「ねぇ。君は、本当に〝君〟なのかな?」
鏡の中の自分が問いかける。
くすくすと笑いながら、自身の姿を示すようにくるりと回ってみせる。
「始まりの〝君〟と、今の〝君〟と……本当に同じだって言えるのかな?」
時間が巻き戻っていくように、鏡の中の自分の姿が縮んでいく。小さな赤子になり胎児になって、そのまま消えていってしまう。
「髪も、皮膚も、細胞すら、全部が入れ替わっているのに、その体は本当に君のものだと言えるの?肉体だけじゃないよ。真っ白だった君は、成長の過程で知識、経験を得て、常に他者の影響を受けてきているけど、それは果たして君自身の意思だと本当に言えるの?」
耳元で自分が囁く。鏡の向こうの、消えた自分が笑っている。
「見えているもの、聞こえているもの。君の五感で感じられるすべては、他者と同じとは限らない。君自身について考えているその思考、感情、言葉を交わそうとする意思は、必ずそこに他者が絡み、ただの模倣でないとは言い切れない……記憶、魂ですら曖昧で、君の証明にはならない」
鏡の向こうの自分が問い続ける。目を閉じ、耳を塞ぎたいのに体は硬直したまま、鏡から目を逸らせない。
目眩がした。感覚が酷く曖昧で、自分という存在がこのまま解けていきそうだ。
「ねぇ。〝君〟とは、一体誰なんだろうね?」
囁く声に何も答えられず、そっと目を伏せた。
「自分自身とは何か、か……随分と面倒な問いを抱えているな」
話を聞き終えて、彼は重苦しい溜息を吐いた。
「そもそも、なんで私にそんな話をするのか……哲学的な話は専門外だ」
そう言って立ち上がり、彼は黒板に数字と記号を書いていく。
自分には理解できない難しい数式が広がっていく様は、花開いていくようでとても美しい。
「どんな数式も紐解いていけば、必ず答えに辿り着く。だが君のそれには答えが存在しない。どの答えも正しく、誤りであるからだ」
彼の手が止まった。一つの結論を導き出して、数式が完成している。
言いたいことが分からず何も言えないでいれば、彼はこちらを振り向いてゆっくりと口を開いた。
「君は自分自身を、どのように定義している?」
「定義……?」
分からないなりに、必死で思考を巡らせる。
自分と他人と。違うものは何だろうか。何があれば、自分と胸を張って言えるのだろう。
眉が寄る。いくら考えても明確な答えのでない問いに、嘆息しながら思いついたひとつを口にする。
「名前……だと思います」
自信なく答えれば、彼は目を逸らさずはっきりと頷いた。
「そうだな。名というのは、個を明確にする最適な手段だ。名があるから区別され、正しく認識が行える」
けれども彼の表情からは、それが求めている答えではないことが察せられた。それ以外の答えを必死に考えるが、もう何も思いつかない。
「先生……まったく分かりません」
途方に暮れて項垂れた。
自分とは何なのか。考えるほど分からなくなってしまう。鏡の中の自分が言っていたように、自分は本当に自分でなのかも自信がない。
「別に頭が良い訳ではないし、運動ができる訳でもない。特別な能力とかも持っていないし……これが自分だって、自信を持って説明するものが何もないです」
彼が深く溜息を吐く。恐る恐る顔を上げれば、彼は再び黒板に向かっていた。
「最初にある数が在るとする。それはx《未知数》だ。その数は他の数との関連性から明らかにすることができる。それはつまり、他者がいなければ明らかにならないということだ。xはxのまま。だが明らかにならないとしても、その数が変わることは決してない」
確かに分からないからといって、その数が勝手に変わることはないだろう。
それは理解できたが、彼が何を言いたいのかは分からない。首を傾げていれば、こちらを一瞥した彼が再び溜息を吐いた。
「人も同じだ。他者や環境の影響、関わりによってその者の能力は露わになるが、その者自身は変わりようがない……変わらないその部分を、私はその者の本質だと考えている」
「本質……」
「君の中にもあるだろう?譲れない想い、自身の確固とした意志が」
胸に手を当てる。とくとくと緩やかに鼓動を刻む心臓の音を感じながら、考える。
自分の思い。考え。たったひとつの意志を。
すぐに浮かび上がるのは、一人の姿だった。
ふふ、と思わず笑みが浮かんだ。
「――先生」
「何だ?」
「先生です。譲れないもの。私の定義」
彼の目が呆れたように細められる。
でもこれが正しいのだ。
彼の側にいること。彼を幸せにすること。
両親の代わりに色々なことを教えて育ててくれた彼が、自分という存在の証明だった。
「ありがとうございます……今日はよく眠れそう」
「――よく分からんが、それは良かったな」
立ち上がり、礼をして教室を出る。重苦しかった足取りは、今は軽やかだ。
今夜は、はっきりと答えを述べられる。今から夜が楽しみだった。
「答えは出た?君は本当に〝君〟だと言える、絶対的な答えが」
鏡の中の自分が問う。
それを真正面から見据える。笑みを浮かべ、高らかに答えた。
「先生だよ。先生がいるから私がいる。体が変わっても、関係性が変わっても、先生の隣にいること。それだけは絶対に変わらない、私の本質だよ」
鏡の中の自分も笑う。きっと今の自分の笑顔と同じだろう。
「じゃあ、隣にいるために君ができることは何?」
自分が問う。
彼のためにできること。彼を幸せにする方法。
「そうだなぁ。先生の負担を減らせるように、家事をもっとこなせるようになるとか?料理とか、もっとレパートリーを増やしたらいいかな」
「なら、まず何をするべき?その目的のための過程をどうやって辿っていく?」
問いかけは終わらない。
彼のためではなく、自分のため。自分の本質をなくさないための、問いは尽きることがない。
笑みを浮かべ、思考を巡らせる。
自分自身から目を逸らさず、思いつく限りを言葉にしていった。
20251026 『終わらない問い』
10/28/2025, 6:50:59 AM