駆け出す勢いで進んでいく。
「何も聞こえない。全部気のせい」
前を見据えたまま、言葉にする。そうすればきっと諦める。半ば意地になりながら、それでも足は止めなかった。
さらに足を速めようとした瞬間。正面から強く風が吹き抜けた。
目を開けていられない程の勢いのある風。思わず足を止めて、風が過ぎていくのを待った。しかし風が止む気配は見られない。押し戻されそうな感覚に顔を顰め、一歩足を踏み出した。
ゆっくりと、けれども確実に前へと進んでいく。進んでいると思っているが、本当に進んでいるのかは確認のしようがない。ただでさえ勢いの強い向かい風。それに風が巻き上げた落ち葉がさらに視界を覆い、足下すらはっきり見ることができない。
それでも足を止めないのは、やはり意地になっているのだろう。
また一歩、足を進める。もう一歩と足を上げれば、その瞬間、ぴたりと風が止まった。
突然のことに崩れた体制を、慌てて立て直す。倒れずに済んだことに安堵の息を吐くが、次の瞬間には追い風が背を押した。
「うわっ!?」
バランスを崩し、膝をついた。柔らかな落ち葉の地面に痛みはなかったが、手をついた瞬間に舞った落ち葉が視界を赤で覆った。
「ねぇ……」
声が聞こえた。すぐ近く、目の前で聞こえた声に肩を震わせる。
もう気づかない振りはできない。じわりと視界が滲むのを感じながら、舞う葉が落ちるのを静かに待った。
「いい加減、認めてよね。臆病なのか、それとも単に意地を張っているだけなのかは知らないけどさ」
腰に手を当て怒りながらも笑う親友が、こちらを見下ろしていた。
「ほら、いつまでも座ってないで」
手を差し伸べられて、思わずその手を取った。ぐいと引かれ、立ち上がる。
「泣き虫。ほら、しゃんとしなよ」
涙を拭うその手の変わらない優しさに、懐かしさと恥ずかしさが込み上げ、視線を逸らした。
「馬鹿」
小さく呟けば、返事の代わりに強く背を叩かれる。
「っ、痛いんだけど」
「痛くしたからね。馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」
逸らした視線を戻して睨み付ければ、親友はそれを鼻で笑う。
何一つ変わらないやりとり。変わらない親友の態度に、口元が緩む。
「まったく……いつまで経っても子供なんだから。強がってる振りしながら、うじうじしないでよ」
「うじうじなんて、してないし」
咄嗟に否定するも、その言葉こそ強がりでしかないと自分でも分かっている。それでも素直になれないのは、目の前の親友が何も変わらないからだろう。
強くて、優しくて、そして誰よりも真っ直ぐだった親友。立ち止まらないその背を追いかけられなくなったのは、いつからだっただろうか。
「――何で、来たの?」
俯きながら呟く言葉に、親友は呆れたように息を吐く。両手で頭を撫でられ、頬を包まれ目を合わせられた。
「来ちゃいけなかった?気軽に会えなくはなったけど、完全に会えない訳じゃないって教えにきたんだけど」
そのまま頬を軽く引っ張られ笑われて、恥ずかしさに膨れながらその手を払う。
一呼吸遅れて親友の言葉に引っかかりを感じ、眉を寄せて視線を向けた。
「会えない訳じゃないって……?」
言葉の意味が理解できない。
親友は、境界を越えて彼方側に行ってしまった。一度も振り返らず、真っ直ぐに進むその背が今も記憶に焼き付いている。何度も夢に見ては一人泣いて、朝を迎えたというのに。
じわりと涙が浮かぶ。嗚咽を噛み殺し只管に睨み付けていれば、親友の目が優しくなった。
「普段は見えないだけで、ちゃんといるってこと。気づいていたくせに、気づかない振りなんてしないでよね」
笑う親友の回りを、風がそっと吹き抜けていく。服の裾を揺らし、髪を撫でていく。
「風……」
気まぐれでそれでいて真っ直ぐな風は、確かに親友とよく似ているような気がした
「大丈夫。あんたは一人じゃない。なんてったって、このあたしがいるんだから、顔を上げて歩きなさい」
「本当に?」
「本当に……親友様を信じなさいって」
背を叩かれ、抱き締められる。その温もりも何も変わらず、怖ず怖ずと手を伸ばし抱き返した。
静かに目を閉じる。流れた滴は風に拭われ、消えていく。
「落ち着いたなら、もう行きなさいよ。ちゃんと見てるから」
最後に頭を撫でられ、体を離した。三歩、後ろに下がり、不格好に笑顔を作って見せる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
手を振られ、見送られながら、親友に背を向け歩き出す。
あの時とは正反対だ。ふと気づいて、口元が緩んだ。
振り返らない。親友がそうだったように、今度は自分も。
吹き抜ける風が、落ち葉を舞い上げ視界を覆う。
足は止めない。前だけを見据え、進んでいく。
祈りも希望も、風が包み込んでくれるのだから。
20251119 『吹き抜ける風』
ランタンを手に、暗い夜道を歩いていく。
中の炎は時折揺らめくが、決して消える事はない。消えればいいのにと思いながらも、無言で社まで進み続ける。
この古ぼけたランタンは、人の記憶を糧に光を灯すらしい。そしてその炎は、社に納めることでなかったことにもできると言い伝えられてきた。
そんなことはただの迷信だ。そう思いながらも、興味本位で友人たちと試している。
小さく息を吐いた。友人は皆、学校や家での些細な記憶を糧に火を灯し。社に納めてないことにしてしまった。最後は自分だ。
皆と同じようにランタンを灯し、社へと向かう。灯りの糧に選んだのは、自分の中で一番古い記憶だった。
炎が揺らぐ。
友人たちと違い古い記憶のためか、炎の色は赤よりも黄に近い色をしていた。大きく揺らめく度に、周囲の影も大きく揺らぐ。影がまるで社に向かうことを咎めているように見えて、視界に入れないように必死に前だけを向き続けた。
まだ迷いがあるからそう見えるのだろう。ゆっくりと忘れていくのではなく、最初からなかったことにしようとしているのだから。
ランタンの炎を見つめ、そしてランタンを手にしていない方の手に視線を向ける。
一番古い記憶の中で、繋がれ引かれていた手。誰と繋がれていたのかは、もう覚えていない。
顔も、声も分からない誰か。唯一、大きくて硬い手の熱だけが、朧気な記憶に深く刻まれていた。
炎が揺らめく。
ふと目の前に、小さな影が浮かんで消えた。幼い頃の自分の影。立ち止まり、ランタンの中の炎に視線を向ければ、手を繋いだ幼い自分が嬉しそうに笑っている姿が揺れていた。
社に納める記憶の断片。手を繋ぐ誰かを見て笑う幼い自分は、今こうしてなかったことにされるなど考えもしないのだろう。
目を細め、視線を逸らす。ランタンを下ろし、唇を噛みしめ歩き出した。
どれだけ歩いただろうか。
いつまでも変わらない景色に戸惑い、足を止めた。
辺りを見渡す。ランタンを翳しても、道の先は暗く沈んで見えなかった。
ランタンの中の炎は、変わらず静かに揺らめいている。炎に浮かぶ幼い自分の笑顔も変わらない。
何が起こっているのだろう。先に社に記憶を納めた友人たちは、皆異変を口にはしなかった。
自分だけが違う。ランタンの糧にした記憶も、今のこの異変も、自分だけが。
炎が揺れ、小さな影が浮かび上がる。手を繋いだ誰かを見つめている状態で、固まっている。
まるで影絵のよう。一歩近づいても、影が消える様子はない。
もう一歩足を踏み出し、違和感に気づいた。影との距離が縮まっていない。足下に視線を落とし、さらに困惑に眉を寄せた。
ランタンの灯りに浮かぶ自分の影が、やけに濃く感じられる。周囲の影や目の前の記憶の影よりも黒く濃く、足下に張り付いていた。
息を呑んだ。影を認識した途端に、体が硬直する。まるで影に縫い止められているかのように、足が動かせない。
「っ、なんで……!」
恐怖に肌が粟立つ。どこまで行っても変わらない景色。動かない体。ランタンの炎の中の、幼い自分の記憶。
目の前の幼い自分の影が、繋いでいた手を離していく。ゆっくりとこちらを振り返る気配に、咄嗟に目を閉じた。
「――え?」
ランタンを持っているのとは逆の手に、誰かの熱が触れた。
驚いて目を開けるが、辺りには誰の姿も見えない。目の前にいたはずの、影の姿も消えていた。
手に視線を向ける。誰とも繋いでいない自分の手。それなのに、確かに温もりが感じられる。
ランタンの炎が揺れる。灯りに影が揺れて、ほんの一瞬誰かの影が浮かんだ気がした。
あぁ、と声が漏れる。その影を、自分は確かに知っていた。
一番古い記憶の中の誰か。胸が苦しくて、息が詰まる。
唇を噛みしめ俯くが、込み上げる涙を止めることはできなかった。
「ごめんなさい」
泣きながら、只管に謝り続ける。誰に向けてなのかは、自分でも分からない。
手を繋ぐ誰かなのか。過去の自分になのか。あるいは両方なのもかもしれない。
ランタンの中の記憶。なかったことのしたかったものは、手を繋いだ思い出でも、繋いでいた誰かの存在でもない。
無邪気に笑っている、あの頃の自分自身なのだから。
炎が揺らぐ。
幼い自分の影が浮かび、ランタンに手を伸ばした。そっと触れれば、炎は一度大きく揺らいで音もなく消えた。
途端に脳裏に浮かぶのは、静かな銀杏並木。大きな手と手を繋いで、銀杏の葉で黄色に染まる道を二人歩いていく。
繋ぐ手の熱が記憶の中のそれと重なり、耐えきれず膝をついて声を上げてただ泣いた。
見えない手が頭に触れる。優しく撫でられ、そのまま体を包み込むように誰かの体温を感じた。
幼い頃、すぐに泣く自分を慰めるため、こうして抱き締められながら頭を撫でられていたことを思い出す。忘れてしまった誰かとの記憶。褪せて霞んで分からなくなっていた誰かの輪郭が、ゆっくりと明確になっていく。
不意に、ランタンに再び灯りが灯った。涙で濡れた目を擦り、ランタンを目の前に翳す。
炎の中で揺らいでいるのは、自分と友人たちだ。一人がランタンを掲げて、興奮気味に何かを話している姿が見える。
ぼんやりとそれを眺めていれば、温もりが離れていく。繋いだ手を軽く引かれ視線を向ければ、うっすらと誰かの大きな影が揺れていた。
もう一度手を引かれ、頷いて立ち上がる。ランタンを翳し、社に向けて足を踏み出した。
手を繋いで歩いて行く。この記憶を社に納めたのならば、誰の記憶もなかったことにはならない。ランタンの存在すらなかったことになるのかもしれない。
けれどきっと、それが正しいのだろう。
ランタンが照らす道の先に社が見えた。繋いだ手に僅かに力を込めて、社の元へと進んでいく。
そっと繋いだ手の先を見た。記憶の中でさえ霞んで見えなかったはずの誰か。
大きな硬い手。優しい温もり。
穏やかな目をして微笑む、本当の父と目が合った。
20251118 『記憶のランタン』
かたんかたん、と列車が揺れる。
窓から見える景色は、うっすらと雪の白が混じっていた。
「寒くないか?」
問われて首を振る。
「全然。コタツ、あったかいもの」
そう笑えば、彼も淡く微笑んでくれる。
暖かい。外は冬に向けて季節が移っていくのに、列車の中は少し暑いくらいだ。
ふと思い立って、彼の肩に凭れてみる。驚いたように小さく息を呑んだ彼は、けれど次の瞬間には目を細めて笑った。
「どうした?」
「なんでもない。コタツ列車って初めて乗ったけど、なんかいいなぁって」
「気に入ってもらえてよかった」
頭を撫でられて、心地良さに段々と眠くなってくる。
冬も悪くない。
堂々と触れ合える季節に向かう列車の中、一人幸せに笑っていた。
「おひとつどうだい?」
不意に向かいに誰かが座る気配がして、目の前に手が差し出された。
その手に乗っているのは、一個のみかん。柑橘系の爽やかな香りに、微睡み出していた意識が戻ってくる。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言って、みかんを受け取る。差し出した誰かに視線を向ければ、白髪の女性が穏やかに笑った。
「ようやく、くっついた祝いさ。嬢ちゃんの側にいるために努力を惜しまないっていうのに、いつまで経っても何も言わないんだ。あげくに振られたと言って戻ったかと思えば、機嫌は悪くて運転は荒れてたからねぇ」
態とらしく溜息を吐いてみせながら、それでも女性は笑っている。気になって彼を横目で見るも、表情を変えることなく黙々とみかんの皮を剥いていた。
「知ってるかい?こたつはねぇ、いつもは小雪《しょうせつ》の駅を過ぎないと出さなかったんだよ。それが寒露《かんろ》の駅を過ぎたら出してくるんだから、本当に大事にされているんだね」
楽しそうに言われて、思わず頬が熱くなる。
みかんを剥き終わったらしい彼は、手に乗せたままのみかんと交換して、また黙々とみかんの皮を剥き始めた。
その表情は変わらないけれど、よく見ると彼の耳が赤くなっている。それに気づいた瞬間に、益々頬が熱くなった。
「おやおやこれは……邪魔者は退散した方がよさそうだ。それじゃあね、お嬢ちゃん。頑張るんだよ」
彼から視線を逸らし手の中のみかんを見ていれば、女性は席を立ち去って行く。
何を頑張ればいいのだろう。
落ち着かず、みかんを見ながら考えてみる。けれど何も思いつかなくて、小さく息を吐いた。
「みかんは嫌いか?」
静かに問われて、首を振る。
「何を頑張ればいいのかなって」
「あまり気にするな。この列車の乗客は、おせっかいな奴らが殆どなんだ」
彼も同じように息を吐いて、剥き終わったみかんをもう一つ手の上に置いた。
食べないのだろうか。視線を向ければ、彼は白の手袋を嵌め帽子を被り、席を立つ所だった。
気づけば列車の速度が落ちている。もうすぐ次の駅に着くのだろう。
「次の駅は立冬だ。少し長く停まることになる」
車掌として駅に降りて仕事をしなければいけない彼に頷いて笑ってみせる。
「行ってらっしゃい。お仕事頑張ってね」
待つことは嫌いじゃない。窓から見える景色も、働く彼の姿も、見ているだけで心を躍らせる。
そんな気持ちを込めて伝えれば、彼は帽子を深くかぶりドアの側へと歩いていった。
かたん、かたん、と列車が速度を落とし、駅に停まる。
がたがたと、乗客が立ち上がる気配がして、ドアが開くのと同時にたくさんの客が駅へと降り立つ。その中に先ほどの女性がいて、目が合うと微笑んで手を振ってくれた。
それに会釈を返して、みかんを一房取り口に入れる。甘く爽やかな味に、口元が綻んだ。
窓の外では、彼が忙しそうに動き回っている。彼の言うとおり、この駅は乗客の出入りが多いらしい。
「ここは冬の始まりだからね」
声が聞こえて視線を向ける。
列車に乗る時に別れた彼女が、向かいの席に座って笑っていた。
「先輩」
「久しぶり。まあ、正しくは車掌の影だから、先輩じゃないけどね」
くすくすと笑いながら、彼女はどこからか湯飲みと急須を取り出すと、お茶を入れ始めた。
「やっぱみかんにはお茶だよね。あと、おせんべいもあるから、食べながらのんびり出発を待とう」
再びどこからかせんべいやみかんが乗った皿を出し、コタツの上に置いて彼女は笑う。それに曖昧な返事を返しながら、また一房手の中のみかんを口に入れた。
窓の外を見る。彼の様子に変化はない。しかしその足下には、やはり影はなかった。
「心配しなくてもあいつは大丈夫だよ。双子みたいなもんだと思ってくれていいし」
「そうなの?」
「そうなの。ただ側にいてもいなくても、お互い見聞きしたことは通じてるから、双子というより、もう一人の自分って感じに近いのかな」
首を傾げる彼女に、同じように首を傾げる。まったく理解はできていないが、そういうものなのだろうと無理矢理に納得した。
みかんを食べ、淹れて貰ったお茶を飲みながら車内を見渡す。
乗客が降りてがらんとしていた車内は、すぐに別の乗客が乗り込み賑わいを見せている。しっぽの生えた子供たち。りっぱな角を持つ男性。木彫りの面を被った人影の群れなど、不思議な乗客たちで列車は満員になっていく。
「季節の移り変わりは、訪れるものも去るものも多いんだよ。特に冬は境が薄くなってしまうからね」
音を立てて茶をすすりながら彼女は言う。
駅の外。遠くへ飛んでいく白い鳥の姿を見ながら、駅を降りることの意味を考えた。
冬へ向かい駅を降りる。その先に向かい、自分もいつか駅を駅を降りるのだろうか。
「どうしたの?」
窓の外を見たまま動かない自分に、彼女は不思議そうに声をかける。静かに首を振って、同じように駅を降りた客を見送る彼を見た。
真っ直ぐな視線。自分が駅を降りる時も、彼は見送ってくれるのだろうか。
その姿を想像して、小さく笑う。彼に見送られるのは、とても贅沢で、幸せなことのように感じた。
「見送る姿がかっこいいなって……あんな風に見送られているお客さんたちが羨ましい」
呟けば、彼女は途端に咽せ込んだ。
突然のことにどうすればいいのか分からず視線を彷徨わせていれば、足音荒く彼が近づいてくるのが見えた。
どうやら出発の時間が来たようだ。影になって彼の足下へ消えていく彼女を何も言えずに見送って、恐る恐る彼を見る。
帽子を深く被っているため、表情は見えない。けれど何も言わずに席に座るその耳が、真っ赤に染まっているのが見えた。
かたん、かたん、とゆっくりと列車が動き出す。白が混じる景色が過ぎて、遠くなる。
お互いに何も言えないまま。どこか気まずい空気が、周囲の賑やかな雰囲気に解けていく。
少しだけ寂しくなって、そっと彼の手に触れた。微かに息を呑む音が聞こえ、触れていただけの手を繋がれる。
そのまま手を引かれ、彼の胸に倒れ込んだ。強く抱き締められ、そっと囁かれる。
「俺は見送りたくはない。もしも駅を降りる時が来たならば、そのまま俺を連れて行ってくれ」
指を絡めて繋ぎ直される。離れないという宣言のようで、煩いくらいに胸の鼓動が高鳴った。
顔が熱い。何も言葉が出ず、返事の代わりに彼の胸に擦り寄った。
かたんかたん、と列車が冬へ向けて走っていく。
外は雪が降り積もっているのだろう。
だけどこの列車の中は、コタツだけでない温もりに溢れ。
少しばかり暑いくらいだった。
20251117 『冬へ』
白い月が浮かぶ夜。
少女は一人、月明かりを浴びて踊っていた。
くるりと回り、高く飛び上がる。
広がる白のスカートが、まるで羽根のように見えていた。
夜は少女のためだけの舞台。月明かりというスポットライトを浴びて微笑む少女は、誰よりも何よりも美しかった。
惚けたように少女を見つめていれば、不意にこちらを見つめる目と視線が合った。
息を呑んで硬直していれば、少女はふわりと微笑みこちらへと近づいてくる。
「こんばんは」
透き通った、美しい声音。意味もなく視線を彷徨わせながら、小さく頭を下げてみる。
「こ、こんにちは」
くすくすと笑う声すら美しい。不躾に見ていたことが恥ずかしくなって、顔を俯かせ、もごもごと口を開いた。
「あ、えっと……勝手に見てて、ごめんなさい。その……すごく、綺麗だったから……」
今まで見てきた何よりも。
そう心の中で付け足した。
それほどに少女の踊りは美しかった。他の誰かの踊りなど、比較にもならない。幻想的で儚さすら感じるその姿は、この世のものではないかのようだった。
そんな美しさを、自分は知らない。人も、絵も、景色も、少女ほど綺麗なものを見たことはなかった。
「ありがとう。そう言ってもらえると、とても嬉しいわ。寝坊をしたと気づいた時は途方に暮れたけれど、こんなに綺麗な月と褒めてくれるあなたに出会えたのだから、逆に幸運だったのかもね」
「寝坊?」
くるりくるりと可憐に舞う少女の意外な言葉に、目を瞬いた。幻想的で遠い存在に思えた少女が、一気に身近に感じて、知らず強張っていた体の力が抜ける。
「そうよ。目が覚めたら、一人きりなんですもの。最初はとても慌てていたのよ」
そうは言うものの、少女は穏やかに月を見上げた。
白くしなやかな指先が月に照らされ。淡く浮かぶ。夜を掻き分けるかのように、静かに揺らめいた。
「どうしてそんなに綺麗に踊れるの?」
可憐な動きに目を奪われながら、気づけば胸の内に込み上げた思いを口にしていた。
「後悔したくないから」
その問いに少女は月に向けて微笑みながら、歌うように囁いた。
意味が分からず、少女の視線を追って月を見上げる。煌々と輝く白の月は、けれども少女の後悔の意味を教えてはくれなかった。
「何を後悔するの?」
首を傾げて、さらに問いかける。困惑するばかりの自分に、少女は優しく楽しげに笑う。
「だって、たった一度だけの、こんなにも綺麗な月夜なんですもの」
夜に解けていく涼やかな声音。その言葉の意味は、やはりよく分からなかった。
「明日も月は出るのに?」
「明日の月は、今日の月ではないわ。今、この瞬間の私を照らしてくれるのは、今日のこの月だけ」
「今日の、月……」
月と少女を見ながら、目を細める。意味を理解できないけれど、何故か分かったような感じがした。
「明日も、また会える?」
夢見心地に、そう問いかける。
「私は、今日だけよ」
少女は笑う。
そうだろうな、と自分も笑った。
「起きたのが今日で、本当によかった。後悔なんてほんの少しもしないで、自由に咲き誇ることができるもの……ありがとう。私を見てくれて。綺麗だって言ってくれて、とっても嬉しい」
心からの微笑みを湛えて、少女はスカートの裾を持ち上げ可憐にお辞儀をした。静かな夜のステージで、月のスポットライトに照らされながら、少女は再び踊り始める。
くるりと舞えば、スカートの裾がふわりと広がる。月明かりを浴びて白く煌めきながら、優雅にステップを踏み続ける。
ふと空を見上げた。月は静かに、冴え冴えとした白を湛えている。
いつもと変わらない、澄んだ夜空に浮かぶ月。
けれども――。
少女を照らす今夜の月は、初めて見るような荘厳な美しさを秘めているような気がした。
次の朝。
少女と出会った場所を訪れると、やはり彼女の姿はどこにもなかった。
代わりに残されていたのは、咲き終わり朽ちて萎んだ一本の花。夜にだけ咲くというその白い花に、そっと指先を触れさせた。
たった一夜。ひっそりと咲く花には、確かに昨日はなく明日もない。
見上げる空には、月はない。雲一つない青空にあるのは、眩しい陽だけだ。
「今日だけの、特別……」
もう一度花に触れ、静かに立ち上がる。少女の動きを真似て、ゆっくりとステップを踏み出した。
少女の踊りとは比べものにならない、拙い動き。それでも必死で記憶の中の少女を追いかける。あの時一緒に踊れたのならばよかったと、小さな後悔に思わず苦笑した。
後悔のないように。
少女と違い明日がある自分は、この先も何度も後悔しながら進み続けるのだろう。
――大丈夫。あなたには明日の月が照らしてくれるわ。
吹き抜ける風が、彼女の声を運んだ気がした。
動きを止めず、過ぎていく風を視線で追いかける。
「――あぁ、本当だ」
風を追って見上げた空。
朧気に浮かぶ白の月に、思わず笑みが溢れ落ちた。
20251116 『君を照らす月』