sairo

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伽藍堂になった部屋へ足を踏み入れる。
冷たく澱んだ空気を掻き分け、中心に立つ。
何もない。すべてなくなってしまった。
ほぅ、と吐息を溢す。静かな部屋に、その微かな音がやけに大きく響いた。
ゆっくりと腰を下ろす。手にした篠笛を構え、目を閉じる。
いつかの夢を思い描き。

そして、旋律を奏でていく。



そこはかつて、たくさんの人で賑わう場所だった。
笑い声が響き、誰もが皆笑顔だった。

それが崩れていったのは外から来たという、とある少年の一言が始まりだった。

「神とは、どのような姿をされているのですか?」

目が見えぬという少年は、しかし世界の姿を知りたがった。
人の姿。物の形。空の色や移り変わりの様子まで。
悪意はない。ただ純粋に神の姿を知ろうと、少年は広間にいる人々に尋ねたのだった。

「大きな鳥の姿をされているんだよ」

ある人は言った。長く言い伝えられている神の姿は、鳥の姿をしていたからだ。

「どれくらい大きいのでしょう?」

少年はさらに尋ねた。大きいという言葉一つでは曖昧すぎて、少年の中で姿を形にすることができなかったからだ。

「とても大きいんだよ。私たちよりもずっとね」

誰かが言った。それは少年の求める答えではないことを理解していたが、それ以上に答えを誰も持ち得なかった。
伝承では大きな鳥としてしか分からず、実際に見た者は誰一人いなかったからだ。

「神様は、いつも何をしているの?」

少年とは別の、幼い声が問いかけた。
大人たちの言う神を、子供は知りたがった。

「皆を見守って下さっているんだよ」

母は言った。母もまた自身の親からそう言われて育ってきた。

「それだけ?」

子供は首を傾げる。見守るということは、自発的に何かをする訳ではない。子供からすればそう見えていた。

「恵みを与えて下さるんだよ」

苦笑しながら、父は言う。神がいて、村がある。人々が困らない程度の恵みを与えてくれると、そう言われてきた。

その日は和やかに過ぎていった。だが今となっては、その時から人々は少しずつ変わり初めていたのだろう。



しばらくして、盲目の少年は両親に連れられ、村の外へと戻っていった。目を治してもらうのだと少年は朗らかに笑い、人々は笑顔で送り出した。

そして、一年が過ぎ、少年は再びこの場所へと戻ってきた。
何も映していなかったはずの目が光を宿しているという、奇跡と共に。

「神様に、慈悲をかけて頂いたのです」

少年はやはり朗らかに笑い、初めて見る景色を心から楽しんでいた。

「外の神様は、奇跡を起こしてくれるのかい?」

誰かが聞いた。重い病で長く臥せっている子供のいる家の者だった。

「はい!神様に祈れば、慈悲を与えて下さるのです。罪深い我々をお救い下さる、唯一のお方です」

少年は笑顔で答えた。側にいた両親もまた、優しく微笑んでいた。
少年は語る。立派な聖堂。粛々と祈りを捧げる信者たち。洗礼と、目にしてきた数々の神の奇跡を。

「その聖堂とやらに行って祈るだけで、お救い下さるのかい?」
「洗礼を受ければ、怪我の痛みから解放されるのか?」
「わしらのような田舎者でも、受け入れてもらえるのだろうか?」

少年を取り囲み、口々に外の神について尋ね出す。その一つ一つに少年は頷いて、神を受け入れれば救われるのだと繰り返した。

それは、大きな変化となった。人々の意識を変え、住み慣れたはずの故郷を捨てる決意をさせた。
それほどまでに、人々にとって神の奇跡や慈悲は魅力的であった。少年の話では、神を信仰するために訪れる者たちのため、衣食住を保証しているともいう。
少年の語るすべてが、魅力的であった。住み慣れた、古くさく不便なこの地を捨てる大きな選択を、簡単にさせてしまうほどには。

そして、人々は故郷を捨てて聖堂があるという外へと出ていった。
賑やかな談笑は、もう聞こえない。質素でありながら笑顔に溢れていたはずの場所は、亡骸のように伽藍堂で寒々しい姿を晒すばかりだった。



無心で笛を吹き続ける。かつての暖かさを懐かしむように。賑やかだった人々の声の代わりとなるように。

不意に、笛の音に合わせるように太鼓の音が響いた。力強い音が部屋に広がっていく。
一呼吸遅れて、琴の音が重なった。笙や琵琶がそれに続く。
笛の音を止めず視線を巡らせる。思い思いの場所で音を奏でる仲間たちの姿に目を細めた。
彼らの家族も皆、家を出てしまったはずだ。

「奇跡なんざ、簡単に起こらないから奇跡なんだよな」

太鼓を叩く手を止めず、青年は笑う。

「私はここが好きよ。神様も好き。知らない場所で知らない神様だけを信じ続けるなんて、絶対に嫌」

琴を奏で、少女は頬を膨らませる。

「外の話は耳にすることはありますが、星辰に関わる神にあまり良い印象はありません。話を広めた少年の姿も、今ではよく思い出せないのも気にかかります」

琵琶を弾き、女性が淡々と告げる。笙を吹く男も深々と頷いた。
どん、と力強く太鼓を打ち鳴らされる。
音を止めて、彼らをただ見つめた。

「ま。つまりは、ここに残ることが正しいって訳だ。だから気にするなよ神様?」

にぃ、と口の端を持ち上げて太鼓を打ち鳴らしていた男は笑う。他の皆も笑みを浮かべて、大丈夫だと口々に告げる。

「私たち以外にも気づく者はいるでしょう。しばらくすれば、戻ってくるかもしれません」
「どんな結果になるにせよ、すべてはその人自身の選択によるもの。神様が悲しむことじゃないよ」

手を差し伸べられる。
恐る恐る両手を伸ばせば、手を取られ抱き締められる。
暖かい。すべてがなくなった訳ではないことが、ただ嬉しい。

「とはいえ、そんなに戻ってこないだろうから、今まで以上に頑張らなくっちゃ。だから神様、これからも私たちを見守っていてね?」

優しい声に、只管に頷いた。
姿が揺らぐ。笛の音の代わりに、高く啼いた。

人々は外の神に救いを求め、この場所から離れた。けれどもそれはすべてではない。この場所を愛し、戻ってきた者たちがいた。

そして、一度は何もなくなったこの場所で、今日も賑やかな談笑が響く。
奏でられる旋律は、途切れることなく続いている。



20251030 『そして、』

10/31/2025, 10:41:40 AM