sairo

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懐かしい歌が聞こえた。
あの子ではないと知りながら、視線は声の主を求めて彷徨う。遠くで駆けていく子供たちの姿に、あの子ではなかったことを認めて肩を落とした。
何度繰り返しただろう。少しも前に進めないことを自嘲する。馬鹿だと思いながらも、葉の落ちた木々にまたあの子の思い出を重ねて足を止めた。
青々と葉が茂る木々の下、木漏れ日を浴びてうたた寝をするあの子の幻を見る。
瞬きの間に、幻は跡形もなく消えていく。近づいて地面に触れても、そこには温もりの欠片も残ってはいない。

「本当に、馬鹿だなぁ」

木漏れ日のような暖かな笑みを浮かべたあの子の跡は、この先も消えはしないのだろう。

すべては自分の選択の結果だ。それなのに今も醜く縋る心に、吐き気がしそうだった。



先日、あの子の手を離す選択をした。
気づけば常に側にいたあの子。自分以外には見ることのできない、特別な存在。
悲しい時も、寂しい時も、あの子がいれば耐えられた。
あの子が笑えば、自然と自分も笑うことができた。
そんな大切なあの子と、このままずっといられたのなら、それはとても幸せなことだろう。自分は一人ではない。導いてくれる絶対的な味方がいることは、自分を穏やかにさせてくれていたことだろう。
けれど、だからこそ手を離そうと思った。
あの子の優しさを犠牲に、甘えて楽な道を進む訳にはいかない。自分の笑顔のために、あの子が笑う陰で苦しんでいるのではないかと思うと落ち着かなかった。
理由はそれだけではないだろう。
成長していく自分と、変わることのないあの子。その違いがこれ以上大きくなっていくことが、きっと耐えられなかったのだ。
両手に視線を落とし、強く握り締める。
あの時から、あの子に一度も会えていない。影すら見えず、それが何よりも痛かった。

ふと、歌声が聞こえた。
あの子がよく歌ってくれた歌。もう聞くことのできない歌。
気づけばまた、足は歌声が聞こえる方へと進んでいく。街路樹を過ぎ、住宅街を抜け。そうして町外れの雑木林の中へと進んでいく。
今は誰も近づかなくなったこの雑木林は、あの子と二人だけの秘密の遊び場だった。懐かしさに目を細めながら、声を求めて奥へと向かった。



「――あ」

強く風が吹き抜けて、思わず目を閉じた。次に目を開けた時、目の前の景色は一変していた。
葉が落ちた木々は、時計の針を戻すかのように葉が生い茂る。落ち葉で覆われた地面は、色鮮やかな花の咲き乱れる花畑へと変わる。
木漏れ日の下、花に囲まれながら、あの子が――大切な自分だけの友人が楽しそうに歌っていた。
友人の目がこちらに向けられる。歌が止まり、柔らかな微笑みと共に両手を伸ばされる。

「悲しいの?歌ってあげるから、おいで」

囁く言葉と同時に、その腕に駆け込んでいた。

「泣かないで。もう大丈夫だよ」

頭を撫でられながら、大丈夫だと繰り返される。優しく、甘い声音。込み上げるのは、手を離した後悔ばかりだ。

「ごめんなさい」

謝罪の言葉を繰り返しながらも、その優しさに縋る。小さな体にしがみつけば、友人は小さく笑ったようだった。

「いいよ。このまま、側にいてあげる。今までそうだったように、これからもずっと」
「ずっと……?」

友人の言葉に、頭の芯が冷えていく。
自分の幸せのために、友人がこれからも消費され続けていく。自分に繋ぎ止められて、苦しんでしまう。
笑顔の裏で泣く友人の姿を想像して、歯を食いしばり体を離した。

「ずっと……じゃなくて、いい。もう少し……今だけ。お願い……」

俯き、震える声で伝える。
友人の顔が見れない。喜んでいても、悲しんでいても、見てしまえば、決意が揺らいでしまう。
友人は何も言わない。静かにこちらを見つめる視線を感じながら、必死に涙を堪えていた。

「今だけ、ね」

不意に友人は呟いて、次の瞬間には強く手を引かれた。
咄嗟のことに逆らうこともできずに、そのまま友人の胸に倒れ込む。

「っ、何、急に……」
「今だけ、だよ」

頭を抱かれ困惑する自分を気にせず、友人はそっと歌い出す。
悲しい時、いつも歌ってくれた歌。離れようと伸ばした手が、力なく友人の服を掴む。

「少しお休み。また、起きた時にね」

ぽんぽんと、あやすように背を叩かれ、瞼が閉じていく。染み込んでいく歌声に、意識が沈んでいく。

目が覚めたら、今度こそ。
木漏れ日のように暖かで優しい、友人の手を離さなければ。笑って、送り出せるようにならなければ。
何度目かの無意味な決意をしながら、夢の世界に落ちていった。





穏やかな寝息を立てる少女の頭を撫で、少年は静かに立ち上がる。
その表情は少女に見せていた柔らかさなど欠片もない。酷薄に口元を歪め、眠る少女を見下ろしていた。

「今だけ、ね」

少女の言葉を嘲笑い、少年は懐から小さな砂時計を取り出した。
砂時計の砂が落ちていき、周囲の時が反転していく。花は枯れ木の葉は落ちて、瞬きの間に物寂しい元の景色へと変わる。

「今回も駄目か。強情め……いや、臆病と言った方が正しいか」

くつくつと喉を鳴らして嗤いながらも、その目には強い怒りが浮かんでいた。

「この俺を手放せると思うなよ。お前が受け入れるまで、何度でも繰り返してやろう。それまで手を離したことの後悔に苦しむといい」

どんな理由があれ、少女が手を離したことを少年は許すつもりはなかった。故に少年は同じ時間を繰り返す。
少女が孤独に耐えかねて少年の跡を求め、そして永遠に受け入れるまで、何度でも。

「俺の手を取った時から、お前は一人では生きては行けぬと、いつになったら気づくのだろうな。お前の笑顔のために必要なのは、俺くらいだというのに」

眠る少女に向けて、少年は冷たく言い放つ。
暖かな木漏れ日を失い、その跡を求めて身を丸くする少女に眉を寄せた。
眠る少女の体には、いつの間にか無数の傷ができている。傷が痛むのか、その表情もどこか苦しげだ。

「また増えているな。心が痛み苦しむだけだというのに、何故意地を張って手を離すのか」

静かに膝をつく。傷口に手を触れ、傷も痛みも消していく。触れた後には、傷跡一つ残らない。
身を縮め、少女は静かに涙を流す。その姿に少年は怒りを堪えるかのように、唇を噛み締めた。

「ほら、元通りになった。だからもう泣くな。痛みもないだろう?」

少女の頬を伝う涙を拭い、頭を撫でる。次第に少女の口元が綻ぶのを見て、少年もまた淡く微笑んだ。

「さて、今度こそは求めてくれればいいのだが。お前が受け入れなければ、契約は成立しない」

呟いて少年は立ち上がり、少女に背を向ける。
景色が歪み、少女の部屋へと形を変えた。

「また、後でな」

小さく笑い、少年は歌いながら去っていく。

一人残された少女は何も知らず、同じ時を繰り返す。
作られた舞台に気づかずに。
少女にとっての木漏れ日を求めて、またその跡を追いかける。



20251115 『木漏れ日の跡』

11/16/2025, 2:11:40 PM