sairo

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10/26/2025, 2:39:20 PM

赤や黄色に色づいた葉に紛れ、空から白い何かが舞い降りてきた。
手を伸ばし、風と踊るそれを掴み取る。見ればそれは、小さな白い羽根だった。
辺りを見渡しても、この羽根の主は見当たらない。
落ち葉よりよほど軽い羽根。陽に翳しながら見つめていれば、突然駆け抜けた一陣の風に乗り、羽根は空高く舞い上がった。

「――あぁ」

不意に込み上げる感情に、思わず胸に手を当てた。悲しくなどないはずなのに、涙が流れ落ちる。
空を見上げても、あの羽根はもうどこにも見えない。

行かなければいけない。
漠然とした思いに突き動かされ、足は自然と動き出していた。

羽根を追いかけ、風に背を押され、只管に歩いていく。
何処へ向かうのか、何故向かうのか。何一つ分からないままに、それでも足は止まることはない。
視界が悪いのは、涙が止まらないからだ。そのせいで自分が今、どこを歩いているのかも分からない。
涙を拭う。僅かに輪郭を取り戻した世界は、けれどもすぐに滲んでしまう。
涙が止まらない。何故泣いているのかも分からないのだから、止めようがない。
諦めて、もう一度涙を拭おうとした手を下ろす。幸い向かう先は、滲む視界でも分かるほど平坦な道だ。段差や障害物などは全くない。
足は止まらない。風が強く背を押した。きっと向かう先に答えはあるのだろう。
そう思い、ただ前だけを見て歩き続けた。



しばらく歩き、辿り着いたのは寂れた神社の裏手だった。
背を押していた風が止まり、足もまた止まる。
目の前には小さな社。ぼんやりと滲んで揺れている。

ばさり、と。
上から音がした。
見上げれば、大きな白い何かがいた。滲む視界で、白い塊が木々の合間に佇んでいる。
鳥だ。何故かそう思った。
大きな白い鳥が翼を折りたたみ、木の上からこちらを見下ろしている。ずっとこの寂しい場所で、一羽で待っていたのだ。
途端に胸が苦しくなった。息が詰まり、嗚咽が溢れ出す。
何も分からない。分からないのに知っている。その矛盾に目眩を覚えながら、そっと鳥に向けて手を広げた。
ただ抱き締めたい。理由の分からない想いが、鳥《彼女》に触れたいと願っていた。

ばさり、と。
翼を広げて、彼女は静かに社の前に降り立った。
待ってくれている。そう思った瞬間、足は彼女に向けて駆け出していた。
涙を拭いながら、彼女の胸の中に飛び込む。強くしがみつけば、しっかりと抱き返してくれるそれは人の腕だ。

「しばらく会わない内に、随分と泣き虫になったんだね」

静かで優しい声音。微笑む彼女の姿が溢れる涙で滲み、白の鳥に成り代わる。
何か言わなければ。気持ちは焦るが、口から溢れるのは嗚咽のみ。何度もしゃくり上げながら、震える唇と喉を必死で動かした。

「――ただいま」

間の抜けた声に、それでも彼女は笑う。

「うん。おかえり……この言葉が正しいかどうかは分からないけどね」

そう言って、彼女は止まらない涙を拭ってくれた。



泣き疲れた体を横たえ、彼女の膝を枕に赤く染まり出す空を見上げていた。
風が赤や黄色の葉を舞い上げる。ひらりひらりと揺れ、舞い落ちる葉に混じり、白の羽根が落ちてくる。
ふわり、ひらりと羽根が揺れる。無数の羽根が体に降り注ぎ、白に沈めていく。
この羽根は彼女のものだろうか。それとも自分の羽根だったのだろうか。
ぼんやりとする意識で考える。

「帰りたい?」

頭を撫でる手を止めず、彼女は静かに問いかける。
遠い空を見つめ、そして彼女を見る。目を細め、ゆるりと首を振った。

「別に。歩くことには慣れたし、もう飛び方も忘れてしまった」

自由に空を飛んでいた頃の記憶は霞み、涙で滲んでいた世界よりも朧気だ。翼があった所で、二度と飛ぶことはできないのだろう。
羽根が静かに降り積もっていく。仄かな暖かさを感じながら、目を閉じた。

「私は一人でも歩けるよ。だから私のことは置いていっても大丈夫」

精一杯の強がり。ただの意地でしかないけれど、飛べない自分はもう彼女と一緒にはいられない。

「会いに来てくれて、嬉しかった。ありがとう」
「――馬鹿だね」

さよなら、と別れの言葉が音になる前に、彼女は呆れたように呟いた。
目を開けて、彼女を見つめる。こちらを見下ろす彼女の目が、星のように煌めいた気がした。

「素直でないのは相変わらずだけど、一人で完結する癖くらいは直して欲しかった」

彼女の手が視界を塞ぐ。暗闇の中、彼女の声だけが頭の中に響く。

「この場所でずっと待っていた意味を考えて欲しいのだけれど。こうして抜いた羽根で飾り立てている意味もね」

ただ降り積もっているのではなく、飾り立てている。意味が分からず身動げば、体に纏わり付いた羽根が揺れるのを感じた。
ますます困惑する自分に、彼女は静かに告げる。

「黄昏に、境界を訪れることの意味……気づいた所で、もう手遅れなんだけどね」

視界を覆う彼女の手が離れていく。眩しさに目を細めながら見上げた空は、先ほどと変わらない茜色。
気づけば風は止まり、陽は凍り付いたように動かない。
切り取られた時間と空間の中に、彼女と自分だけが存在していた。

「千切られた羽根の変わりならいくらでもあげる。飛び方を忘れたというなら寄り添って飛ぶことだってできる……ここまで言えば分かるよね?」

人として生きることを許さない。そういうことなのだろう。
視界の端で羽根が揺れる。
忘れていた記憶を彼女の言葉が、目が突きつける。

それらから逃げるように目を伏せて、小さく頷いた。



20251025 『揺れる羽根』

10/26/2025, 6:34:56 AM

――この箱を開ければ、すべてが変わる。

そう言われて渡された、小さな木でできた箱。
何が変わるのか、何の説明もなく押しつけられた箱を手に、小さく息を吐いた。
開ければというものの、何か仕掛けがあるのか箱が開く様子はない。そもそも、箱を渡してきたのが誰なのかもよく分からなかった。
箱を振れば、からからと音がする。中に何かが入っているのは確かなようだ。

すべてが変わるという、小さな箱。
箱を開けるべきか否かを、ずっと悩んでいた。



「開けないの?」

箱の中から声がした。
幼いような、年老いたような、男か女かすらも分からないような声。頭の中に直接響くそれに、眉が寄る。
不思議と怖いとは思わなかった。その代わりに得体の知れない不快感が声と混じり、体中に広がっていく。

「開けないの?」

声が笑う。開けることができない臆病さを嗤われるが、それでも指は机の上の箱にかからない。

くすくす。けらけら。
不快感が込み上げて、立ち上がり箱に背を向けた。

「開けてしまえば楽になれるのに」

耳元で囁かれる誘惑。それを振り切り部屋を出る。
やや乱暴に扉を閉めれば、嗤い声も囁きも途端に聞こえなくなり、そっと安堵の息を吐いた。

そのまま外に出れば、冷たい空気が思考を冷静にさせていく。深く息を吸い込んで内に澱む不快感ごと吐き出せば、箱の中身に対する疑問だけが残った。

何故、箱の中から声が聞こえるのか。
声は何を知っているのか。
箱の中には何が入っているのか。
すべてが変わるとはどういう意味なのか。
どうすれば、箱を開くことができるのか。


そこまで考えて、いつの間にか箱を開けようという思考に成り代わっていることに気づく。
気づいて怖ろしくなった。このままでは自分の意思とは無関係に箱を開けてしまいかねない。
心細さに視線を彷徨わせる。
だが不安を宥めてくれるような誰かも、何かでさえも見つけられはしなかった。



「すみません。ちょっといいですか」

ふらふらと当てもなく歩いていれば、不意に声をかけられた。
視線を向ける。この辺りでは見かけない制服を着た少女と目が合い、会釈した。

「その子、返して頂いてもよろしいでしょうか。好奇心が旺盛なので、良く脱走して困っていたんです」

心当たりのなさに眉を寄せながら、少女の指先を追って視線を下げていく。

「――あ」

いつの間にかズボンの右ポケットが膨れていた。
そっとポケットに手を差し入れる。四角い何かが指に触れ、嫌な予感を感じながらゆっくりとそれを取り出していく。

「開けないの?」

家の中に置いてきたはずの箱が、けらけらと嗤っていた。


「開けないの?」
「止めなさい。困っているでしょうが」

静かな少女の声に、嗤う声が止まる。
硬直する自分の手の中から箱を取り上げ、彼女は疲れたように息を吐いた。
箱に何かの札を貼り、鞄の中に無造作にしまわれる。

「ごめんなさい。管理はしているんですが、ちょっと今ごたごたしてて……色々逃げ出してしまったんです」

全く理解できていない自分に、少女は丁寧に頭を下げる。
それに幾分か落ち着きを取り戻してきた思考が、疑問を口にさせていた。

「あの箱は……何なのですか?中には一体何が入っているのでしょうか?」

頭を上げた少女は眉を下げ、苦笑を顔に浮かべて答えた。

「秘密の箱、です。好奇心旺盛で隠されているものが好きなので、誰かの秘密を中に閉じ込めてしまうんです」

鞄越しに箱を撫で、彼女は深々と溜息を吐く。
随分と疲れている様子だ。これ以上引き留めるのは申し訳ないと思いながらも、さらに問いかける。

「箱を開けるとすべてが変わると言われて、箱を手渡されました。それに箱を開けないのかと何度も囁かれて……箱を開けていたら、どうなっていたのですか?」
「中身が出てくるだけです」

少女は肩を竦めて言う。

「中に閉じ込めた秘密に飽きてしまったのでしょう。だからあなたに箱を開けさせて、いらなくなった秘密を出して、代わりにあなたの秘密を閉じ込めようとした……誰かの秘密があなたの秘密になり、あなたの秘密は箱の秘密になる。そして飽きたらまた、別の誰かの秘密と入れ替えようとするのです」

だから開けたらすべてが変わるのか。
納得して、怖ろしくなった。知らない誰かの秘密が自分の秘密になる。それがどんな秘密であれ、他者の秘密が自分の秘密に成り代わるのは、恐怖でしかなかった。

「いくらからくり箱で簡単には開けられないとはいえ、興味を引かれて開けてしまう人はいるんです。現にあなたに会う前に、誰かの秘密を取り込んでいるみたいですし。それにこの子は特に、誰にも言えないような深い秘密を好むので……開けなくて本当によかったですね」

そう言って少女はもう一度深く頭を下げると、そのまま去っていく。
何も言えずにその背を見送り、姿が見えなくなってから力尽きたようにその場に座り込む。

「開けなくて良かった」

胸に手を当て、深く息を吐く。
心臓が痛い。恐怖と安堵で、頭がくらくらする。
しばらく座り込み落ち着くのを待ってから、ゆっくりと立ち上がる。覚束ない足取りで家路に就いた。

早く帰ろう。その思いが足を速める。
誰にも言えない、手放すことのできない秘密が待つ家へ。
帰りたくて堪らなかった。



20251024 『秘密の箱』

10/25/2025, 9:51:44 AM

気づけば誰もいない砂浜で一人、座って空を見上げていた。
周囲には誰もいない。一人きりだ。
辺りを探索しなくとも、この狭い島には他の人はいないことを理解していた。
目を閉じる。寄せては返す波の音を聞きながら、記憶を手繰り寄せる。
無邪気なあの子の笑顔に、頭が痛くなるのを感じた。

――働き過ぎは体に良くないんだって!

テレビで得たばかりの知識を、得意げに披露していた彼女。次の瞬間に訪れた、抗えない微睡み。
ここは夢の中なのだろう。無人島にいる夢。

彼女のズレた優しさに、目眩がしそうだった。

「休憩するには波の音とかが良いんだって!ヒーリング曲?とか言ってた」

不意に隣から聞こえた声に、出かかる溜息を呑み込んだ。
視線を向ける。褒めてと言わんばかりに輝く笑顔を見てしまい、何も言えなくなってしまった。

「なんで、無人島?」

代わりに口をついて出たのは、純粋な疑問。彼女はその問いに、胸を張って答えた。

「テレビでやってたから!無人島でサバイバル体験!」

ある程度予測できてはいた答えに、乾いた笑いしかでなかった。



「テレビで見たからね。ちゃんと無人島に行くなら、何が必要かは分かってるよ。用意もしてあるの」

いつの間にか背負っていたリュックを砂浜に置き、彼女は笑う。
チャックを開けて、一つ一つ中身を取り出して見せた。

「えっとね。まずは水でしょ?それから食料と……ナイフと、ロープと……」

次々と取り出される物品が、砂浜を埋めていく。思わず口元が引き攣るが、彼女はまったく気づく様子はない。

「それからね、おやつとお弁当と……」
「待って!?」

段々と可笑しくなる荷物の数々に、咄嗟に待ったをかける。
そこまで行くとサバイバルではなく、ただのピクニックだ。けれど彼女は何故止められたのかを理解できず、ただ首を傾げて目を瞬いた。

「ちゃんとチョコレートもおせんべいもあるよ?お弁当には卵焼きも入れてあるし」
「いや、そうではなくて」

心底不思議そうな彼女に、どうしたものかと視線を彷徨わせる。純粋にこちらを心配しての行動だけに、頭ごなしに否定するのは気が引けた。

「必要なのは、全部用意できていると思うんだけどな」

広げた荷物を見回して、彼女は不思議そうに呟く。
思いつかないのか、その表情は次第に険しくなっていく。
眉を寄せ、立ち上がる。その姿が不意に揺らいで、咄嗟にその手を取って引き留めた。

「待って!どこ行こうとしてんの!?」
「え?足りないものを探しに行くだけだよ。だからちょっと待ってて」

彼女の姿がさらに揺らぐ。
何も理解していない彼女に頭が痛くなるのを感じながら、思いを乗せて声を上げた。

「足りないものなんてないから!寧ろ多すぎるんだって……そもそも、無人島に行くならば、君がいれば十分だってば!」
「――え?」

きょとんと目を瞬く。
遅れて意味を理解したのだろう。彼女の頬が赤く染まり、恥ずかしげに視線を逸らした。



波の音を聞きながら彼女と二人、砂浜で寝転び空を見上げた・

「なんで急に、無人島に行こうなんて思いついたの?」
「だから、テレビを見て……」

言いかけて、問いかけの意図が違うと気づいたのか、彼女は寝転んだままこちらに視線を向けた。

「最近、ずっと忙しそうにしてたから。いつもどこかぴりぴりしてるし、寝てる時だって魘されてることもあったし」

だからね、と彼女は眉を下げながら続けた。

「一回全部なくして、全然違う場所でゆっくり過ごせたのなら何か変わるかなって思ったの。ちょっとだけでも心が元気になったら、前みたいに笑ってくれるかなって……それだけなの」

柔らかな微笑み。気づけば彼女の手を引いて、強く抱き締めていた。

「ありがとう」

一言だけを告げて、目を閉じる。
波の音が心地好い。暖かな陽射しに眠気が誘われる。
何より彼女の優しさが、嬉しかった。

「流石に無人島は無理だけど、今度一緒に遠出しようか」

夢見心地で思いついたことを口にする。言葉にしてそれはとてもいい考えだと、口元が緩んだ。
彼女が用意した大層な荷物は必要ない。計画だってなくても、彼女と一緒ならば気の向くまま、楽しめることだろう。
目を開ける。顔を上げた彼女と目を合わせて、どちらともなく笑い出した。

「約束だからね。嘘吐いたら、もう口をきいてあげないから!」
「それはやだな。だから絶対に約束は守るよ」

くすくすと笑い、小指を絡める。指切りげんまん、と詠う声に波の音が混じる。
指を離して小さく欠伸を漏らせば、彼女も同じように欠伸をした。

「何だか眠くなってきたな……夢の中だって分かってるけど、このまま寝ちゃおうか」
「賛成!夢だから寝ちゃ駄目なんて決まり事はないんだし、のんびりお昼寝しようよ。遊ぶのも良し、のんびりするのも良しってやつだよ」

仰向けに寝転んで、彼女はくすくすと笑う。笑いながらもその瞼はゆっくりと落ちていき、しばらくすれば穏やかな寝息が聞こえ出す。

「おやすみ」

小さく呟いて、同じように目を閉じる。
波の音。風の音。彼女の寝息。
何もかもが心地好く、ささくれ立った気持ちが凪いでいく。

微睡みに浸っていれば、ふと昔聞いたことのある問いかけを思い出した。

――無人島に一つだけ持っていくとしたら。

同時に浮かぶ答えに笑みが浮かんだ。
隣で眠る彼女の手を繋ぎ、暖かな陽射しに誘われて眠りに落ちていく。

何も持たなくてもいい。
ただ彼女と一緒に行けたのなら。

そこはきっと、夢の中のように楽しい場所になるのだろう。



20251023 『無人島に行くならば』

10/24/2025, 9:53:57 AM

冷たい風が吹き抜けた。
空はどこまでも青く遠く、悲しいほどに澄んでいた。

あの時言えなかった言葉が胸を締めつける。
あるのは後悔と、寂しさ。そして、今も消えないこの想いだけ。

風に手を伸ばす。舞う葉を指先で追いながら、そっと唇を震わせる。

「――さよなら」

言葉にしてみれば、少しだけ救われたような気がした。





誰の記憶からも消えた少女の一欠片を抱きながら、男は社の前で祈っていた。
少女が笑っていられることを。幸せであることを。
他の者と同じく、男の記憶からも少女の姿は消え失せてしまっている。姿も声も、思い出せるものは何もない。
唯一男が留めていたものは、少女へ対する仄かな想いだけだった。
暖かく愛おしい想いは、男にとって終わりのない苦しみをもたらしている。しかしそれは、最後に残された拠り所でもあった。
男が恋をした少女は、確かにいたのだという証明。それだけが男を留めていた。
かつての激しい感情は、男にはない。記憶の中から少女の姿が消えたと同時に、感情はすべて凪いでしまった。
今の男は、少女を想い祈ることで日々を生きている。



からん、と本坪鈴を鳴らし、手を合わせる。
冷えた空気にまた一つ季節が過ぎて行くのを感じ、吐息を溢した。

「来月、妹が結婚するよ。長くはないと医者に言われ続けてきたのに、今では俺よりも元気なくらいだ」

幸せそうに微笑んでいた自身の妹の姿を思い出し、男の口元が僅かに綻んだ。だがその目は切なげに細まり、唇を噛みしめた。
男の妹は、不治の病に冒されていた。年若くして散るはずの命を家族と共に男も惜しみ、悲しんでいた。
しかし数年前、奇跡が起きた。妹の病は癒え、幸福な未来を歩み続けている。

「君にも見て貰いたかった……できることならば、俺の隣で同じように」

自嘲して、男は目を閉じた。
一呼吸すれば、叶わぬ欲などすぐに凪いでいく。
残るのは、仄かな愛おしい想いだけだ。

「君の幸せを願うよ。どうか心穏やかに、笑顔でいてほしい」

例えその笑顔を思い出せなくとも。二度と愛することができなくとも。
男は只管に願い続ける。穏やかに祈るその姿は、どこか清廉さを纏っているように見えた。

からん、と誰も触れていない鈴が鳴った。
その音に男は目を開け、振り返る。
いつの間にか、男の背後には面布をつけた巫女がいた。その姿は酷く朧気で、向こう側の景色が透けている。
巫女は何も語らない。男も何も言わず、静かに彼女の姿を見続けていた。

からん、と鈴が鳴る。
立ち尽くす巫女に、男はそっと手を伸ばした。その手は巫女をすり抜けて、触れることはない。
男の目が一瞬、悲しげに揺れた。しかしその感情はすぐに凪ぎ、深く礼をして一歩退いた。
男の目の前を、巫女は通り過ぎていく。いつの間にかその巫女の後ろにも、同じように面布をつけた巫女たちが立っている。次々と社に向かい歩いていく巫女を、男は頭を下げたまま見送った。
祀られた神の眷属だろう巫女たちが、社の中へと消えていく。先頭にいた巫女が他の巫女たちがすべて社に戻ったことを見届けて、本坪鈴を鳴らした。
からん、からん、と鳴る鈴の音に男は頭を上げ、巫女を見つめる。巫女は変わらず何も言わない。他の巫女のように社の中へ去ることもなく、面布越しに男の顔を見返していた。

「祈りは届けられました」

不意に、巫女が呟いた。歌うようなその声音に、男は息を呑む。

「純粋な祈りは、対価と引き換えに願いを叶えることでしょう」

残酷な言葉だと、男は思った。男にとってそれは仄暗い誘惑であり、破滅を呼ぶ祝福であった。
唾を飲み込み、巫女を見る。
それ以上を語らない巫女に、男は喘ぐように口を開いた。

「あの子の幸福を……どうか……」

震える声は、純粋な祈りだけで止まらない。凪いだはずの執着を、気づけば男は口にしていた。

「あの子の側に……もう一度」

手を伸ばす。その手は今度はすり抜けることはなく、巫女の腕を掴んだ。
無抵抗な体を引き寄せ、面布を取る。露わになった巫女の素顔を見て、男は泣くように顔を歪めた。

「もう一度……今度こそ二人で幸せに……」

強く抱き締める。
からん、と鈴が鳴り。

そこで、目が覚めた。





冷たい風が吹き抜けた。
ぼんやりと男は空を見上げ、過ぎていく薄い雲を目で追った。

酷く悲しい夢を見ていた。
込み上げる空しさは、後悔からなのだろうか。
あの時、最後まで願いを口にしていたのならば。
夢の内容を思い返し、もしもを想像して男は空恐ろしい気持ちになる。
おそらくは、その願いは叶ったことだろう。ただしその対価として、誰かが犠牲になっていたのかもしれない。
その可能性に背筋が粟立ち、同時に気づく。
消えた少女の献身に。怖ろしいまでの純粋な、その祈りに。

風が過ぎていく。手を伸ばし、周囲で舞い踊る葉を一枚掴む。
赤く色づいた葉を暫し見つめ、手の中に閉じ込める。
消えない想いはもう、手放さなければならない。それを理解して、男は静かに口を開く。

――さよなら。

だが唇はただ震えるだけで、執着がそれを言葉にすることを拒んでいた。



20251022 『秋風』

10/23/2025, 9:42:52 AM

風の向きが変わった。
空を見上げれば、雲ひとつない快晴。広がる薄い青は普段と変わらない。
目を閉じて、深呼吸をする。微かに薫る花の匂いを感じて、息を吐いた。
嫌だなと、誰にでもなく呟いて歩き出す。
この予感は、きっと当たることだろう。



「また来たね」

きゃらきゃらと笑う彼女は、いつもと変わらず木の枝に腰掛け足を揺らしていた。

「風が――」

言いかけて、その前に彼女が小さな石を投げ渡してくる。それは黒く艶々としていて、まるで目のような縞の模様が浮き上がっていた。

「気休めではあるけれど、頑張って」

手を振り、彼女は止める間もなく去っていく。
小さく息を吐いて、手の中の石を握り締めた。
冷たい石に手の熱が移り、生き物のような暖かさを持ち出す。

「気休め……」

呟いて、手の中の石に視線を落とした。
彼女はどこまで知っているのだろうか。何かを尋ねる前に、彼女はいつも去っていってしまう。
会えるのは、予感を感じた時だけ。気休めとして石を託して、何も言わせずに姿を消す。
もう一度息を吐いて、石をポケットの中に入れて歩き出す。

どこからか花の匂いがした。



家に帰れば、険しい顔をした大人たちが忙しそうに動き回っていた。
ポケットの中の石を握り締め、家の中に入る。誰にも声をかけずにいれば、誰からも声をかけられることはない。
そのまま部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
花の匂い。そして何かが燃えたような匂いが立ちこめている。

「嫌だな」

溜息と共に溢れ落ちた言葉に、眉を寄せた。
漠然とした、嫌だと思う気持ちが胸を締めつける。何が嫌なのか、どうして嫌なのかも分からない。
ただ何となく、この先に嫌なものが待っているのだという予感だけは確かにしていた。

「――ちょっといいか?」

声がして、返事も待たずに部屋の扉が開く。
視線を向ければ、どこか険しい顔の父が部屋に入ってきた。

「頼みたいことがあるんだ」
「――なに?」

嫌だという気持ちを隠し、体を起こす。
父に向き直れば、小さな鍵を差し出された。

「朝からお祖母ちゃんと連絡が取れなくてな。様子を見に行ってほしい」

込み上げる溜息を押し殺し、鍵を受け取る。
そのまま部屋の外に向かえば、硬い声が小さく聞こえた。

「気をつけてな」

その言葉に何も反応せず、外に出る。
いつの間にか大人たちはいなくなり、落ち着かない静けさが広がっている。
鍵と、石と。両方を握り締めながら、家の裏の山へと足を踏み入れる。

祖母はこの山奥で一人暮らしている。
巫女としての役目なのだと祖母は言うが、本心ではただ住み慣れた生家を離れたくないだけなのだろう。その証拠に、山にある社はいつ訪れても手入れが行き届いているようには見えなかった。
また荒れているであろう社を思い、溜息が出る。
祖母の様子を確認して、帰りにまた軽く掃除をしに行こう。
そんなことを考えながら、しかしそれは叶わないだろうと根拠もなく確信があった。

不意に、冷たい風が吹き抜けた。
花の香りが漂っている。甘ったるく、腐り落ちたかのような鼻をつく匂い。
それに混じり、焦げた匂いを微かに感じた。
眉を寄せて、足を速める。
嫌な予感はずっとしている。予感と言うよりも、この先に何が起こるのかを既に理解していると言った方が正しいのかもしれない。

「嫌だな」

理解した所で、戻るという選択肢はない。
気休めだという、彼女からもらった石を握り締めながら、荒れた獣道をただ進み続けた。



「お祖母ちゃん……?」

しんと静まり返った祖母の家に、眉を寄せながら玄関を上がる。
花の匂いが風に乗って届く。どこかの窓が開いているのだろうか。石を握り締め、足音を殺して家の奥へと進んでいく。
風はどうやら、祖母の部屋がある方向から吹いているらしい。近づく度に花の香りが強くなり、胸が早鐘を打ち始める。
行きたくはない。そう思いながらも、足を踏み出した時だった。

「また来たね」

静かな声がした。
振り返ると、玄関に座り笑顔で手を振る彼女がいた。

「なんで……?」

小さく呟くと、彼女は目を瞬いた。心底不思議そうに首を傾げ、立ち上がる。
一歩、彼女が近づく毎に、背後から音がした。板張りの廊下が軋み、何かがゆっくりとこちらに近づいてきている。

「止めた方がいいよ」

彼女の無邪気な声が、音を確かめるため振り向こうとした動きを止めた。そのまま動けずに、立ち尽くす。
彼女と背後の何かに挟まれて、息を呑んだ。鼓動が痛いほどに鳴っている。
風が吹いて、花と焦げた匂いを運ぶ。嫌な予感に、心臓が嫌な音を立て始めた。
彼女は誰なのか。後ろにいるのは何なのか。
耐えきれなくて、石を握り締め目を閉じた。

「予感なんてね。起きてしまったことの、再現でしかないんだよ」

彼女の声がした。慰めるように、小さな手が石を握る手を包む。

「起きてしまったことはなくならない。どんなに繰り返しても、それはすべて同じ結末に至るんだよ……例えそれが、夢の中のできごとだとしてもね」

手の中の石が熱を持つ。熱くて思わず手を離せば、ぱりん、と硝子の割れたような音が鳴った。
驚いて目を開けた。

「――え?」

視界に広がるのは、一面の黒。そこは祖母の家ではなかった。
目の前で彼女が笑う。背後に気配は感じられず、振り返っても、そこには何もなかった。

「いない?」
「いないよ。最初からね」

その言葉に、これは夢なのだと理解した。
ならば、これから行うべきことは一つだけだ。

「じゃあね。忘れることはできないだろうけど、せめて引き摺らないように」

彼女は一点を指差し、手を振った。それに頷いて、指差した方へと歩き出す。
見上げれば、いくつもの青白い光が瞬いていた。それは炎のようにゆらりゆらりと揺らめいている。
視線を下ろせば、向かう先にも光が見えた。丸く、白い光。暖かなそれに惹かれて、次第に足が速くなる。
近づくほど大きくなる光に、迷いなく飛び込んだ。視界が白に染まり、そこで意識は途切れた。



目が覚めれば、白い病室のベッドで横たわっていた。
体が重い。視線だけで辺りを見回していれば、不意にカーテンを開かれた。

「っ、起きたか……!」

驚いた顔をした父が、その次の瞬間には泣きそうに顔を歪めて抱きついてきた。

「ごめんな。様子を見に行ってほしいなんて言わなければ」

声が震えている。泣くのを耐えて、父は只管に謝罪の言葉を繰り返した。
ぼんやりとした意識がはっきりするにつれ、ある予感が胸を過る。

けれど、きっとそれは予感などではないのだろう。



20251021 『予感』

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