sairo

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風の向きが変わった。
空を見上げれば、雲ひとつない快晴。広がる薄い青は普段と変わらない。
目を閉じて、深呼吸をする。微かに薫る花の匂いを感じて、息を吐いた。
嫌だなと、誰にでもなく呟いて歩き出す。
この予感は、きっと当たることだろう。



「また来たね」

きゃらきゃらと笑う彼女は、いつもと変わらず木の枝に腰掛け足を揺らしていた。

「風が――」

言いかけて、その前に彼女が小さな石を投げ渡してくる。それは黒く艶々としていて、まるで目のような縞の模様が浮き上がっていた。

「気休めではあるけれど、頑張って」

手を振り、彼女は止める間もなく去っていく。
小さく息を吐いて、手の中の石を握り締めた。
冷たい石に手の熱が移り、生き物のような暖かさを持ち出す。

「気休め……」

呟いて、手の中の石に視線を落とした。
彼女はどこまで知っているのだろうか。何かを尋ねる前に、彼女はいつも去っていってしまう。
会えるのは、予感を感じた時だけ。気休めとして石を託して、何も言わせずに姿を消す。
もう一度息を吐いて、石をポケットの中に入れて歩き出す。

どこからか花の匂いがした。



家に帰れば、険しい顔をした大人たちが忙しそうに動き回っていた。
ポケットの中の石を握り締め、家の中に入る。誰にも声をかけずにいれば、誰からも声をかけられることはない。
そのまま部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
花の匂い。そして何かが燃えたような匂いが立ちこめている。

「嫌だな」

溜息と共に溢れ落ちた言葉に、眉を寄せた。
漠然とした、嫌だと思う気持ちが胸を締めつける。何が嫌なのか、どうして嫌なのかも分からない。
ただ何となく、この先に嫌なものが待っているのだという予感だけは確かにしていた。

「――ちょっといいか?」

声がして、返事も待たずに部屋の扉が開く。
視線を向ければ、どこか険しい顔の父が部屋に入ってきた。

「頼みたいことがあるんだ」
「――なに?」

嫌だという気持ちを隠し、体を起こす。
父に向き直れば、小さな鍵を差し出された。

「朝からお祖母ちゃんと連絡が取れなくてな。様子を見に行ってほしい」

込み上げる溜息を押し殺し、鍵を受け取る。
そのまま部屋の外に向かえば、硬い声が小さく聞こえた。

「気をつけてな」

その言葉に何も反応せず、外に出る。
いつの間にか大人たちはいなくなり、落ち着かない静けさが広がっている。
鍵と、石と。両方を握り締めながら、家の裏の山へと足を踏み入れる。

祖母はこの山奥で一人暮らしている。
巫女としての役目なのだと祖母は言うが、本心ではただ住み慣れた生家を離れたくないだけなのだろう。その証拠に、山にある社はいつ訪れても手入れが行き届いているようには見えなかった。
また荒れているであろう社を思い、溜息が出る。
祖母の様子を確認して、帰りにまた軽く掃除をしに行こう。
そんなことを考えながら、しかしそれは叶わないだろうと根拠もなく確信があった。

不意に、冷たい風が吹き抜けた。
花の香りが漂っている。甘ったるく、腐り落ちたかのような鼻をつく匂い。
それに混じり、焦げた匂いを微かに感じた。
眉を寄せて、足を速める。
嫌な予感はずっとしている。予感と言うよりも、この先に何が起こるのかを既に理解していると言った方が正しいのかもしれない。

「嫌だな」

理解した所で、戻るという選択肢はない。
気休めだという、彼女からもらった石を握り締めながら、荒れた獣道をただ進み続けた。



「お祖母ちゃん……?」

しんと静まり返った祖母の家に、眉を寄せながら玄関を上がる。
花の匂いが風に乗って届く。どこかの窓が開いているのだろうか。石を握り締め、足音を殺して家の奥へと進んでいく。
風はどうやら、祖母の部屋がある方向から吹いているらしい。近づく度に花の香りが強くなり、胸が早鐘を打ち始める。
行きたくはない。そう思いながらも、足を踏み出した時だった。

「また来たね」

静かな声がした。
振り返ると、玄関に座り笑顔で手を振る彼女がいた。

「なんで……?」

小さく呟くと、彼女は目を瞬いた。心底不思議そうに首を傾げ、立ち上がる。
一歩、彼女が近づく毎に、背後から音がした。板張りの廊下が軋み、何かがゆっくりとこちらに近づいてきている。

「止めた方がいいよ」

彼女の無邪気な声が、音を確かめるため振り向こうとした動きを止めた。そのまま動けずに、立ち尽くす。
彼女と背後の何かに挟まれて、息を呑んだ。鼓動が痛いほどに鳴っている。
風が吹いて、花と焦げた匂いを運ぶ。嫌な予感に、心臓が嫌な音を立て始めた。
彼女は誰なのか。後ろにいるのは何なのか。
耐えきれなくて、石を握り締め目を閉じた。

「予感なんてね。起きてしまったことの、再現でしかないんだよ」

彼女の声がした。慰めるように、小さな手が石を握る手を包む。

「起きてしまったことはなくならない。どんなに繰り返しても、それはすべて同じ結末に至るんだよ……例えそれが、夢の中のできごとだとしてもね」

手の中の石が熱を持つ。熱くて思わず手を離せば、ぱりん、と硝子の割れたような音が鳴った。
驚いて目を開けた。

「――え?」

視界に広がるのは、一面の黒。そこは祖母の家ではなかった。
目の前で彼女が笑う。背後に気配は感じられず、振り返っても、そこには何もなかった。

「いない?」
「いないよ。最初からね」

その言葉に、これは夢なのだと理解した。
ならば、これから行うべきことは一つだけだ。

「じゃあね。忘れることはできないだろうけど、せめて引き摺らないように」

彼女は一点を指差し、手を振った。それに頷いて、指差した方へと歩き出す。
見上げれば、いくつもの青白い光が瞬いていた。それは炎のようにゆらりゆらりと揺らめいている。
視線を下ろせば、向かう先にも光が見えた。丸く、白い光。暖かなそれに惹かれて、次第に足が速くなる。
近づくほど大きくなる光に、迷いなく飛び込んだ。視界が白に染まり、そこで意識は途切れた。



目が覚めれば、白い病室のベッドで横たわっていた。
体が重い。視線だけで辺りを見回していれば、不意にカーテンを開かれた。

「っ、起きたか……!」

驚いた顔をした父が、その次の瞬間には泣きそうに顔を歪めて抱きついてきた。

「ごめんな。様子を見に行ってほしいなんて言わなければ」

声が震えている。泣くのを耐えて、父は只管に謝罪の言葉を繰り返した。
ぼんやりとした意識がはっきりするにつれ、ある予感が胸を過る。

けれど、きっとそれは予感などではないのだろう。



20251021 『予感』

10/23/2025, 9:42:52 AM