ほぅ、と手に息を吹きかける。
白い息が悴んだ指を温めて、空気に冷やされ消えていく。
寒い朝。季節が一つ、移り変わろうとしている。
支度をしなければ。窓の外を見ながら思う。
やがて訪れる、冬を迎え入れるために。
「頑張って、お役目を果たさないと」
囲炉裏に火を入れながら、決意を口にする。それだけで身が引き締まる思いがして、小さく握り拳を作り気合いを入れた。
冬を屋敷に迎え入れ、心を尽くしてもてなす。
それが自分の役目だった。
去年までは、祖母が仕切っていた。屋敷の隅々まで綺麗にし、丹精込めた料理を作る。この屋敷の主は祖母で、だからこそどこか安心していられたのだ。
――冬は、一等気難しいからねぇ。
祖母は何度も言っていた。
些細なことでも機嫌を損ね、屋敷から出て行ってしまうのだと。
屋敷を出た冬は荒れ狂う吹雪となるらしい。山を凍らせ、村を雪に沈めてしまう。
その話を最初に聞いた時、恐怖でただ泣いた。夏の季節でさえ、祖母のいない時には屋敷に近づこうとはしなかった。
屋敷の掃除をしながら、祖母を思う。
長い間、冬をもてなしてきた祖母がいたから安心できたのだ。祖母と暮らす選択をしたのは自分自身ではあるが、そこには少なからず甘えがあった。
祖母がいるから、大丈夫。冬の機嫌を損ねることは、決してない。
ずっとそう思っていた。
けれどももう、祖母はいない。以前の冬の終わり。屋敷を去る冬が、祖母を連れて行ってしまった。
「おばあちゃん……」
埃を落とし、床を掃く。窓を拭く手を止めず呟けば、胸が苦しくなった。
正しくもてなせなかった人を、冬は連れて行ってしまうのだと聞いた。
本当かどうかは分からない。少なくとも自分の目から見て、祖母のもてなしは完璧に見えていた。
――冬は、一等気難しい。
気難しいのか、それとも気まぐれなのか。冬と直接対峙したことがない自分には知りようがない。
小さく息を吐く。頭を振って、考えを散らした。
掃除が終わっても、やるべきことはたくさんある。いつまでも祖母に縋り、思って立ち止まっている暇などどこにもない。
もう一度出かかる吐息を呑み込んで、雑巾を手に台所へと向かう。
一人で料理を作るのは、今回が初めてだ。少しの不安を感じながらも、しかし進む足に迷いはなかった。
「おばあちゃんは、冬をお迎えすることが怖くないの?」
そう問いかければ、祖母は湯飲みを手に目を細めて笑う。
「そりゃあ、怖いさ。誰かをもてなすっていうのは、いつだって怖い」
もちろんそれは、家族である自分に対しても怖いのだと祖母は言った。
首を傾げる。遊びに来る度快く迎えてくれる祖母は、いつだって穏やかだった。嫌な顔をされたことなど一度もない。
顔には出さないだけで、本当は迷惑だっただろうか。不安になって俯けば、祖母は優しく頭を撫でてくれた。
「喜んでくれるのか。不快に思うことはないか……相手のことを思いながらおもてなしの準備をする時は、不安で怖くなるよ。冬だから、特別怖いってわけじゃあないんだ」
「でも、冬は怒ると怖いんでしょう?攫われて、食べられちゃうんだって、前に言ってたよ」
思い出して、ふるりと体を震わせる。その話を聞いた時には、しばらく一人で眠ることが怖くてたまらなかった。
「冬は寒くて、冷たいもん。見たことないけど、絶対に怖い顔をしているんだ」
想像上の怖ろしい形相をした冬に怯えていれば、祖母は楽しそうに笑い声を上げる。
「そんなことはないよ。冬は確かに寒さを運んでくるけどね。だからって怖い訳じゃない。本当は静かで、とっても優しいんだよ」
いいかい、と祖母は頭を撫でながら言う。その目はとても穏やかで、優しい光を湛えていた。
「どうか覚えておいておくれ。冬はとても寂しがり屋なんだ」
「寂しいの?」
「そうだよ。でもとっても我慢強いんだ。皆がゆっくり眠れるように雪の布団を掛けて、音を消してくれている。寂しいのにたった一人きりで、寝ずの番をしているんだよ」
だからせめて、少しでも快く過ごしてもらえるように精一杯のおもてなしをするのだと。
そう言って微笑む祖母が、とても優しい目をしていたから。恐ろしいはずの冬が、自分と似ていると思ったから。
だからこの時、冬をもてなす準備を手伝うことを密かに決めたのだ。
掃除を終え、料理もほとんどが完成した。
囲炉裏は一度火を消して灰を整え、新たに薪をくべ直してある。
囲炉裏にかけられた鍋から湯気が立ち上り、仄かに柚子の香りが漂っている。
祖母が教えてくれた鍋。何度も試作したおかげで、満足のいく味に整った。
神棚には新米や塩、酒を供え終わっており、日干しした布団の準備も、風呂も沸かしている。
祖母が行っていたことは、すべて行った。支度はすべて終わり、後は冬を待つだけだ。
「大丈夫かな」
それでも不安が込み上げる。食事は口に合うだろうか。湯の温度は熱すぎないだろうか。
掃除をしたばかりの床や壁が気になってしかたがない。
誰かを迎えることは怖いと言った祖母の気持ちが、今なら痛いほどによく分かった。
かたん。
玄関から、小さく音がした。
慌てて居住まいを正し、三つ指をついて頭を下げる。
玄関で迎えることを冬は好まない。屋敷に入り、もてなしを受けるかどうかは、冬の自由だった。
ぎし、と廊下が軋む音がする。入ってきてくれたのだろうか。
胸の鼓動が、痛いほどに激しくなっていく。緊張で震える体に力を入れて、頭を下げ続けた。
不意に、冷たい空気が流れ込む。囲炉裏の側にいるというのに、きん、と冷えた外の匂いがした。
囲炉裏の火の暖かさを感じられない。床にうっすらと霜が降りていく。凍てつく空気が頬を掠め、そっと頭に誰かの手が触れた。
「――っ」
頭を撫でられる。まるで支度が無事に済んだことを褒めるように、優しい手が触れている。
冷たいのに暖かい。その手を、撫で方を、自分はよく知っている気がした。
静かに手が離れ、頭を上げる。
入口に、白い影が佇んでいた。その影に寄り添うように粉雪が舞い、消えていく。
息を呑み、笑みが浮かぶ。
やはり、祖母のもてなしは完璧だったのだ。
「ようこそ、おいでくださいました」
深く頭を下げ、冬を招き入れる。
体の震えはない。迷いも怖れもなくなった。
祖母に教えられた通りに。そして祖母以上のもてなしを。
「今年も訪れてくださり、真にありがとうございます。どうぞ、ごゆるりとおくつろぎください」
微笑めば、冬もまた優しく笑った気がした。
20251106 『冬支度』
11/8/2025, 5:40:44 AM