かたんかたん、と列車が揺れる。
窓から見える景色は、うっすらと雪の白が混じっていた。
「寒くないか?」
問われて首を振る。
「全然。コタツ、あったかいもの」
そう笑えば、彼も淡く微笑んでくれる。
暖かい。外は冬に向けて季節が移っていくのに、列車の中は少し暑いくらいだ。
ふと思い立って、彼の肩に凭れてみる。驚いたように小さく息を呑んだ彼は、けれど次の瞬間には目を細めて笑った。
「どうした?」
「なんでもない。コタツ列車って初めて乗ったけど、なんかいいなぁって」
「気に入ってもらえてよかった」
頭を撫でられて、心地良さに段々と眠くなってくる。
冬も悪くない。
堂々と触れ合える季節に向かう列車の中、一人幸せに笑っていた。
「おひとつどうだい?」
不意に向かいに誰かが座る気配がして、目の前に手が差し出された。
その手に乗っているのは、一個のみかん。柑橘系の爽やかな香りに、微睡み出していた意識が戻ってくる。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言って、みかんを受け取る。差し出した誰かに視線を向ければ、白髪の女性が穏やかに笑った。
「ようやく、くっついた祝いさ。嬢ちゃんの側にいるために努力を惜しまないっていうのに、いつまで経っても何も言わないんだ。あげくに振られたと言って戻ったかと思えば、機嫌は悪くて運転は荒れてたからねぇ」
態とらしく溜息を吐いてみせながら、それでも女性は笑っている。気になって彼を横目で見るも、表情を変えることなく黙々とみかんの皮を剥いていた。
「知ってるかい?こたつはねぇ、いつもは小雪《しょうせつ》の駅を過ぎないと出さなかったんだよ。それが寒露《かんろ》の駅を過ぎたら出してくるんだから、本当に大事にされているんだね」
楽しそうに言われて、思わず頬が熱くなる。
みかんを剥き終わったらしい彼は、手に乗せたままのみかんと交換して、また黙々とみかんの皮を剥き始めた。
その表情は変わらないけれど、よく見ると彼の耳が赤くなっている。それに気づいた瞬間に、益々頬が熱くなった。
「おやおやこれは……邪魔者は退散した方がよさそうだ。それじゃあね、お嬢ちゃん。頑張るんだよ」
彼から視線を逸らし手の中のみかんを見ていれば、女性は席を立ち去って行く。
何を頑張ればいいのだろう。
落ち着かず、みかんを見ながら考えてみる。けれど何も思いつかなくて、小さく息を吐いた。
「みかんは嫌いか?」
静かに問われて、首を振る。
「何を頑張ればいいのかなって」
「あまり気にするな。この列車の乗客は、おせっかいな奴らが殆どなんだ」
彼も同じように息を吐いて、剥き終わったみかんをもう一つ手の上に置いた。
食べないのだろうか。視線を向ければ、彼は白の手袋を嵌め帽子を被り、席を立つ所だった。
気づけば列車の速度が落ちている。もうすぐ次の駅に着くのだろう。
「次の駅は立冬だ。少し長く停まることになる」
車掌として駅に降りて仕事をしなければいけない彼に頷いて笑ってみせる。
「行ってらっしゃい。お仕事頑張ってね」
待つことは嫌いじゃない。窓から見える景色も、働く彼の姿も、見ているだけで心を躍らせる。
そんな気持ちを込めて伝えれば、彼は帽子を深くかぶりドアの側へと歩いていった。
かたん、かたん、と列車が速度を落とし、駅に停まる。
がたがたと、乗客が立ち上がる気配がして、ドアが開くのと同時にたくさんの客が駅へと降り立つ。その中に先ほどの女性がいて、目が合うと微笑んで手を振ってくれた。
それに会釈を返して、みかんを一房取り口に入れる。甘く爽やかな味に、口元が綻んだ。
窓の外では、彼が忙しそうに動き回っている。彼の言うとおり、この駅は乗客の出入りが多いらしい。
「ここは冬の始まりだからね」
声が聞こえて視線を向ける。
列車に乗る時に別れた彼女が、向かいの席に座って笑っていた。
「先輩」
「久しぶり。まあ、正しくは車掌の影だから、先輩じゃないけどね」
くすくすと笑いながら、彼女はどこからか湯飲みと急須を取り出すと、お茶を入れ始めた。
「やっぱみかんにはお茶だよね。あと、おせんべいもあるから、食べながらのんびり出発を待とう」
再びどこからかせんべいやみかんが乗った皿を出し、コタツの上に置いて彼女は笑う。それに曖昧な返事を返しながら、また一房手の中のみかんを口に入れた。
窓の外を見る。彼の様子に変化はない。しかしその足下には、やはり影はなかった。
「心配しなくてもあいつは大丈夫だよ。双子みたいなもんだと思ってくれていいし」
「そうなの?」
「そうなの。ただ側にいてもいなくても、お互い見聞きしたことは通じてるから、双子というより、もう一人の自分って感じに近いのかな」
首を傾げる彼女に、同じように首を傾げる。まったく理解はできていないが、そういうものなのだろうと無理矢理に納得した。
みかんを食べ、淹れて貰ったお茶を飲みながら車内を見渡す。
乗客が降りてがらんとしていた車内は、すぐに別の乗客が乗り込み賑わいを見せている。しっぽの生えた子供たち。りっぱな角を持つ男性。木彫りの面を被った人影の群れなど、不思議な乗客たちで列車は満員になっていく。
「季節の移り変わりは、訪れるものも去るものも多いんだよ。特に冬は境が薄くなってしまうからね」
音を立てて茶をすすりながら彼女は言う。
駅の外。遠くへ飛んでいく白い鳥の姿を見ながら、駅を降りることの意味を考えた。
冬へ向かい駅を降りる。その先に向かい、自分もいつか駅を駅を降りるのだろうか。
「どうしたの?」
窓の外を見たまま動かない自分に、彼女は不思議そうに声をかける。静かに首を振って、同じように駅を降りた客を見送る彼を見た。
真っ直ぐな視線。自分が駅を降りる時も、彼は見送ってくれるのだろうか。
その姿を想像して、小さく笑う。彼に見送られるのは、とても贅沢で、幸せなことのように感じた。
「見送る姿がかっこいいなって……あんな風に見送られているお客さんたちが羨ましい」
呟けば、彼女は途端に咽せ込んだ。
突然のことにどうすればいいのか分からず視線を彷徨わせていれば、足音荒く彼が近づいてくるのが見えた。
どうやら出発の時間が来たようだ。影になって彼の足下へ消えていく彼女を何も言えずに見送って、恐る恐る彼を見る。
帽子を深く被っているため、表情は見えない。けれど何も言わずに席に座るその耳が、真っ赤に染まっているのが見えた。
かたん、かたん、とゆっくりと列車が動き出す。白が混じる景色が過ぎて、遠くなる。
お互いに何も言えないまま。どこか気まずい空気が、周囲の賑やかな雰囲気に解けていく。
少しだけ寂しくなって、そっと彼の手に触れた。微かに息を呑む音が聞こえ、触れていただけの手を繋がれる。
そのまま手を引かれ、彼の胸に倒れ込んだ。強く抱き締められ、そっと囁かれる。
「俺は見送りたくはない。もしも駅を降りる時が来たならば、そのまま俺を連れて行ってくれ」
指を絡めて繋ぎ直される。離れないという宣言のようで、煩いくらいに胸の鼓動が高鳴った。
顔が熱い。何も言葉が出ず、返事の代わりに彼の胸に擦り寄った。
かたんかたん、と列車が冬へ向けて走っていく。
外は雪が降り積もっているのだろう。
だけどこの列車の中は、コタツだけでない温もりに溢れ。
少しばかり暑いくらいだった。
20251117 『冬へ』
白い月が浮かぶ夜。
少女は一人、月明かりを浴びて踊っていた。
くるりと回り、高く飛び上がる。
広がる白のスカートが、まるで羽根のように見えていた。
夜は少女のためだけの舞台。月明かりというスポットライトを浴びて微笑む少女は、誰よりも何よりも美しかった。
惚けたように少女を見つめていれば、不意にこちらを見つめる目と視線が合った。
息を呑んで硬直していれば、少女はふわりと微笑みこちらへと近づいてくる。
「こんばんは」
透き通った、美しい声音。意味もなく視線を彷徨わせながら、小さく頭を下げてみる。
「こ、こんにちは」
くすくすと笑う声すら美しい。不躾に見ていたことが恥ずかしくなって、顔を俯かせ、もごもごと口を開いた。
「あ、えっと……勝手に見てて、ごめんなさい。その……すごく、綺麗だったから……」
今まで見てきた何よりも。
そう心の中で付け足した。
それほどに少女の踊りは美しかった。他の誰かの踊りなど、比較にもならない。幻想的で儚さすら感じるその姿は、この世のものではないかのようだった。
そんな美しさを、自分は知らない。人も、絵も、景色も、少女ほど綺麗なものを見たことはなかった。
「ありがとう。そう言ってもらえると、とても嬉しいわ。寝坊をしたと気づいた時は途方に暮れたけれど、こんなに綺麗な月と褒めてくれるあなたに出会えたのだから、逆に幸運だったのかもね」
「寝坊?」
くるりくるりと可憐に舞う少女の意外な言葉に、目を瞬いた。幻想的で遠い存在に思えた少女が、一気に身近に感じて、知らず強張っていた体の力が抜ける。
「そうよ。目が覚めたら、一人きりなんですもの。最初はとても慌てていたのよ」
そうは言うものの、少女は穏やかに月を見上げた。
白くしなやかな指先が月に照らされ。淡く浮かぶ。夜を掻き分けるかのように、静かに揺らめいた。
「どうしてそんなに綺麗に踊れるの?」
可憐な動きに目を奪われながら、気づけば胸の内に込み上げた思いを口にしていた。
「後悔したくないから」
その問いに少女は月に向けて微笑みながら、歌うように囁いた。
意味が分からず、少女の視線を追って月を見上げる。煌々と輝く白の月は、けれども少女の後悔の意味を教えてはくれなかった。
「何を後悔するの?」
首を傾げて、さらに問いかける。困惑するばかりの自分に、少女は優しく楽しげに笑う。
「だって、たった一度だけの、こんなにも綺麗な月夜なんですもの」
夜に解けていく涼やかな声音。その言葉の意味は、やはりよく分からなかった。
「明日も月は出るのに?」
「明日の月は、今日の月ではないわ。今、この瞬間の私を照らしてくれるのは、今日のこの月だけ」
「今日の、月……」
月と少女を見ながら、目を細める。意味を理解できないけれど、何故か分かったような感じがした。
「明日も、また会える?」
夢見心地に、そう問いかける。
「私は、今日だけよ」
少女は笑う。
そうだろうな、と自分も笑った。
「起きたのが今日で、本当によかった。後悔なんてほんの少しもしないで、自由に咲き誇ることができるもの……ありがとう。私を見てくれて。綺麗だって言ってくれて、とっても嬉しい」
心からの微笑みを湛えて、少女はスカートの裾を持ち上げ可憐にお辞儀をした。静かな夜のステージで、月のスポットライトに照らされながら、少女は再び踊り始める。
くるりと舞えば、スカートの裾がふわりと広がる。月明かりを浴びて白く煌めきながら、優雅にステップを踏み続ける。
ふと空を見上げた。月は静かに、冴え冴えとした白を湛えている。
いつもと変わらない、澄んだ夜空に浮かぶ月。
けれども――。
少女を照らす今夜の月は、初めて見るような荘厳な美しさを秘めているような気がした。
次の朝。
少女と出会った場所を訪れると、やはり彼女の姿はどこにもなかった。
代わりに残されていたのは、咲き終わり朽ちて萎んだ一本の花。夜にだけ咲くというその白い花に、そっと指先を触れさせた。
たった一夜。ひっそりと咲く花には、確かに昨日はなく明日もない。
見上げる空には、月はない。雲一つない青空にあるのは、眩しい陽だけだ。
「今日だけの、特別……」
もう一度花に触れ、静かに立ち上がる。少女の動きを真似て、ゆっくりとステップを踏み出した。
少女の踊りとは比べものにならない、拙い動き。それでも必死で記憶の中の少女を追いかける。あの時一緒に踊れたのならばよかったと、小さな後悔に思わず苦笑した。
後悔のないように。
少女と違い明日がある自分は、この先も何度も後悔しながら進み続けるのだろう。
――大丈夫。あなたには明日の月が照らしてくれるわ。
吹き抜ける風が、彼女の声を運んだ気がした。
動きを止めず、過ぎていく風を視線で追いかける。
「――あぁ、本当だ」
風を追って見上げた空。
朧気に浮かぶ白の月に、思わず笑みが溢れ落ちた。
20251116 『君を照らす月』
懐かしい歌が聞こえた。
あの子ではないと知りながら、視線は声の主を求めて彷徨う。遠くで駆けていく子供たちの姿に、あの子ではなかったことを認めて肩を落とした。
何度繰り返しただろう。少しも前に進めないことを自嘲する。馬鹿だと思いながらも、葉の落ちた木々にまたあの子の思い出を重ねて足を止めた。
青々と葉が茂る木々の下、木漏れ日を浴びてうたた寝をするあの子の幻を見る。
瞬きの間に、幻は跡形もなく消えていく。近づいて地面に触れても、そこには温もりの欠片も残ってはいない。
「本当に、馬鹿だなぁ」
木漏れ日のような暖かな笑みを浮かべたあの子の跡は、この先も消えはしないのだろう。
すべては自分の選択の結果だ。それなのに今も醜く縋る心に、吐き気がしそうだった。
先日、あの子の手を離す選択をした。
気づけば常に側にいたあの子。自分以外には見ることのできない、特別な存在。
悲しい時も、寂しい時も、あの子がいれば耐えられた。
あの子が笑えば、自然と自分も笑うことができた。
そんな大切なあの子と、このままずっといられたのなら、それはとても幸せなことだろう。自分は一人ではない。導いてくれる絶対的な味方がいることは、自分を穏やかにさせてくれていたことだろう。
けれど、だからこそ手を離そうと思った。
あの子の優しさを犠牲に、甘えて楽な道を進む訳にはいかない。自分の笑顔のために、あの子が笑う陰で苦しんでいるのではないかと思うと落ち着かなかった。
理由はそれだけではないだろう。
成長していく自分と、変わることのないあの子。その違いがこれ以上大きくなっていくことが、きっと耐えられなかったのだ。
両手に視線を落とし、強く握り締める。
あの時から、あの子に一度も会えていない。影すら見えず、それが何よりも痛かった。
ふと、歌声が聞こえた。
あの子がよく歌ってくれた歌。もう聞くことのできない歌。
気づけばまた、足は歌声が聞こえる方へと進んでいく。街路樹を過ぎ、住宅街を抜け。そうして町外れの雑木林の中へと進んでいく。
今は誰も近づかなくなったこの雑木林は、あの子と二人だけの秘密の遊び場だった。懐かしさに目を細めながら、声を求めて奥へと向かった。
「――あ」
強く風が吹き抜けて、思わず目を閉じた。次に目を開けた時、目の前の景色は一変していた。
葉が落ちた木々は、時計の針を戻すかのように葉が生い茂る。落ち葉で覆われた地面は、色鮮やかな花の咲き乱れる花畑へと変わる。
木漏れ日の下、花に囲まれながら、あの子が――大切な自分だけの友人が楽しそうに歌っていた。
友人の目がこちらに向けられる。歌が止まり、柔らかな微笑みと共に両手を伸ばされる。
「悲しいの?歌ってあげるから、おいで」
囁く言葉と同時に、その腕に駆け込んでいた。
「泣かないで。もう大丈夫だよ」
頭を撫でられながら、大丈夫だと繰り返される。優しく、甘い声音。込み上げるのは、手を離した後悔ばかりだ。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉を繰り返しながらも、その優しさに縋る。小さな体にしがみつけば、友人は小さく笑ったようだった。
「いいよ。このまま、側にいてあげる。今までそうだったように、これからもずっと」
「ずっと……?」
友人の言葉に、頭の芯が冷えていく。
自分の幸せのために、友人がこれからも消費され続けていく。自分に繋ぎ止められて、苦しんでしまう。
笑顔の裏で泣く友人の姿を想像して、歯を食いしばり体を離した。
「ずっと……じゃなくて、いい。もう少し……今だけ。お願い……」
俯き、震える声で伝える。
友人の顔が見れない。喜んでいても、悲しんでいても、見てしまえば、決意が揺らいでしまう。
友人は何も言わない。静かにこちらを見つめる視線を感じながら、必死に涙を堪えていた。
「今だけ、ね」
不意に友人は呟いて、次の瞬間には強く手を引かれた。
咄嗟のことに逆らうこともできずに、そのまま友人の胸に倒れ込む。
「っ、何、急に……」
「今だけ、だよ」
頭を抱かれ困惑する自分を気にせず、友人はそっと歌い出す。
悲しい時、いつも歌ってくれた歌。離れようと伸ばした手が、力なく友人の服を掴む。
「少しお休み。また、起きた時にね」
ぽんぽんと、あやすように背を叩かれ、瞼が閉じていく。染み込んでいく歌声に、意識が沈んでいく。
目が覚めたら、今度こそ。
木漏れ日のように暖かで優しい、友人の手を離さなければ。笑って、送り出せるようにならなければ。
何度目かの無意味な決意をしながら、夢の世界に落ちていった。
穏やかな寝息を立てる少女の頭を撫で、少年は静かに立ち上がる。
その表情は少女に見せていた柔らかさなど欠片もない。酷薄に口元を歪め、眠る少女を見下ろしていた。
「今だけ、ね」
少女の言葉を嘲笑い、少年は懐から小さな砂時計を取り出した。
砂時計の砂が落ちていき、周囲の時が反転していく。花は枯れ木の葉は落ちて、瞬きの間に物寂しい元の景色へと変わる。
「今回も駄目か。強情め……いや、臆病と言った方が正しいか」
くつくつと喉を鳴らして嗤いながらも、その目には強い怒りが浮かんでいた。
「この俺を手放せると思うなよ。お前が受け入れるまで、何度でも繰り返してやろう。それまで手を離したことの後悔に苦しむといい」
どんな理由があれ、少女が手を離したことを少年は許すつもりはなかった。故に少年は同じ時間を繰り返す。
少女が孤独に耐えかねて少年の跡を求め、そして永遠に受け入れるまで、何度でも。
「俺の手を取った時から、お前は一人では生きては行けぬと、いつになったら気づくのだろうな。お前の笑顔のために必要なのは、俺くらいだというのに」
眠る少女に向けて、少年は冷たく言い放つ。
暖かな木漏れ日を失い、その跡を求めて身を丸くする少女に眉を寄せた。
眠る少女の体には、いつの間にか無数の傷ができている。傷が痛むのか、その表情もどこか苦しげだ。
「また増えているな。心が痛み苦しむだけだというのに、何故意地を張って手を離すのか」
静かに膝をつく。傷口に手を触れ、傷も痛みも消していく。触れた後には、傷跡一つ残らない。
身を縮め、少女は静かに涙を流す。その姿に少年は怒りを堪えるかのように、唇を噛み締めた。
「ほら、元通りになった。だからもう泣くな。痛みもないだろう?」
少女の頬を伝う涙を拭い、頭を撫でる。次第に少女の口元が綻ぶのを見て、少年もまた淡く微笑んだ。
「さて、今度こそは求めてくれればいいのだが。お前が受け入れなければ、契約は成立しない」
呟いて少年は立ち上がり、少女に背を向ける。
景色が歪み、少女の部屋へと形を変えた。
「また、後でな」
小さく笑い、少年は歌いながら去っていく。
一人残された少女は何も知らず、同じ時を繰り返す。
作られた舞台に気づかずに。
少女にとっての木漏れ日を求めて、またその跡を追いかける。
20251115 『木漏れ日の跡』
赤や茶色の葉で覆われた道。見上げる木々の葉は、殆どが散ってしまった。
今日もまた、待ち人は来ないのだろう。約束したことすら忘れているのかもしれない。
「嘘つき」
寒さに悴む手に息を吹きかけ温めながら、来ない相手に向けて呟いてみる。答える声は、聞こえてはこない。
分かってはいてもそれが悲しくなって、誤魔化すように足下の落ち葉を蹴り上げた。かさりと舞い落ちる葉に、益々寂しさが募る。
――来年もまたこの場所で、一緒に紅葉を見よう。
ささやかな約束。指切りまでしたそれは、結局はその時場限りの形だけのものだったらしい。
もう一度、落ち葉を蹴り上げ歩き出す。
暦の上では、既に冬が来ている。もうすぐ葉はすべて散り、雪が降り始めることだろう。
そうしたらきっと、諦めもつくはずだ。
それまでの日にちを心の内で数えながら、一人寂しく家へと向かった。
次の日も、気づけば約束の場所で一人立ち尽くしていた。
見上げる木々には、もう数える程しか葉がついていない。諦めれきれない自分を嘲笑うように、また一枚風に乗って葉が散っていく。
「嘘つき」
俯いて、込み上げる涙を乱暴に拭う。唇を噛みしめて、込み上げる嗚咽を必死に呑み込んだ。
今日で最後にしよう。
雪を待ってなどいられない。葉がすべて落ちた木々を見るのは、苦しくて耐えられないだろうから。
きつく目を閉じ、呼吸を整える。もう一度涙を拭い、俯く顔を上げ目を開けた。
じわりと涙で滲む、目の前の景色。その視界の端に、誰かの姿が見えた。
「え?」
目を擦り、その場所を見る。けれどそこには誰もいない。
いないはずだ。それなのに、込み上げる涙で視界が滲めば、そこに誰かの姿が見えた。
朧気な輪郭。自分と同じ年頃の少女に見えるその誰かは、手にした何かに視線を落とし、そしてそれを耳に当てた。
それがスマホだと気づいた時、ポケットの中に入れたままの自分のスマホが誰かからの着信を伝えた。
ポケットの中からスマホを取り出す。滲んだ視界ではそれが誰からの電話なのかは分からない。
それでも震える指は、通話ボタンを押していた。
「――もしもし」
スマホを耳に当てれば、電話越しに誰かの息を呑む音がした。
滲む視界で見える誰かが動揺したように、体を揺らす。
「誰?」
そう問いかければ、小さく鼻を啜る音が聞こえる。
そして、一度しゃくり上げる声がして。
「やっと通じた……このおバカ。どこにいんのよ」
待ち焦がれた、懐かしい声が鼓膜を揺すった。
「どこって……?」
「いいから!今どこにいんの?迎えに行くから教えなさい!」
懐かしさに浸る暇もなく、叫びにも似た勢いで場所を問われる。それに思わず目を瞬けば、涙が溢れ落ち滲む世界にだけ見える目の前の誰かの姿が消えていく。
「あ……」
「何か目印になるものとかないの!?……あぁもう!あんたほんとにどこにいんのよ?」
怒っているというよりも、焦ったような声音。消えた誰かに向けた意識を戻して、戸惑うように口を開く。
「え、と。その……約束した、場所」
口にしてから、相手は覚えていないだろうことに気づく。それに苦しくなって俯きかけるが、相手は容赦なく問いを重ねた。
「それって、どの約束!?海?山?喫茶店とか商店街の方!?」
「あ、その……」
勢いに口籠もるが、同時にたくさんの約束をしたことを思い出す。一緒に遊ぶ度、どこかへ行く度にささやかな約束を繰り返していた。
それを彼女は覚えてくれている。じんわりと胸が温かくなるのを感じて、笑みが浮かんだ。
「紅葉を見に行こうって行ったから……だから、ずっと待ってた」
「ここ!?……あぁ、待って!そこ、動かないでよ!」
風が落ち葉を舞い上げる。ざかざかとまるで誰かが近づいてくるような音を立て目を瞬いていれば、不意に右手に熱を感じた。
「え……?」
「捕まえた!」
右手を見ても、何もない。けれど足下、自分の影と手を繋ぐ誰かの影が揺れている。
「よし!このまま、急いで神社に行くからね!」
「神社?なんで……っ!?」
意味が分からず問いかける前に、ぐいと手を引かれて走り出していた。急なことに転ばないようにするだけで精一杯で、何も言葉が出てこない。
相手も何も言わず、それでも通話はそのままに、この町で一番大きく古い神社へと向かって走って行く。
何が起こっているのだろう。理解を超えた出来事に、それでも感じるのは恐怖ではなくやっと会えたという喜びだった。繋いでいるだろう手を、離れないように強く握る。相手も握り帰してくれることが、ただ嬉しかった。
辿り着いた神社は、普段と違いひっそりと静まりかえっていた。
走る足を止めず、そう言えばと今更ながらに気づく。
ここに来るまでに、誰ともすれ違うことはなかった。人だけではない。烏や猫などの生き物や、車でさえ見かけなかった。
「このまま裏の滝に飛び込むからね!……あ、ちょうど良かった。二人分のタオルと着替え、用意しててくんない?」
だが、電話の向こうでは、そうではないらしい。
「分かった!ようやく見つかったんだね」
「見つかったのか!?俺、おばさんたちに連絡してくる!」
「滝に行くってことは、やっぱり神隠し!?なら、父さんにお祓いしてもらうから。戻ってきたら社務所に来てよ!」
「分かった!ありがとう!」
複数の人の声。慌てたようにばたばたと音がする。
それも遠ざかり、神社の裏手にある小さな滝へと走っていく。
向かう先に滝が見えて、速度が上がる。本当にこのまま飛び込むらしいことに気づいて、焦りで繋ぐ手を引いた。
「ま、待って!?まさか、このまま?」
「当たり前!諦めて覚悟決めなよ」
「や、待って……待ってって……」
抵抗も空しく、手を引かれて走る勢いのままに滝に飛び込んだ。
ばしゃんと水しぶきを上げて、体が沈んでいく。冷たい水が容赦なく体温を奪い、意識が朦朧とし始める。
だがすぐに誰かの手に引き上げられ、震える体にタオルをかけられた。
「もう!皆心配したんだからね」
泣き腫らした赤い目をした友人が、タオルで水気を拭きながら抱き締めてきた。
ぼんやりと辺りを見渡す。友人たちや神社の関係者、近所の人たちの姿を認めて、目を瞬いた。
「寒い!死ぬ!これ以上外にいたら、凍え死ぬ!」
声が聞こえた。けれどスマホは滝に飛び込んだ際に手放してしまい、手元にはない。
電話越しではない、彼女の声にゆっくりと視線を向ける。
同じようにタオルで体を拭かれながら、彼女の兄に呆れた目を向けられているのが見えた。
「当たり前だ、馬鹿。この時期に滝に飛び込む奴がいるか」
「でもこれが一番確実だったし!」
「阿呆。風邪を引いたらどうするんだ」
溜息と共に小突かれている彼女と目が合った。
体を震わせ、かちかちと歯を鳴らしながらも嬉しそうに笑う。
「約束。ちゃんと覚えてくれててありがとう」
彼女の兄に抱き上げられ、彼女は社務所へと運ばれていく。それをぼんやりと見ていれば、同じように誰かに抱き上げられた。
驚いて視線を向ければ、眉間に皺を寄せて弟が自分を抱き上げている。彼女たちを追って、足早に歩き出した。弟の姿を見るのは久しぶりだ。それが何故かを考えて、ようやくすべて思い出す。
「あ……神隠し……」
黄昏を過ぎた後、女子供が一人で外にいれば神隠しに遭うという。
今では信じている者は殆どいない、古い言い伝え。幼い頃に両親としたささやかな約束を今更ながらに思い出した。
「皆、心配したんだからな」
弟の微かな呟きに、ごめんと小さく謝った。
目を閉じる。冷えた体を温める熱が、帰ってきたことを伝えている。
約束を破り神隠しに遭い、約束に縋って戻ってこれた。
深く息を吐けば、指切りをした小指がじわりと熱を持った気がした。
20251114 『ささやかな約束』
手を合わせ、目を閉じる。
ただそれだけ。自分にできることは、ほんの些細なことだ。
この祈りが、正しく届いているのか分からない。知る術はなく、すべては自分の思い込みなのかもしれない。
「いつも、ありがとう」
隣で同じように手を合わせていた祖母が礼を言う。その言葉に落ち着かなくなるのはきっと、まだ信じきれていないからだろう。
祈りが届くことを、どこかで自分は疑っている。
だから考えてしまうのだ。
この祈りに、果てはあるのかを。
「どうして人は祈るの?」
「――は?」
ぼんやりとテレビを見ていた姉が、訝しげな視線を向ける。口に出すつもりはなかったが、どうやら声に出てしまっていたらしい。曖昧に笑みを浮かべて何でもないと首を振るも、姉はテレビを消してこちらに向き直った。
「祈りが、何だって?」
「いや、別に大したことではないんだけど……どうして、人は祈るのかなって」
姿形の見えない相手に、何故祈るのか。届くかどうかすら分からないというのに、人は当然のように何かの節目で、切っ掛けで祈る。
行事の一環として祈る人。幼い頃から身についた習慣で祈る人。真剣に祈りを捧げる人。
理由は様々でも、何かを祈るその行為を何故誰も疑問に思わないのだろうか。
「そもそも、祈りって何だろう」
疑問を口にすれば、姉は笑うでもなく真剣な目をして考え込む。
しばらくして、姉は静かに首を振る。微笑みを浮かべて静かに口を開いた。
「考えてみたけど、よく分からなかった。祈る理由は人それぞれだし、祈りに対する期待も本気度も違う」
そう言って、姉は手を合わせる。祈りの形を取りながら、でも、と穏やかに呟いた。
「どんな祈りにも、願いがある。自分自身のため、誰かのため……叶ってほしいけれど、叶うか分からない願いを誰かに聞いてほしいから祈るんじゃないかな」
「願いを、聞いて欲しい?」
首を傾げた。分かるようで、いまいち分からない。
「それって、祈りが届かなくても構わないってこと?」
「届いて欲しいとは思っているよ。届いて、できれば叶えて欲しい……きっと祈りって、願い事の最後の希望なんだと私は思う」
願い。希望。
姉の言葉を、心の内で繰り返す。無意識に眉が寄り、それを見て姉はくすくすと笑った。
「眉間の皺が凄いことになってる……なんで急に祈りがどうとか言い出した訳?」
人差し指で眉間の皺を伸ばされながら問われ、口籠もる。視線を逸らしたくとも、姉が笑いながらもそれを許さない。
小さく息を吐いて、姉の手を掴みながら呟いた。
「祈りの果てってあるのかなって……お祖母ちゃんを見て、そう考えた」
「お祖母ちゃん……?」
驚いたように目を見張った姉は、だがすぐに優しい笑みを浮かべた。
眉間から指を離して、代わりに頭を撫でられる。
「ちょっ、なに……?」
「祈りの果てはあるよ。ちゃんとここに」
「え?」
頭を撫で続ける手を掴みながら、姉に視線を向ける。
意味が分からない。その言葉の真意を求めて問いかける前に、掴んだ手を逆に包まれて抱き寄せられた。
「果てって、つまり行き着く最後の場所でしょ?お祖母ちゃんの祈りはちゃんと届いて、こうして今も元気に変なことばかり考えてるよ」
ぽんぽんと背中を叩かれ、笑われる。
優しい顔。手の暖かさに、何も言えずに姉の肩に額を押し当てた。
何故忘れていたのだろう。意識の靄が晴れていくように、忘れていたたくさんのことを思い出す。
行かなければ。祖母に会わなければいけない。
「お祖母ちゃんには、もう大丈夫って伝えておいで。今のあんたには、祈りなんて必要ないでしょ?」
「――うん」
小さく頷いて、ゆっくりと姉から離れる。
確かに姉の言う通りだ。誰かの祈りがなくても、自分はしっかりと歩いて行けるのだから。
部屋を出て、玄関に向かう。
急ぐ足は外に出る頃には駆け出していた。早く祖母に会いたくて伝えたくて、気が急いてしまう。
「お祖母ちゃん」
優しい祖母の笑顔を思い浮かべながら、夢中で走り続けていた。
いつもの場所で、いつものように祖母は手を合わせて祈っていた。
側に寄れば、顔を上げてこちらを振り返る。柔らかな笑みを浮かべて、祖母はいつもの言葉を口にする。
「ありがとうね」
祖母の感謝の言葉が、何を意味していたのか。ようやく気づくことができて、胸が苦しくなった。
「お祖母ちゃん」
声をかければ、祖母は驚いたように目を瞬いた。
一歩、祖母に近づいた。震える唇の端を上げ、笑顔を作ってみせる。
「もういいよ、お祖母ちゃん」
泣くのを堪えた、不格好な笑顔。それでも祖母は目を細めて、眩しそうにこちらを見た。
「もう、いいのかい?」
「いいよ。私、とっくに七つを過ぎて、今度高校を卒業するんだよ……もう神様にお願いしなくても、ちゃんと生きていけるから」
微笑む祖母の姿が次第に霞み、朧気になっていく。穏やかに笑む目の端に煌めく滴を溜めながら、祖母は何度も頷いた。
「そうかい。そんなに大きくなったんだねぇ。ばあちゃん、神様にお祈りするのに夢中で、全然気づかなかったよ」
「ずっと隣にいたのに、ちゃんと私の成長した姿を見ていてよ」
「ごめんよ……うん、とってもべっぴんさんになった。本当にありがとうね」
健やかでいてくれて。還らずにいてくれて。
祖母の祈りが、鼓膜を揺する。幼い頃に彼岸に足を踏み入れかけた私を引き戻した、祖母の願いが体に染み込んでいく。
祖母の祈りの果て。願いの行き着く先。聞き届けられ、叶えられて、今こうして私はここにいるのだと告げている。
「私こそありがとう……もう大丈夫。これからは私が神様にありがとうって伝えるから。だからお祖母ちゃんは、休んでくれていいんだよ」
消えていく祖母に、そっと手を伸ばす。すり抜けるかと思ったその手はすり抜けず、そのまま祖母を抱き締めた。
「なら、お言葉に甘えて休もうかね……ありがとう。あの時戻ってきてくれて。生きてくれて、本当にありがとうね」
祖母の手が背中に触れた。感謝の言葉を繰り返し、祖母は微笑みながら消えていく。
温もりが消えて、手を下ろした。強く目を閉じて、深く呼吸をする。
込み上げる感情を沈めて、笑顔を作りながら静かに手を合わせた。
「ありがとう」
この祈りに果てがあるのかは分からない。聞き届けられているのか、知りようもない。
けれども祖母が祈り続けた分の感謝の祈りを。
それ以上の思いを込めて、社に祈りを捧げ続けた。
20251113 『祈りの果て』