「ごめんね」
そう言って、彼女はいつも境界線を引く。
「ううん。大丈夫、気にしないで」
それ以上踏み込めなくて、またいつものように笑みを浮かべてみせた。
本当は踏み込みたい。手を引いて、彼女の哀しみも恐怖も、全部受け入れてしまいたい。
けれど彼女の涙を見た瞬間、いつも何も言えなくなってしまうから。
「大丈夫だよ」
今日もまた。
臆病な自分は作った笑顔を浮かべ、口先だけの大丈夫を繰り返した。
「ありがとう」
彼女は笑う。安堵したように。
けれどもどこか冷めた目をしているように見えるのは、そうであってほしいと自分が思っているからだろうか。
心に引いた境界線に、踏み込んでほしい。壊して、砕いて、すべてを受け入れてほしいと、彼女も願っている。
そんな自分の妄想が、彼女の表情すら歪ませて認識しているのだろうか。
「どうしたの?」
何も言わずに立ち尽くす自分に、彼女は眉を寄せ問いかける。それに何でもないのだと首を降って、いつものような笑顔を作った。
「何でもないよ」
言いながら、彼女から視線を逸らす。赤く染まりだした空を見上げて、それを言い訳にする。
「もうすぐ日が暮れるね……また明日」
いつも通りの別れの約束。それに彼女は、一度も言葉を返したことはない。
分かってはいるが、何も返されないことに少しだけ寂しさを感じながら、彼女に背を向け歩き出した。
「どうして泣いているの?」
ぼんやりとした夢を見ている。
好奇心だけで動いていた、幼い頃の夢。世界がまだ楽しいことばかりで満たされて、怖いものなど何一つなかった。
「ねぇ。どうして?もしかして、悪いやつらにいじわるされたの?」
だからこそ、彼女に対しても何一つ怖れることなく踏み込むことができた。
俯いて泣くばかりの彼女の頭を撫でて、自分の感情のままに繰り返し問いかける。
「教えてよ。全部、教えて?そしたら、半分もらってあげる。それで開いた半分に、笑顔になれるような楽しい気持ちが入るでしょう?」
手を差し出し、半ば強引に彼女と手を繋ぐ。
驚いて目を瞬く彼女に大丈夫だと笑い、強請るように繋いだ手を揺すった。
いつからだろうか。
彼女の答えを待ちながら、今の自分との差異を疑問に思う。
幼い頃は、こうして遠慮を知らずに彼女の心に踏み込んだ。彼女の引いた境界線も形を持たぬほどに弱く、手を繋ぐことは容易だった。
いつからだろう。
一体いつから、彼女の涙が怖くなったのだろうか。
「――いいの?」
涙に濡れた目をして、彼女は問う。
迷いがあるのだろう。声は震え、視線はまだこちらから逸れている。
「いいよ」
それに自分は迷いなく答え、繋いだ手に力を込めた。
「じゃあ――」
彼女の目がこちらに向けられる。唇が何かを伝え震えるが、それは声として届くことはなかった。
夢の終わりが近いのだ。薄れていく彼女の姿や周囲の景色に、そう思った。
何もかもが白に染まる中。
彼女が続けた言葉が何だったのかを、ただ考えていた。
聞こえるアラームの音に、目を開けた。
まだ残る夢の名残に、小さく息を吐く。あんな風に、彼女の中に踏み入ることができたらと、自分のことだというのに羨ましく思った。
「話してくれたら……その気持ちを……」
幼い頃の自分の言葉をなぞる。彼女にもう一度伝えたのなら、あの境界線は少しでも揺らぐだろうか。
それを想像して、落ち着いてなどいられなくなった。急いで着替え、部屋を飛び出した。
朝食も摂らずに家を出て、いつもの場所へと駆けていく。彼女が必ずそこにいるとは限らないというのに、気持ちは急いて落ち着かない。
彼女は待っていてくれる。根拠のない確信が、只管に足を速めていた。
「おはよう。今日は随分と早いのね」
木に凭れ、ぼんやりと空を見ていた彼女が、こちらに築いて視線を向ける。小さく首を傾げる彼女に説明する余裕もなく、足早に近づいて手を握った。
「え?」
「君のことを教えてほしい」
言葉にして、今更ながらに気づく。
彼女に対して、自分は何も知らない。どこに住んでいるのか、何が好きなのか。
名前さえ、聞いたことがなかった。
「今更、聞くの」
冷たい声に、驚いて彼女を見る。
冷たい目。初めて見る穏やかさのない彼女に、小さく息を呑んだ。
「あの時は、逃げて行ったくせに。また、同じことを繰り返すつもり?」
「同じ、こと?」
彼女は何を言っているのだろうか。記憶にないそれに、意味もなく視線を彷徨わせた。
同じこと。覚えていないのは、何故なのか。
そう言えば、と夢の最後を思い出す。
あの時、彼女は何と言ったのか。自分は何を見たのだろうか。
背筋に、冷たく嫌なものが走って行く感覚がした。
「折角分かりやすいように境界線を引いてあげたんだから、それを今更壊そうとしないで」
手を解かれそうになり、慌てて離れないように強く手を握る。彼女の目が鋭さを増し、けれどもその目は薄く張り出した涙の膜に揺れていた。
彼女の涙の理由の一つが自分なのだろう。これ以上苦しませる前に手を離すべきだ。冷静な自分がそう告げるが、今この手を離したら二度と会えなくなる気がして離せない。彼女を知りたいと叫ぶ気持ちが背を押して、境界線が引かれ直す前にと無遠慮に踏み込んだ。
「ごめん。でも、全部教えて欲しい。前に教えてもらったのかもしれないけど、何も覚えていないんだ。だからどうか……今度は忘れたりしないから」
「嘘つき」
冷たい目をして彼女は言い捨てる。忌々しいと言わんばかりに顔を歪めながら嗤い、痛みを覚えるほど強く手を握られた。
手を引かれ、顔が近づく。彼女の目を揺らす涙の膜が溢れ落ち、光を反射して煌めいた。
「そんなに言うなら、また見せてあげる。逃げ出したいなら逃げれば良い。私ももう会うつもりもないから」
そう囁いて、額が触れた。
「――っ」
途端に流れ込んで来たのは、際限なく続く痛みと悲しみだった。目を覆いたくなるほど、逃げ出したくなるほどの記憶の奔流に、必死で歯を食いしばり耐える。
手を離す代わりに、強く彼女を抱き締めた。
子供ならば、女ならばこうあるべき。そうやって無理矢理彼女を型に嵌めようとしながらも、長子としての責任を押しつける。
血筋、伝統、しきたり。それらが彼女を縛り、終わりのない責め苦を与えている。その中の一つに、幼い自分がいた。
無邪気に近づき、甘い言葉を囁いた。だが彼女に触れれば、忽ち恐怖に泣きじゃくりながら逃げていく。
ようやく思い出した。あの時もこうして彼女の記憶に、心に触れて、残酷にも逃げてしまったのだ。
そして自分を守るために何もかもを忘れ、しばらくして何事もなかったかのように再び彼女の前に現れた。
傷をつけられながらも、彼女は何も言わず自分のために心に境界線を引いた。そんな彼女の優しさが、流れ込む記憶よりも痛くて、ただ愛おしかった。
「――あの時言ってくれたお願いは、今も有効?」
顔だけを離して、彼女に問う。
あの時、いいよと言った自分に、彼女は一つ願い事をした。それに自分はあの時何と答えたのかまでは覚えていないが、もう一度その願いに答えを返したかった。
すぐには思い出せなかったらしい彼女が、不思議そうに目を瞬く。少ししてそれが何かを思い出し、一瞬で顔が赤くなる。
「な、なんでっ……今、それを言うの!」
顔を逸らされ、嫌なのだろうかと気分が沈む。しかし触れた腕から暖かさが、そうではないのだと伝えた。
心地の良い暖かさ。嬉しいという感情が直接流れ込んで、戸惑いながらも嬉しくなった。
今度は自分から伝えてみよう。そう思い口を開くが、慌てる彼女に両手で口を塞がれる。
「これ以上何も言わないでっ!境界がなくなってるんだから、お互いのすべてが伝わってるのよ。言う前にもう伝わってるんだから!」
「え?伝わってる?」
「何よこれ!なんであなた、私の全部を知って好きだって思えるのよ!……あぁもう、一回離れてっ!」
彼女の手が体を押しのけるが、まだ離れたくはなかった。
お互いの気持ちが伝わっている。恥ずかしさよりも幸せな気持ちが勝り、押しのける彼女を強く抱き締めた。
「俺のお嫁さんになってください」
そう願えば、彼女の動きが止まる。
――じゃあ、私のお婿さんになってくれる?すべて見せたら、結婚しないと駄目なの。
あの日、彼女が願ったこと。
改めて自分から伝えれば、彼女から暖かな感情ばかりが伝わってくる。
嬉しい。幸せだ。大好き。自分のこの想いも彼女に伝わっているのだろうか。彼女を見れば、赤い顔を隠すように肩に額を預けている。
「馬鹿」
小さく呟いて、胸を叩かれる。顔を上げず、彼女はさらに小さな声で呟いた。
「婿入りするんだからね。私の家は厳しいんだから、今のうちから覚悟しなさい」
彼女なりの了承の言葉に、笑みが浮かぶ。
「愛している。もう絶対に逃げないから」
「馬鹿。逃がすわけないじゃない」
想いを伝えれば、憎まれ口が返る。
彼女の嬉しいを感じながら、心の境界線がなくなったことを実感する。
「本当に馬鹿なんだから」
その言葉に、怖くて踏み出せなかった自分を思い出しながら、まったくだと心から同意した。
20251109 『心の境界線』
11/11/2025, 4:16:15 AM