sairo

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霧が深い朝だった。
数歩先の景色すら曖昧に溶けて、どこまでが道で、どこからが空なのかも分からない。
確かめるように、ゆっくりと足を踏み出した。さくり、と枯れた草が、小さく音を立てる。

行かなければ。
漠然とした思いが胸を焦がす。

行かなければならない。
それが何故かを考え、記憶を巡らしていく。

昨日のことを覚えている。
今日すべきことを理解している。
けれど明日のことは、どれだけ目を凝らしても、耳を澄ませても分からなかった。
それに気づき、足が止まる。見えない先に怯えるように、体が震えた。

「行かないと」

思いを声に出せば、僅かに体の震えが収まった。
そうだ。行かなければ。
例え明日が見えなくとも、進まなければいけない。
義務感のようで、衝動的でもある思い。胸に手を当て、目を閉じてみる。
進むのか、このまま立ち止まっているのか。
自分に問いかけ、ゆっくりと呼吸をする。再び目を開けた時には、体の震えは止まっていた。
一歩、足を踏み出す。
怖くはない。深い霧で見えない先は、それでも怖いとは感じられない。
もう一度呼吸をして、歩き出す。

行かなければ。
自分の中の何かが、囁いた気がした。



深い霧の中を歩いて行く。
どれだけ歩いただろうか。霧の白で霞む景色からは、何一つ分からない。

ふと、前方に黒い影が二つ現れた。ゆらゆらと揺れるそれは、大人と子供の人影のようにも見える。

「おや。ここで誰かに会うなど珍しい」

低く穏やかな声音。歩み寄れば、その人影は初老の男性と幼い少女のようであった。
珍しいとはどういう意味なのだろう。辺りを見渡すが深い霧が回りの景色を隠し、ここがどこなのかも分からない。

「珍しいのですか?」

問いかければ、少女は苦笑し頷いた。

「そうよ。ここは迷う人が来る所だもの」

幼い容姿には不釣り合いな大人びた表情をして、少女は後ろを一瞥し肩を竦める。同じように男性も後ろを振り返り、眉を下げ微笑んだ。

「私が進んできた道は、穏やかな一本道ではなかった。険しく進むのもやっとの道でね。少し疲れてしまったんだ。だからこのまま進んでもいいものか、立ち止まり悩んでいたんだよ」

男性の後ろの道は、霧に隠され分からない。疲れたといいながらも、男性の目にはまだ強い煌めきが宿っているように見えた。

「わたしはこのままおしまいにしようと思ったの。道は平坦ではあったけれど、暗くて冷たかったし。このまま進んでも、きっと明るくはならないと思うもの……それにきっと、終わりにするのが一番正しい形のはずだから」

凪いだ声音で告げる少女に、男性は眉を下げる。どこか悲しげに微笑み、少女の背後を目を細めて見つめた。

「そんなことはないと思うけれどねぇ。君の決めた道に、事情も知らない他人が口出すことではないことは分かってはいるけれども」

そうは言いながらも、男性はおそらく少女を引き留めていたのだろう。少女の表情が僅かばかり迷う様子を見せた。
霧に隠された少女の背後の道に視線を向け、不意に自分の進んできた道が気になった。見えぬだろうと思いながらも、ゆっくりと振り返る。

「――あ」

視界に映るそれに目を見張る。
柔らかな陽射しを浴びて、緑の葉についた朝露が煌めく。雲一つない空はどこまでも遠く、進んで来た道もまた果てが見えない。
静かな道だった。美しくはあるが、絵画のようにそこにあるだけの景色。険しくもなく、暗い冷たさもない。
それでも酷く、寂しい道を自分は進んで来たようだ。

「あなたはどうするの?このまま進むのか、それとも終わりにするのか」

少女に問われ、前に向き直る。
進む道の先は、深い霧に隠され見ることはできない。見えるのは、今ここで立ち止まり悩み続けている男性と少女、そして自分だけだ。

「行かないと」

喘ぐように呟いた。
行かなければならない。その理由は分からないまま、衝動的な思いが言葉として溢れ落ちる。

「それはどうして?」

踏み出した足が止まる。まっすぐな少女の目を見つめ、気まずくなって何も言えずに逸らした。

「君の選択を他人があれこれ言うものではないが、一つだけ言わせてもらおうか。どんな選択も、君自身の意思を伴ったものでなければならないよ。こうしなければならない、こうあるべきなどという思いは、誰かの押しつけに過ぎないのだから」
「自分の……意思……」

男性の言葉を繰り返し、そっと胸に手を当てた。
後ろを振り返る。進んできた静かな道は、何も変わらない。足下に視線を落とし、そして進む先の道へと視線を向ける。
何も見えない道。行かなければいけない理由を、もう一度考えてみる。
霧の向こうで、誰かが手を振っている。そんな姿が一瞬見えた気がした。

「――約束、したから」

呟いた言葉が、自分の中に染み込んでいく。衝動的な思いが凪いで、切望に形を変えた。

「また明日って、手を振った。だから行かないと」

思い出して、会いたくなった。口元が緩み、笑みが浮かぶ。

「いいね。また明日か……そう言えば、私もまた明日と別れたのだった。ならばもう少し、進むことにしようかな」
「わたしも……また明日って言っちゃった。嘘つきになりたくはないから、この道を進むことにするわ」

眩しそうに目を細めながら。
仕方がないと溜息を吐きながら。
男性と少女は微笑んで、それぞれの道の先へと向き直った。

「それじゃあさようなら。もう二度と会うことはないでしょうけれど」
「そうだね。こうやって立ち止まることも、況してや誰かと出会うことも奇跡のようなものだからね……では、ごきげんよう」

笑いながら道の先へと歩いていく。
霧に隠され見えない道の先へ。未来へと向けて歩いていく。

「さようなら。ありがとう」

霧の向こうに消えていく二人の背を見送って、自分が進むべき道の先を見据えた。
ゆっくりと足を踏み出す。さくり、と足下の枯れ葉が音を立てた。

「行かないと」

声に出し、胸を張って歩いて行く。
遠く、僅かに光が見えた。誰かの声が聞こえて、笑みが浮かぶ。
進む足が次第に速くなり、駆け出していた。早く会いたい。光に向けて手を伸ばす。
声が自分を呼んでいる。答えるように、触れた誰かの手を強く握り返していた。



目を開ける。
ぼんやりとする視界の中。こちらを覗き込む親友の姿が見えた。

「この馬鹿」

泣きそうに顔を歪め、頭を叩かれる。訳も分からず目を瞬けば、もう一度馬鹿と繰り返された。

「えっと……」
「心配かけんな、この馬鹿」

布団に突っ伏す親友に、どうしたらいいか分からず視線を彷徨わせた。
四方を覆うカーテンに困惑する。白いベッド。枕元の点滴と、自分から伸びるよく分からない管の数々。
枕元に置かれたボタンを親友が押して、そこでようやくここが病院のベッドの上だと気づいた。

「安心したし、文句も言えたから、もう帰る。これからリハビリとか大変だろうけど、頑張れ。また見舞いに来るから」
「え?あ、うん……」

繋がれていた手を離し、親友は立ち上がった。その背を何も言えずに見送って、入れ違いで入ってきた看護師たちの質問に曖昧に返事をした。
色々な検査を受けながら、不意に横目で窓の外を見る。青空が広がる外に、霧はない。遠くを見ながら、進む道を思い出す。

「また、明日」

小さく呟いて、目を閉じた。

過去のことを覚えている。
今何が起こっているのか、理解し始めている。
けれども未来のことは、どんなに考えても知りようがない。本当に訪れるのかさえも、分からなかった。

閉じた瞼の裏で、あの霧が未来を隠していく。
けれど見えない未来を進むのは、不思議と怖いとは思わなかった。



20251120 『見えない未来へ』

11/22/2025, 5:46:38 AM