sairo

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11/10/2025, 6:41:47 AM

空から何かが降ってきた。
ふわりと軽い何か。光を反射して煌めいている。
雪ではない。
雪が降るのはまだ早く、雪よりも透明だ。光を反射しなければその存在に気づかないほどのそれを、見失わないように目を凝らす。
きらきら、ゆらゆら。風に乗って緩やかに落ちてくる何かは、静かにこちらへと降りてくる。あと少しで手が届きそうだ。
そっと手を伸ばしてそれを取る。光に翳して、それが何かを知った。
羽根だ。硝子のような透明な羽根が、空から降ってきた。
空を見上げても、青空が広がるばかりで羽根の主は見当たらない。

そっと羽根を鞄の中に仕舞い込む。
心臓が激しく動いている。まるで全力疾走した時のように落ち着かない。
気づけば笑顔になっていた。透明できらきらとした羽根。自分だけの秘密を持ったようで、嬉しくて堪らなかった。


家に駆け込めば、ちょうど玄関にいた母がその勢いに驚いたように目を瞬かせる。

「どうしたの?そんなに急いで」

不思議そうに首を傾げ問いかけられるが、それに答える余裕はない。
何でもないと返しながら、母の横を通り抜け階段を駆け上がる。自分の部屋に飛び込んで、ようやく一息吐く。乱れた呼吸を整えながら、机に鞄を置いて椅子に座った。
走ってきただけではない、胸の鼓動の激しさを感じながら鞄を開ける。そっと手を差し入れるが、求めるものはいくら探っても触れることはなかった。

「え?どうして……?」

慌てて鞄をひっくり返し中身を机の上に出すが、どれだけ探してもあの透明な羽根は見つからない。最初からなかったかのように、欠片も残ってはいなかった。
きゅっと唇を噛みしめる。家に帰るまであれだけ浮かれていた気持ちは、今はすっかり萎んで悲しさだけが込み上げる。
自分だけの特別で、秘密だった羽根。それが一瞬でなくなって、じわりと涙が込み上げてくる。
止められない涙を必死に拭っていると、戸を叩く音がした。
こちらの返事を待たずに戸を開けて、母が声をかけてくる。

「これ、落としてたわよ。あなたの……泣いていいるの?」

少しだけ驚いた声がして、振り返れずにいる自分の側に母が近寄ってくる。そっと背を撫でられて、その手の温かさにさらに涙が溢れてくる。

「これ、玄関に落ちてたわよ。探してたのは、これじゃないの?」

机の上に散らばった鞄の中身を見て、ある程度察したのだろう。背を撫でながら、母は小さな鈴のついた鳥のストラップを渡してくる。
涙でぼやける視界の中、見覚えのないそれに眉が寄る。だが涙を拭いストラップを受け取りよく見ると、じわりと胸が熱くなるのを感じた。
あの羽根を手にした時のような高揚感とはまた違う、ゆっくりと染み込んでいく熱。暖かく、切ない気持ちに戸惑いながら母を見る。

「これじゃない。見たこともない……知らないのに、何だか懐かしい」

ストラップを両手で包み込む。ちりん、と小さく鈴が鳴る音を聞きながら、無意識に目を閉じた。
自分の気持ちが分からない。ただ、今の自分の思いを、母に聞いて貰いたいと思った。

「今ね、すごく気持ちがぐちゃぐちゃしてる……最初はすごく嬉しかったの。外で透明な羽根を見つけて、自分だけの秘密を見つけたみたいで、すごくドキドキした」
「透明な羽根?」
「うん。光に透かすときらきらしてる、綺麗な羽根……鞄に入れたのになくなっちゃって、今度はとっても悲しくなった」

母の手が背を撫でる。手の中で、鈴がちりちり、音を立てている。
感じる温もりと、聞こえる澄んだ音色を取り込むように小さく息をした。

「でもこのストラップを見たら、暖かいのに切なくなったの。知らないはずなのに、とても懐かしい感じがして、自分が良く分からなくなってきた」
「そっか……あなたもあの羽根を見たんだね」

母の言葉に、驚いて目を開け視線を向ける。どこか懐かしそうに、寂しそうに微笑んで、母は窓の外を見つめた。

「あの羽根はね、誰かの想いや願いなのよ。祈りって言った方が正しいかも知れないわね」
「祈り?」

母の視線を追って、窓の外を見る。けれど自分には広い青空しか見えなかった。
背を撫で、そして頭を撫でて母はそうよ、と頷く。

「言葉にはできなかった願い。誰かに会いたい。声を聞きたい……どうかいつまでも笑顔で、幸せでいてほしい……そんな誰かを想う祈りが、風に乗って届くのよ」
「誰かを、想う……」

そっと手を開き、中のストラップを見つめる。
知らないはずなのに、懐かしい。優しくて、暖かく、そして切ない。
誰の羽根だったのか、分かった気がした。

「ねぇ、お母さん」

ストラップから目を離さず呼べば、母は答える代わりに頭を優しく撫でた。

「手紙を書いたら……読んでもらえるかな?」

遠くへ引っ越してしまった幼馴染みに。
離れたくなくて、一方的に責め立て別れてしまった。あれから一度も、連絡をしていない。

「読んでもらえるわよ。だからちゃんと謝りなさいね」
「――うん」

頷いて、立ち上がる。
手紙を書くために、便箋を買いにいかなければ。
放り出していた鞄の中身を元に戻し、ストラップを鞄につける。母と共に部屋を出て、玄関へと向かう。

「――そう言えば」

ふと気になることがあり、母を見た。
母は何故、透明な羽根のことを知っていたのだろうか。
それを問いかける前に、母は僅かに頬を染めて笑う。

「お母さんもね、透明な羽根を手にしたことがあったのよ」
「それって……お父さん?」

父と母は元々遠い場所で、お互い接点もなく暮らしていたという。離れていたのにどうやって出会えたのか、どうして結ばれることになったのかまでは聞けていなかった。
もしかしたら、二人の話が聞けるかもしれない。期待を込めて視線を向ければ、母は人差し指を唇に当て。

「それは秘密よ」

楽しそうに笑うだけで、それ以上は何も教えてはくれなかった。



20251108 『透明な羽根』

11/9/2025, 8:55:09 AM

陽が落ちて、辺りは暗く沈んでいく。
広間で小さな蝋燭の火を囲み、子供たちはくすくすと笑いながらその時を待った。

「まだ?」
「もう少し」

囁く声は、待ちきれないと弾んでいる。そわそわと、閉じられた戸が開くのを待っている。

不意に、板張りの廊下が軋む音がした。誰かがゆっくりと近づいている。
皆、息を潜めて戸を見つめた。近づく音に、誰かが唾を飲み込む。

音が止まる。戸越しに、淡い灯りが漏れている。
暫しの沈黙。誰一人、視線を逸らすことができない。

静かに戸が開かれていく。広がる灯りが蝋燭の明かりと溶け合い、ゆらりと揺らぐ。

「――お待たせしました」

提灯の灯りを手に入ってきた女性に、子供たちは歓声を上げて近寄った。

「遅いよ!」
「早く、早く!」

子供たちに手を引かれ、提灯を手に女性は広間の中心に向かう。
短くなってしまった蝋燭の傍らに座り、手にした提灯の中から光源の蝋燭を取り出した。
花や蝶など、美しい絵が描かれた和蝋燭。それを短くなった蝋燭の上に乗せれば、炎は大きく揺らいだ。
子供たちは蝋燭と女性を囲うように、再び座り直している。期待に目を煌めかせる彼らの姿を見渡して、女性は微笑み居住まいを正した。

「――さて、今宵はどなたから始めましょうか」

その言葉に、子供たちは我先にと手を上げる。

「僕がいい!」
「私がいいわ!」
「あ、ずるい!さっき、順番を決めたじゃん」

言い合いながらも、その表情は笑顔に溢れている。ふざけてじゃれ合い、やりとりを楽しんでいる。
敢えて言葉にしなくとも女性がすべてを理解して、選ぶべき子を選ぶと信じているのだろう。

「では、そちらのお方にしましょうか」

白い指先が、一人の少年へと向けられた。
無邪気に喜ぶ少年に周りも笑い、誰一人否を唱える者はなく静かに座る。

「えっとね。ぼくは鳥がいい!大空を自由に飛ぶ、大きな鳥がいいな」

少年の言葉が紡がれると同時、蝋燭の炎が揺らめき、広間は姿を変えた。
薄暗い畳の部屋は、雲一つない青空が広がる草原へ。
風が吹き、草が揺れ音を立てる。遠くで鳴く、甲高い鳥の声。
願った少年は静かに立ち上がり、空を見上げて眩しそうに目を細めた。

「これが……空。初めて見た。とっても綺麗で……飛べるかな……?」

鳥が鳴く。少年を呼ぶように、誘うように、軽やかな囀りが風に乗って響く。
その声に答えるように、少年は空に向けて手を広げた。
その手は指の先から色を、形を変えていく。白の羽毛に覆われて、風を受けて羽根が靡いた。

「飛べるかな」

繰り返し不安を口にしながら、白い鳥となった少年は大きく翼を広げる。風を纏い、ゆっくりと羽ばたいた。
遠く、空の向こうに鳥の影が見えた。近づくことのない影は、少年がここまで飛ぶのを待っているのだろう。
一声甲高く鳴き、鳥となった少年は柔らかな風を起こして空へ舞い上がる。瞬く間にその姿は遠くで待つ鳥の元へと飛び去って、辺りはまた薄暗くなっていく。
少年の姿が見えなくなれば、そこはまた蝋燭の明かりが照らす広間へと形を戻していた。

「――ちゃんと、飛べたな」
「飛べたね……本当に良かった」

子供たちが優しく笑う。少年がいた場所を見ながら、誰もが自分のことのように喜んでいた。

「――次は、どなたに致しましょう」

穏やかに、女性が問いかける。顔を見合わせた子供たちは、互いに頷き笑い合う。

「次はわたし!」

元気よく手を上げ、少女が立ち上がる。

「わたしはね、公園が良いの。桜がとっても綺麗でね……ママとパパと行った、最後の思い出の場所なのよ。だからもう一度、ゆっくり歩いて見たいの」

少女の言葉に、蝋燭の炎が揺らぐ。
そして広間は再び姿を変え、少女の最後の願いを映し出した。



「最後は貴女ですね」

一人の少女と女性を残し、広間には誰もいなくなった。
蝋燭は大分短くなり、炎は静かに揺らめきながら最後の願いを待っている。

「私はいらないわ」

だが少女は微笑み首を振る。女性に深く礼をして、静かに立ち上がった。

「本当によろしいのですか」

問う女性に、少女は小さく頷く。微笑むその目は、しかし悲しい色を湛えていた。

「願いはないの。見たい景色はないし、過去の優しい思い出も、今はとても苦しくなるだけだもの。偽物も嘘も、もうたくさん」

悲哀を滲ませる少女の言葉に、女性は何も言わずに蝋燭の明かりを消した。
刹那、広間は暗闇に沈む。女性が立ち上がる音が聞こえ、小さな音と共に淡い光が部屋を照らした。

「それならば、私と行きましょうか」

提灯を手に、女性は少女へと手を差し伸べる。少女は目を瞬き差し出された手を見つめ、迷うように視線を彷徨わせた。
戸惑う手を胸に抱き動けないでいる少女に歩み寄り、女性は優しく告げる。

「お嫌でなければ、私と共に参りましょう。大した話はできませんが、道中の退屈しのぎにはなりますから」
「でも……」
「向かう先は同じなのです……無理にとは申しません。どうぞご随意に」

少女の揺れる目が女性を見つめ、恐る恐る手が伸びた。女性の差し出す手と重ね、そっと握れば、女性もまた柔らかく握り返す。
ただそれだけの行為に、少女は俯き震える吐息を溢した。

「ありがとう」
「どう致しまして。では参りましょうか」

女性に促され、静かに歩き出す。手は繋いだまま、行くべき場所へ二人、向かっていく。

「――本当は、もう一度だけ誰かと手を繋ぎたかったの。願いが叶ってしまったわ」
「それは大変よろしゅう御座いました。私の手で申し訳ありませんが、少しでも貴女を満たすことができて光栄です」

提灯の灯りが、夜の闇を淡く照らす。
穏やかに語る二人を見守るように、提灯の中の蝋燭は微かに音を立て炎を揺らしていた。



20251107 『灯火を囲んで』

11/8/2025, 5:40:44 AM

ほぅ、と手に息を吹きかける。
白い息が悴んだ指を温めて、空気に冷やされ消えていく。
寒い朝。季節が一つ、移り変わろうとしている。
支度をしなければ。窓の外を見ながら思う。
やがて訪れる、冬を迎え入れるために。

「頑張って、お役目を果たさないと」

囲炉裏に火を入れながら、決意を口にする。それだけで身が引き締まる思いがして、小さく握り拳を作り気合いを入れた。

冬を屋敷に迎え入れ、心を尽くしてもてなす。
それが自分の役目だった。
去年までは、祖母が仕切っていた。屋敷の隅々まで綺麗にし、丹精込めた料理を作る。この屋敷の主は祖母で、だからこそどこか安心していられたのだ。

――冬は、一等気難しいからねぇ。

祖母は何度も言っていた。
些細なことでも機嫌を損ね、屋敷から出て行ってしまうのだと。
屋敷を出た冬は荒れ狂う吹雪となるらしい。山を凍らせ、村を雪に沈めてしまう。
その話を最初に聞いた時、恐怖でただ泣いた。夏の季節でさえ、祖母のいない時には屋敷に近づこうとはしなかった。

屋敷の掃除をしながら、祖母を思う。
長い間、冬をもてなしてきた祖母がいたから安心できたのだ。祖母と暮らす選択をしたのは自分自身ではあるが、そこには少なからず甘えがあった。
祖母がいるから、大丈夫。冬の機嫌を損ねることは、決してない。
ずっとそう思っていた。
けれどももう、祖母はいない。以前の冬の終わり。屋敷を去る冬が、祖母を連れて行ってしまった。

「おばあちゃん……」

埃を落とし、床を掃く。窓を拭く手を止めず呟けば、胸が苦しくなった。
正しくもてなせなかった人を、冬は連れて行ってしまうのだと聞いた。
本当かどうかは分からない。少なくとも自分の目から見て、祖母のもてなしは完璧に見えていた。

――冬は、一等気難しい。

気難しいのか、それとも気まぐれなのか。冬と直接対峙したことがない自分には知りようがない。
小さく息を吐く。頭を振って、考えを散らした。
掃除が終わっても、やるべきことはたくさんある。いつまでも祖母に縋り、思って立ち止まっている暇などどこにもない。
もう一度出かかる吐息を呑み込んで、雑巾を手に台所へと向かう。
一人で料理を作るのは、今回が初めてだ。少しの不安を感じながらも、しかし進む足に迷いはなかった。



「おばあちゃんは、冬をお迎えすることが怖くないの?」

そう問いかければ、祖母は湯飲みを手に目を細めて笑う。

「そりゃあ、怖いさ。誰かをもてなすっていうのは、いつだって怖い」

もちろんそれは、家族である自分に対しても怖いのだと祖母は言った。
首を傾げる。遊びに来る度快く迎えてくれる祖母は、いつだって穏やかだった。嫌な顔をされたことなど一度もない。
顔には出さないだけで、本当は迷惑だっただろうか。不安になって俯けば、祖母は優しく頭を撫でてくれた。

「喜んでくれるのか。不快に思うことはないか……相手のことを思いながらおもてなしの準備をする時は、不安で怖くなるよ。冬だから、特別怖いってわけじゃあないんだ」
「でも、冬は怒ると怖いんでしょう?攫われて、食べられちゃうんだって、前に言ってたよ」

思い出して、ふるりと体を震わせる。その話を聞いた時には、しばらく一人で眠ることが怖くてたまらなかった。

「冬は寒くて、冷たいもん。見たことないけど、絶対に怖い顔をしているんだ」

想像上の怖ろしい形相をした冬に怯えていれば、祖母は楽しそうに笑い声を上げる。

「そんなことはないよ。冬は確かに寒さを運んでくるけどね。だからって怖い訳じゃない。本当は静かで、とっても優しいんだよ」

いいかい、と祖母は頭を撫でながら言う。その目はとても穏やかで、優しい光を湛えていた。

「どうか覚えておいておくれ。冬はとても寂しがり屋なんだ」
「寂しいの?」
「そうだよ。でもとっても我慢強いんだ。皆がゆっくり眠れるように雪の布団を掛けて、音を消してくれている。寂しいのにたった一人きりで、寝ずの番をしているんだよ」

だからせめて、少しでも快く過ごしてもらえるように精一杯のおもてなしをするのだと。
そう言って微笑む祖母が、とても優しい目をしていたから。恐ろしいはずの冬が、自分と似ていると思ったから。
だからこの時、冬をもてなす準備を手伝うことを密かに決めたのだ。



掃除を終え、料理もほとんどが完成した。
囲炉裏は一度火を消して灰を整え、新たに薪をくべ直してある。
囲炉裏にかけられた鍋から湯気が立ち上り、仄かに柚子の香りが漂っている。
祖母が教えてくれた鍋。何度も試作したおかげで、満足のいく味に整った。
神棚には新米や塩、酒を供え終わっており、日干しした布団の準備も、風呂も沸かしている。
祖母が行っていたことは、すべて行った。支度はすべて終わり、後は冬を待つだけだ。

「大丈夫かな」

それでも不安が込み上げる。食事は口に合うだろうか。湯の温度は熱すぎないだろうか。
掃除をしたばかりの床や壁が気になってしかたがない。
誰かを迎えることは怖いと言った祖母の気持ちが、今なら痛いほどによく分かった。

かたん。
玄関から、小さく音がした。
慌てて居住まいを正し、三つ指をついて頭を下げる。
玄関で迎えることを冬は好まない。屋敷に入り、もてなしを受けるかどうかは、冬の自由だった。
ぎし、と廊下が軋む音がする。入ってきてくれたのだろうか。
胸の鼓動が、痛いほどに激しくなっていく。緊張で震える体に力を入れて、頭を下げ続けた。

不意に、冷たい空気が流れ込む。囲炉裏の側にいるというのに、きん、と冷えた外の匂いがした。
囲炉裏の火の暖かさを感じられない。床にうっすらと霜が降りていく。凍てつく空気が頬を掠め、そっと頭に誰かの手が触れた。

「――っ」

頭を撫でられる。まるで支度が無事に済んだことを褒めるように、優しい手が触れている。
冷たいのに暖かい。その手を、撫で方を、自分はよく知っている気がした。
静かに手が離れ、頭を上げる。
入口に、白い影が佇んでいた。その影に寄り添うように粉雪が舞い、消えていく。
息を呑み、笑みが浮かぶ。
やはり、祖母のもてなしは完璧だったのだ。

「ようこそ、おいでくださいました」

深く頭を下げ、冬を招き入れる。
体の震えはない。迷いも怖れもなくなった。
祖母に教えられた通りに。そして祖母以上のもてなしを。

「今年も訪れてくださり、真にありがとうございます。どうぞ、ごゆるりとおくつろぎください」

微笑めば、冬もまた優しく笑った気がした。



20251106 『冬支度』

11/7/2025, 9:47:58 AM

「どうしたの?」

問われて、何でもないと首を振る。
静かな部屋に、二人きり。彼女の声以外に音はない。
花も虫も、風や月でさえ僅かにも動かず、時を止めてしまった。
もう一度、首を振る。もしかしたら首を振っていると思っているだけで、体は少しも動いていないかもしれない。

「大丈夫」

優しい声音で囁いて、頬を撫でられる。
冷たい指だ。血の通っていないような、凍ってしまったかのような指。
時を止めてしまった部屋に二人。自分と、もう一人。

頬を撫でるこの指の主は、一体誰なのだろう?



「また、あの夢……」

目が覚めて、思わず溜息を吐いた。
窓の外を見る。雲一つない快晴は、夢とは正反対だ。
数日前から見るようになった夢はいつでも暗く、とても静かだ。姿の見えない彼女が誰なのか、未だに分からない。

「おはようございます」

巡回に来た看護師の声に、頭を振って意識を切り替える。
夢の内容をいつまでも気にしている場合ではない。
早く退院して、元通りの生活に戻らなくては。でなければ、今日もまた責任を感じた後輩が見舞いにやってくるのだろうから。
何度も聞いた、涙声のごめんなさいの言葉を思い出し苦笑する。足を滑らせ川に落ちた後輩を助けたことに後悔はない。気にするなと何度も言っているというのに、真面目な後輩は毎日欠かさず見舞いにくる。

「おはようございます。体温測定をお願いします」

後輩のことを思い出していれば、挨拶と共に看護師に体温計を差し出された。いつものように体温を測り、看護師へと手渡す。

「35.2℃。今日もまた低いですね。何かありましたら、すぐにナースコールを押してくださいね」

微かに眉を顰める看護師に、頷いて逃げるように窓の外へと視線を向ける。
川で溺れかけた後から、体温は低くなった。あまり実感はない。

「そういえば……」

ふと気づいたことがあった。

時が止まった部屋の夢を見るようになったのは、おそらく溺れかけた後からだ。



暗い洞窟を、彼女に手を引かれて歩いていく。
左右には、氷漬けにされた植物や動物が並んでいる。

「氷の中に閉じ込めて、時を止めているの」

振り返らず彼女は言う。

「そうすれば、永遠にここにいてくれるでしょう?」

彼女の手にする提灯が揺れ、影が揺れ動く。
動いているのは自分と彼女だけ。他の生き物は皆、時が止まったまま。
寂しくはないのだろうか。ふと込み上げる疑問に、彼女を見た。
彼女は足を止めず、振り返ることもない。提灯の灯りが陰を作り、彼女の顔が分からない。
問いかけようと口を開きかけ、けれども彼女は不意に立ち止まる。
ここが洞窟の終わりらしい。

「皆同じ。植物も、動物も……人間だってそう。氷の中に入れて時を止めていれば、ずっとここにいてくれる」

彼女は提灯の灯りを、奥の氷の壁に向け翳した。
灯りに照らされたそれを見て、目を見張り息を呑む。
目が逸らせない。声が喉に張り付いて、何一つ言葉が出てこない。

氷の壁の中で眠る、一人の成人男性。

それは、数年前に行方不明になった父だった。



はっとして、目を開けた。
暗い部屋の中で、機械のアラーム音が鳴り響く。視線を動かして周りを見れば、いくつもの機械から伸びた管が自分に繋がっているのが見てとれた。
外が騒がしい。扉が開いて、医師や看護師が慌ただしく入ってくる。
皆険しい表情をしていた。自覚はないが、寝ている間に何かがあったのかもしれない。

「私の言葉が分かるかな」

医師に問われ、小さく頷いた。口を開いても、掠れた吐息しか出なかった。
いくつかの質問やバイタルのチェックをされ、ようやく医師は僅かに表情を緩めた。

「急に状態が悪化してね。一時は昏睡状態に陥っていたんだよ」
「え……」
「状態は安定しているようだし、もう大丈夫だろう。明日には面会謝絶を解くが、来週の退院は念のため延期だよ」

退院が伸びたことに、肩を落とす。だが仕方ない。退院後に状態が悪くなるより良いと自分に言い聞かせ、ベッドに横になった。


次の日。
見舞いに来た母に泣かれ、面会謝絶でも毎日来ていたらしい後輩にも、泣かれた。

「ほら、お兄ちゃん。そんなに泣かないの。迷惑でしょう?」
「だって……俺のせいで、先輩が……!」

後輩の背を撫でさすりながら冷静に言い放つ、後輩の妹らしき少女。辛辣ではあるが、仲睦まじい様子に笑みが浮かぶ。
けれども、ふと違和感を感じた。

「なぁ」
「はい。なんでしょう?」

少女に渡されたハンカチで涙を拭きながら、後輩はこちらに視線を向ける。
後輩は普段と変わらない。だが違和感は続いたままだ。

「お前って……妹、いたんだ」

自分でもよく分からない違和感に眉を寄せながら呟けば、後輩はきょとんと目を瞬いた。

「何ですか、急に?休みの日なんか、こいつも一緒に先輩の所に見舞いに来ていたじゃあないですか」

そう断言されると、確かに後輩の隣にいた少女の記憶が浮かぶ。
違和感は、気のせいなのかもしれない。きっと体が本調子ではないからなのだろう。

「頭、ぼけてるかもしれないな。昏睡状態だったらしいし」
「すみません!俺が、あの時もっと足下を見ていれば……!」

また泣き始めてしまった後輩に苦笑して、少女に視線を向けた。
相変わらず後輩の背を撫でながら、少女はこちらを見つめ、静かに目を細めた。



洞窟の中に一人きり。父が眠る、氷の壁の前で立ち尽くしていた。
何故、父はここにいるのだろうか。仕事で山に向かい、そのまま帰って来なかった父を思う。
ふと、父の右足が気になった。氷に阻まれ、服に隠れてよく見えないが、欠けている気がした。
父の顔を見上げる。眠っているように見えるが、血の気が失せた顔をしている。

――助からなかったのか。

ふと思い浮かぶ言葉に目を見張り、振り向いた。
足早に他の動物たちの元へと向かう。一つ一つ確認すれば、それぞれ皆、致命傷となる傷を負っているように見えた。

「――あぁ」

思わず、声が漏れた。
彼女が時を止めた理由が、分かったような気がした。



目が覚めると、辺りは暗くとても静かだった。
まるで何度も夢に見た、時を止めた部屋のようだ。
サイドテーブルの灯りを点ける。体を起こし、辺りを見渡した。

「やっぱり、君はあいつの妹じゃないね」

部屋の隅で静かに立ち尽くす少女に向けて、そっと声をかけた。

「聞きたいことがあるんだ」

近づく少女を見つめ、問いかける。彼女は何も言わず側に来て、小さく首を傾げた。

「君が時を止めるのは、それしか助ける方法がなかったからじゃないかな」

息を呑む音がした。
少女の瞳が揺れている。泣きそうに顔を歪め、唇を噛みしめ俯いた。

「俺は低体温症を引き起こしていたけど、そのおかげで助かったんだってきいた……君が助けてくれたんだよね」
「違う……ただ、運が良かっただけ」

そっと少女は呟く。俯いたまま、ぽつりぽつりと語り出した。

「皆、倒れたまま動かなかった。でもそのままにできなくて、凍らせたの。あなたも、あの人間も同じ。動かなくて、息をしていなくて……時を止めることしかできなかった」

俯く少女の目から滴が溢れ落ちた。それは一瞬で凍り、足下に小さな氷が散らばっていく。

「助けたかった。でも誰も助からなかった。それを認めるのは怖くて、時を止めたままにしていたの」
「そっか……でも君が助けてくれたから、俺は助かったよ」

小さく肩を震わせ、少女は顔を上げる。凍った涙を浮かべ、戸惑いを浮かべてこちらを見た。

「私、助けた?」
「うん。助けてくれた……ありがとう」

礼を告げれば、少女は不思議そうに目を瞬き、少し遅れてはにかんだ。それに笑みを返して、手を差し出す。

「助けてくれたお礼をさせてほしい。俺にできることで、何かしてほしいことはある?」

そう言うと、彼女は眉を下げ視線を彷徨わせる。怖ず怖ずと差し出す手に自らの手を重ね、そっと握った。

「友達に……なってほしいな。また、お見舞いに来たい」
「え?」
「駄目、かな?」

反射的に首を振る。手を握り返し、力強く振った。

「これから、よろしく」
「っ、うん!」

顔を寄せ、微笑んだ。
手を離し、また明日とその手を振る。控えめに手を振り返して、少女の姿は暗がりに消えていった。
灯りを消して、ベッドに横になる。すぐに訪れる睡魔に、そのまま身を委ねた。
明日も彼女は見舞いに来てくれるだろう。

明日を楽しみに、笑みを浮かべて夢の中へと沈んでいった。



20251105 『時を止めて』

11/6/2025, 9:41:57 AM

枯れない花があるという。
その花を見ることができたのならば、好きな人と結ばれる。そんな噂があった。
所詮、噂は噂。自分の周りで、実際に見たという話は聞かない。
先輩の友達が。クラスメイトの従姉妹が。隣町の誰かが。
すべてが伝聞で、本当かどうか確かめようがない。
小さく溜息を吐いた。噂に踊らされるなど馬鹿らしいと思いながらも、咲いている花を見るとつい気になってしまう。
そもそもどんな花なのか。噂では花としか聞かず、名前も姿形も分からない。
もう一度、溜息を吐く。視界の隅で揺れる、咲き終わりのコスモスを横目に、早く帰ろうと足を速めた。



放課後。いつものように部活を終えた帰り道。
ふと、甘い匂いがした気がして立ち止まる。
お菓子など、食べ物の匂いではない。ふわりと控えめに薫るのは、花の匂いだ。
辺りを見渡しても、それらしい花は見当たらない。風に乗って届く花の匂いが気になって、香りを便りに辺りを探す。同時に薫る花の名を思い出そうと記憶を辿った。
知っているはずだった。確か、少し前まで毎日のように薫っていたような気もする。
思い出せないもどかしさに眉を寄せながら、道を進む。住宅街を抜けて、寂れた神社の前まで辿り着いた。
花の香りはこの先からしている。

「――思い出した」

ふと思い出した。
甘く、尾を引く香り。
その花の名前を。

「キンモクセイ、だ」

思い出して、けれども今度は疑問が残る。
キンモクセイの花の時期は疾うに過ぎている。近所の木もすべて花が散り終わって、地面に散らばる橙の花の名残すらすべてなくなってしまった。
それに、と密かに困惑しつつ、神社に足を踏み入れる。
この神社の裏手に、確かにキンモクセイの木はあった。しかし今は、もうないはずだ。
一ヶ月ほど前に、キンモクセイの木は急に枯れてしまった。
原因は分からない。古い木だから、何かの病気になっていたのだろうと近所の人たちが話しているのを聞いた。
枯れた木は危ないからと、切り落としてしまったはずだった。

枯れてしまったキンモクセイ。切り落とされてしまった老木。
なのに何故、花の香りがするのだろう。

神社の裏手に回る。
キンモクセイの花の香りが強くなる。
その中に、微かにお香のような匂いが混じった気がして、気がついた時には、空気が変わっていた。


「――あ」

思わず立ち止まる。
足下に一面広がる、橙の花。
風もないのに花が散り、その度に甘い香りが広がっていく。
見上げる木には満開のキンモクセイの花。散っても散っても、花は変わらず満開のまま。
枯れない花。そんな噂が頭を過ぎたが、それは違うと思い直す。
枯れないのではない。キンモクセイが散る、その一瞬でこの場所は時間を止めてしまったのだ。

異様な空間に怖くなって、一歩足を下げた。視線を彷徨わせ、そこで初めて木の根元に誰かが座っていることに気づく。
男の人の膝を枕に横たわる、年老いた女の人。
そう見えた。見えたはずだった。

「え?あれ?」

なのに一瞬目を逸らした瞬間、女の人の姿が若返っていた。
自分と同じくらいの少女が、眠っている。

「迷い込んでしまったのですね」

不意に、男の人から声をかけられた。突然のことに、小さく肩が震わせながら男の人へと視線を向ける。

「ごめんなさい。このままではいけないと、理解はしているんです。けれど、もう少しだけ……本当にごめんなさい」

少女の頭を撫でながら、男の人は謝り続ける。
酷く悲しげな声だった。泣きたいのを堪えているような感じがして、怖さがなくなっていく。
少女は目を覚まさない。もしかしたら、ずっとそのままなのかもしれない。
何故か胸が苦しくて、泣きたいくらい痛くなった。

「謝らないでください。えっと……私は、大丈夫ですから」

慰めにもならない台詞を吐けば、男の人が顔を上げてこちらを見た。眉を下げて、それでも笑みを浮かべてくれる。

「ありがとう。もう少しだけ、彼女と一緒にいさせてほしい」

そう言って、男の人は少女を見つめる。好きがたくさん詰まったような、優しい目をしているのが分かった。

「好き、なんですね。その人のことが」

気づけば言葉に出していた。
驚いたように顔を上げた男の人は、くしゃりと泣くように笑う。キンモクセイの花を見上げて、そうだね、と呟いた。

「好きだよ。大好きだ。記憶が散っても、この気持ちは消えなかったくらいに」

キンモクセイの花が散る。少女の上に降り積もって、とても綺麗な光景だった。

「花が散ると記憶も散ってしまう。だから何度も散りたくないと願った。彼女の側に、いつまでもいたかった。好きだと、一言だけでも告げたらよかった……でも、いつまでもこの場所に彼女を縛りつけられないから、いかないと」

急に強い風が吹いた。
地面に散った花を巻き上げ、目の前を覆い隠してしまう。

「ありがとう。君には後悔しない選択をしてほしい。俺と違って、君は同じ人間に恋をしているのだから」

男の人の声が聞こえた。風は益々強くなって、目を開けていられない。
一際強い風が吹く。甘く、切なくキンモクセイが強く薫って消えていく。

次に目を開けた時にはキンモクセイの木は消え、男の人たちもいなくなっていた。
目の前には、小さな切り株がひとつ。鼻の奥に残る香りが、ここにキンモクセイの木があったことを示していた。

「後悔しない選択……」

男の人の言葉を繰り返す。
大好きな先輩の姿を思い浮かべてみる。卒業後は県外の大学に進学するのだと、先輩は言っていた。
卒業まで、数ヶ月。あと何回、会うことができるのか。

「後悔しないように」

もう一度、呟いてみる。柔らかな風が吹いて、背中を押してくれた気がした。

強く頷いて走り出す。ポケットからスマホを取り出し、アドレス帳から先輩の名前を探す。
走りながら、迷わず通話をかけた。

「――もしもし」

数コールの後、先輩の声が聞こえた。震えないように声を張り上げる。

「あのっ!突然で申し訳ないのですが、今から会えませんか!」
「え?いいけど……どうした?」

不思議そうな先輩の声に何でもないと返して、待ち合わせる。
通話を終えてスマホをしまうと、走る速度をさらに上げた。

「後悔しない。絶対に」

どんな結果になろうと、伝えられない後悔よりはよっぽどいい。
さっきの男の人の姿を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。滲んでぼやけて、輪郭すら曖昧だ。
記憶が散ってしまったのだろうか。
きっとそれが正しい。何故かそう思った。

「頑張りますから」

思い出せない姿に告げる。
甘く優しい、キンモクセイが香った気がした。



20251104 『キンモクセイ』

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