sairo

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鏡に手をつき、溜息を吐いた。
同じ場所をぐるぐると回っている。違う道を選んでも、最後にはまた最初のこの場所に辿り着いてしまう。

「疲れた」

鏡に凭れながら座り込む。周りの鏡に映る自分も、同じように座り込んだ。
ミラーハウス。鏡の迷宮。
何故こんな所にいるのか。いつからいるのかは分からない。
ただ早く帰らなければという焦燥感が常に付き纏い、心を落ち着かなくさせている。
帰らなければ。いつまでも、迷っている訳にはいかない。
深く息を吐いた。顔を上げて、ゆっくりと立ち上がる。

「帰らないと」

自分に言い聞かせるように呟いて、また迷路の中に足を踏み入れた。



「なんで帰りたいの?」

背後から声が聞こえ、咄嗟に振り返る。

「え……」

無数の鏡に映るそれに、息を呑む。無意識に後退る自分を嘲笑うかのように、鏡の中の幼い自分はサイズの合っていないシャツを揺らす。

「帰った所で、苦しいだけじゃない」

幼い自分の声に被さるように、赤子が泣く声が聞こえた。背後の景色が揺らぎ、ベビーベッドのある室内を映し出す。両親が慌てたように、幸せそうにそれぞれ赤子を抱き上げ笑う。その側で、兄も興味深げに双子の弟妹を見つめていた。

「本当に帰りたいの?」

兄のお古を着た、幼い自分が問いかける。
笑う両親に抱かれた双子は、どちらも綺麗な服を着ている。誰もが幸せそうで、笑っていないのは自分くらいなものだ。

「帰りたいの?」
「帰らないと」

繰り返す幼い自分の問いに、呻くように呟いた。
首を傾げる自分から逃げるように背を向ける。無数の怯えた顔をした自分の姿が視界に入り、密かに安堵の息を吐いた。

帰らなければならない。
理由を思い出せないその衝動だけで、迷路の先へと歩き出した。



「今更帰ってどうするの?」

声が聞こえて立ち止まる。
恐る恐る振り返れば、一枚の大きな鏡に映る、学生時代の自分がいた。

「あの時何も言わなかったくせに、今更帰って文句でも言うつもり?」

無表情な自分の後ろで、楽しそうに双子が笑う。
弟はサッカーに精を出し、妹はピアノ教室に通っていた。

「やりたいことがあったのに、家族のためだって何も言わなかったのは自分。なのに、後悔しているの?やりたいこともやれなかった自分が可哀想だなんて、思ってでもいるの?」
「違う……そんなこと、思ってない。ただ、帰りたくて……帰らないと……」

後退りながら、言い訳のように帰らなければと繰り返す。そんな自分を、学生時代の自分は冷めた目で見つめ問いかける。

「帰って、何がしたいの?」

口を噤む。何も思い出せずに、俯いた。
何か言わなければ。そうは思うのに言葉は出ず、足は縫い止められたかのように動かない。
戸惑い怯えて立ち尽くしていれば、不意に腕を掴まれた。

「何してんだよ?遅れるぞ」

視線を向ければ、幼馴染みが眉を寄せて立っていた。

「え、あれ……?」
「まったく、道の真ん中でぼーっとしてんなよ……先行ってるからな。お前も早く来いよ」

呆れたように笑いながら、幼馴染みは掴んだ腕を離して歩いて行く。それを追いかけようとして、後ろが気になり振り返った。
そこには無数の鏡に映る、無数の自分がいるだけで、学生時代の自分はもうどこにもいない。
深く息を吐いて、前を向く。幼馴染みの姿も、どこにも見えない。
密かに落胆しながらも、ゆっくりと歩き出す。
帰らなければいけない。
それは、もしかしたら幼馴染みが関係しているのだろうか。そんなことを思いながら、無心で前に進み続けた。



「どうするか、決めたの?」

声がした。
一呼吸置いて、ゆっくりと振り返る。

「いつものように聞き分けのいい子でいるのか、それとも自分の気持ちに素直になって悪い子になるのか」

薄暗い通路の前で、自分が問いかける。
その後ろでは、母に抱きつき泣きじゃくる妹の姿があった。
幼馴染みに告白して振られたのだろう。悲しみを切々と語る妹に、母は優しく頭を撫でて慰めている。
不意に母が顔を上げ、こちらに視線を向けた。困ったように微笑んで、妹を撫でながら口を開く。

「しばらく、彼と会うのは止めてちょうだい。お姉ちゃんなんだから、妹のために気を利かせてやってね」

咄嗟に言い返そうとした言葉は声にならず、代わりに強く唇を噛みしめる。
苦しい。母の言葉も、何も言えない自分の弱さも、苦しくて堪らない。そんな自分を見つめて、もう一人の自分は無感情に問う。

「どちらにするの?家族か、私か」
「私?」

提示された選択肢の意図を理解しかねて、眉を寄せる。もう一人の自分は頷いて、静かに告げた。

「家族を選べば、私はずっとお姉ちゃんのまま。私を選べば、お姉ちゃんではなくなるの」
「家族……お姉ちゃん……」

母と妹へと視線を向ける。母の胸に縋り泣く妹と、眉を下げ微笑む母。凍り付いたまま動かない二人を見て、唇が震えた。
選べるのは一つだけ。迷い彷徨う目が、もう一人の自分を見る。無表情なその顔は、それでも選んでしまっているように見えた。
目を逸らし、家族や自分に背を向ける。無数に映る鏡の中に、白い光を見つけて歩き出す。

「本当に帰るの?どちらを選んでも苦しくなるのに」

歩く自分の横を、幼い自分が着いてくる。

「帰って、また何も言わないままでいるの?ずっとそうだったように」

反対側で、学生時代の自分が冷めた目をして歩いている。
それらを振り切るように駆け出した。

「帰らないと。いつまでも迷っている訳にはいかないから」

はっきりと言葉にすれば、過去の自分たちは消えていく。

「どちらにするか、まだ決めていないのに」

後ろから声がした。けれどもう立ち止まることも、振り返ることもしない。
只管に、光に向かって駆けて行く。
そして、その光を抜けた瞬間。

真っ白な世界の中で、何度も自分を呼ぶ幼馴染みの声が聞こえた気がした。



「っ、起きたのか!?」

目を開けると、焦ったような幼馴染みの顔が視界いっぱいに映り込む。
声をかけようとするが、口から溢れるのは掠れた吐息だけ。起き上がろうとしても、体に力が入らなかった。

「無理するな。もう一週間も目を覚まさなかったんだぞ」

そう言いながら、幼馴染みはベッドのリモコンを操作し、リクライニングを上げる。床頭台の上のペットボトルと取ると蓋を開け、手渡してくれた。

「急ぐな。ゆっくり飲めよ」

頷いて、一口ミネラルウォーターを飲む。乾いた喉が潤う感覚にそっと息を吐いた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

礼を言いながらペットボトルを渡せば、幼馴染みは安堵したように笑う。しかしペットボトルを床頭台に戻してこちらに向き直った時には、その笑みは消えていた。

「正直に答えて欲しい。俺と結婚するのは、そんなに嫌だったのか?」

問われて息を呑んだ。俯きかける顔を必死で上げて、静かに首を振る。
嫌な訳ではない。幼馴染みに告白された時は、本当に嬉しかったのだ。
けれど妹の泣き顔が、母の言葉がちらついて離れない。返事をしようとする度に、家族が声を奪っていく。
それを幼馴染みに伝えることもできず、苦しさに両手を強く握り締めた。
そんな自分を見て、幼馴染みはそっときつく握った手を包み込む。目を合わせて、真剣な顔で問いかけた。

「選べないってんなら、攫っていってもいいか?」
「――え?」
「お前が家族を大切にしているのは分かるし、お前の家族もお前のことを愛しているのも分かる。それで動けないなら、俺が手を引いて連れ去ってやるよ。嫌なら手を振り払ってくれればいい」

その目の強さに、頷くことも首を振ることもできない。代わりに視線を落として、両手を包む幼馴染みの手を見つめた。
温かくて大きな手。いつも自分を導いていたこの手を、振り解くなんてきっとできないだろう。

「今すぐじゃない。でも卒業と同時に、お前のこと連れていくからな」
「――うん」

笑いながらも真剣な声音。包む手に力が籠もり、そっと頷いた。
顔を上げる。微笑む幼馴染みの顔が、昔二人で憧れたテレビのヒーローと重なって、眩しさに目を細めた。
幼馴染みはいつだって自分のヒーローだった。今更ながらにそれに気づいて、小さく笑みが浮かぶ。

「動けない私をいつも助け出してくれる、ヒーローみたいだね」

そう伝えれば、幼馴染みは目を瞬き苦笑する。

「俺がヒーロー?そんな訳ないだろ。俺はとっても悪い、悪の魔王だよ」

包む手を離し、頭を撫でられる。意地悪く笑いながら、床頭台の上を見つめた。

「なんたって、皆の大好きなお姉ちゃんを攫っちまうんだから」

床頭台の上に飾られた綺麗な花が、それに答えるように小さく揺れていた。



20251112 『心の迷路』

11/14/2025, 3:40:39 AM