綺麗にラッピングされた箱。
「開けないの?」
首を傾げて、弟が問う。何度目かのやりとりかも忘れたそれに曖昧な返事を返しながら、それでも箱を開けられずにいた。
今朝早く、玄関の前に置いてあった箱は、送り主が誰かを書いてはいない。ただ薄紅色の可愛らしいリボンが、送り主が誰かを静かに伝えていた。
「開けないの?」
弟が繰り返す。このやりとりにも飽きてきたようで、欠伸をひとつしながらテーブルの上に置かれた箱に手を伸ばした。
「開けないなら、開けるよ」
「ちょっと待って……!」
慌ててそれを止め、溜息を溢す。
仕方がないと、覚悟を決めてリボンに手をかけた。
リボンを解く。殊更丁寧に包みを剥がし、中から出てきた箱の蓋をゆっくりと開けていく。
「――あ」
「へぇ、可愛いじゃん」
弟が笑う。
それをどこか遠くに聞きながら、恐る恐る中のそれを取り出した。
「――可愛い」
思わず呟く。
華奢な白の陶器でできたそれは、一匹の黒猫が描かれた可愛らしいティーカップだった。
こちらを向いて座る黒猫の愛らしさに、無意識に口元が緩む。そっと絵をなぞり、ほぅ、と安堵の吐息が溢れ落ちた。
「今回は普通だな。つまんない」
「そういうこと言わないで」
肩を竦めて少しばかり鼻白む弟を睨み付けながら、そっとカップをテーブルの上に置く。折角の贈り物なのだから、紅茶か何かを入れようかとカップに背を向けたその瞬間。
「やっぱり、今回もだった」
足に擦り寄る何かを見て、弟は楽しげに声を上げて笑う。振り返れば、カップに描かれていたはずの黒猫はいない。またかと嘆息しながらも視線を落とせば、案の定足に体を擦りつけていたのは一匹の黒猫だった。
「で?どうすんの、それ」
ひとしきり笑った弟に腕の中の黒猫を指差され、眉を寄せながら首を振る。
どうすると言われても、どうしようもない。今まで送られてきた贈り物が、如実にそれを示しているというように、視界の端で自由気ままに動いている。
勝手気ままに床を掃除する箒とちり取り。裁縫道具たちが弟が持ち込んだ破れた衣類を縫い繕い、大時計は針を回して人形たちと遊んでいる。
溜息を吐きながら、喉を鳴らして擦り寄る黒猫の頭を撫でた。
「良かったわ。気に入ったようね」
聞こえた声に振り返りながら、恨めしげな視線を向ける。
大きな姿見から現れた彼はこちらの視線を気に留めず、笑みを浮かべて近づいてくる。
「お久しぶり、マスター。相変わらず、姉貴よりも綺麗だね」
「あら、ありがとう」
艶やかな笑みを浮かべて、彼は手にした包みをテーブルの上に置く。包みを解いて、中からティーセットを取り出した。この黒猫と同じデザインで、取り出された瞬間にカップやポットに描かれた猫が次々と抜け出てくる。
瞬く間に猫に囲まれる自分を見かねて、椅子が近寄り座れと促された。
「これ以上、曰く付きの骨董品を持ち込まないでください」
「嫌ならば、関わらないことが一番よ。そうすれば相手から勝手に去って行くわ。いつも言っているでしょう?」
「それは……そうだけど……」
「うちの店の子たちは、特に好き嫌いが激しいもの。それが皆ここにいるってことは、貴女が愛情を持って大切にしてくれているっていう何よりの証明よ」
そう言われてしまえばそれ以上何も言えず、膝に乗り出す猫たちを順に撫でていく。
喫茶店兼骨董屋を営む彼とは幼い頃からの付き合いだが、何においても勝てたためしがない。勉強も運動も、口げんかでさえも、彼は常に自分よりも上だった。
昔から中性的な容姿ではあったものの、女性の格好をするようになった今では自分よりも綺麗になってしまった。
込み上げる溜息を呑み込む。慰めなのか大時計が鐘を鳴らし、キッチンからお茶菓子を乗せた盆を持って日本人形が近づいてきた。
その時に、さりげなく彼の足を踏みつけていったのには、気づかない振りをした。
「あ、ありがとう」
「すっかり懐いちゃったわねぇ」
お盆からお茶菓子を受け取りお礼を言えば、彼は苦笑する。しかしその目が一瞬だけ何の感情も映していないように感じられ、思わず声が漏れた。
「どうしたの?」
「な、なんでもないです」
こちらを見る彼は、いつもと変わらないように見える。気のせいだったかと、首を傾げながら受け取った茶菓子から煎餅を取り囓った。
「姉貴は相変わらず鈍いからな。マスターも可哀想」
「は?」
くすくす笑う弟に、眉を寄せて睨み付ける。それを気にも留めず弟は裁縫道具たちに直された衣類を片手に、笑顔で手を振った。
「俺、そろそろ帰るわ。マスターはごゆっくり」
玄関へと向かう弟は、けれど部屋の扉の前で一度振り返り、彼に視線を向ける。
「基本的に、マスターのことは応援しとくけどさ……姉貴を傷つけるのは絶許なんで。そこんとこよろしく」
「分かってるわよ。じゃあまたね。今度はお店の方にいらっしゃい」
表面上はにこやかな二人に困惑して、視線が彷徨う。気にするなと言わんばかりに猫たちに擦り寄られ、何も言えずに弟の背を見送った。
気がつけば、部屋の中には自分と彼。そして彼の持ち込んだ、あるいは贈られた古い道具たちだけ。
どこか気まずい空気を掻き消すように、彼はテーブルに広げたティーセットを手にキッチンに向かう。
「お茶の準備をしてくるわね」
「あ、はい」
頷いて、彼を見送る。
それに続くように。猫たちはキッチンへと向かっていった。
一人部屋に残されて、溜息を吐く。
「何だったんだろう」
疑問に答えてくれる声はない。
自分の部屋だというのに、少しばかり居心地の悪さを感じる。これも彼と弟のせいだと、心の中で文句を呟きながら彼が戻ってくるのを待った。
しばらくすれば甘い香りと共に、彼がトレーを手に戻ってきた。
「お待たせ」
トレーの上には暖かな湯気を立てるポットと、カップが二つ。白の皿には色とりどりのマカロンが乗せられている。
それをテーブルの上に置き、ぼんやりと見ている内に彼はお茶の準備を整えていく。
「はいどうぞ。砂糖は二つでよかったのよね?」
「あ、うん。ありがとう……ございます」
受け取ったティーカップには、黒猫が一匹。こちらを向いて座っている。
カップに口をつければ、ほんのり甘い紅茶の香りと味が広がり、口元が綻ぶ。
「おいしい」
「よかった」
嬉しそうに彼は微笑み、自身も白猫の絵が描かれたカップに口をつける。その動作はとてもしなやかで綺麗なのに、カップを持つ手は男の人の手だった。
当たり前のことに呆然としていれば、彼はこちらを見つめ静かに問いかけた。
「そろそろ止められそうかしら?」
「えっと……何を、でしょうか?」
思いつかなくて眉が寄る。彼は静かに笑って、人差し指をこちらに向けた。
「敬語……学生時代は、そんなのなかったでしょう?」
指摘されて、気まずさに紅茶を飲む振りをして視線を逸らす。唇に触れる紅茶の熱さが彼の視線と絡まって、火傷してしまいそうな気がした。
「私が怖い?」
「怖くない、です」
あからさまに嘘を吐く。
本当は怖い。いつもは女性的な彼の、男性的な部分に気づくと途端に怖くなる。
そんな自分に彼は怒るでもなく、静かに笑い告げる。
「今すぐでなくていいわ。いつまでも待ってるから」
優しい声音に俯いた。
見つめるカップの黒猫がこちらを見て、声を出さずに鳴いた。部屋にいる他の道具たちも、皆こちらを見ている気配がする。
「大丈夫よ」
彼は穏やかに囁く。
「皆、貴女が大好きだもの。付喪神はね、愛してくれたならちゃんと返してくれる。貴女を守ってくれるから」
「――うん」
頷いて、カップの黒猫をなぞった。猫の尾が揺れる。
大丈夫。自分に言い聞かせるように心の内で繰り返して、カップに口をつけた。
ほんのり甘い紅茶の味。湯気の向こうで微笑む彼を、ぼんやりと見つめて思う。
彼が与えてくれるものは怖くない。
だからきっといつか、彼のことも怖くなくなるのだろう。
「うん。きっと怖くない」
小さく呟けば、彼は不思議そうに目を瞬いた。
聞き返される前にカップを置いて、皿の上のマカロンを取る。一口囓れば甘さが口に広がり、自然と笑みが浮かぶ。
「おいしい」
「気に入ってもらえたのなら良かったわ。好きなだけ食べなさい」
皿ごとこちらに渡され、彼の優しさに勇気を出す。
顔を上げて、真っ直ぐに彼を見た。
「どうしたの?」
「あのね……ティーセット、置いていって。それでまた……一緒にお茶しよう」
昔みたいに。
震える手を握り締めそう告げれば、彼は驚いたように目を見張った後、ふわりと微笑んだ。
「ええ、もちろん」
その笑顔はやはり自分よりも綺麗で、少しも怖いとは感じなかった。
20251111 『ティーカップ』
11/13/2025, 8:21:37 AM