sairo

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手を合わせ、目を閉じる。
ただそれだけ。自分にできることは、ほんの些細なことだ。
この祈りが、正しく届いているのか分からない。知る術はなく、すべては自分の思い込みなのかもしれない。

「いつも、ありがとう」

隣で同じように手を合わせていた祖母が礼を言う。その言葉に落ち着かなくなるのはきっと、まだ信じきれていないからだろう。
祈りが届くことを、どこかで自分は疑っている。
だから考えてしまうのだ。

この祈りに、果てはあるのかを。



「どうして人は祈るの?」
「――は?」

ぼんやりとテレビを見ていた姉が、訝しげな視線を向ける。口に出すつもりはなかったが、どうやら声に出てしまっていたらしい。曖昧に笑みを浮かべて何でもないと首を振るも、姉はテレビを消してこちらに向き直った。

「祈りが、何だって?」
「いや、別に大したことではないんだけど……どうして、人は祈るのかなって」

姿形の見えない相手に、何故祈るのか。届くかどうかすら分からないというのに、人は当然のように何かの節目で、切っ掛けで祈る。
行事の一環として祈る人。幼い頃から身についた習慣で祈る人。真剣に祈りを捧げる人。
理由は様々でも、何かを祈るその行為を何故誰も疑問に思わないのだろうか。

「そもそも、祈りって何だろう」

疑問を口にすれば、姉は笑うでもなく真剣な目をして考え込む。
しばらくして、姉は静かに首を振る。微笑みを浮かべて静かに口を開いた。

「考えてみたけど、よく分からなかった。祈る理由は人それぞれだし、祈りに対する期待も本気度も違う」

そう言って、姉は手を合わせる。祈りの形を取りながら、でも、と穏やかに呟いた。

「どんな祈りにも、願いがある。自分自身のため、誰かのため……叶ってほしいけれど、叶うか分からない願いを誰かに聞いてほしいから祈るんじゃないかな」
「願いを、聞いて欲しい?」

首を傾げた。分かるようで、いまいち分からない。

「それって、祈りが届かなくても構わないってこと?」
「届いて欲しいとは思っているよ。届いて、できれば叶えて欲しい……きっと祈りって、願い事の最後の希望なんだと私は思う」

願い。希望。
姉の言葉を、心の内で繰り返す。無意識に眉が寄り、それを見て姉はくすくすと笑った。

「眉間の皺が凄いことになってる……なんで急に祈りがどうとか言い出した訳?」

人差し指で眉間の皺を伸ばされながら問われ、口籠もる。視線を逸らしたくとも、姉が笑いながらもそれを許さない。
小さく息を吐いて、姉の手を掴みながら呟いた。

「祈りの果てってあるのかなって……お祖母ちゃんを見て、そう考えた」
「お祖母ちゃん……?」

驚いたように目を見張った姉は、だがすぐに優しい笑みを浮かべた。
眉間から指を離して、代わりに頭を撫でられる。

「ちょっ、なに……?」
「祈りの果てはあるよ。ちゃんとここに」
「え?」

頭を撫で続ける手を掴みながら、姉に視線を向ける。
意味が分からない。その言葉の真意を求めて問いかける前に、掴んだ手を逆に包まれて抱き寄せられた。

「果てって、つまり行き着く最後の場所でしょ?お祖母ちゃんの祈りはちゃんと届いて、こうして今も元気に変なことばかり考えてるよ」

ぽんぽんと背中を叩かれ、笑われる。
優しい顔。手の暖かさに、何も言えずに姉の肩に額を押し当てた。
何故忘れていたのだろう。意識の靄が晴れていくように、忘れていたたくさんのことを思い出す。
行かなければ。祖母に会わなければいけない。

「お祖母ちゃんには、もう大丈夫って伝えておいで。今のあんたには、祈りなんて必要ないでしょ?」
「――うん」

小さく頷いて、ゆっくりと姉から離れる。
確かに姉の言う通りだ。誰かの祈りがなくても、自分はしっかりと歩いて行けるのだから。
部屋を出て、玄関に向かう。
急ぐ足は外に出る頃には駆け出していた。早く祖母に会いたくて伝えたくて、気が急いてしまう。

「お祖母ちゃん」

優しい祖母の笑顔を思い浮かべながら、夢中で走り続けていた。



いつもの場所で、いつものように祖母は手を合わせて祈っていた。
側に寄れば、顔を上げてこちらを振り返る。柔らかな笑みを浮かべて、祖母はいつもの言葉を口にする。

「ありがとうね」

祖母の感謝の言葉が、何を意味していたのか。ようやく気づくことができて、胸が苦しくなった。

「お祖母ちゃん」

声をかければ、祖母は驚いたように目を瞬いた。
一歩、祖母に近づいた。震える唇の端を上げ、笑顔を作ってみせる。

「もういいよ、お祖母ちゃん」

泣くのを堪えた、不格好な笑顔。それでも祖母は目を細めて、眩しそうにこちらを見た。

「もう、いいのかい?」
「いいよ。私、とっくに七つを過ぎて、今度高校を卒業するんだよ……もう神様にお願いしなくても、ちゃんと生きていけるから」

微笑む祖母の姿が次第に霞み、朧気になっていく。穏やかに笑む目の端に煌めく滴を溜めながら、祖母は何度も頷いた。

「そうかい。そんなに大きくなったんだねぇ。ばあちゃん、神様にお祈りするのに夢中で、全然気づかなかったよ」
「ずっと隣にいたのに、ちゃんと私の成長した姿を見ていてよ」
「ごめんよ……うん、とってもべっぴんさんになった。本当にありがとうね」

健やかでいてくれて。還らずにいてくれて。
祖母の祈りが、鼓膜を揺する。幼い頃に彼岸に足を踏み入れかけた私を引き戻した、祖母の願いが体に染み込んでいく。
祖母の祈りの果て。願いの行き着く先。聞き届けられ、叶えられて、今こうして私はここにいるのだと告げている。

「私こそありがとう……もう大丈夫。これからは私が神様にありがとうって伝えるから。だからお祖母ちゃんは、休んでくれていいんだよ」

消えていく祖母に、そっと手を伸ばす。すり抜けるかと思ったその手はすり抜けず、そのまま祖母を抱き締めた。

「なら、お言葉に甘えて休もうかね……ありがとう。あの時戻ってきてくれて。生きてくれて、本当にありがとうね」

祖母の手が背中に触れた。感謝の言葉を繰り返し、祖母は微笑みながら消えていく。

温もりが消えて、手を下ろした。強く目を閉じて、深く呼吸をする。
込み上げる感情を沈めて、笑顔を作りながら静かに手を合わせた。

「ありがとう」

この祈りに果てがあるのかは分からない。聞き届けられているのか、知りようもない。
けれども祖母が祈り続けた分の感謝の祈りを。
それ以上の思いを込めて、社に祈りを捧げ続けた。



20251113 『祈りの果て』

11/15/2025, 9:29:06 AM