sairo

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「どうしたの?」

問われて、何でもないと首を振る。
静かな部屋に、二人きり。彼女の声以外に音はない。
花も虫も、風や月でさえ僅かにも動かず、時を止めてしまった。
もう一度、首を振る。もしかしたら首を振っていると思っているだけで、体は少しも動いていないかもしれない。

「大丈夫」

優しい声音で囁いて、頬を撫でられる。
冷たい指だ。血の通っていないような、凍ってしまったかのような指。
時を止めてしまった部屋に二人。自分と、もう一人。

頬を撫でるこの指の主は、一体誰なのだろう?



「また、あの夢……」

目が覚めて、思わず溜息を吐いた。
窓の外を見る。雲一つない快晴は、夢とは正反対だ。
数日前から見るようになった夢はいつでも暗く、とても静かだ。姿の見えない彼女が誰なのか、未だに分からない。

「おはようございます」

巡回に来た看護師の声に、頭を振って意識を切り替える。
夢の内容をいつまでも気にしている場合ではない。
早く退院して、元通りの生活に戻らなくては。でなければ、今日もまた責任を感じた後輩が見舞いにやってくるのだろうから。
何度も聞いた、涙声のごめんなさいの言葉を思い出し苦笑する。足を滑らせ川に落ちた後輩を助けたことに後悔はない。気にするなと何度も言っているというのに、真面目な後輩は毎日欠かさず見舞いにくる。

「おはようございます。体温測定をお願いします」

後輩のことを思い出していれば、挨拶と共に看護師に体温計を差し出された。いつものように体温を測り、看護師へと手渡す。

「35.2℃。今日もまた低いですね。何かありましたら、すぐにナースコールを押してくださいね」

微かに眉を顰める看護師に、頷いて逃げるように窓の外へと視線を向ける。
川で溺れかけた後から、体温は低くなった。あまり実感はない。

「そういえば……」

ふと気づいたことがあった。

時が止まった部屋の夢を見るようになったのは、おそらく溺れかけた後からだ。



暗い洞窟を、彼女に手を引かれて歩いていく。
左右には、氷漬けにされた植物や動物が並んでいる。

「氷の中に閉じ込めて、時を止めているの」

振り返らず彼女は言う。

「そうすれば、永遠にここにいてくれるでしょう?」

彼女の手にする提灯が揺れ、影が揺れ動く。
動いているのは自分と彼女だけ。他の生き物は皆、時が止まったまま。
寂しくはないのだろうか。ふと込み上げる疑問に、彼女を見た。
彼女は足を止めず、振り返ることもない。提灯の灯りが陰を作り、彼女の顔が分からない。
問いかけようと口を開きかけ、けれども彼女は不意に立ち止まる。
ここが洞窟の終わりらしい。

「皆同じ。植物も、動物も……人間だってそう。氷の中に入れて時を止めていれば、ずっとここにいてくれる」

彼女は提灯の灯りを、奥の氷の壁に向け翳した。
灯りに照らされたそれを見て、目を見張り息を呑む。
目が逸らせない。声が喉に張り付いて、何一つ言葉が出てこない。

氷の壁の中で眠る、一人の成人男性。

それは、数年前に行方不明になった父だった。



はっとして、目を開けた。
暗い部屋の中で、機械のアラーム音が鳴り響く。視線を動かして周りを見れば、いくつもの機械から伸びた管が自分に繋がっているのが見てとれた。
外が騒がしい。扉が開いて、医師や看護師が慌ただしく入ってくる。
皆険しい表情をしていた。自覚はないが、寝ている間に何かがあったのかもしれない。

「私の言葉が分かるかな」

医師に問われ、小さく頷いた。口を開いても、掠れた吐息しか出なかった。
いくつかの質問やバイタルのチェックをされ、ようやく医師は僅かに表情を緩めた。

「急に状態が悪化してね。一時は昏睡状態に陥っていたんだよ」
「え……」
「状態は安定しているようだし、もう大丈夫だろう。明日には面会謝絶を解くが、来週の退院は念のため延期だよ」

退院が伸びたことに、肩を落とす。だが仕方ない。退院後に状態が悪くなるより良いと自分に言い聞かせ、ベッドに横になった。


次の日。
見舞いに来た母に泣かれ、面会謝絶でも毎日来ていたらしい後輩にも、泣かれた。

「ほら、お兄ちゃん。そんなに泣かないの。迷惑でしょう?」
「だって……俺のせいで、先輩が……!」

後輩の背を撫でさすりながら冷静に言い放つ、後輩の妹らしき少女。辛辣ではあるが、仲睦まじい様子に笑みが浮かぶ。
けれども、ふと違和感を感じた。

「なぁ」
「はい。なんでしょう?」

少女に渡されたハンカチで涙を拭きながら、後輩はこちらに視線を向ける。
後輩は普段と変わらない。だが違和感は続いたままだ。

「お前って……妹、いたんだ」

自分でもよく分からない違和感に眉を寄せながら呟けば、後輩はきょとんと目を瞬いた。

「何ですか、急に?休みの日なんか、こいつも一緒に先輩の所に見舞いに来ていたじゃあないですか」

そう断言されると、確かに後輩の隣にいた少女の記憶が浮かぶ。
違和感は、気のせいなのかもしれない。きっと体が本調子ではないからなのだろう。

「頭、ぼけてるかもしれないな。昏睡状態だったらしいし」
「すみません!俺が、あの時もっと足下を見ていれば……!」

また泣き始めてしまった後輩に苦笑して、少女に視線を向けた。
相変わらず後輩の背を撫でながら、少女はこちらを見つめ、静かに目を細めた。



洞窟の中に一人きり。父が眠る、氷の壁の前で立ち尽くしていた。
何故、父はここにいるのだろうか。仕事で山に向かい、そのまま帰って来なかった父を思う。
ふと、父の右足が気になった。氷に阻まれ、服に隠れてよく見えないが、欠けている気がした。
父の顔を見上げる。眠っているように見えるが、血の気が失せた顔をしている。

――助からなかったのか。

ふと思い浮かぶ言葉に目を見張り、振り向いた。
足早に他の動物たちの元へと向かう。一つ一つ確認すれば、それぞれ皆、致命傷となる傷を負っているように見えた。

「――あぁ」

思わず、声が漏れた。
彼女が時を止めた理由が、分かったような気がした。



目が覚めると、辺りは暗くとても静かだった。
まるで何度も夢に見た、時を止めた部屋のようだ。
サイドテーブルの灯りを点ける。体を起こし、辺りを見渡した。

「やっぱり、君はあいつの妹じゃないね」

部屋の隅で静かに立ち尽くす少女に向けて、そっと声をかけた。

「聞きたいことがあるんだ」

近づく少女を見つめ、問いかける。彼女は何も言わず側に来て、小さく首を傾げた。

「君が時を止めるのは、それしか助ける方法がなかったからじゃないかな」

息を呑む音がした。
少女の瞳が揺れている。泣きそうに顔を歪め、唇を噛みしめ俯いた。

「俺は低体温症を引き起こしていたけど、そのおかげで助かったんだってきいた……君が助けてくれたんだよね」
「違う……ただ、運が良かっただけ」

そっと少女は呟く。俯いたまま、ぽつりぽつりと語り出した。

「皆、倒れたまま動かなかった。でもそのままにできなくて、凍らせたの。あなたも、あの人間も同じ。動かなくて、息をしていなくて……時を止めることしかできなかった」

俯く少女の目から滴が溢れ落ちた。それは一瞬で凍り、足下に小さな氷が散らばっていく。

「助けたかった。でも誰も助からなかった。それを認めるのは怖くて、時を止めたままにしていたの」
「そっか……でも君が助けてくれたから、俺は助かったよ」

小さく肩を震わせ、少女は顔を上げる。凍った涙を浮かべ、戸惑いを浮かべてこちらを見た。

「私、助けた?」
「うん。助けてくれた……ありがとう」

礼を告げれば、少女は不思議そうに目を瞬き、少し遅れてはにかんだ。それに笑みを返して、手を差し出す。

「助けてくれたお礼をさせてほしい。俺にできることで、何かしてほしいことはある?」

そう言うと、彼女は眉を下げ視線を彷徨わせる。怖ず怖ずと差し出す手に自らの手を重ね、そっと握った。

「友達に……なってほしいな。また、お見舞いに来たい」
「え?」
「駄目、かな?」

反射的に首を振る。手を握り返し、力強く振った。

「これから、よろしく」
「っ、うん!」

顔を寄せ、微笑んだ。
手を離し、また明日とその手を振る。控えめに手を振り返して、少女の姿は暗がりに消えていった。
灯りを消して、ベッドに横になる。すぐに訪れる睡魔に、そのまま身を委ねた。
明日も彼女は見舞いに来てくれるだろう。

明日を楽しみに、笑みを浮かべて夢の中へと沈んでいった。



20251105 『時を止めて』

11/7/2025, 9:47:58 AM