sairo

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枯れない花があるという。
その花を見ることができたのならば、好きな人と結ばれる。そんな噂があった。
所詮、噂は噂。自分の周りで、実際に見たという話は聞かない。
先輩の友達が。クラスメイトの従姉妹が。隣町の誰かが。
すべてが伝聞で、本当かどうか確かめようがない。
小さく溜息を吐いた。噂に踊らされるなど馬鹿らしいと思いながらも、咲いている花を見るとつい気になってしまう。
そもそもどんな花なのか。噂では花としか聞かず、名前も姿形も分からない。
もう一度、溜息を吐く。視界の隅で揺れる、咲き終わりのコスモスを横目に、早く帰ろうと足を速めた。



放課後。いつものように部活を終えた帰り道。
ふと、甘い匂いがした気がして立ち止まる。
お菓子など、食べ物の匂いではない。ふわりと控えめに薫るのは、花の匂いだ。
辺りを見渡しても、それらしい花は見当たらない。風に乗って届く花の匂いが気になって、香りを便りに辺りを探す。同時に薫る花の名を思い出そうと記憶を辿った。
知っているはずだった。確か、少し前まで毎日のように薫っていたような気もする。
思い出せないもどかしさに眉を寄せながら、道を進む。住宅街を抜けて、寂れた神社の前まで辿り着いた。
花の香りはこの先からしている。

「――思い出した」

ふと思い出した。
甘く、尾を引く香り。
その花の名前を。

「キンモクセイ、だ」

思い出して、けれども今度は疑問が残る。
キンモクセイの花の時期は疾うに過ぎている。近所の木もすべて花が散り終わって、地面に散らばる橙の花の名残すらすべてなくなってしまった。
それに、と密かに困惑しつつ、神社に足を踏み入れる。
この神社の裏手に、確かにキンモクセイの木はあった。しかし今は、もうないはずだ。
一ヶ月ほど前に、キンモクセイの木は急に枯れてしまった。
原因は分からない。古い木だから、何かの病気になっていたのだろうと近所の人たちが話しているのを聞いた。
枯れた木は危ないからと、切り落としてしまったはずだった。

枯れてしまったキンモクセイ。切り落とされてしまった老木。
なのに何故、花の香りがするのだろう。

神社の裏手に回る。
キンモクセイの花の香りが強くなる。
その中に、微かにお香のような匂いが混じった気がして、気がついた時には、空気が変わっていた。


「――あ」

思わず立ち止まる。
足下に一面広がる、橙の花。
風もないのに花が散り、その度に甘い香りが広がっていく。
見上げる木には満開のキンモクセイの花。散っても散っても、花は変わらず満開のまま。
枯れない花。そんな噂が頭を過ぎたが、それは違うと思い直す。
枯れないのではない。キンモクセイが散る、その一瞬でこの場所は時間を止めてしまったのだ。

異様な空間に怖くなって、一歩足を下げた。視線を彷徨わせ、そこで初めて木の根元に誰かが座っていることに気づく。
男の人の膝を枕に横たわる、年老いた女の人。
そう見えた。見えたはずだった。

「え?あれ?」

なのに一瞬目を逸らした瞬間、女の人の姿が若返っていた。
自分と同じくらいの少女が、眠っている。

「迷い込んでしまったのですね」

不意に、男の人から声をかけられた。突然のことに、小さく肩が震わせながら男の人へと視線を向ける。

「ごめんなさい。このままではいけないと、理解はしているんです。けれど、もう少しだけ……本当にごめんなさい」

少女の頭を撫でながら、男の人は謝り続ける。
酷く悲しげな声だった。泣きたいのを堪えているような感じがして、怖さがなくなっていく。
少女は目を覚まさない。もしかしたら、ずっとそのままなのかもしれない。
何故か胸が苦しくて、泣きたいくらい痛くなった。

「謝らないでください。えっと……私は、大丈夫ですから」

慰めにもならない台詞を吐けば、男の人が顔を上げてこちらを見た。眉を下げて、それでも笑みを浮かべてくれる。

「ありがとう。もう少しだけ、彼女と一緒にいさせてほしい」

そう言って、男の人は少女を見つめる。好きがたくさん詰まったような、優しい目をしているのが分かった。

「好き、なんですね。その人のことが」

気づけば言葉に出していた。
驚いたように顔を上げた男の人は、くしゃりと泣くように笑う。キンモクセイの花を見上げて、そうだね、と呟いた。

「好きだよ。大好きだ。記憶が散っても、この気持ちは消えなかったくらいに」

キンモクセイの花が散る。少女の上に降り積もって、とても綺麗な光景だった。

「花が散ると記憶も散ってしまう。だから何度も散りたくないと願った。彼女の側に、いつまでもいたかった。好きだと、一言だけでも告げたらよかった……でも、いつまでもこの場所に彼女を縛りつけられないから、いかないと」

急に強い風が吹いた。
地面に散った花を巻き上げ、目の前を覆い隠してしまう。

「ありがとう。君には後悔しない選択をしてほしい。俺と違って、君は同じ人間に恋をしているのだから」

男の人の声が聞こえた。風は益々強くなって、目を開けていられない。
一際強い風が吹く。甘く、切なくキンモクセイが強く薫って消えていく。

次に目を開けた時にはキンモクセイの木は消え、男の人たちもいなくなっていた。
目の前には、小さな切り株がひとつ。鼻の奥に残る香りが、ここにキンモクセイの木があったことを示していた。

「後悔しない選択……」

男の人の言葉を繰り返す。
大好きな先輩の姿を思い浮かべてみる。卒業後は県外の大学に進学するのだと、先輩は言っていた。
卒業まで、数ヶ月。あと何回、会うことができるのか。

「後悔しないように」

もう一度、呟いてみる。柔らかな風が吹いて、背中を押してくれた気がした。

強く頷いて走り出す。ポケットからスマホを取り出し、アドレス帳から先輩の名前を探す。
走りながら、迷わず通話をかけた。

「――もしもし」

数コールの後、先輩の声が聞こえた。震えないように声を張り上げる。

「あのっ!突然で申し訳ないのですが、今から会えませんか!」
「え?いいけど……どうした?」

不思議そうな先輩の声に何でもないと返して、待ち合わせる。
通話を終えてスマホをしまうと、走る速度をさらに上げた。

「後悔しない。絶対に」

どんな結果になろうと、伝えられない後悔よりはよっぽどいい。
さっきの男の人の姿を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。滲んでぼやけて、輪郭すら曖昧だ。
記憶が散ってしまったのだろうか。
きっとそれが正しい。何故かそう思った。

「頑張りますから」

思い出せない姿に告げる。
甘く優しい、キンモクセイが香った気がした。



20251104 『キンモクセイ』

11/6/2025, 9:41:57 AM