ぽとりと紅の花が落ちた。
美しかった花は落ちた瞬間に腐り、褪せた花びらを地面に散らしていく。
酷く醜い。咲き誇っていた花を愛でていたことも忘れて、顔を顰めた。
目を逸らして、咲き始めの花に視線を向ける。
これから美しく咲くであろう花。だがやがては地に落ちて、腐っていくのだろう。
また一つ花が落ちる。
咄嗟に手を伸ばした。手の中で花びらを散らすが、腐る様子はない。
地に視線を落としても、そこに落ちた花は一輪もなかった。
「どうして」
何故かそれが悲しくて、寂しくて、胸が苦しくなる。
思わず膝をつきかけた瞬間。
「何してんだ?」
訝しげな声と、肩に触れた熱。
感じた苦しさなど千々に消え、気づけば道の真ん中で立ち尽くしていた。
手を繋いで歩いていく。
ここがどこなのか、どこにいくのかは分からない。
ただ繋ぐ手の熱が、自分にとっての唯一で、すへてだった。
目を覚ます。
まだ薄暗い部屋の天井をぼんやりと見つめながら、低く息を吐いた。
夢を見ていた。
一本道を、手を引かれながら只管に歩いている夢。
辺りは暗く、手を引く誰かの姿すら見えない。覚えているのは、引かれている手の熱くらいなものだ。
繋がれていた手を上げ、目の前に翳す。
今は繋がれていない手。だが夢の中では、確かに繋いでいた。
もう一度息を吐いて、手を下ろす。
変な時間に目が覚めてしまったせいで、夢と現実との区別がはっきりとしないのだろう。
そう結論付けて、目を閉じる。
もう一度夢に落ちていく刹那、するりと誰かに手を繋がれた感覚がした。
霧が深い朝だった。
数歩先の景色すら曖昧に溶けて、どこまでが道で、どこからが空なのかも分からない。
それでも歩かなければ、と胸の奥で何かが囁く。
昨日までのことなら分かる。
今日すべきことも知っている。
けれど、この先だけはどうしても見えない。目を凝らしても、耳を澄ましても、未来の気配はまったく掴めなかった。
「……どうなるんだろうね、これから」
独りごとが霧に滲む。
怖くもある。でも、その怖さの奥に、微かに灯る熱のようなものがあった。
誰の声でもない、自分の底に沈んでいた小さな願い。
――見えない未来へ、行きたい。
足を一歩、霧へと進めた。
音もなく、景色がほどける。
けれど不思議と、背中を押す手の温度だけははっきり感じられた。
そっと風が吹き抜けた。
顔を上げて空を睨む。落ち葉を舞上げ去っていく風を、ただ目で追いかけた。
「馬鹿」
そっと呟く声は、誰にも届くことはない。
祈りも希望も、風はすり抜け掻き消していく。
軽く頭を振って視線を戻し、歩き出す。
吹き抜ける風に、もう足は止めない。前だけを見据え、進んでいく。
頬を冷たい何かが伝い落ちるのは、気のせいなんだと言い聞かせた。
ランタンを手に、暗い夜道を歩いていく。
中の炎は時折揺らめくが、決して消える事はない。消えればいいのにと思いながらも、無言で社まで進み続ける。
この古ぼけたランタンは、人の記憶を糧に光を灯すらしい。そしてその炎は、社に納めることでなかったことにもできると言い伝えられてきた。
そんなことはただの迷信だ。そう思いながらも、興味本位で友人たちと試している。
小さく息を吐いた。友人は皆、学校や家での些細な記憶を糧に火を灯し。社に納めてないことにしてしまった。最後は自分だ。
皆と同じようにランタンを灯し、社へと向かう。灯りの糧に選んだのは、自分の中で一番古い記憶だった。
炎が揺らぐ。
友人たちと違い古い記憶のためか、炎の色は赤よりも黄に近い色をしていた。大きく揺らめく度に、周囲の影も大きく揺らぐ。影がまるで社に向かうことを咎めているように見えて、視界に入れないように必死に前だけを向き続けた。
まだ迷いがあるからそう見えるのだろう。ゆっくりと忘れていくのではなく、最初からなかったことにしようとしているのだから。
ランタンの炎を見つめ、そしてランタンを手にしていない方の手に視線を向ける。
一番古い記憶の中で、繋がれ引かれていた手。誰と繋がれていたのかは、もう覚えていない。
顔も、声も分からない誰か。唯一、大きくて硬い手の熱だけが、朧気な記憶に深く刻まれていた。
炎が揺らめく。
ふと目の前に、小さな影が浮かんで消えた。幼い頃の自分の影。立ち止まり、ランタンの中の炎に視線を向ければ、手を繋いだ幼い自分が嬉しそうに笑っている姿が揺れていた。
社に納める記憶の断片。手を繋ぐ誰かを見て笑う幼い自分は、今こうしてなかったことにされるなど考えもしないのだろう。
目を細め、視線を逸らす。ランタンを下ろし、唇を噛みしめ歩き出した。
どれだけ歩いただろうか。
いつまでも変わらない景色に戸惑い、足を止めた。
辺りを見渡す。ランタンを翳しても、道の先は暗く沈んで見えなかった。
ランタンの中の炎は、変わらず静かに揺らめいている。炎に浮かぶ幼い自分の笑顔も変わらない。
何が起こっているのだろう。先に社に記憶を納めた友人たちは、皆異変を口にはしなかった。
自分だけが違う。ランタンの糧にした記憶も、今のこの異変も、自分だけが。
炎が揺れ、小さな影が浮かび上がる。手を繋いだ誰かを見つめている状態で、固まっている。
まるで影絵のよう。一歩近づいても、影が消える様子はない。
もう一歩足を踏み出し、違和感に気づいた。影との距離が縮まっていない。足下に視線を落とし、さらに困惑に眉を寄せた。
ランタンの灯りに浮かぶ自分の影が、やけに濃く感じられる。周囲の影や目の前の記憶の影よりも黒く濃く、足下に張り付いていた。
息を呑んだ。影を認識した途端に、体が硬直する。まるで影に縫い止められているかのように、足が動かせない。
「っ、なんで……!」
恐怖に肌が粟立つ。どこまで行っても変わらない景色。動かない体。ランタンの炎の中の、幼い自分の記憶。
目の前の幼い自分の影が、繋いでいた手を離していく。ゆっくりとこちらを振り返る気配に、咄嗟に目を閉じた。
「――え?」
ランタンを持っているのとは逆の手に、誰かの熱が触れた。
驚いて目を開けるが、辺りには誰の姿も見えない。目の前にいたはずの、影の姿も消えていた。
手に視線を向ける。誰とも繋いでいない自分の手。それなのに、確かに温もりが感じられる。
ランタンの炎が揺れる。灯りに影が揺れて、ほんの一瞬誰かの影が浮かんだ気がした。
あぁ、と声が漏れる。その影を、自分は確かに知っていた。
一番古い記憶の中の誰か。胸が苦しくて、息が詰まる。
唇を噛みしめ俯くが、込み上げる涙を止めることはできなかった。
「ごめんなさい」
泣きながら、只管に謝り続ける。誰に向けてなのかは、自分でも分からない。
手を繋ぐ誰かなのか。過去の自分になのか。あるいは両方なのもかもしれない。
ランタンの中の記憶。なかったことのしたかったものは、手を繋いだ思い出でも、繋いでいた誰かの存在でもない。
無邪気に笑っている、あの頃の自分自身なのだから。
炎が揺らぐ。
幼い自分の影が浮かび、ランタンに手を伸ばした。そっと触れれば、炎は一度大きく揺らいで音もなく消えた。
途端に脳裏に浮かぶのは、静かな銀杏並木。大きな手と手を繋いで、銀杏の葉で黄色に染まる道を二人歩いていく。
繋ぐ手の熱が記憶の中のそれと重なり、耐えきれず膝をついて声を上げてただ泣いた。
見えない手が頭に触れる。優しく撫でられ、そのまま体を包み込むように誰かの体温を感じた。
幼い頃、すぐに泣く自分を慰めるため、こうして抱き締められながら頭を撫でられていたことを思い出す。忘れてしまった誰かとの記憶。褪せて霞んで分からなくなっていた誰かの輪郭が、ゆっくりと明確になっていく。
不意に、ランタンに再び灯りが灯った。涙で濡れた目を擦り、ランタンを目の前に翳す。
炎の中で揺らいでいるのは、自分と友人たちだ。一人がランタンを掲げて、興奮気味に何かを話している姿が見える。
ぼんやりとそれを眺めていれば、温もりが離れていく。繋いだ手を軽く引かれ視線を向ければ、うっすらと誰かの大きな影が揺れていた。
もう一度手を引かれ、頷いて立ち上がる。ランタンを翳し、社に向けて足を踏み出した。
手を繋いで歩いて行く。この記憶を社に納めたのならば、誰の記憶もなかったことにはならない。ランタンの存在すらなかったことになるのかもしれない。
けれどきっと、それが正しいのだろう。
ランタンが照らす道の先に社が見えた。繋いだ手に僅かに力を込めて、社の元へと進んでいく。
そっと繋いだ手の先を見た。記憶の中でさえ霞んで見えなかったはずの誰か。
大きな硬い手。優しい温もり。
穏やかな目をして微笑む、本当の父と目が合った。
20251118 『記憶のランタン』