sairo

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白い月が浮かぶ夜。
少女は一人、月明かりを浴びて踊っていた。
くるりと回り、高く飛び上がる。
広がる白のスカートが、まるで羽根のように見えていた。

夜は少女のためだけの舞台。月明かりというスポットライトを浴びて微笑む少女は、誰よりも何よりも美しかった。

惚けたように少女を見つめていれば、不意にこちらを見つめる目と視線が合った。
息を呑んで硬直していれば、少女はふわりと微笑みこちらへと近づいてくる。

「こんばんは」

透き通った、美しい声音。意味もなく視線を彷徨わせながら、小さく頭を下げてみる。

「こ、こんにちは」

くすくすと笑う声すら美しい。不躾に見ていたことが恥ずかしくなって、顔を俯かせ、もごもごと口を開いた。

「あ、えっと……勝手に見てて、ごめんなさい。その……すごく、綺麗だったから……」

今まで見てきた何よりも。
そう心の中で付け足した。
それほどに少女の踊りは美しかった。他の誰かの踊りなど、比較にもならない。幻想的で儚さすら感じるその姿は、この世のものではないかのようだった。
そんな美しさを、自分は知らない。人も、絵も、景色も、少女ほど綺麗なものを見たことはなかった。

「ありがとう。そう言ってもらえると、とても嬉しいわ。寝坊をしたと気づいた時は途方に暮れたけれど、こんなに綺麗な月と褒めてくれるあなたに出会えたのだから、逆に幸運だったのかもね」
「寝坊?」

くるりくるりと可憐に舞う少女の意外な言葉に、目を瞬いた。幻想的で遠い存在に思えた少女が、一気に身近に感じて、知らず強張っていた体の力が抜ける。

「そうよ。目が覚めたら、一人きりなんですもの。最初はとても慌てていたのよ」

そうは言うものの、少女は穏やかに月を見上げた。
白くしなやかな指先が月に照らされ。淡く浮かぶ。夜を掻き分けるかのように、静かに揺らめいた。

「どうしてそんなに綺麗に踊れるの?」

可憐な動きに目を奪われながら、気づけば胸の内に込み上げた思いを口にしていた。

「後悔したくないから」

その問いに少女は月に向けて微笑みながら、歌うように囁いた。
意味が分からず、少女の視線を追って月を見上げる。煌々と輝く白の月は、けれども少女の後悔の意味を教えてはくれなかった。

「何を後悔するの?」

首を傾げて、さらに問いかける。困惑するばかりの自分に、少女は優しく楽しげに笑う。

「だって、たった一度だけの、こんなにも綺麗な月夜なんですもの」

夜に解けていく涼やかな声音。その言葉の意味は、やはりよく分からなかった。

「明日も月は出るのに?」
「明日の月は、今日の月ではないわ。今、この瞬間の私を照らしてくれるのは、今日のこの月だけ」
「今日の、月……」

月と少女を見ながら、目を細める。意味を理解できないけれど、何故か分かったような感じがした。

「明日も、また会える?」

夢見心地に、そう問いかける。

「私は、今日だけよ」

少女は笑う。
そうだろうな、と自分も笑った。

「起きたのが今日で、本当によかった。後悔なんてほんの少しもしないで、自由に咲き誇ることができるもの……ありがとう。私を見てくれて。綺麗だって言ってくれて、とっても嬉しい」

心からの微笑みを湛えて、少女はスカートの裾を持ち上げ可憐にお辞儀をした。静かな夜のステージで、月のスポットライトに照らされながら、少女は再び踊り始める。
くるりと舞えば、スカートの裾がふわりと広がる。月明かりを浴びて白く煌めきながら、優雅にステップを踏み続ける。
ふと空を見上げた。月は静かに、冴え冴えとした白を湛えている。
いつもと変わらない、澄んだ夜空に浮かぶ月。
けれども――。

少女を照らす今夜の月は、初めて見るような荘厳な美しさを秘めているような気がした。



次の朝。
少女と出会った場所を訪れると、やはり彼女の姿はどこにもなかった。
代わりに残されていたのは、咲き終わり朽ちて萎んだ一本の花。夜にだけ咲くというその白い花に、そっと指先を触れさせた。
たった一夜。ひっそりと咲く花には、確かに昨日はなく明日もない。
見上げる空には、月はない。雲一つない青空にあるのは、眩しい陽だけだ。

「今日だけの、特別……」

もう一度花に触れ、静かに立ち上がる。少女の動きを真似て、ゆっくりとステップを踏み出した。
少女の踊りとは比べものにならない、拙い動き。それでも必死で記憶の中の少女を追いかける。あの時一緒に踊れたのならばよかったと、小さな後悔に思わず苦笑した。

後悔のないように。
少女と違い明日がある自分は、この先も何度も後悔しながら進み続けるのだろう。

――大丈夫。あなたには明日の月が照らしてくれるわ。

吹き抜ける風が、彼女の声を運んだ気がした。
動きを止めず、過ぎていく風を視線で追いかける。

「――あぁ、本当だ」

風を追って見上げた空。
朧気に浮かぶ白の月に、思わず笑みが溢れ落ちた。



20251116 『君を照らす月』

11/17/2025, 9:59:32 AM