光が差し込んだ。
少年の表情が陰となって、少女からは見えない。
「また明日ね」
手を振る影が伸びていく。壁に当たって持ち上がり、少女の隣に並ぶ。
くすくすと笑う声。振っていた手を伸ばして、影がそっと少女の手に触れた。
少女と影と。手を繋いでいるように見えて、少女の口元が僅かに綻んだ。
それを見て、少年は笑みを浮かべる。嬉しくて、弾む声音で約束を口にした。
「明日も一緒に遊ぼうね」
その言葉に小さく、けれどもはっきりと少女は頷いた。
次の日は、朝から雨が降っていた。
しとしとと降る雨は、少しも止む気配がない。窓の外を睨みながら、少年は何度目かの愚痴を溢す。
「約束、したのに」
少女は待っているだろうか。二人だけの秘密の場所で。
そう思うと途端に落ち着かなくなる。このまま二度と遊べなくなるのではという不安が、少年を駆り立てた。
玄関には、少年用の小さな傘。水色の長靴。
家の鍵は、棚の上。両親はいつものように遅くまで帰ってくることはないのだろう。
手を握り締め、少年は強く頷いた。
長靴を履き、傘と鍵を持って、外へと迷うことなく飛び出した。
少年たちが秘密の場所と呼ぶそこは、何年も前に廃墟となった旅館の中だった。
壊れた柵を潜り抜け、鍵の壊れた裏口から中へと入る。所々雨漏りのするその場所は、晴れている昼間でも薄暗い。以前誰かが持ち込んだ懐中電灯を点け、ゆっくりと奥へ向かい歩き出す。
中はとても静かだった。雨の音以外何も聞こえない。
少女は来ていないのだろうか。安堵と、少しばかりの寂しさを感じながら、それでも実際に確かめようと足を止めることはなかった。
一番奥の客室が、少年と少女がいつも遊んでいる秘密の場所だった。
軋む戸を開けて中に入る。何の音もしない。だが暗がりを懐中電灯の光で照らせば、僅かに動く何かが光の端を掠めた。
「――あ」
そこには、俯いて座る少女がいた。慌てて近づき肩を揺すれば、ゆっくりと顔を上げた少女が眠そうに目を瞬いて少年を見る。
「あ、おはよう?」
目を擦り、呑気に挨拶をする少女に、少年は眉を下げる。
いつからいたのだろうか。しかし少年がそれを問いただす前に、少女は欠伸をしながら少年に問いかける。
「今日は何をして遊ぶの?」
無邪気に笑う少女に何も言えなくなり、少年は小さく息を吐いた。緩く首を振ると、部屋の隅に置いてある遊び道具を広げ出す。
「今日は雨が降っているから、この部屋の中だけで遊ぼうか」
途端に目を煌めかせる少女に苦笑して、少年は駒を一つ手に取った。
楽しい時間は、瞬く間に過ぎていく。
雨は止んだようではあるものの、いつものように夕陽が差す気配はない。曇る窓の外から見る空は、どんよりとして暗い影を落としていた。
「そろそろ帰らないとね」
道具をしまい、少年は言う。少女は何も言わずに俯いて、小さく頷くだけだった。
二人手を繋ぎ、懐中電灯の灯りを頼りに入口へと進んでいく。
とても静かだ。どちらも無言のまま、強く手を握り歩いて行く。
ふと、今更ながらに疑問が浮かぶ。少女はどこに住んでいるのだろうか。
少年は少女のことを、何も知らない。住んでいる場所どころか、少女の名前さえも知らなかった。
「――ねぇ」
懐中電灯を戻し、外に出ながら少年は口を開く。少女は首を傾げながら、続く言葉を待った。
「君のことが知りたい」
振り返り、少女の目を見据えながら告げる。だが少女は何も言わずに、視線を逸らして俯いた。
「ごめん。無理に聞きたい訳じゃないんだ。忘れて」
無理矢理に笑顔を作り、少年は少女の手を離す。そのまま歩き出し、いつもの場所で立ち止まり振り返る。
少女はその場から動かない。普段は気にならないことがとても気になった。
陽がないため、彼女の元まで影が伸びない。そのことが何故か寂しくて、少年は思わず少女の元まで駆け戻っていた。
驚く少女の両手を握り、目を合わせる。笑顔を浮かべ、いつもの言葉を口にする。
「また明日ね」
くしゃりと顔を歪めた少女と額を合わせ、願うように繰り返す。
「明日も一緒に遊ぼうね」
はらはらと涙を流し始めた少女に、少年は眉を下げる。その涙を拭おうと繋いでいた手を解こうとするが、少女に強く握り返され離れない。
「ごめんなさい」
か細い声で少女が呟く。何に対しての謝罪なのか、そもそもなぜ泣いているのかすら少年には分からない。
不意に少女の姿が揺らいだ。空気に解けるように、姿が薄くなっていく。
どうして、と混乱する少年に少女は泣きながらも笑ってみせる。
その瞬間に、すべて分かった気がした。
咄嗟に少女の手を離し、少年は廃墟の中へ駆け込んだ。入口に置いた懐中電灯を取り灯りを点けると、少女の方へ灯りが向くようにして電灯を床に置く。その前に立てば、ぼんやりとした影が伸びて、少女の足下に触れた。
壁もないのに影がゆっくりと起き上がる。少女の隣に並んだ影を見て少年は手を動かし、影と少女の手を重ねた
仄かな温もり。じわりと広がるように、消えかけていた少女の姿を明確にしていく。
少女は戸惑いの表情を浮かべ動けない。それに小さく笑って、少年は一つ深呼吸をすると重ねた手をそっと握った。
「――っ」
少女の姿が黒く染まる。繋いだ手から、影になっていく。
「君は、誰かが置き忘れていった影なんだね」
少年の言葉に、目を見開き俯いた。悲しげな表情が影に変わっていくのを見ながら、少年は大丈夫だというように繋いだ手を大きく揺する。
「じゃあさ、僕と一緒に行こうよ。また明日ってさよならじゃなくて、手を繋いで二人で帰ろう?」
影になった少女が何かを言いかけるように顔を上げた。しかし声は聞こえず、繋いだ手も離れないまま二人の影が地面に落ちていく。
少女の姿はない。ただ、少年の影と手を繋ぐ少女の影が伸びている。
「一緒に帰ろうね」
微笑んで、少年は懐中電灯の灯りを消した。光を失い影は消えるが、繋いでいたその手はいつまでも温もりが残っていた。
朝から雨が降っていた。
両親は今日も仕事でいない。学校帰りの少年は鍵を開けて玄関の扉を開けると、一目散に自分の部屋へと駆け込んだ。
カーテンを閉める。暗くなる部屋の隅に、ライトを置いた。
「今日は何して遊ぶ?」
点けたライトに照らされ伸びた影は、二人分。
「お絵かきがしたいな!」
するりと少女の影が抜け出して、楽しそうに笑った。
20251031 『光と影』
伽藍堂になった部屋へ足を踏み入れる。
冷たく澱んだ空気を掻き分け、中心に立つ。
何もない。すべてなくなってしまった。
ほぅ、と吐息を溢す。静かな部屋に、その微かな音がやけに大きく響いた。
ゆっくりと腰を下ろす。手にした篠笛を構え、目を閉じる。
いつかの夢を思い描き。
そして、旋律を奏でていく。
そこはかつて、たくさんの人で賑わう場所だった。
笑い声が響き、誰もが皆笑顔だった。
それが崩れていったのは外から来たという、とある少年の一言が始まりだった。
「神とは、どのような姿をされているのですか?」
目が見えぬという少年は、しかし世界の姿を知りたがった。
人の姿。物の形。空の色や移り変わりの様子まで。
悪意はない。ただ純粋に神の姿を知ろうと、少年は広間にいる人々に尋ねたのだった。
「大きな鳥の姿をされているんだよ」
ある人は言った。長く言い伝えられている神の姿は、鳥の姿をしていたからだ。
「どれくらい大きいのでしょう?」
少年はさらに尋ねた。大きいという言葉一つでは曖昧すぎて、少年の中で姿を形にすることができなかったからだ。
「とても大きいんだよ。私たちよりもずっとね」
誰かが言った。それは少年の求める答えではないことを理解していたが、それ以上に答えを誰も持ち得なかった。
伝承では大きな鳥としてしか分からず、実際に見た者は誰一人いなかったからだ。
「神様は、いつも何をしているの?」
少年とは別の、幼い声が問いかけた。
大人たちの言う神を、子供は知りたがった。
「皆を見守って下さっているんだよ」
母は言った。母もまた自身の親からそう言われて育ってきた。
「それだけ?」
子供は首を傾げる。見守るということは、自発的に何かをする訳ではない。子供からすればそう見えていた。
「恵みを与えて下さるんだよ」
苦笑しながら、父は言う。神がいて、村がある。人々が困らない程度の恵みを与えてくれると、そう言われてきた。
その日は和やかに過ぎていった。だが今となっては、その時から人々は少しずつ変わり初めていたのだろう。
しばらくして、盲目の少年は両親に連れられ、村の外へと戻っていった。目を治してもらうのだと少年は朗らかに笑い、人々は笑顔で送り出した。
そして、一年が過ぎ、少年は再びこの場所へと戻ってきた。
何も映していなかったはずの目が光を宿しているという、奇跡と共に。
「神様に、慈悲をかけて頂いたのです」
少年はやはり朗らかに笑い、初めて見る景色を心から楽しんでいた。
「外の神様は、奇跡を起こしてくれるのかい?」
誰かが聞いた。重い病で長く臥せっている子供のいる家の者だった。
「はい!神様に祈れば、慈悲を与えて下さるのです。罪深い我々をお救い下さる、唯一のお方です」
少年は笑顔で答えた。側にいた両親もまた、優しく微笑んでいた。
少年は語る。立派な聖堂。粛々と祈りを捧げる信者たち。洗礼と、目にしてきた数々の神の奇跡を。
「その聖堂とやらに行って祈るだけで、お救い下さるのかい?」
「洗礼を受ければ、怪我の痛みから解放されるのか?」
「わしらのような田舎者でも、受け入れてもらえるのだろうか?」
少年を取り囲み、口々に外の神について尋ね出す。その一つ一つに少年は頷いて、神を受け入れれば救われるのだと繰り返した。
それは、大きな変化となった。人々の意識を変え、住み慣れたはずの故郷を捨てる決意をさせた。
それほどまでに、人々にとって神の奇跡や慈悲は魅力的であった。少年の話では、神を信仰するために訪れる者たちのため、衣食住を保証しているともいう。
少年の語るすべてが、魅力的であった。住み慣れた、古くさく不便なこの地を捨てる大きな選択を、簡単にさせてしまうほどには。
そして、人々は故郷を捨てて聖堂があるという外へと出ていった。
賑やかな談笑は、もう聞こえない。質素でありながら笑顔に溢れていたはずの場所は、亡骸のように伽藍堂で寒々しい姿を晒すばかりだった。
無心で笛を吹き続ける。かつての暖かさを懐かしむように。賑やかだった人々の声の代わりとなるように。
不意に、笛の音に合わせるように太鼓の音が響いた。力強い音が部屋に広がっていく。
一呼吸遅れて、琴の音が重なった。笙や琵琶がそれに続く。
笛の音を止めず視線を巡らせる。思い思いの場所で音を奏でる仲間たちの姿に目を細めた。
彼らの家族も皆、家を出てしまったはずだ。
「奇跡なんざ、簡単に起こらないから奇跡なんだよな」
太鼓を叩く手を止めず、青年は笑う。
「私はここが好きよ。神様も好き。知らない場所で知らない神様だけを信じ続けるなんて、絶対に嫌」
琴を奏で、少女は頬を膨らませる。
「外の話は耳にすることはありますが、星辰に関わる神にあまり良い印象はありません。話を広めた少年の姿も、今ではよく思い出せないのも気にかかります」
琵琶を弾き、女性が淡々と告げる。笙を吹く男も深々と頷いた。
どん、と力強く太鼓を打ち鳴らされる。
音を止めて、彼らをただ見つめた。
「ま。つまりは、ここに残ることが正しいって訳だ。だから気にするなよ神様?」
にぃ、と口の端を持ち上げて太鼓を打ち鳴らしていた男は笑う。他の皆も笑みを浮かべて、大丈夫だと口々に告げる。
「私たち以外にも気づく者はいるでしょう。しばらくすれば、戻ってくるかもしれません」
「どんな結果になるにせよ、すべてはその人自身の選択によるもの。神様が悲しむことじゃないよ」
手を差し伸べられる。
恐る恐る両手を伸ばせば、手を取られ抱き締められる。
暖かい。すべてがなくなった訳ではないことが、ただ嬉しい。
「とはいえ、そんなに戻ってこないだろうから、今まで以上に頑張らなくっちゃ。だから神様、これからも私たちを見守っていてね?」
優しい声に、只管に頷いた。
姿が揺らぐ。笛の音の代わりに、高く啼いた。
人々は外の神に救いを求め、この場所から離れた。けれどもそれはすべてではない。この場所を愛し、戻ってきた者たちがいた。
そして、一度は何もなくなったこの場所で、今日も賑やかな談笑が響く。
奏でられる旋律は、途切れることなく続いている。
20251030 『そして、』
花を一輪渡された。
赤い色をした、小さな花。
いつものように彼の顔は不機嫌そうで。でもその頬が、微かに赤く色づいているのに気がついた。
何故だろう。その瞬間、胸が苦しくて堪らなくなった。
花を胸に抱き、何も言えずに俯く。
苦しいのに、それが嬉しい。苦しさの中に柔らかな暖かさを感じる。頬が熱を持ち、鼓動が速くなっていく。
初めての感覚だった。意味もなく泣きたくなって、どうすれば良いのか分からない。
「――お前に、似合うと思った」
不意に彼が呟いた。
胸に抱いた、花を見る。赤くて、小さくて、可愛らしいと思えるような花。
本当に似ているだろうか。俯く顔を上げて彼を見る。
彼は視線を逸らしたまま。頬や耳を赤くしたままで、言葉を続ける。
「気に入らないなら、捨ててくれ」
「捨てない」
咄嗟に言葉を返す。
こちらに視線を向けた彼と目が合って、驚いたように鼓動が跳ねた。
「捨てたりなんかしない」
胸が苦しい。口が渇いて、声が掠れる。
けれど目を逸らしたくはなかった。この気持ちをなかったことにさせたくない。
息を吸う。彼の目を見て、想いを必死に言葉にする。
「ありがとう。大切にするね」
いつもの不機嫌そうな彼の顔が、柔らかく綻んでいくのを見て、また胸が苦しくなった。
砂浜に座り、ただ寄せては返す波を見ていた。
今日も海の姿は変わらない。遠くに見える船は、きっと彼を乗せて帰っては来ていない。
胸に手を当て、小さく吐息を溢す。いつか花を貰った時のような、暖かな苦しさはもうどこにもない。
あるのはただの空しさだけだ。
海の向こうへ渡った彼から来ていたはずの手紙は、もう長い間来ていない。何度手紙を書いても返事は来ず、いつしか書くことすら止めてしまった。
そっと溜息を吐いて、立ち上がる。海に背を向け、歩き出した。
忘れてしまうのがいいのだろう。
そんなことを思いながら歩いていれば、ふと何か聞こえた気がして立ち止まる。
耳を澄ますが、聞こえるのは潮騒のみで他には何も聞こえない。
気のせいだっただろうか。首を傾げながら、ある一つの噂を思い出す。
――霧の深い日。海の上で、誰かを探している人影が見える。その人影に声をかけられてしまったら、海の底へと連れていかれてしまう。
ただの噂だ。いつもなら気にも留めない類いの怪談話だというのに、何故か気にかかる。
振り向いても、海はいつもと変わった様子はない。どこまでも広がる海には、少しも霧などかかってはいない。
胸に手を当て、前を向く。ただの噂と繰り返し、自身に言い聞かせる。
それでも心のどこかがざわついて、いつまでも落ち着くことはなかった。
朝。
呼ばれている気がして目が覚めた。
まだ外は薄暗い。耳を澄ませても、何も聞こえない。
気のせいだと思っても落ち着くことはなく、上着を羽織り外に出た。
深い霧のかかる中、衝動のままに歩いて行く。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。辺りは霧で殆ど見えず、それでも足は迷いもみせずに進んでいく。
遠くで霧笛が聞こえた。低い音が霧の中に広がり、消えていく。
踏み締める地面がアスファルトから砂に変わり、海に来たのだと気づいた。けれども足が止まる気配はない。
霧笛が聞こえる。誰かが呼んでいる。そんな気がして落ち着かない。
深い霧の立ちこめる海辺。噂が頭を過ったが、それに恐怖するよりも呼ばれていることへの焦燥が強かった。
「――」
霧笛に混じり、誰かの声が聞こえた気がした。低く静かな、聞き覚えのある声。
惹かれるように、声の元へと歩いて行く。深い霧の向こうで揺れ動く、人の影が見えた。
足が止まる。冷たい波を足下に感じて、身を震わせた。
「――」
海の上を人の影が滑っていく。誰かを探して、名を呼びながら彷徨っている。
不思議と恐怖はなかった。ただ胸が苦しくて、泣く理由もないのに涙が溢れ出す。
彷徨う影が、揺れ動きながら近づいてくる。
「――」
影が何かを言っているが、それを言葉として認識できなかった。誰かを呼んでいる。そんな気がするのに、それが誰なのかが分からない。
それがさらに苦しさを増して、声を殺して泣いていれば、近づいた影が目の前に立った。
霧の向こうにいる影はしばらく立ち尽くしていた後、ゆっくりと手をこちらに差し出してきた。
霧の向こう側から、誰かの手が突き出てくる。その手が差し出したものを見て、目を見開いた。
体が震える。胸が苦しくて、息ができない。
「お前に似合うと思った」
赤い花を差し出し、影は言う。
彼によく似た声音で、同じ手をして。
だがそれは、決して彼ではない。揺れる影は、彼の姿をしていない。
「気に入らないなら捨ててくれ」
そう言われて、咄嗟に差し出された花を手に取った。
赤い、小さな花。アネモネという名の、悲劇の花。
彼はきっと、何も知らない。
「ありがとう。大切にするわ……彼がくれた花のように」
泣きながら微笑んだ。
瞬間、強い風が吹き抜けて、思わず目を閉じる。
潮騒と霧笛、そして誰かの無邪気な笑い声が響いて過ぎていく。
「tiny love, tiny bloom――」
遠ざかる声が歌っている。
「――小さな愛、小さな花」
その歌の意味を、無意識に口遊んでいた。
「born in the spring wind. you never knew your meaning, but I do now」
「春の風に生まれた君。君はその意味を知らなかった、でも私は今、知っている」
笑い、歌う声が消えていく。遠く霧笛の音が響き、風もまた海へと過ぎていく。
そっと目を開ける。霧は晴れ、柔らかな陽射しが降り注いでいる。
誰かの姿も、船の姿も海には見えない。いつもと同じ、静かな海が広がっている。
「小さな、愛」
けれど、手には一輪の花。
あの日、彼がくれた思いが、確かにここにあった。
20251029 『tiny love』
ゆらり、ゆら。
暗闇に赤く焔が揺らめいていた。
音はない。ただ静かに、消えない焔が揺れていた。
「あれは、執着だ」
無感情に男は呟く。
伸ばしかけた少女の手を引いて、男は焔に背を向けた。
「執着?」
首を傾げ、少女は呟く。その目に熱はなく、表情にも感情の欠片すら浮かんではいない。
まるで精巧な人形のようだ。動き、言葉を紡いでいなければ、生きているとは誰一人思わないことだろう。
「執着とは、必要のないものなのですか?」
問いかける言葉に、男の足が止まる。
静かに振り返り、硝子玉のような少女の黒い目を見つめた。
「程度による。強すぎる執着は、身を滅ぼすだけだ」
少女のように表情一つ変えず、男は告げる。
執着があることで、それは生の理由の一つとなる。だが執着は時に未練となり、いつまでも先に進むことを拒んでしまう。
「どの感情でも変わらない。大切なのは感情の種類ではなく、感情の程度だ」
少女の目を見据えて男は告げると、再び少女の手を引いて歩き出す。少女はそれ以上何も言わず、ただ手を引かれるまま男に続いた。
歩き続ける二人の前で、いくつもの青い焔が灯されては消えていく。
やはり、音はない。か細い焔が、揺らぎもせずに明滅を繰り返している。
「これらは命だ」
足を止めず、男は言う。
「感情に呑まれ、身を滅ぼした者の成れの果て。こうなってしまえば、自力でこの場を動くことはできないだろう」
辺りに佇む焔を見ながら、少女は再び首を傾げた。
「彼らはずっとこのままなのですか?」
「迎えが来れば、この場を去ることも変わることもできるだろう。だが迎えがこなければ、永遠にそのままだ。感情に囚われ、縛られているからな」
少女は目を瞬いた。手を引かれるままに歩き続けながら、焔と男を見つめる。
「感情……」
その目の奥で、微かに何かが揺らいだ。刹那に見えなくなった何かは、だが少女の中で広がり染み込んでいく。
ゆっくりと変わっていく少女を一瞥しながらも、男は歩みを止めない。道なき暗闇の中を、男は迷わず進んでいく。
青い焔の数が減り、次第に何もなくなった。
暗闇。無音。黒の世界を、ただ歩いていく。
不意に、遠くで何かが煌めいた。
近づくにつれはっきりと見えてくるそれは、白い焔だった。
たったひとつ。ゆらり、ゆらと、焔が揺れる。
「――これは?」
少女は問う。だが男は何も答えない。
焔の前まで辿り着くと、男は歩みを止めた。少女の手を離し、数歩距離を取る。
少女の目は白い焔に注がれたまま。消えない焔の熱を宿したかのように、目の奥で何かが揺らめいた。
手を伸ばす。男はそれを止めることはない。
傷をつけるような暑さではない暖かな白に、そっと触れた。
「――っ!」
少女の目が見開かれる。
吸い込まれるように消えた焔が、いくつもの記憶となって少女の中を駆け巡っていく。
暖かくて優しく、けれど冷たい痛みを伴う記憶たちが、目の奥で揺らぐ何かを形にしていく。それは少女の中で広がって、滴となって溢れ出した。
「取り戻せたな」
側に寄った男に少女は縋り付く。頭を撫でられれば、少女は小さく嗚咽を漏らし始めた。
置き忘れたものが戻り、少女は虚ろな人形から必死で生きる人へと変わっていく。声を上げ泣く少女は、まるで生まれたばかりの赤子のようであった。
しばらくして落ち着いた少女が顔を上げた時、その目にははっきりと意思が宿っていた。
「ありがとう」
礼を述べる少女に、男は首を振る。
「お前が取り戻す選択をしたから戻っただけのことだ。私はそれの手伝いをしただけにすぎない」
少女の涙を拭い、男は微笑んだ。静かに少女の手を取り、元来た道を引き返していく。
気づけば辺りは暗闇ではなくなっていた。
左右に石灯籠が並ぶ石畳の境内。振り返れば、荘厳な社殿がいくつもの焔を従え佇んでいた。
石灯籠の灯りに浮かぶ境内を引き返しながら、少女はそっと男を窺い見た。凪いだ表情は、それでもどこか穏やかに見える。
そっと胸に手を当てた。感じる鼓動に、そっと吐息を溢す。
「――私の焔は、感情ではなかったのかな?」
ふと込み上げた疑問が、少女の唇から溢れ落ちた。
流れた記憶の中に、いくつもの激しい感情の動きがあったはずだ。しかし今の少女の内はとても穏やかだった。執着の焔のような熱さも、感情に呑まれた成れの果ての命のような弱々しさもない。
あの焔は何だったのか。胸に手を当てたまま考え込む少女は、答えを求めるように男を見つめた。
その視線に男は立ち止まり、振り返る。少女の目を見つめ、静かに告げた。
「あの焔も感情だ。喜び、哀しみ、慈しみ、嘆き……記憶から導かれる想いの形だ。お前はそれに呑み込まれず、受け入れた。だから穏やかでいられるのだ」
少女の手を離し、男はその小さな背を押した。
いつの間にか目の前には石造りの鳥居があり、その向こう側から微かに太鼓や笛の音が響いている。
「行っておいで……先に進むのか、それともまだ足掻くのか。選択するのはお前自身だ」
その言葉に少女は男を見つめ、そして鳥居の先を見た。
ぼんやりと浮かび上がるいくつもの提灯の灯りが、少女を待っている。そんな気がして、少女は一歩鳥居の向こうへと足を踏み出した。
「どんな選択をしても、お前のその焔は消えない。迷うことがあるなら、焔を感じろ。自ずと進む道が分かるだろう」
振り返り、少女は力強く頷いて見せる。
「ありがとう……行ってきます」
微笑んで、少女は男に背を向け歩き出す。もう振り返ることはない。
進むほどにはっきりと聞こえ出す太鼓の音に、畏れの感情が浮かぶ。だが足は止めない。止めてしまえば、先に進むことができないと理解している。
前だけを見て、只管に進む。内側で揺らぐ消えない焔を感じながら、音の聞こえる方へと進んでいく。
自身のいるべき場所に戻るために、少女の目は強い光を湛え進むべき先を見据えていた。
20251027 『消えない焔』
煌びやかな大広間。
肉や魚など、豪勢な食事が並んでいる。目の前の舞台では、鮮やかな衣を纏った踊り手たちが、軽やかな音楽に合わせて舞っている。
人々は舞台に酔い痴れ、食事に舌鼓を打つ。だれもが皆、一様に笑顔を浮かべていた。
「お気に召されませんか」
酌をして回っている女性が声をかける。
「いえ。こういった場は初めてなので、緊張してしまって……」
愛想笑いをして、本心を誤魔化した。
緊張ではない。怖れているのだ。
自分以外、きっと誰一人気づいていない。
同じ笑顔。同じ顔。まるで仮面を被っているかのようだ。
「そうでしたか。でしたらご無理をなさらず、今宵はもうお休みになられますか?」
女性の言葉に、少し悩んで頷いた。
これ以上、この異様な場にいるのは耐えられそうにない。
女性に促され、立ち上がる。誰も自分たちを気に留める人がいないのが、違和感でしかなかった。
笑い声と明るい音楽が満ちる広間を抜け出す。
一度だけ振り返った。
視線の先。軽やかに舞う踊り子たちに混じって、一人の少女が踊りながらもこちらを見ていた。
その目は他の皆とは違い、どこか困惑しているように見えたのが気になった。
部屋に案内され、一人になってようやく落ち着くことができた。
深々と溜息を吐く。敷かれていた布団に横になれば、すぐに眠気が訪れる。
考えなければならないことはたくさんあるが、異様な空気に当てられて酷く疲れてしまっていた。
明日、考えよう。そう思い目を閉じる。
微睡む意識の中、遠くで微かに笛の音が聞こえた気がした。
辿々しく、時折調子が外れる笛。同じ旋律を繰り返していることから、笛の練習をしているのだろう。
ふふ、と口元が綻んだ。広間の完璧な音楽や舞より、練習中の笛の音の方が余程良い。
ふわふわとした心地良さを感じながら、意識が沈む。
直前までの不安や怖れなど、何も感じなかった。
翌日。目覚めて身支度を整えた後、迎えに来た女性に連れられて訪れたのは、昨日よりも小さく質素な広間だった。
自分の他には、案内をしてくれた女性と、給仕をする少女のみ。促されて席に着けば女性は部屋を出て、少女と二人きりになった。
「えっと……今朝採れたものばかりですので、その……お口に合うといいのですが……」
怖ず怖ずと、少女が椀に汁物や飯をよそい手渡す。それを受け取りながらも口をつけずにいれば、少女は次第に表情を曇らせる。
「あの……お気に召さなかったでしょうか?」
戸惑うような、泣きそうな声音。次第に涙の膜が張りだした少女の目を見て、はっとして慌てて首を振る。
「ごめん。気に入らないとかではなくて……何ていうか安心?して」
昨日広間で見たような同じ顔ではないことに安心していたのだと伝えるが、少女は困惑に首を傾げている。
「それはつまり……昨夜の宴は、お気に召されなかったということでしょうか?」
「いや、そういう意味ではなくて……そうなのかもしれないけど、そうじゃなくてね……」
どう言えば伝わるのだろうか。言葉を探していれば、不意に腹が控えめに主張する。
「――あ」
よく考えれば、昨夜から何も口にしてはいないのだ。そして目の前には、美味しそうな料理が広がっている。
急に感じ始めた空腹に、もう一度腹が鳴る。頬が熱くなるのを感じながら、目の前の少女に声をかけた。
「あの……よければ、一緒に食べない?一人で食べるのは落ち着かないから」
断られることを覚悟していたが、少女の反応は予想とは違っていた。
頬を染め、戸惑うように視線を彷徨わせている。そしてこちらを見つめ、期待に目を煌めかせながらいいの、と呟いた。
「おもてなしをしなきゃなのに……一緒に食べて、いいのでしょうか?」
微笑む少女に苦笑する。はっきりと頷いて見せれば、少女はいそいそと自分の分の椀や箸を取り出した。
汁物や飯をよそい、手を合わせる。
「頂きます」
嬉しそうな少女を見ながら、同じようにいただきますと手を合わせ、箸を取る。暖かな湯気が立つ汁に口をつければ、素朴でありながら暖かな味に、ほっと息を吐いた。
「おいしい」
「よかったです!あ……その、えっと……大根は、私が切ったんです。だから……」
「うん。大根もおいしいよ」
恥ずかしげにしながらも、喜びを隠し切れない少女に微笑ましい気持ちになる。他愛もない話をしながら、和やかに朝食の時間が過ぎていった。
「おもてなしをさせてください」
朝食後、まったりとした気持ちで休んでいれば、少女は真剣な顔をしてそう告げた。
「おもてなし?」
どこかぼんやりとしながら首を傾げる。朝食の時点でもてなされた気持ちになっていたが、少女にとってはどうやら違うらしい。
「昨夜はすみませんでした。皆笑顔でいたら、楽しめるかなって思ってたんですけど、その……同じ笑顔が怖いって考えもしてなくて……大きい所は緊張するなんてことも知らなくて……」
眉を下げて少女は頭を下げる。
「おもてなしなのに、作られた面《おもて》で接するのは、とても失礼なことでした。なので、やり直しをさせてほしいのです」
何か言わなければと思うが、昨日の広間の記憶はどこか朧気で、何も言葉が出てこない。
内心で戸惑っていれば、顔を上げた少女が姿勢を正して、袖に手を入れた。
「昨日、たくさん練習したので大丈夫です」
そう言って取り出したのは、一本の笛。はにかみながら、少女は笛を構え、旋律を奏でていく。
それは昨夜聞いた曲だった。調子を外れることはなかったが、まだどこか辿々しさがある。
笑ってはいけないと思いながらも笑みが浮かぶ。次第に目が閉じていき、気を抜けば眠ってしまいそうだ。
まるで揺り籠で揺られているような感覚。気がつけば、頭が揺れ動き、体が傾いでいた。
「お疲れ様です。毎日頑張って、私たちにも手を伸ばしてくれて……本当にお疲れ様でした。ここでゆっくりと休んで、次に進んで下さいね」
少女の声が遠く聞こえる。温かな手が体を横たえ、優しく頭を撫でられる。
頭を撫でられたのは、いつぶりだろうか。こそばゆさに笑みが浮かぶ。
「あなたの優しさに救われたモノたちを代表して、心からのおもてなしをさせて下さい。精一杯尽くさせて頂きます」
再び笛が奏でられる。優しい笛の音がいくつも重なりだし、それに混じり太鼓や鈴の音が聞こえ出す。
うっすらと目を開けた。
そこにいたのは少女だけではない。何人もの獣の面をつけた者たちが、それぞれ楽器を手に旋律を奏でていた。
面のために表情は見えないものの、皆とても楽しそうだ。表も裏もない。純粋な気持ちが音から溢れていた。
心地の良い音に、穏やかな気持ちでもう一度目を閉じる。
このまま聞いていたい気もするが、少し眠ってしまおう。少女の言葉に甘えて、存分に休むのもいいかもしれない。
「お休みなさい。良い夢を」
優しい声に導かれ、夢の中へと落ちていく。
久しぶりに、楽しい夢を見られそうだった。
20251028 『おもてなし』
「ねぇ。君は、本当に〝君〟なのかな?」
鏡の中の自分が問いかける。
くすくすと笑いながら、自身の姿を示すようにくるりと回ってみせる。
「始まりの〝君〟と、今の〝君〟と……本当に同じだって言えるのかな?」
時間が巻き戻っていくように、鏡の中の自分の姿が縮んでいく。小さな赤子になり胎児になって、そのまま消えていってしまう。
「髪も、皮膚も、細胞すら、全部が入れ替わっているのに、その体は本当に君のものだと言えるの?肉体だけじゃないよ。真っ白だった君は、成長の過程で知識、経験を得て、常に他者の影響を受けてきているけど、それは果たして君自身の意思だと本当に言えるの?」
耳元で自分が囁く。鏡の向こうの、消えた自分が笑っている。
「見えているもの、聞こえているもの。君の五感で感じられるすべては、他者と同じとは限らない。君自身について考えているその思考、感情、言葉を交わそうとする意思は、必ずそこに他者が絡み、ただの模倣でないとは言い切れない……記憶、魂ですら曖昧で、君の証明にはならない」
鏡の向こうの自分が問い続ける。目を閉じ、耳を塞ぎたいのに体は硬直したまま、鏡から目を逸らせない。
目眩がした。感覚が酷く曖昧で、自分という存在がこのまま解けていきそうだ。
「ねぇ。〝君〟とは、一体誰なんだろうね?」
囁く声に何も答えられず、そっと目を伏せた。
「自分自身とは何か、か……随分と面倒な問いを抱えているな」
話を聞き終えて、彼は重苦しい溜息を吐いた。
「そもそも、なんで私にそんな話をするのか……哲学的な話は専門外だ」
そう言って立ち上がり、彼は黒板に数字と記号を書いていく。
自分には理解できない難しい数式が広がっていく様は、花開いていくようでとても美しい。
「どんな数式も紐解いていけば、必ず答えに辿り着く。だが君のそれには答えが存在しない。どの答えも正しく、誤りであるからだ」
彼の手が止まった。一つの結論を導き出して、数式が完成している。
言いたいことが分からず何も言えないでいれば、彼はこちらを振り向いてゆっくりと口を開いた。
「君は自分自身を、どのように定義している?」
「定義……?」
分からないなりに、必死で思考を巡らせる。
自分と他人と。違うものは何だろうか。何があれば、自分と胸を張って言えるのだろう。
眉が寄る。いくら考えても明確な答えのでない問いに、嘆息しながら思いついたひとつを口にする。
「名前……だと思います」
自信なく答えれば、彼は目を逸らさずはっきりと頷いた。
「そうだな。名というのは、個を明確にする最適な手段だ。名があるから区別され、正しく認識が行える」
けれども彼の表情からは、それが求めている答えではないことが察せられた。それ以外の答えを必死に考えるが、もう何も思いつかない。
「先生……まったく分かりません」
途方に暮れて項垂れた。
自分とは何なのか。考えるほど分からなくなってしまう。鏡の中の自分が言っていたように、自分は本当に自分でなのかも自信がない。
「別に頭が良い訳ではないし、運動ができる訳でもない。特別な能力とかも持っていないし……これが自分だって、自信を持って説明するものが何もないです」
彼が深く溜息を吐く。恐る恐る顔を上げれば、彼は再び黒板に向かっていた。
「最初にある数が在るとする。それはx《未知数》だ。その数は他の数との関連性から明らかにすることができる。それはつまり、他者がいなければ明らかにならないということだ。xはxのまま。だが明らかにならないとしても、その数が変わることは決してない」
確かに分からないからといって、その数が勝手に変わることはないだろう。
それは理解できたが、彼が何を言いたいのかは分からない。首を傾げていれば、こちらを一瞥した彼が再び溜息を吐いた。
「人も同じだ。他者や環境の影響、関わりによってその者の能力は露わになるが、その者自身は変わりようがない……変わらないその部分を、私はその者の本質だと考えている」
「本質……」
「君の中にもあるだろう?譲れない想い、自身の確固とした意志が」
胸に手を当てる。とくとくと緩やかに鼓動を刻む心臓の音を感じながら、考える。
自分の思い。考え。たったひとつの意志を。
すぐに浮かび上がるのは、一人の姿だった。
ふふ、と思わず笑みが浮かんだ。
「――先生」
「何だ?」
「先生です。譲れないもの。私の定義」
彼の目が呆れたように細められる。
でもこれが正しいのだ。
彼の側にいること。彼を幸せにすること。
両親の代わりに色々なことを教えて育ててくれた彼が、自分という存在の証明だった。
「ありがとうございます……今日はよく眠れそう」
「――よく分からんが、それは良かったな」
立ち上がり、礼をして教室を出る。重苦しかった足取りは、今は軽やかだ。
今夜は、はっきりと答えを述べられる。今から夜が楽しみだった。
「答えは出た?君は本当に〝君〟だと言える、絶対的な答えが」
鏡の中の自分が問う。
それを真正面から見据える。笑みを浮かべ、高らかに答えた。
「先生だよ。先生がいるから私がいる。体が変わっても、関係性が変わっても、先生の隣にいること。それだけは絶対に変わらない、私の本質だよ」
鏡の中の自分も笑う。きっと今の自分の笑顔と同じだろう。
「じゃあ、隣にいるために君ができることは何?」
自分が問う。
彼のためにできること。彼を幸せにする方法。
「そうだなぁ。先生の負担を減らせるように、家事をもっとこなせるようになるとか?料理とか、もっとレパートリーを増やしたらいいかな」
「なら、まず何をするべき?その目的のための過程をどうやって辿っていく?」
問いかけは終わらない。
彼のためではなく、自分のため。自分の本質をなくさないための、問いは尽きることがない。
笑みを浮かべ、思考を巡らせる。
自分自身から目を逸らさず、思いつく限りを言葉にしていった。
20251026 『終わらない問い』