sairo

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冷たい風が吹き抜けた。
空はどこまでも青く遠く、悲しいほどに澄んでいた。

あの時言えなかった言葉が胸を締めつける。
あるのは後悔と、寂しさ。そして、今も消えないこの想いだけ。

風に手を伸ばす。舞う葉を指先で追いながら、そっと唇を震わせる。

「――さよなら」

言葉にしてみれば、少しだけ救われたような気がした。





誰の記憶からも消えた少女の一欠片を抱きながら、男は社の前で祈っていた。
少女が笑っていられることを。幸せであることを。
他の者と同じく、男の記憶からも少女の姿は消え失せてしまっている。姿も声も、思い出せるものは何もない。
唯一男が留めていたものは、少女へ対する仄かな想いだけだった。
暖かく愛おしい想いは、男にとって終わりのない苦しみをもたらしている。しかしそれは、最後に残された拠り所でもあった。
男が恋をした少女は、確かにいたのだという証明。それだけが男を留めていた。
かつての激しい感情は、男にはない。記憶の中から少女の姿が消えたと同時に、感情はすべて凪いでしまった。
今の男は、少女を想い祈ることで日々を生きている。



からん、と本坪鈴を鳴らし、手を合わせる。
冷えた空気にまた一つ季節が過ぎて行くのを感じ、吐息を溢した。

「来月、妹が結婚するよ。長くはないと医者に言われ続けてきたのに、今では俺よりも元気なくらいだ」

幸せそうに微笑んでいた自身の妹の姿を思い出し、男の口元が僅かに綻んだ。だがその目は切なげに細まり、唇を噛みしめた。
男の妹は、不治の病に冒されていた。年若くして散るはずの命を家族と共に男も惜しみ、悲しんでいた。
しかし数年前、奇跡が起きた。妹の病は癒え、幸福な未来を歩み続けている。

「君にも見て貰いたかった……できることならば、俺の隣で同じように」

自嘲して、男は目を閉じた。
一呼吸すれば、叶わぬ欲などすぐに凪いでいく。
残るのは、仄かな愛おしい想いだけだ。

「君の幸せを願うよ。どうか心穏やかに、笑顔でいてほしい」

例えその笑顔を思い出せなくとも。二度と愛することができなくとも。
男は只管に願い続ける。穏やかに祈るその姿は、どこか清廉さを纏っているように見えた。

からん、と誰も触れていない鈴が鳴った。
その音に男は目を開け、振り返る。
いつの間にか、男の背後には面布をつけた巫女がいた。その姿は酷く朧気で、向こう側の景色が透けている。
巫女は何も語らない。男も何も言わず、静かに彼女の姿を見続けていた。

からん、と鈴が鳴る。
立ち尽くす巫女に、男はそっと手を伸ばした。その手は巫女をすり抜けて、触れることはない。
男の目が一瞬、悲しげに揺れた。しかしその感情はすぐに凪ぎ、深く礼をして一歩退いた。
男の目の前を、巫女は通り過ぎていく。いつの間にかその巫女の後ろにも、同じように面布をつけた巫女たちが立っている。次々と社に向かい歩いていく巫女を、男は頭を下げたまま見送った。
祀られた神の眷属だろう巫女たちが、社の中へと消えていく。先頭にいた巫女が他の巫女たちがすべて社に戻ったことを見届けて、本坪鈴を鳴らした。
からん、からん、と鳴る鈴の音に男は頭を上げ、巫女を見つめる。巫女は変わらず何も言わない。他の巫女のように社の中へ去ることもなく、面布越しに男の顔を見返していた。

「祈りは届けられました」

不意に、巫女が呟いた。歌うようなその声音に、男は息を呑む。

「純粋な祈りは、対価と引き換えに願いを叶えることでしょう」

残酷な言葉だと、男は思った。男にとってそれは仄暗い誘惑であり、破滅を呼ぶ祝福であった。
唾を飲み込み、巫女を見る。
それ以上を語らない巫女に、男は喘ぐように口を開いた。

「あの子の幸福を……どうか……」

震える声は、純粋な祈りだけで止まらない。凪いだはずの執着を、気づけば男は口にしていた。

「あの子の側に……もう一度」

手を伸ばす。その手は今度はすり抜けることはなく、巫女の腕を掴んだ。
無抵抗な体を引き寄せ、面布を取る。露わになった巫女の素顔を見て、男は泣くように顔を歪めた。

「もう一度……今度こそ二人で幸せに……」

強く抱き締める。
からん、と鈴が鳴り。

そこで、目が覚めた。





冷たい風が吹き抜けた。
ぼんやりと男は空を見上げ、過ぎていく薄い雲を目で追った。

酷く悲しい夢を見ていた。
込み上げる空しさは、後悔からなのだろうか。
あの時、最後まで願いを口にしていたのならば。
夢の内容を思い返し、もしもを想像して男は空恐ろしい気持ちになる。
おそらくは、その願いは叶ったことだろう。ただしその対価として、誰かが犠牲になっていたのかもしれない。
その可能性に背筋が粟立ち、同時に気づく。
消えた少女の献身に。怖ろしいまでの純粋な、その祈りに。

風が過ぎていく。手を伸ばし、周囲で舞い踊る葉を一枚掴む。
赤く色づいた葉を暫し見つめ、手の中に閉じ込める。
消えない想いはもう、手放さなければならない。それを理解して、男は静かに口を開く。

――さよなら。

だが唇はただ震えるだけで、執着がそれを言葉にすることを拒んでいた。



20251022 『秋風』

10/24/2025, 9:53:57 AM