sairo

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――この箱を開ければ、すべてが変わる。

そう言われて渡された、小さな木でできた箱。
何が変わるのか、何の説明もなく押しつけられた箱を手に、小さく息を吐いた。
開ければというものの、何か仕掛けがあるのか箱が開く様子はない。そもそも、箱を渡してきたのが誰なのかもよく分からなかった。
箱を振れば、からからと音がする。中に何かが入っているのは確かなようだ。

すべてが変わるという、小さな箱。
箱を開けるべきか否かを、ずっと悩んでいた。



「開けないの?」

箱の中から声がした。
幼いような、年老いたような、男か女かすらも分からないような声。頭の中に直接響くそれに、眉が寄る。
不思議と怖いとは思わなかった。その代わりに得体の知れない不快感が声と混じり、体中に広がっていく。

「開けないの?」

声が笑う。開けることができない臆病さを嗤われるが、それでも指は机の上の箱にかからない。

くすくす。けらけら。
不快感が込み上げて、立ち上がり箱に背を向けた。

「開けてしまえば楽になれるのに」

耳元で囁かれる誘惑。それを振り切り部屋を出る。
やや乱暴に扉を閉めれば、嗤い声も囁きも途端に聞こえなくなり、そっと安堵の息を吐いた。

そのまま外に出れば、冷たい空気が思考を冷静にさせていく。深く息を吸い込んで内に澱む不快感ごと吐き出せば、箱の中身に対する疑問だけが残った。

何故、箱の中から声が聞こえるのか。
声は何を知っているのか。
箱の中には何が入っているのか。
すべてが変わるとはどういう意味なのか。
どうすれば、箱を開くことができるのか。


そこまで考えて、いつの間にか箱を開けようという思考に成り代わっていることに気づく。
気づいて怖ろしくなった。このままでは自分の意思とは無関係に箱を開けてしまいかねない。
心細さに視線を彷徨わせる。
だが不安を宥めてくれるような誰かも、何かでさえも見つけられはしなかった。



「すみません。ちょっといいですか」

ふらふらと当てもなく歩いていれば、不意に声をかけられた。
視線を向ける。この辺りでは見かけない制服を着た少女と目が合い、会釈した。

「その子、返して頂いてもよろしいでしょうか。好奇心が旺盛なので、良く脱走して困っていたんです」

心当たりのなさに眉を寄せながら、少女の指先を追って視線を下げていく。

「――あ」

いつの間にかズボンの右ポケットが膨れていた。
そっとポケットに手を差し入れる。四角い何かが指に触れ、嫌な予感を感じながらゆっくりとそれを取り出していく。

「開けないの?」

家の中に置いてきたはずの箱が、けらけらと嗤っていた。


「開けないの?」
「止めなさい。困っているでしょうが」

静かな少女の声に、嗤う声が止まる。
硬直する自分の手の中から箱を取り上げ、彼女は疲れたように息を吐いた。
箱に何かの札を貼り、鞄の中に無造作にしまわれる。

「ごめんなさい。管理はしているんですが、ちょっと今ごたごたしてて……色々逃げ出してしまったんです」

全く理解できていない自分に、少女は丁寧に頭を下げる。
それに幾分か落ち着きを取り戻してきた思考が、疑問を口にさせていた。

「あの箱は……何なのですか?中には一体何が入っているのでしょうか?」

頭を上げた少女は眉を下げ、苦笑を顔に浮かべて答えた。

「秘密の箱、です。好奇心旺盛で隠されているものが好きなので、誰かの秘密を中に閉じ込めてしまうんです」

鞄越しに箱を撫で、彼女は深々と溜息を吐く。
随分と疲れている様子だ。これ以上引き留めるのは申し訳ないと思いながらも、さらに問いかける。

「箱を開けるとすべてが変わると言われて、箱を手渡されました。それに箱を開けないのかと何度も囁かれて……箱を開けていたら、どうなっていたのですか?」
「中身が出てくるだけです」

少女は肩を竦めて言う。

「中に閉じ込めた秘密に飽きてしまったのでしょう。だからあなたに箱を開けさせて、いらなくなった秘密を出して、代わりにあなたの秘密を閉じ込めようとした……誰かの秘密があなたの秘密になり、あなたの秘密は箱の秘密になる。そして飽きたらまた、別の誰かの秘密と入れ替えようとするのです」

だから開けたらすべてが変わるのか。
納得して、怖ろしくなった。知らない誰かの秘密が自分の秘密になる。それがどんな秘密であれ、他者の秘密が自分の秘密に成り代わるのは、恐怖でしかなかった。

「いくらからくり箱で簡単には開けられないとはいえ、興味を引かれて開けてしまう人はいるんです。現にあなたに会う前に、誰かの秘密を取り込んでいるみたいですし。それにこの子は特に、誰にも言えないような深い秘密を好むので……開けなくて本当によかったですね」

そう言って少女はもう一度深く頭を下げると、そのまま去っていく。
何も言えずにその背を見送り、姿が見えなくなってから力尽きたようにその場に座り込む。

「開けなくて良かった」

胸に手を当て、深く息を吐く。
心臓が痛い。恐怖と安堵で、頭がくらくらする。
しばらく座り込み落ち着くのを待ってから、ゆっくりと立ち上がる。覚束ない足取りで家路に就いた。

早く帰ろう。その思いが足を速める。
誰にも言えない、手放すことのできない秘密が待つ家へ。
帰りたくて堪らなかった。



20251024 『秘密の箱』

10/26/2025, 6:34:56 AM