そっと、目の前を歩く彼の服を掴んでみる。
「どうした?」
振り返る彼に、何でもないと笑って首を降る。でも、服を掴む手は離せない。
何かがあるわけではない。ただ何となく寂しくなった。
彼は首を傾げて、服を掴む手を見ている。
不意に笑うと、手を包まれた。
「どうせなら、こっちの方がいいな」
手を繋がれる。温もりが彼の手から全身に伝わり染み込んで、寂しい気持ちを溶かしていく。
温かい。嬉しくて、自然と笑顔になった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
目を合わせ、互いに笑う。少しだけ大げさに繋いだ手を振って歩いていく。
このままでいたい。きっと笑われるだろう願いを、心の中だけで呟いてみる。
彼はいつだって、先を歩いていく人だ。同じ場所でずっと立ち止まっている姿など、想像もつかない。
「今度はどうした?」
無意識に俯いていたらしい。顔を覗き込まれて、ひゃっと小さく声が漏れた。
「何、その反応。可愛い」
くすくすと笑われて、今度は恥ずかしくなって顔を逸らした。
言える訳はない。この気持ちに相応しい言葉を知らず、例え知っていたとしても、それを彼に伝える勇気はない。
未だ嗤い続けている彼に、伝える代わりに軽く睨む。ごめんと謝りながらも彼は笑い続け、益々恥ずかしくなって彼の手を離し背を向けた。
「ごめんって」
背を叩いて頭を撫でながら謝る彼の手から逃げるように、何も言わずに歩いていく。
ちょうど分かれ道。ここから先は、彼と一緒には帰れない。
「また明日!」
彼の別れの言葉にも、振り返らない。離した手を冷たい風が通り過ぎて、立ち止まれば動けなくなる気がした。
寂しいと叫ぶ心から目を逸すように夢中で走り、家に帰る。
その後のことは、良く覚えていない。
けれど優しい彼の謝罪を受け入れず、挨拶も無視して帰った苦しさは忘れられなかった。
きっとこの時に、罰が当たったのだろう。
そっと、目の前を歩く彼の服に手を伸ばす。
しかしその手は彼をすり抜け、触れることはできなかった。
立ち止まり俯く自分に気づかず、彼は先へと進んでいく。道行く誰もが、自分を気にも留めずに過ぎていく。
あの日。彼を無視して逃げ帰った次の日から、自分という存在は消えてしまったらしい。
誰にも触れられず、叫んでもその声は誰にも届かない。
あれから何日過ぎたのだろう。それすら分からない。考えたくもない。
寂しくて、可笑しくなってしまいそうだった。
「ごめんなさい」
見えなくなってしまった彼の背に呟いた。
その声も、彼には届かない。
「行かないで」
重い足を引きずって、彼の追って歩いていく。
彼ならば気づいてくれるかもしれないという期待はもうない。それでも彼の側にいたいと思ってしまうのは、寂しいからなのだろう。
いつもの分かれ道で立ち止まる。
これから先へは進めない。足が、彼を追って進むことをどうしても拒んでいる。
小さく息を吐いて、分かれ道の端に座り込んだ。
家に帰る気も起きない。帰った所で両親には気づかれず、寂しさが増すだけだった。
「ごめんなさい」
溜息と共に吐き出して、膝を抱えて蹲る。
日が沈み夜が過ぎて朝が来るまで、明日になって彼がこの道を通るまでは、ずっとこのまま。
込み上げる涙が溢れないように、きつく目を閉じ朝を待った。
ふと、背に温かい何かが触れた。
はっとして顔を上げる。
「こんなとこにいたのかよ。風邪引くぞ?」
月のない、暗い夜でもはっきりと分かるほど近くに、彼がいた。
「あ……え?」
「ほら、帰るぞ」
そう言って手を繋がれる。じわりと伝わる熱に涙が込み上げて、耐えきれずに一筋溢れ落ちた。
慌てて俯けば繋いだ手を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められる。
初めてのことに混乱し、心臓が落ち着かない。けれども全身を包む暖かさに寂しさが解けて端から消えていくのを感じて、そっと彼の服を掴んだ。
「すっかり体が冷えてるな。しばらくこうしているか」
優しい声に頷いた。背を撫でる手の暖かさに、ほぅと小さく吐息が溢れ、涙が彼の服を濡らす。
「ごめんなさい」
小さく呟けば、彼は笑う。大丈夫だと言葉で、態度で示してくれた。
体の力が抜けていく。涙も次第に収まると、彼はそっと体を離した。
「帰ろうか」
手を差し伸べて、彼は笑う。いつもと変わらない笑顔に、同じように笑ってその手を取った。
離れないようにとしっかり繋ぎ、彼と共に家へと帰る。
「――何それ?」
繋いでいない方の彼の手が、何かを握り潰したのを見て首を傾げる。
「あぁ、これか?ただのお呪い……もう必要なくなったからな」
笑いながら彼は手を開く。ひしゃげた白い何かが風に乗って舞い上がり、端から解けて消えていく。
何のお呪いだったのだろうか。今は何もない彼の手を見つめながら考える。けれど答えは出るはずもなく、彼を見てもただ笑うだけだった。
「気にすんなよ。それより早く帰ろうぜ」
手を引かれ、何も言えずに歩いていく。胸に燻る疑問も感情も、彼の手の熱がすべて解かしていく。
とても静かだった。静かで暗くて、次第に意識がぼんやりとし始める。
「歩きながら寝るなよ。家まであと少しだから頑張れ」
楽しそうな彼の声がする。重い瞼を擦りながら彼を見れば、変わらず彼は笑顔のまま。
不意に、彼がこちらを向く。夜のように深く暗い目と視線が合った。
「どうせすぐ忘れるんだろうけどさ、できればちゃんと覚えとけよ。手を離されて寂しくなるのは、お前だけじゃないんだ」
目を瞬く。
あまり深く考えず、何も言わずに頷いた。
頷かなければいけないと、何故か強くそう思った。
気づけば朝になっていた。
頭が重い。何だか長い夢を見ていたような気がして、眉が寄った。
現実と夢の区別がはっきりとしない。どこまでが夢で、どこからが現実だろうか。
昨日は彼の手を離して、挨拶も言わずに帰ってしまったのだったか。謝罪も受け入れず、そして次の日になって何もかもが変わってしまった。
いや、違う。日付を見れば、昨日が彼と一方的な喧嘩をした日だ。半ば混乱しながらも、ベッドから抜け出し頭を振った。
「顔、洗ってこよう」
のそのそと部屋を出る。ちょうど階下から母が呼ぶ声が聞こえ、返事をしながら洗面台に向かった。
顔を洗えば、目も冷めることだろう。朝食を食べて出かける準備が終わる頃には、夢の内容も消えてなくなるはず。
そう自分に言い聞かせる。
燻る違和感は、気にしないことにした。
「おはよう」
いつもの分かれ道。彼はいつものように笑いながら待ってくれていた。
「お、おはよう」
小さく挨拶を交わせば、彼はもう一度おはようと返し、手を差し伸べる。その手を取って歩き出せば、引き摺っていた朝のもやもやとした気持ちが消えてなくなっていく。
「どうした?」
小さく息を吐けば、不思議に思った彼が視線を向けた。
それに首を振りながら、怖ず怖ずと彼に向けて頭を下げる。
「昨日は、ごめん」
「ん?あぁ、気にすんな」
彼は笑って頭を撫でる。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回されて、乱れた髪を整えようと手を離した。
「あ……」
途端に寂しさが込み上げる。側にいるのに触れられない気がして、離したばかりの手を繋ぐ。
自分でもよく分からない感情に困惑していれば、彼は穏やかに笑った。
「そんなに焦らなくても、置いてかないよ。お前が望むなら、ずっとこのまま手を繋いでいてやるから」
それならお互い寂しくないだろう。
そう言われて、彼を見る。
朝の光の中で、夜のような目が静かに笑っていた。
20251110 『寂しくて』
11/11/2025, 9:21:43 PM