sairo

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11/15/2025, 9:29:06 AM

手を合わせ、目を閉じる。
ただそれだけ。自分にできることは、ほんの些細なことだ。
この祈りが、正しく届いているのか分からない。知る術はなく、すべては自分の思い込みなのかもしれない。

「いつも、ありがとう」

隣で同じように手を合わせていた祖母が礼を言う。その言葉に落ち着かなくなるのはきっと、まだ信じきれていないからだろう。
祈りが届くことを、どこかで自分は疑っている。
だから考えてしまうのだ。

この祈りに、果てはあるのかを。



「どうして人は祈るの?」
「――は?」

ぼんやりとテレビを見ていた姉が、訝しげな視線を向ける。口に出すつもりはなかったが、どうやら声に出てしまっていたらしい。曖昧に笑みを浮かべて何でもないと首を振るも、姉はテレビを消してこちらに向き直った。

「祈りが、何だって?」
「いや、別に大したことではないんだけど……どうして、人は祈るのかなって」

姿形の見えない相手に、何故祈るのか。届くかどうかすら分からないというのに、人は当然のように何かの節目で、切っ掛けで祈る。
行事の一環として祈る人。幼い頃から身についた習慣で祈る人。真剣に祈りを捧げる人。
理由は様々でも、何かを祈るその行為を何故誰も疑問に思わないのだろうか。

「そもそも、祈りって何だろう」

疑問を口にすれば、姉は笑うでもなく真剣な目をして考え込む。
しばらくして、姉は静かに首を振る。微笑みを浮かべて静かに口を開いた。

「考えてみたけど、よく分からなかった。祈る理由は人それぞれだし、祈りに対する期待も本気度も違う」

そう言って、姉は手を合わせる。祈りの形を取りながら、でも、と穏やかに呟いた。

「どんな祈りにも、願いがある。自分自身のため、誰かのため……叶ってほしいけれど、叶うか分からない願いを誰かに聞いてほしいから祈るんじゃないかな」
「願いを、聞いて欲しい?」

首を傾げた。分かるようで、いまいち分からない。

「それって、祈りが届かなくても構わないってこと?」
「届いて欲しいとは思っているよ。届いて、できれば叶えて欲しい……きっと祈りって、願い事の最後の希望なんだと私は思う」

願い。希望。
姉の言葉を、心の内で繰り返す。無意識に眉が寄り、それを見て姉はくすくすと笑った。

「眉間の皺が凄いことになってる……なんで急に祈りがどうとか言い出した訳?」

人差し指で眉間の皺を伸ばされながら問われ、口籠もる。視線を逸らしたくとも、姉が笑いながらもそれを許さない。
小さく息を吐いて、姉の手を掴みながら呟いた。

「祈りの果てってあるのかなって……お祖母ちゃんを見て、そう考えた」
「お祖母ちゃん……?」

驚いたように目を見張った姉は、だがすぐに優しい笑みを浮かべた。
眉間から指を離して、代わりに頭を撫でられる。

「ちょっ、なに……?」
「祈りの果てはあるよ。ちゃんとここに」
「え?」

頭を撫で続ける手を掴みながら、姉に視線を向ける。
意味が分からない。その言葉の真意を求めて問いかける前に、掴んだ手を逆に包まれて抱き寄せられた。

「果てって、つまり行き着く最後の場所でしょ?お祖母ちゃんの祈りはちゃんと届いて、こうして今も元気に変なことばかり考えてるよ」

ぽんぽんと背中を叩かれ、笑われる。
優しい顔。手の暖かさに、何も言えずに姉の肩に額を押し当てた。
何故忘れていたのだろう。意識の靄が晴れていくように、忘れていたたくさんのことを思い出す。
行かなければ。祖母に会わなければいけない。

「お祖母ちゃんには、もう大丈夫って伝えておいで。今のあんたには、祈りなんて必要ないでしょ?」
「――うん」

小さく頷いて、ゆっくりと姉から離れる。
確かに姉の言う通りだ。誰かの祈りがなくても、自分はしっかりと歩いて行けるのだから。
部屋を出て、玄関に向かう。
急ぐ足は外に出る頃には駆け出していた。早く祖母に会いたくて伝えたくて、気が急いてしまう。

「お祖母ちゃん」

優しい祖母の笑顔を思い浮かべながら、夢中で走り続けていた。



いつもの場所で、いつものように祖母は手を合わせて祈っていた。
側に寄れば、顔を上げてこちらを振り返る。柔らかな笑みを浮かべて、祖母はいつもの言葉を口にする。

「ありがとうね」

祖母の感謝の言葉が、何を意味していたのか。ようやく気づくことができて、胸が苦しくなった。

「お祖母ちゃん」

声をかければ、祖母は驚いたように目を瞬いた。
一歩、祖母に近づいた。震える唇の端を上げ、笑顔を作ってみせる。

「もういいよ、お祖母ちゃん」

泣くのを堪えた、不格好な笑顔。それでも祖母は目を細めて、眩しそうにこちらを見た。

「もう、いいのかい?」
「いいよ。私、とっくに七つを過ぎて、今度高校を卒業するんだよ……もう神様にお願いしなくても、ちゃんと生きていけるから」

微笑む祖母の姿が次第に霞み、朧気になっていく。穏やかに笑む目の端に煌めく滴を溜めながら、祖母は何度も頷いた。

「そうかい。そんなに大きくなったんだねぇ。ばあちゃん、神様にお祈りするのに夢中で、全然気づかなかったよ」
「ずっと隣にいたのに、ちゃんと私の成長した姿を見ていてよ」
「ごめんよ……うん、とってもべっぴんさんになった。本当にありがとうね」

健やかでいてくれて。還らずにいてくれて。
祖母の祈りが、鼓膜を揺する。幼い頃に彼岸に足を踏み入れかけた私を引き戻した、祖母の願いが体に染み込んでいく。
祖母の祈りの果て。願いの行き着く先。聞き届けられ、叶えられて、今こうして私はここにいるのだと告げている。

「私こそありがとう……もう大丈夫。これからは私が神様にありがとうって伝えるから。だからお祖母ちゃんは、休んでくれていいんだよ」

消えていく祖母に、そっと手を伸ばす。すり抜けるかと思ったその手はすり抜けず、そのまま祖母を抱き締めた。

「なら、お言葉に甘えて休もうかね……ありがとう。あの時戻ってきてくれて。生きてくれて、本当にありがとうね」

祖母の手が背中に触れた。感謝の言葉を繰り返し、祖母は微笑みながら消えていく。

温もりが消えて、手を下ろした。強く目を閉じて、深く呼吸をする。
込み上げる感情を沈めて、笑顔を作りながら静かに手を合わせた。

「ありがとう」

この祈りに果てがあるのかは分からない。聞き届けられているのか、知りようもない。
けれども祖母が祈り続けた分の感謝の祈りを。
それ以上の思いを込めて、社に祈りを捧げ続けた。



20251113 『祈りの果て』

11/14/2025, 3:40:39 AM

鏡に手をつき、溜息を吐いた。
同じ場所をぐるぐると回っている。違う道を選んでも、最後にはまた最初のこの場所に辿り着いてしまう。

「疲れた」

鏡に凭れながら座り込む。周りの鏡に映る自分も、同じように座り込んだ。
ミラーハウス。鏡の迷宮。
何故こんな所にいるのか。いつからいるのかは分からない。
ただ早く帰らなければという焦燥感が常に付き纏い、心を落ち着かなくさせている。
帰らなければ。いつまでも、迷っている訳にはいかない。
深く息を吐いた。顔を上げて、ゆっくりと立ち上がる。

「帰らないと」

自分に言い聞かせるように呟いて、また迷路の中に足を踏み入れた。



「なんで帰りたいの?」

背後から声が聞こえ、咄嗟に振り返る。

「え……」

無数の鏡に映るそれに、息を呑む。無意識に後退る自分を嘲笑うかのように、鏡の中の幼い自分はサイズの合っていないシャツを揺らす。

「帰った所で、苦しいだけじゃない」

幼い自分の声に被さるように、赤子が泣く声が聞こえた。背後の景色が揺らぎ、ベビーベッドのある室内を映し出す。両親が慌てたように、幸せそうにそれぞれ赤子を抱き上げ笑う。その側で、兄も興味深げに双子の弟妹を見つめていた。

「本当に帰りたいの?」

兄のお古を着た、幼い自分が問いかける。
笑う両親に抱かれた双子は、どちらも綺麗な服を着ている。誰もが幸せそうで、笑っていないのは自分くらいなものだ。

「帰りたいの?」
「帰らないと」

繰り返す幼い自分の問いに、呻くように呟いた。
首を傾げる自分から逃げるように背を向ける。無数の怯えた顔をした自分の姿が視界に入り、密かに安堵の息を吐いた。

帰らなければならない。
理由を思い出せないその衝動だけで、迷路の先へと歩き出した。



「今更帰ってどうするの?」

声が聞こえて立ち止まる。
恐る恐る振り返れば、一枚の大きな鏡に映る、学生時代の自分がいた。

「あの時何も言わなかったくせに、今更帰って文句でも言うつもり?」

無表情な自分の後ろで、楽しそうに双子が笑う。
弟はサッカーに精を出し、妹はピアノ教室に通っていた。

「やりたいことがあったのに、家族のためだって何も言わなかったのは自分。なのに、後悔しているの?やりたいこともやれなかった自分が可哀想だなんて、思ってでもいるの?」
「違う……そんなこと、思ってない。ただ、帰りたくて……帰らないと……」

後退りながら、言い訳のように帰らなければと繰り返す。そんな自分を、学生時代の自分は冷めた目で見つめ問いかける。

「帰って、何がしたいの?」

口を噤む。何も思い出せずに、俯いた。
何か言わなければ。そうは思うのに言葉は出ず、足は縫い止められたかのように動かない。
戸惑い怯えて立ち尽くしていれば、不意に腕を掴まれた。

「何してんだよ?遅れるぞ」

視線を向ければ、幼馴染みが眉を寄せて立っていた。

「え、あれ……?」
「まったく、道の真ん中でぼーっとしてんなよ……先行ってるからな。お前も早く来いよ」

呆れたように笑いながら、幼馴染みは掴んだ腕を離して歩いて行く。それを追いかけようとして、後ろが気になり振り返った。
そこには無数の鏡に映る、無数の自分がいるだけで、学生時代の自分はもうどこにもいない。
深く息を吐いて、前を向く。幼馴染みの姿も、どこにも見えない。
密かに落胆しながらも、ゆっくりと歩き出す。
帰らなければいけない。
それは、もしかしたら幼馴染みが関係しているのだろうか。そんなことを思いながら、無心で前に進み続けた。



「どうするか、決めたの?」

声がした。
一呼吸置いて、ゆっくりと振り返る。

「いつものように聞き分けのいい子でいるのか、それとも自分の気持ちに素直になって悪い子になるのか」

薄暗い通路の前で、自分が問いかける。
その後ろでは、母に抱きつき泣きじゃくる妹の姿があった。
幼馴染みに告白して振られたのだろう。悲しみを切々と語る妹に、母は優しく頭を撫でて慰めている。
不意に母が顔を上げ、こちらに視線を向けた。困ったように微笑んで、妹を撫でながら口を開く。

「しばらく、彼と会うのは止めてちょうだい。お姉ちゃんなんだから、妹のために気を利かせてやってね」

咄嗟に言い返そうとした言葉は声にならず、代わりに強く唇を噛みしめる。
苦しい。母の言葉も、何も言えない自分の弱さも、苦しくて堪らない。そんな自分を見つめて、もう一人の自分は無感情に問う。

「どちらにするの?家族か、私か」
「私?」

提示された選択肢の意図を理解しかねて、眉を寄せる。もう一人の自分は頷いて、静かに告げた。

「家族を選べば、私はずっとお姉ちゃんのまま。私を選べば、お姉ちゃんではなくなるの」
「家族……お姉ちゃん……」

母と妹へと視線を向ける。母の胸に縋り泣く妹と、眉を下げ微笑む母。凍り付いたまま動かない二人を見て、唇が震えた。
選べるのは一つだけ。迷い彷徨う目が、もう一人の自分を見る。無表情なその顔は、それでも選んでしまっているように見えた。
目を逸らし、家族や自分に背を向ける。無数に映る鏡の中に、白い光を見つけて歩き出す。

「本当に帰るの?どちらを選んでも苦しくなるのに」

歩く自分の横を、幼い自分が着いてくる。

「帰って、また何も言わないままでいるの?ずっとそうだったように」

反対側で、学生時代の自分が冷めた目をして歩いている。
それらを振り切るように駆け出した。

「帰らないと。いつまでも迷っている訳にはいかないから」

はっきりと言葉にすれば、過去の自分たちは消えていく。

「どちらにするか、まだ決めていないのに」

後ろから声がした。けれどもう立ち止まることも、振り返ることもしない。
只管に、光に向かって駆けて行く。
そして、その光を抜けた瞬間。

真っ白な世界の中で、何度も自分を呼ぶ幼馴染みの声が聞こえた気がした。



「っ、起きたのか!?」

目を開けると、焦ったような幼馴染みの顔が視界いっぱいに映り込む。
声をかけようとするが、口から溢れるのは掠れた吐息だけ。起き上がろうとしても、体に力が入らなかった。

「無理するな。もう一週間も目を覚まさなかったんだぞ」

そう言いながら、幼馴染みはベッドのリモコンを操作し、リクライニングを上げる。床頭台の上のペットボトルと取ると蓋を開け、手渡してくれた。

「急ぐな。ゆっくり飲めよ」

頷いて、一口ミネラルウォーターを飲む。乾いた喉が潤う感覚にそっと息を吐いた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

礼を言いながらペットボトルを渡せば、幼馴染みは安堵したように笑う。しかしペットボトルを床頭台に戻してこちらに向き直った時には、その笑みは消えていた。

「正直に答えて欲しい。俺と結婚するのは、そんなに嫌だったのか?」

問われて息を呑んだ。俯きかける顔を必死で上げて、静かに首を振る。
嫌な訳ではない。幼馴染みに告白された時は、本当に嬉しかったのだ。
けれど妹の泣き顔が、母の言葉がちらついて離れない。返事をしようとする度に、家族が声を奪っていく。
それを幼馴染みに伝えることもできず、苦しさに両手を強く握り締めた。
そんな自分を見て、幼馴染みはそっときつく握った手を包み込む。目を合わせて、真剣な顔で問いかけた。

「選べないってんなら、攫っていってもいいか?」
「――え?」
「お前が家族を大切にしているのは分かるし、お前の家族もお前のことを愛しているのも分かる。それで動けないなら、俺が手を引いて連れ去ってやるよ。嫌なら手を振り払ってくれればいい」

その目の強さに、頷くことも首を振ることもできない。代わりに視線を落として、両手を包む幼馴染みの手を見つめた。
温かくて大きな手。いつも自分を導いていたこの手を、振り解くなんてきっとできないだろう。

「今すぐじゃない。でも卒業と同時に、お前のこと連れていくからな」
「――うん」

笑いながらも真剣な声音。包む手に力が籠もり、そっと頷いた。
顔を上げる。微笑む幼馴染みの顔が、昔二人で憧れたテレビのヒーローと重なって、眩しさに目を細めた。
幼馴染みはいつだって自分のヒーローだった。今更ながらにそれに気づいて、小さく笑みが浮かぶ。

「動けない私をいつも助け出してくれる、ヒーローみたいだね」

そう伝えれば、幼馴染みは目を瞬き苦笑する。

「俺がヒーロー?そんな訳ないだろ。俺はとっても悪い、悪の魔王だよ」

包む手を離し、頭を撫でられる。意地悪く笑いながら、床頭台の上を見つめた。

「なんたって、皆の大好きなお姉ちゃんを攫っちまうんだから」

床頭台の上に飾られた綺麗な花が、それに答えるように小さく揺れていた。



20251112 『心の迷路』

11/13/2025, 8:21:37 AM

綺麗にラッピングされた箱。

「開けないの?」

首を傾げて、弟が問う。何度目かのやりとりかも忘れたそれに曖昧な返事を返しながら、それでも箱を開けられずにいた。
今朝早く、玄関の前に置いてあった箱は、送り主が誰かを書いてはいない。ただ薄紅色の可愛らしいリボンが、送り主が誰かを静かに伝えていた。

「開けないの?」

弟が繰り返す。このやりとりにも飽きてきたようで、欠伸をひとつしながらテーブルの上に置かれた箱に手を伸ばした。

「開けないなら、開けるよ」
「ちょっと待って……!」

慌ててそれを止め、溜息を溢す。
仕方がないと、覚悟を決めてリボンに手をかけた。
リボンを解く。殊更丁寧に包みを剥がし、中から出てきた箱の蓋をゆっくりと開けていく。

「――あ」
「へぇ、可愛いじゃん」

弟が笑う。
それをどこか遠くに聞きながら、恐る恐る中のそれを取り出した。

「――可愛い」

思わず呟く。
華奢な白の陶器でできたそれは、一匹の黒猫が描かれた可愛らしいティーカップだった。
こちらを向いて座る黒猫の愛らしさに、無意識に口元が緩む。そっと絵をなぞり、ほぅ、と安堵の吐息が溢れ落ちた。

「今回は普通だな。つまんない」
「そういうこと言わないで」

肩を竦めて少しばかり鼻白む弟を睨み付けながら、そっとカップをテーブルの上に置く。折角の贈り物なのだから、紅茶か何かを入れようかとカップに背を向けたその瞬間。

「やっぱり、今回もだった」

足に擦り寄る何かを見て、弟は楽しげに声を上げて笑う。振り返れば、カップに描かれていたはずの黒猫はいない。またかと嘆息しながらも視線を落とせば、案の定足に体を擦りつけていたのは一匹の黒猫だった。



「で?どうすんの、それ」

ひとしきり笑った弟に腕の中の黒猫を指差され、眉を寄せながら首を振る。
どうすると言われても、どうしようもない。今まで送られてきた贈り物が、如実にそれを示しているというように、視界の端で自由気ままに動いている。
勝手気ままに床を掃除する箒とちり取り。裁縫道具たちが弟が持ち込んだ破れた衣類を縫い繕い、大時計は針を回して人形たちと遊んでいる。
溜息を吐きながら、喉を鳴らして擦り寄る黒猫の頭を撫でた。

「良かったわ。気に入ったようね」

聞こえた声に振り返りながら、恨めしげな視線を向ける。
大きな姿見から現れた彼はこちらの視線を気に留めず、笑みを浮かべて近づいてくる。

「お久しぶり、マスター。相変わらず、姉貴よりも綺麗だね」
「あら、ありがとう」

艶やかな笑みを浮かべて、彼は手にした包みをテーブルの上に置く。包みを解いて、中からティーセットを取り出した。この黒猫と同じデザインで、取り出された瞬間にカップやポットに描かれた猫が次々と抜け出てくる。
瞬く間に猫に囲まれる自分を見かねて、椅子が近寄り座れと促された。

「これ以上、曰く付きの骨董品を持ち込まないでください」
「嫌ならば、関わらないことが一番よ。そうすれば相手から勝手に去って行くわ。いつも言っているでしょう?」
「それは……そうだけど……」
「うちの店の子たちは、特に好き嫌いが激しいもの。それが皆ここにいるってことは、貴女が愛情を持って大切にしてくれているっていう何よりの証明よ」

そう言われてしまえばそれ以上何も言えず、膝に乗り出す猫たちを順に撫でていく。
喫茶店兼骨董屋を営む彼とは幼い頃からの付き合いだが、何においても勝てたためしがない。勉強も運動も、口げんかでさえも、彼は常に自分よりも上だった。
昔から中性的な容姿ではあったものの、女性の格好をするようになった今では自分よりも綺麗になってしまった。
込み上げる溜息を呑み込む。慰めなのか大時計が鐘を鳴らし、キッチンからお茶菓子を乗せた盆を持って日本人形が近づいてきた。
その時に、さりげなく彼の足を踏みつけていったのには、気づかない振りをした。

「あ、ありがとう」
「すっかり懐いちゃったわねぇ」

お盆からお茶菓子を受け取りお礼を言えば、彼は苦笑する。しかしその目が一瞬だけ何の感情も映していないように感じられ、思わず声が漏れた。

「どうしたの?」
「な、なんでもないです」

こちらを見る彼は、いつもと変わらないように見える。気のせいだったかと、首を傾げながら受け取った茶菓子から煎餅を取り囓った。

「姉貴は相変わらず鈍いからな。マスターも可哀想」
「は?」

くすくす笑う弟に、眉を寄せて睨み付ける。それを気にも留めず弟は裁縫道具たちに直された衣類を片手に、笑顔で手を振った。

「俺、そろそろ帰るわ。マスターはごゆっくり」

玄関へと向かう弟は、けれど部屋の扉の前で一度振り返り、彼に視線を向ける。

「基本的に、マスターのことは応援しとくけどさ……姉貴を傷つけるのは絶許なんで。そこんとこよろしく」
「分かってるわよ。じゃあまたね。今度はお店の方にいらっしゃい」

表面上はにこやかな二人に困惑して、視線が彷徨う。気にするなと言わんばかりに猫たちに擦り寄られ、何も言えずに弟の背を見送った。
気がつけば、部屋の中には自分と彼。そして彼の持ち込んだ、あるいは贈られた古い道具たちだけ。
どこか気まずい空気を掻き消すように、彼はテーブルに広げたティーセットを手にキッチンに向かう。

「お茶の準備をしてくるわね」
「あ、はい」

頷いて、彼を見送る。
それに続くように。猫たちはキッチンへと向かっていった。
一人部屋に残されて、溜息を吐く。

「何だったんだろう」

疑問に答えてくれる声はない。
自分の部屋だというのに、少しばかり居心地の悪さを感じる。これも彼と弟のせいだと、心の中で文句を呟きながら彼が戻ってくるのを待った。

しばらくすれば甘い香りと共に、彼がトレーを手に戻ってきた。

「お待たせ」

トレーの上には暖かな湯気を立てるポットと、カップが二つ。白の皿には色とりどりのマカロンが乗せられている。
それをテーブルの上に置き、ぼんやりと見ている内に彼はお茶の準備を整えていく。

「はいどうぞ。砂糖は二つでよかったのよね?」
「あ、うん。ありがとう……ございます」

受け取ったティーカップには、黒猫が一匹。こちらを向いて座っている。
カップに口をつければ、ほんのり甘い紅茶の香りと味が広がり、口元が綻ぶ。

「おいしい」
「よかった」

嬉しそうに彼は微笑み、自身も白猫の絵が描かれたカップに口をつける。その動作はとてもしなやかで綺麗なのに、カップを持つ手は男の人の手だった。
当たり前のことに呆然としていれば、彼はこちらを見つめ静かに問いかけた。

「そろそろ止められそうかしら?」
「えっと……何を、でしょうか?」

思いつかなくて眉が寄る。彼は静かに笑って、人差し指をこちらに向けた。

「敬語……学生時代は、そんなのなかったでしょう?」

指摘されて、気まずさに紅茶を飲む振りをして視線を逸らす。唇に触れる紅茶の熱さが彼の視線と絡まって、火傷してしまいそうな気がした。

「私が怖い?」
「怖くない、です」

あからさまに嘘を吐く。
本当は怖い。いつもは女性的な彼の、男性的な部分に気づくと途端に怖くなる。
そんな自分に彼は怒るでもなく、静かに笑い告げる。

「今すぐでなくていいわ。いつまでも待ってるから」

優しい声音に俯いた。
見つめるカップの黒猫がこちらを見て、声を出さずに鳴いた。部屋にいる他の道具たちも、皆こちらを見ている気配がする。

「大丈夫よ」

彼は穏やかに囁く。

「皆、貴女が大好きだもの。付喪神はね、愛してくれたならちゃんと返してくれる。貴女を守ってくれるから」
「――うん」

頷いて、カップの黒猫をなぞった。猫の尾が揺れる。
大丈夫。自分に言い聞かせるように心の内で繰り返して、カップに口をつけた。
ほんのり甘い紅茶の味。湯気の向こうで微笑む彼を、ぼんやりと見つめて思う。
彼が与えてくれるものは怖くない。
だからきっといつか、彼のことも怖くなくなるのだろう。

「うん。きっと怖くない」

小さく呟けば、彼は不思議そうに目を瞬いた。
聞き返される前にカップを置いて、皿の上のマカロンを取る。一口囓れば甘さが口に広がり、自然と笑みが浮かぶ。

「おいしい」
「気に入ってもらえたのなら良かったわ。好きなだけ食べなさい」

皿ごとこちらに渡され、彼の優しさに勇気を出す。
顔を上げて、真っ直ぐに彼を見た。

「どうしたの?」
「あのね……ティーセット、置いていって。それでまた……一緒にお茶しよう」

昔みたいに。
震える手を握り締めそう告げれば、彼は驚いたように目を見張った後、ふわりと微笑んだ。

「ええ、もちろん」

その笑顔はやはり自分よりも綺麗で、少しも怖いとは感じなかった。



20251111 『ティーカップ』

11/11/2025, 9:21:43 PM

そっと、目の前を歩く彼の服を掴んでみる。

「どうした?」

振り返る彼に、何でもないと笑って首を降る。でも、服を掴む手は離せない。
何かがあるわけではない。ただ何となく寂しくなった。
彼は首を傾げて、服を掴む手を見ている。
不意に笑うと、手を包まれた。

「どうせなら、こっちの方がいいな」

手を繋がれる。温もりが彼の手から全身に伝わり染み込んで、寂しい気持ちを溶かしていく。
温かい。嬉しくて、自然と笑顔になった。

「ありがとう」
「どういたしまして」

目を合わせ、互いに笑う。少しだけ大げさに繋いだ手を振って歩いていく。
このままでいたい。きっと笑われるだろう願いを、心の中だけで呟いてみる。
彼はいつだって、先を歩いていく人だ。同じ場所でずっと立ち止まっている姿など、想像もつかない。

「今度はどうした?」

無意識に俯いていたらしい。顔を覗き込まれて、ひゃっと小さく声が漏れた。

「何、その反応。可愛い」

くすくすと笑われて、今度は恥ずかしくなって顔を逸らした。
言える訳はない。この気持ちに相応しい言葉を知らず、例え知っていたとしても、それを彼に伝える勇気はない。
未だ嗤い続けている彼に、伝える代わりに軽く睨む。ごめんと謝りながらも彼は笑い続け、益々恥ずかしくなって彼の手を離し背を向けた。

「ごめんって」

背を叩いて頭を撫でながら謝る彼の手から逃げるように、何も言わずに歩いていく。
ちょうど分かれ道。ここから先は、彼と一緒には帰れない。

「また明日!」

彼の別れの言葉にも、振り返らない。離した手を冷たい風が通り過ぎて、立ち止まれば動けなくなる気がした。
寂しいと叫ぶ心から目を逸すように夢中で走り、家に帰る。
その後のことは、良く覚えていない。
けれど優しい彼の謝罪を受け入れず、挨拶も無視して帰った苦しさは忘れられなかった。

きっとこの時に、罰が当たったのだろう。



そっと、目の前を歩く彼の服に手を伸ばす。
しかしその手は彼をすり抜け、触れることはできなかった。
立ち止まり俯く自分に気づかず、彼は先へと進んでいく。道行く誰もが、自分を気にも留めずに過ぎていく。
あの日。彼を無視して逃げ帰った次の日から、自分という存在は消えてしまったらしい。
誰にも触れられず、叫んでもその声は誰にも届かない。
あれから何日過ぎたのだろう。それすら分からない。考えたくもない。
寂しくて、可笑しくなってしまいそうだった。

「ごめんなさい」

見えなくなってしまった彼の背に呟いた。
その声も、彼には届かない。

「行かないで」

重い足を引きずって、彼の追って歩いていく。
彼ならば気づいてくれるかもしれないという期待はもうない。それでも彼の側にいたいと思ってしまうのは、寂しいからなのだろう。

いつもの分かれ道で立ち止まる。
これから先へは進めない。足が、彼を追って進むことをどうしても拒んでいる。
小さく息を吐いて、分かれ道の端に座り込んだ。
家に帰る気も起きない。帰った所で両親には気づかれず、寂しさが増すだけだった。

「ごめんなさい」

溜息と共に吐き出して、膝を抱えて蹲る。
日が沈み夜が過ぎて朝が来るまで、明日になって彼がこの道を通るまでは、ずっとこのまま。
込み上げる涙が溢れないように、きつく目を閉じ朝を待った。



ふと、背に温かい何かが触れた。
はっとして顔を上げる。

「こんなとこにいたのかよ。風邪引くぞ?」

月のない、暗い夜でもはっきりと分かるほど近くに、彼がいた。

「あ……え?」
「ほら、帰るぞ」

そう言って手を繋がれる。じわりと伝わる熱に涙が込み上げて、耐えきれずに一筋溢れ落ちた。
慌てて俯けば繋いだ手を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められる。
初めてのことに混乱し、心臓が落ち着かない。けれども全身を包む暖かさに寂しさが解けて端から消えていくのを感じて、そっと彼の服を掴んだ。

「すっかり体が冷えてるな。しばらくこうしているか」

優しい声に頷いた。背を撫でる手の暖かさに、ほぅと小さく吐息が溢れ、涙が彼の服を濡らす。

「ごめんなさい」

小さく呟けば、彼は笑う。大丈夫だと言葉で、態度で示してくれた。
体の力が抜けていく。涙も次第に収まると、彼はそっと体を離した。

「帰ろうか」

手を差し伸べて、彼は笑う。いつもと変わらない笑顔に、同じように笑ってその手を取った。
離れないようにとしっかり繋ぎ、彼と共に家へと帰る。

「――何それ?」

繋いでいない方の彼の手が、何かを握り潰したのを見て首を傾げる。

「あぁ、これか?ただのお呪い……もう必要なくなったからな」

笑いながら彼は手を開く。ひしゃげた白い何かが風に乗って舞い上がり、端から解けて消えていく。
何のお呪いだったのだろうか。今は何もない彼の手を見つめながら考える。けれど答えは出るはずもなく、彼を見てもただ笑うだけだった。

「気にすんなよ。それより早く帰ろうぜ」

手を引かれ、何も言えずに歩いていく。胸に燻る疑問も感情も、彼の手の熱がすべて解かしていく。
とても静かだった。静かで暗くて、次第に意識がぼんやりとし始める。

「歩きながら寝るなよ。家まであと少しだから頑張れ」

楽しそうな彼の声がする。重い瞼を擦りながら彼を見れば、変わらず彼は笑顔のまま。
不意に、彼がこちらを向く。夜のように深く暗い目と視線が合った。

「どうせすぐ忘れるんだろうけどさ、できればちゃんと覚えとけよ。手を離されて寂しくなるのは、お前だけじゃないんだ」

目を瞬く。
あまり深く考えず、何も言わずに頷いた。
頷かなければいけないと、何故か強くそう思った。





気づけば朝になっていた。
頭が重い。何だか長い夢を見ていたような気がして、眉が寄った。
現実と夢の区別がはっきりとしない。どこまでが夢で、どこからが現実だろうか。
昨日は彼の手を離して、挨拶も言わずに帰ってしまったのだったか。謝罪も受け入れず、そして次の日になって何もかもが変わってしまった。
いや、違う。日付を見れば、昨日が彼と一方的な喧嘩をした日だ。半ば混乱しながらも、ベッドから抜け出し頭を振った。

「顔、洗ってこよう」

のそのそと部屋を出る。ちょうど階下から母が呼ぶ声が聞こえ、返事をしながら洗面台に向かった。
顔を洗えば、目も冷めることだろう。朝食を食べて出かける準備が終わる頃には、夢の内容も消えてなくなるはず。
そう自分に言い聞かせる。
燻る違和感は、気にしないことにした。



「おはよう」

いつもの分かれ道。彼はいつものように笑いながら待ってくれていた。

「お、おはよう」

小さく挨拶を交わせば、彼はもう一度おはようと返し、手を差し伸べる。その手を取って歩き出せば、引き摺っていた朝のもやもやとした気持ちが消えてなくなっていく。

「どうした?」

小さく息を吐けば、不思議に思った彼が視線を向けた。
それに首を振りながら、怖ず怖ずと彼に向けて頭を下げる。

「昨日は、ごめん」
「ん?あぁ、気にすんな」

彼は笑って頭を撫でる。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回されて、乱れた髪を整えようと手を離した。

「あ……」

途端に寂しさが込み上げる。側にいるのに触れられない気がして、離したばかりの手を繋ぐ。
自分でもよく分からない感情に困惑していれば、彼は穏やかに笑った。

「そんなに焦らなくても、置いてかないよ。お前が望むなら、ずっとこのまま手を繋いでいてやるから」

それならお互い寂しくないだろう。
そう言われて、彼を見る。
朝の光の中で、夜のような目が静かに笑っていた。



20251110 『寂しくて』

11/11/2025, 4:16:15 AM

「ごめんね」

そう言って、彼女はいつも境界線を引く。

「ううん。大丈夫、気にしないで」

それ以上踏み込めなくて、またいつものように笑みを浮かべてみせた。
本当は踏み込みたい。手を引いて、彼女の哀しみも恐怖も、全部受け入れてしまいたい。
けれど彼女の涙を見た瞬間、いつも何も言えなくなってしまうから。

「大丈夫だよ」

今日もまた。
臆病な自分は作った笑顔を浮かべ、口先だけの大丈夫を繰り返した。

「ありがとう」

彼女は笑う。安堵したように。
けれどもどこか冷めた目をしているように見えるのは、そうであってほしいと自分が思っているからだろうか。
心に引いた境界線に、踏み込んでほしい。壊して、砕いて、すべてを受け入れてほしいと、彼女も願っている。
そんな自分の妄想が、彼女の表情すら歪ませて認識しているのだろうか。

「どうしたの?」

何も言わずに立ち尽くす自分に、彼女は眉を寄せ問いかける。それに何でもないのだと首を降って、いつものような笑顔を作った。

「何でもないよ」

言いながら、彼女から視線を逸らす。赤く染まりだした空を見上げて、それを言い訳にする。

「もうすぐ日が暮れるね……また明日」

いつも通りの別れの約束。それに彼女は、一度も言葉を返したことはない。
分かってはいるが、何も返されないことに少しだけ寂しさを感じながら、彼女に背を向け歩き出した。



「どうして泣いているの?」

ぼんやりとした夢を見ている。
好奇心だけで動いていた、幼い頃の夢。世界がまだ楽しいことばかりで満たされて、怖いものなど何一つなかった。

「ねぇ。どうして?もしかして、悪いやつらにいじわるされたの?」

だからこそ、彼女に対しても何一つ怖れることなく踏み込むことができた。
俯いて泣くばかりの彼女の頭を撫でて、自分の感情のままに繰り返し問いかける。

「教えてよ。全部、教えて?そしたら、半分もらってあげる。それで開いた半分に、笑顔になれるような楽しい気持ちが入るでしょう?」

手を差し出し、半ば強引に彼女と手を繋ぐ。
驚いて目を瞬く彼女に大丈夫だと笑い、強請るように繋いだ手を揺すった。

いつからだろうか。
彼女の答えを待ちながら、今の自分との差異を疑問に思う。
幼い頃は、こうして遠慮を知らずに彼女の心に踏み込んだ。彼女の引いた境界線も形を持たぬほどに弱く、手を繋ぐことは容易だった。
いつからだろう。
一体いつから、彼女の涙が怖くなったのだろうか。

「――いいの?」

涙に濡れた目をして、彼女は問う。
迷いがあるのだろう。声は震え、視線はまだこちらから逸れている。

「いいよ」

それに自分は迷いなく答え、繋いだ手に力を込めた。

「じゃあ――」

彼女の目がこちらに向けられる。唇が何かを伝え震えるが、それは声として届くことはなかった。
夢の終わりが近いのだ。薄れていく彼女の姿や周囲の景色に、そう思った。

何もかもが白に染まる中。
彼女が続けた言葉が何だったのかを、ただ考えていた。



聞こえるアラームの音に、目を開けた。
まだ残る夢の名残に、小さく息を吐く。あんな風に、彼女の中に踏み入ることができたらと、自分のことだというのに羨ましく思った。

「話してくれたら……その気持ちを……」

幼い頃の自分の言葉をなぞる。彼女にもう一度伝えたのなら、あの境界線は少しでも揺らぐだろうか。
それを想像して、落ち着いてなどいられなくなった。急いで着替え、部屋を飛び出した。

朝食も摂らずに家を出て、いつもの場所へと駆けていく。彼女が必ずそこにいるとは限らないというのに、気持ちは急いて落ち着かない。
彼女は待っていてくれる。根拠のない確信が、只管に足を速めていた。



「おはよう。今日は随分と早いのね」

木に凭れ、ぼんやりと空を見ていた彼女が、こちらに築いて視線を向ける。小さく首を傾げる彼女に説明する余裕もなく、足早に近づいて手を握った。

「え?」
「君のことを教えてほしい」

言葉にして、今更ながらに気づく。
彼女に対して、自分は何も知らない。どこに住んでいるのか、何が好きなのか。
名前さえ、聞いたことがなかった。

「今更、聞くの」

冷たい声に、驚いて彼女を見る。
冷たい目。初めて見る穏やかさのない彼女に、小さく息を呑んだ。

「あの時は、逃げて行ったくせに。また、同じことを繰り返すつもり?」
「同じ、こと?」

彼女は何を言っているのだろうか。記憶にないそれに、意味もなく視線を彷徨わせた。
同じこと。覚えていないのは、何故なのか。
そう言えば、と夢の最後を思い出す。
あの時、彼女は何と言ったのか。自分は何を見たのだろうか。
背筋に、冷たく嫌なものが走って行く感覚がした。

「折角分かりやすいように境界線を引いてあげたんだから、それを今更壊そうとしないで」

手を解かれそうになり、慌てて離れないように強く手を握る。彼女の目が鋭さを増し、けれどもその目は薄く張り出した涙の膜に揺れていた。
彼女の涙の理由の一つが自分なのだろう。これ以上苦しませる前に手を離すべきだ。冷静な自分がそう告げるが、今この手を離したら二度と会えなくなる気がして離せない。彼女を知りたいと叫ぶ気持ちが背を押して、境界線が引かれ直す前にと無遠慮に踏み込んだ。

「ごめん。でも、全部教えて欲しい。前に教えてもらったのかもしれないけど、何も覚えていないんだ。だからどうか……今度は忘れたりしないから」
「嘘つき」

冷たい目をして彼女は言い捨てる。忌々しいと言わんばかりに顔を歪めながら嗤い、痛みを覚えるほど強く手を握られた。
手を引かれ、顔が近づく。彼女の目を揺らす涙の膜が溢れ落ち、光を反射して煌めいた。

「そんなに言うなら、また見せてあげる。逃げ出したいなら逃げれば良い。私ももう会うつもりもないから」

そう囁いて、額が触れた。

「――っ」

途端に流れ込んで来たのは、際限なく続く痛みと悲しみだった。目を覆いたくなるほど、逃げ出したくなるほどの記憶の奔流に、必死で歯を食いしばり耐える。
手を離す代わりに、強く彼女を抱き締めた。

子供ならば、女ならばこうあるべき。そうやって無理矢理彼女を型に嵌めようとしながらも、長子としての責任を押しつける。
血筋、伝統、しきたり。それらが彼女を縛り、終わりのない責め苦を与えている。その中の一つに、幼い自分がいた。
無邪気に近づき、甘い言葉を囁いた。だが彼女に触れれば、忽ち恐怖に泣きじゃくりながら逃げていく。
ようやく思い出した。あの時もこうして彼女の記憶に、心に触れて、残酷にも逃げてしまったのだ。
そして自分を守るために何もかもを忘れ、しばらくして何事もなかったかのように再び彼女の前に現れた。
傷をつけられながらも、彼女は何も言わず自分のために心に境界線を引いた。そんな彼女の優しさが、流れ込む記憶よりも痛くて、ただ愛おしかった。

「――あの時言ってくれたお願いは、今も有効?」

顔だけを離して、彼女に問う。
あの時、いいよと言った自分に、彼女は一つ願い事をした。それに自分はあの時何と答えたのかまでは覚えていないが、もう一度その願いに答えを返したかった。
すぐには思い出せなかったらしい彼女が、不思議そうに目を瞬く。少ししてそれが何かを思い出し、一瞬で顔が赤くなる。

「な、なんでっ……今、それを言うの!」

顔を逸らされ、嫌なのだろうかと気分が沈む。しかし触れた腕から暖かさが、そうではないのだと伝えた。
心地の良い暖かさ。嬉しいという感情が直接流れ込んで、戸惑いながらも嬉しくなった。
今度は自分から伝えてみよう。そう思い口を開くが、慌てる彼女に両手で口を塞がれる。

「これ以上何も言わないでっ!境界がなくなってるんだから、お互いのすべてが伝わってるのよ。言う前にもう伝わってるんだから!」
「え?伝わってる?」
「何よこれ!なんであなた、私の全部を知って好きだって思えるのよ!……あぁもう、一回離れてっ!」

彼女の手が体を押しのけるが、まだ離れたくはなかった。
お互いの気持ちが伝わっている。恥ずかしさよりも幸せな気持ちが勝り、押しのける彼女を強く抱き締めた。

「俺のお嫁さんになってください」

そう願えば、彼女の動きが止まる。

――じゃあ、私のお婿さんになってくれる?すべて見せたら、結婚しないと駄目なの。

あの日、彼女が願ったこと。
改めて自分から伝えれば、彼女から暖かな感情ばかりが伝わってくる。
嬉しい。幸せだ。大好き。自分のこの想いも彼女に伝わっているのだろうか。彼女を見れば、赤い顔を隠すように肩に額を預けている。

「馬鹿」

小さく呟いて、胸を叩かれる。顔を上げず、彼女はさらに小さな声で呟いた。

「婿入りするんだからね。私の家は厳しいんだから、今のうちから覚悟しなさい」

彼女なりの了承の言葉に、笑みが浮かぶ。

「愛している。もう絶対に逃げないから」
「馬鹿。逃がすわけないじゃない」

想いを伝えれば、憎まれ口が返る。
彼女の嬉しいを感じながら、心の境界線がなくなったことを実感する。

「本当に馬鹿なんだから」

その言葉に、怖くて踏み出せなかった自分を思い出しながら、まったくだと心から同意した。



20251109 『心の境界線』

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