sairo

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光が差し込んだ。
少年の表情が陰となって、少女からは見えない。

「また明日ね」

手を振る影が伸びていく。壁に当たって持ち上がり、少女の隣に並ぶ。
くすくすと笑う声。振っていた手を伸ばして、影がそっと少女の手に触れた。
少女と影と。手を繋いでいるように見えて、少女の口元が僅かに綻んだ。
それを見て、少年は笑みを浮かべる。嬉しくて、弾む声音で約束を口にした。

「明日も一緒に遊ぼうね」

その言葉に小さく、けれどもはっきりと少女は頷いた。



次の日は、朝から雨が降っていた。
しとしとと降る雨は、少しも止む気配がない。窓の外を睨みながら、少年は何度目かの愚痴を溢す。

「約束、したのに」

少女は待っているだろうか。二人だけの秘密の場所で。
そう思うと途端に落ち着かなくなる。このまま二度と遊べなくなるのではという不安が、少年を駆り立てた。
玄関には、少年用の小さな傘。水色の長靴。
家の鍵は、棚の上。両親はいつものように遅くまで帰ってくることはないのだろう。
手を握り締め、少年は強く頷いた。
長靴を履き、傘と鍵を持って、外へと迷うことなく飛び出した。



少年たちが秘密の場所と呼ぶそこは、何年も前に廃墟となった旅館の中だった。
壊れた柵を潜り抜け、鍵の壊れた裏口から中へと入る。所々雨漏りのするその場所は、晴れている昼間でも薄暗い。以前誰かが持ち込んだ懐中電灯を点け、ゆっくりと奥へ向かい歩き出す。
中はとても静かだった。雨の音以外何も聞こえない。
少女は来ていないのだろうか。安堵と、少しばかりの寂しさを感じながら、それでも実際に確かめようと足を止めることはなかった。

一番奥の客室が、少年と少女がいつも遊んでいる秘密の場所だった。
軋む戸を開けて中に入る。何の音もしない。だが暗がりを懐中電灯の光で照らせば、僅かに動く何かが光の端を掠めた。

「――あ」

そこには、俯いて座る少女がいた。慌てて近づき肩を揺すれば、ゆっくりと顔を上げた少女が眠そうに目を瞬いて少年を見る。

「あ、おはよう?」

目を擦り、呑気に挨拶をする少女に、少年は眉を下げる。
いつからいたのだろうか。しかし少年がそれを問いただす前に、少女は欠伸をしながら少年に問いかける。

「今日は何をして遊ぶの?」

無邪気に笑う少女に何も言えなくなり、少年は小さく息を吐いた。緩く首を振ると、部屋の隅に置いてある遊び道具を広げ出す。

「今日は雨が降っているから、この部屋の中だけで遊ぼうか」

途端に目を煌めかせる少女に苦笑して、少年は駒を一つ手に取った。



楽しい時間は、瞬く間に過ぎていく。
雨は止んだようではあるものの、いつものように夕陽が差す気配はない。曇る窓の外から見る空は、どんよりとして暗い影を落としていた。

「そろそろ帰らないとね」

道具をしまい、少年は言う。少女は何も言わずに俯いて、小さく頷くだけだった。
二人手を繋ぎ、懐中電灯の灯りを頼りに入口へと進んでいく。
とても静かだ。どちらも無言のまま、強く手を握り歩いて行く。
ふと、今更ながらに疑問が浮かぶ。少女はどこに住んでいるのだろうか。
少年は少女のことを、何も知らない。住んでいる場所どころか、少女の名前さえも知らなかった。

「――ねぇ」

懐中電灯を戻し、外に出ながら少年は口を開く。少女は首を傾げながら、続く言葉を待った。

「君のことが知りたい」

振り返り、少女の目を見据えながら告げる。だが少女は何も言わずに、視線を逸らして俯いた。

「ごめん。無理に聞きたい訳じゃないんだ。忘れて」

無理矢理に笑顔を作り、少年は少女の手を離す。そのまま歩き出し、いつもの場所で立ち止まり振り返る。
少女はその場から動かない。普段は気にならないことがとても気になった。
陽がないため、彼女の元まで影が伸びない。そのことが何故か寂しくて、少年は思わず少女の元まで駆け戻っていた。
驚く少女の両手を握り、目を合わせる。笑顔を浮かべ、いつもの言葉を口にする。

「また明日ね」

くしゃりと顔を歪めた少女と額を合わせ、願うように繰り返す。

「明日も一緒に遊ぼうね」

はらはらと涙を流し始めた少女に、少年は眉を下げる。その涙を拭おうと繋いでいた手を解こうとするが、少女に強く握り返され離れない。

「ごめんなさい」

か細い声で少女が呟く。何に対しての謝罪なのか、そもそもなぜ泣いているのかすら少年には分からない。
不意に少女の姿が揺らいだ。空気に解けるように、姿が薄くなっていく。
どうして、と混乱する少年に少女は泣きながらも笑ってみせる。

その瞬間に、すべて分かった気がした。
咄嗟に少女の手を離し、少年は廃墟の中へ駆け込んだ。入口に置いた懐中電灯を取り灯りを点けると、少女の方へ灯りが向くようにして電灯を床に置く。その前に立てば、ぼんやりとした影が伸びて、少女の足下に触れた。
壁もないのに影がゆっくりと起き上がる。少女の隣に並んだ影を見て少年は手を動かし、影と少女の手を重ねた
仄かな温もり。じわりと広がるように、消えかけていた少女の姿を明確にしていく。
少女は戸惑いの表情を浮かべ動けない。それに小さく笑って、少年は一つ深呼吸をすると重ねた手をそっと握った。

「――っ」

少女の姿が黒く染まる。繋いだ手から、影になっていく。

「君は、誰かが置き忘れていった影なんだね」

少年の言葉に、目を見開き俯いた。悲しげな表情が影に変わっていくのを見ながら、少年は大丈夫だというように繋いだ手を大きく揺する。

「じゃあさ、僕と一緒に行こうよ。また明日ってさよならじゃなくて、手を繋いで二人で帰ろう?」

影になった少女が何かを言いかけるように顔を上げた。しかし声は聞こえず、繋いだ手も離れないまま二人の影が地面に落ちていく。
少女の姿はない。ただ、少年の影と手を繋ぐ少女の影が伸びている。

「一緒に帰ろうね」

微笑んで、少年は懐中電灯の灯りを消した。光を失い影は消えるが、繋いでいたその手はいつまでも温もりが残っていた。



朝から雨が降っていた。
両親は今日も仕事でいない。学校帰りの少年は鍵を開けて玄関の扉を開けると、一目散に自分の部屋へと駆け込んだ。
カーテンを閉める。暗くなる部屋の隅に、ライトを置いた。

「今日は何して遊ぶ?」

点けたライトに照らされ伸びた影は、二人分。

「お絵かきがしたいな!」

するりと少女の影が抜け出して、楽しそうに笑った。



20251031 『光と影』

11/2/2025, 8:56:52 AM