sairo

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花を一輪渡された。
赤い色をした、小さな花。
いつものように彼の顔は不機嫌そうで。でもその頬が、微かに赤く色づいているのに気がついた。
何故だろう。その瞬間、胸が苦しくて堪らなくなった。
花を胸に抱き、何も言えずに俯く。
苦しいのに、それが嬉しい。苦しさの中に柔らかな暖かさを感じる。頬が熱を持ち、鼓動が速くなっていく。
初めての感覚だった。意味もなく泣きたくなって、どうすれば良いのか分からない。

「――お前に、似合うと思った」

不意に彼が呟いた。
胸に抱いた、花を見る。赤くて、小さくて、可愛らしいと思えるような花。
本当に似ているだろうか。俯く顔を上げて彼を見る。
彼は視線を逸らしたまま。頬や耳を赤くしたままで、言葉を続ける。

「気に入らないなら、捨ててくれ」
「捨てない」

咄嗟に言葉を返す。
こちらに視線を向けた彼と目が合って、驚いたように鼓動が跳ねた。

「捨てたりなんかしない」

胸が苦しい。口が渇いて、声が掠れる。
けれど目を逸らしたくはなかった。この気持ちをなかったことにさせたくない。
息を吸う。彼の目を見て、想いを必死に言葉にする。

「ありがとう。大切にするね」

いつもの不機嫌そうな彼の顔が、柔らかく綻んでいくのを見て、また胸が苦しくなった。





砂浜に座り、ただ寄せては返す波を見ていた。
今日も海の姿は変わらない。遠くに見える船は、きっと彼を乗せて帰っては来ていない。
胸に手を当て、小さく吐息を溢す。いつか花を貰った時のような、暖かな苦しさはもうどこにもない。
あるのはただの空しさだけだ。
海の向こうへ渡った彼から来ていたはずの手紙は、もう長い間来ていない。何度手紙を書いても返事は来ず、いつしか書くことすら止めてしまった。
そっと溜息を吐いて、立ち上がる。海に背を向け、歩き出した。
忘れてしまうのがいいのだろう。
そんなことを思いながら歩いていれば、ふと何か聞こえた気がして立ち止まる。
耳を澄ますが、聞こえるのは潮騒のみで他には何も聞こえない。
気のせいだっただろうか。首を傾げながら、ある一つの噂を思い出す。

――霧の深い日。海の上で、誰かを探している人影が見える。その人影に声をかけられてしまったら、海の底へと連れていかれてしまう。

ただの噂だ。いつもなら気にも留めない類いの怪談話だというのに、何故か気にかかる。
振り向いても、海はいつもと変わった様子はない。どこまでも広がる海には、少しも霧などかかってはいない。
胸に手を当て、前を向く。ただの噂と繰り返し、自身に言い聞かせる。
それでも心のどこかがざわついて、いつまでも落ち着くことはなかった。



朝。
呼ばれている気がして目が覚めた。
まだ外は薄暗い。耳を澄ませても、何も聞こえない。
気のせいだと思っても落ち着くことはなく、上着を羽織り外に出た。

深い霧のかかる中、衝動のままに歩いて行く。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。辺りは霧で殆ど見えず、それでも足は迷いもみせずに進んでいく。
遠くで霧笛が聞こえた。低い音が霧の中に広がり、消えていく。
踏み締める地面がアスファルトから砂に変わり、海に来たのだと気づいた。けれども足が止まる気配はない。
霧笛が聞こえる。誰かが呼んでいる。そんな気がして落ち着かない。
深い霧の立ちこめる海辺。噂が頭を過ったが、それに恐怖するよりも呼ばれていることへの焦燥が強かった。

「――」

霧笛に混じり、誰かの声が聞こえた気がした。低く静かな、聞き覚えのある声。
惹かれるように、声の元へと歩いて行く。深い霧の向こうで揺れ動く、人の影が見えた。
足が止まる。冷たい波を足下に感じて、身を震わせた。

「――」

海の上を人の影が滑っていく。誰かを探して、名を呼びながら彷徨っている。
不思議と恐怖はなかった。ただ胸が苦しくて、泣く理由もないのに涙が溢れ出す。
彷徨う影が、揺れ動きながら近づいてくる。     

「――」

影が何かを言っているが、それを言葉として認識できなかった。誰かを呼んでいる。そんな気がするのに、それが誰なのかが分からない。
それがさらに苦しさを増して、声を殺して泣いていれば、近づいた影が目の前に立った。
霧の向こうにいる影はしばらく立ち尽くしていた後、ゆっくりと手をこちらに差し出してきた。
霧の向こう側から、誰かの手が突き出てくる。その手が差し出したものを見て、目を見開いた。
体が震える。胸が苦しくて、息ができない。

「お前に似合うと思った」

赤い花を差し出し、影は言う。
彼によく似た声音で、同じ手をして。
だがそれは、決して彼ではない。揺れる影は、彼の姿をしていない。

「気に入らないなら捨ててくれ」

そう言われて、咄嗟に差し出された花を手に取った。
赤い、小さな花。アネモネという名の、悲劇の花。
彼はきっと、何も知らない。

「ありがとう。大切にするわ……彼がくれた花のように」

泣きながら微笑んだ。
瞬間、強い風が吹き抜けて、思わず目を閉じる。
潮騒と霧笛、そして誰かの無邪気な笑い声が響いて過ぎていく。

「tiny love, tiny bloom――」

遠ざかる声が歌っている。

「――小さな愛、小さな花」

その歌の意味を、無意識に口遊んでいた。

「born in the spring wind. you never knew your meaning, but I do now」
「春の風に生まれた君。君はその意味を知らなかった、でも私は今、知っている」

笑い、歌う声が消えていく。遠く霧笛の音が響き、風もまた海へと過ぎていく。
そっと目を開ける。霧は晴れ、柔らかな陽射しが降り注いでいる。
誰かの姿も、船の姿も海には見えない。いつもと同じ、静かな海が広がっている。

「小さな、愛」

けれど、手には一輪の花。
あの日、彼がくれた思いが、確かにここにあった。



20251029 『tiny love』

10/30/2025, 10:04:40 AM