ゆらり、ゆら。
暗闇に赤く焔が揺らめいていた。
音はない。ただ静かに、消えない焔が揺れていた。
「あれは、執着だ」
無感情に男は呟く。
伸ばしかけた少女の手を引いて、男は焔に背を向けた。
「執着?」
首を傾げ、少女は呟く。その目に熱はなく、表情にも感情の欠片すら浮かんではいない。
まるで精巧な人形のようだ。動き、言葉を紡いでいなければ、生きているとは誰一人思わないことだろう。
「執着とは、必要のないものなのですか?」
問いかける言葉に、男の足が止まる。
静かに振り返り、硝子玉のような少女の黒い目を見つめた。
「程度による。強すぎる執着は、身を滅ぼすだけだ」
少女のように表情一つ変えず、男は告げる。
執着があることで、それは生の理由の一つとなる。だが執着は時に未練となり、いつまでも先に進むことを拒んでしまう。
「どの感情でも変わらない。大切なのは感情の種類ではなく、感情の程度だ」
少女の目を見据えて男は告げると、再び少女の手を引いて歩き出す。少女はそれ以上何も言わず、ただ手を引かれるまま男に続いた。
歩き続ける二人の前で、いくつもの青い焔が灯されては消えていく。
やはり、音はない。か細い焔が、揺らぎもせずに明滅を繰り返している。
「これらは命だ」
足を止めず、男は言う。
「感情に呑まれ、身を滅ぼした者の成れの果て。こうなってしまえば、自力でこの場を動くことはできないだろう」
辺りに佇む焔を見ながら、少女は再び首を傾げた。
「彼らはずっとこのままなのですか?」
「迎えが来れば、この場を去ることも変わることもできるだろう。だが迎えがこなければ、永遠にそのままだ。感情に囚われ、縛られているからな」
少女は目を瞬いた。手を引かれるままに歩き続けながら、焔と男を見つめる。
「感情……」
その目の奥で、微かに何かが揺らいだ。刹那に見えなくなった何かは、だが少女の中で広がり染み込んでいく。
ゆっくりと変わっていく少女を一瞥しながらも、男は歩みを止めない。道なき暗闇の中を、男は迷わず進んでいく。
青い焔の数が減り、次第に何もなくなった。
暗闇。無音。黒の世界を、ただ歩いていく。
不意に、遠くで何かが煌めいた。
近づくにつれはっきりと見えてくるそれは、白い焔だった。
たったひとつ。ゆらり、ゆらと、焔が揺れる。
「――これは?」
少女は問う。だが男は何も答えない。
焔の前まで辿り着くと、男は歩みを止めた。少女の手を離し、数歩距離を取る。
少女の目は白い焔に注がれたまま。消えない焔の熱を宿したかのように、目の奥で何かが揺らめいた。
手を伸ばす。男はそれを止めることはない。
傷をつけるような暑さではない暖かな白に、そっと触れた。
「――っ!」
少女の目が見開かれる。
吸い込まれるように消えた焔が、いくつもの記憶となって少女の中を駆け巡っていく。
暖かくて優しく、けれど冷たい痛みを伴う記憶たちが、目の奥で揺らぐ何かを形にしていく。それは少女の中で広がって、滴となって溢れ出した。
「取り戻せたな」
側に寄った男に少女は縋り付く。頭を撫でられれば、少女は小さく嗚咽を漏らし始めた。
置き忘れたものが戻り、少女は虚ろな人形から必死で生きる人へと変わっていく。声を上げ泣く少女は、まるで生まれたばかりの赤子のようであった。
しばらくして落ち着いた少女が顔を上げた時、その目にははっきりと意思が宿っていた。
「ありがとう」
礼を述べる少女に、男は首を振る。
「お前が取り戻す選択をしたから戻っただけのことだ。私はそれの手伝いをしただけにすぎない」
少女の涙を拭い、男は微笑んだ。静かに少女の手を取り、元来た道を引き返していく。
気づけば辺りは暗闇ではなくなっていた。
左右に石灯籠が並ぶ石畳の境内。振り返れば、荘厳な社殿がいくつもの焔を従え佇んでいた。
石灯籠の灯りに浮かぶ境内を引き返しながら、少女はそっと男を窺い見た。凪いだ表情は、それでもどこか穏やかに見える。
そっと胸に手を当てた。感じる鼓動に、そっと吐息を溢す。
「――私の焔は、感情ではなかったのかな?」
ふと込み上げた疑問が、少女の唇から溢れ落ちた。
流れた記憶の中に、いくつもの激しい感情の動きがあったはずだ。しかし今の少女の内はとても穏やかだった。執着の焔のような熱さも、感情に呑まれた成れの果ての命のような弱々しさもない。
あの焔は何だったのか。胸に手を当てたまま考え込む少女は、答えを求めるように男を見つめた。
その視線に男は立ち止まり、振り返る。少女の目を見つめ、静かに告げた。
「あの焔も感情だ。喜び、哀しみ、慈しみ、嘆き……記憶から導かれる想いの形だ。お前はそれに呑み込まれず、受け入れた。だから穏やかでいられるのだ」
少女の手を離し、男はその小さな背を押した。
いつの間にか目の前には石造りの鳥居があり、その向こう側から微かに太鼓や笛の音が響いている。
「行っておいで……先に進むのか、それともまだ足掻くのか。選択するのはお前自身だ」
その言葉に少女は男を見つめ、そして鳥居の先を見た。
ぼんやりと浮かび上がるいくつもの提灯の灯りが、少女を待っている。そんな気がして、少女は一歩鳥居の向こうへと足を踏み出した。
「どんな選択をしても、お前のその焔は消えない。迷うことがあるなら、焔を感じろ。自ずと進む道が分かるだろう」
振り返り、少女は力強く頷いて見せる。
「ありがとう……行ってきます」
微笑んで、少女は男に背を向け歩き出す。もう振り返ることはない。
進むほどにはっきりと聞こえ出す太鼓の音に、畏れの感情が浮かぶ。だが足は止めない。止めてしまえば、先に進むことができないと理解している。
前だけを見て、只管に進む。内側で揺らぐ消えない焔を感じながら、音の聞こえる方へと進んでいく。
自身のいるべき場所に戻るために、少女の目は強い光を湛え進むべき先を見据えていた。
20251027 『消えない焔』
煌びやかな大広間。
肉や魚など、豪勢な食事が並んでいる。目の前の舞台では、鮮やかな衣を纏った踊り手たちが、軽やかな音楽に合わせて舞っている。
人々は舞台に酔い痴れ、食事に舌鼓を打つ。だれもが皆、一様に笑顔を浮かべていた。
「お気に召されませんか」
酌をして回っている女性が声をかける。
「いえ。こういった場は初めてなので、緊張してしまって……」
愛想笑いをして、本心を誤魔化した。
緊張ではない。怖れているのだ。
自分以外、きっと誰一人気づいていない。
同じ笑顔。同じ顔。まるで仮面を被っているかのようだ。
「そうでしたか。でしたらご無理をなさらず、今宵はもうお休みになられますか?」
女性の言葉に、少し悩んで頷いた。
これ以上、この異様な場にいるのは耐えられそうにない。
女性に促され、立ち上がる。誰も自分たちを気に留める人がいないのが、違和感でしかなかった。
笑い声と明るい音楽が満ちる広間を抜け出す。
一度だけ振り返った。
視線の先。軽やかに舞う踊り子たちに混じって、一人の少女が踊りながらもこちらを見ていた。
その目は他の皆とは違い、どこか困惑しているように見えたのが気になった。
部屋に案内され、一人になってようやく落ち着くことができた。
深々と溜息を吐く。敷かれていた布団に横になれば、すぐに眠気が訪れる。
考えなければならないことはたくさんあるが、異様な空気に当てられて酷く疲れてしまっていた。
明日、考えよう。そう思い目を閉じる。
微睡む意識の中、遠くで微かに笛の音が聞こえた気がした。
辿々しく、時折調子が外れる笛。同じ旋律を繰り返していることから、笛の練習をしているのだろう。
ふふ、と口元が綻んだ。広間の完璧な音楽や舞より、練習中の笛の音の方が余程良い。
ふわふわとした心地良さを感じながら、意識が沈む。
直前までの不安や怖れなど、何も感じなかった。
翌日。目覚めて身支度を整えた後、迎えに来た女性に連れられて訪れたのは、昨日よりも小さく質素な広間だった。
自分の他には、案内をしてくれた女性と、給仕をする少女のみ。促されて席に着けば女性は部屋を出て、少女と二人きりになった。
「えっと……今朝採れたものばかりですので、その……お口に合うといいのですが……」
怖ず怖ずと、少女が椀に汁物や飯をよそい手渡す。それを受け取りながらも口をつけずにいれば、少女は次第に表情を曇らせる。
「あの……お気に召さなかったでしょうか?」
戸惑うような、泣きそうな声音。次第に涙の膜が張りだした少女の目を見て、はっとして慌てて首を振る。
「ごめん。気に入らないとかではなくて……何ていうか安心?して」
昨日広間で見たような同じ顔ではないことに安心していたのだと伝えるが、少女は困惑に首を傾げている。
「それはつまり……昨夜の宴は、お気に召されなかったということでしょうか?」
「いや、そういう意味ではなくて……そうなのかもしれないけど、そうじゃなくてね……」
どう言えば伝わるのだろうか。言葉を探していれば、不意に腹が控えめに主張する。
「――あ」
よく考えれば、昨夜から何も口にしてはいないのだ。そして目の前には、美味しそうな料理が広がっている。
急に感じ始めた空腹に、もう一度腹が鳴る。頬が熱くなるのを感じながら、目の前の少女に声をかけた。
「あの……よければ、一緒に食べない?一人で食べるのは落ち着かないから」
断られることを覚悟していたが、少女の反応は予想とは違っていた。
頬を染め、戸惑うように視線を彷徨わせている。そしてこちらを見つめ、期待に目を煌めかせながらいいの、と呟いた。
「おもてなしをしなきゃなのに……一緒に食べて、いいのでしょうか?」
微笑む少女に苦笑する。はっきりと頷いて見せれば、少女はいそいそと自分の分の椀や箸を取り出した。
汁物や飯をよそい、手を合わせる。
「頂きます」
嬉しそうな少女を見ながら、同じようにいただきますと手を合わせ、箸を取る。暖かな湯気が立つ汁に口をつければ、素朴でありながら暖かな味に、ほっと息を吐いた。
「おいしい」
「よかったです!あ……その、えっと……大根は、私が切ったんです。だから……」
「うん。大根もおいしいよ」
恥ずかしげにしながらも、喜びを隠し切れない少女に微笑ましい気持ちになる。他愛もない話をしながら、和やかに朝食の時間が過ぎていった。
「おもてなしをさせてください」
朝食後、まったりとした気持ちで休んでいれば、少女は真剣な顔をしてそう告げた。
「おもてなし?」
どこかぼんやりとしながら首を傾げる。朝食の時点でもてなされた気持ちになっていたが、少女にとってはどうやら違うらしい。
「昨夜はすみませんでした。皆笑顔でいたら、楽しめるかなって思ってたんですけど、その……同じ笑顔が怖いって考えもしてなくて……大きい所は緊張するなんてことも知らなくて……」
眉を下げて少女は頭を下げる。
「おもてなしなのに、作られた面《おもて》で接するのは、とても失礼なことでした。なので、やり直しをさせてほしいのです」
何か言わなければと思うが、昨日の広間の記憶はどこか朧気で、何も言葉が出てこない。
内心で戸惑っていれば、顔を上げた少女が姿勢を正して、袖に手を入れた。
「昨日、たくさん練習したので大丈夫です」
そう言って取り出したのは、一本の笛。はにかみながら、少女は笛を構え、旋律を奏でていく。
それは昨夜聞いた曲だった。調子を外れることはなかったが、まだどこか辿々しさがある。
笑ってはいけないと思いながらも笑みが浮かぶ。次第に目が閉じていき、気を抜けば眠ってしまいそうだ。
まるで揺り籠で揺られているような感覚。気がつけば、頭が揺れ動き、体が傾いでいた。
「お疲れ様です。毎日頑張って、私たちにも手を伸ばしてくれて……本当にお疲れ様でした。ここでゆっくりと休んで、次に進んで下さいね」
少女の声が遠く聞こえる。温かな手が体を横たえ、優しく頭を撫でられる。
頭を撫でられたのは、いつぶりだろうか。こそばゆさに笑みが浮かぶ。
「あなたの優しさに救われたモノたちを代表して、心からのおもてなしをさせて下さい。精一杯尽くさせて頂きます」
再び笛が奏でられる。優しい笛の音がいくつも重なりだし、それに混じり太鼓や鈴の音が聞こえ出す。
うっすらと目を開けた。
そこにいたのは少女だけではない。何人もの獣の面をつけた者たちが、それぞれ楽器を手に旋律を奏でていた。
面のために表情は見えないものの、皆とても楽しそうだ。表も裏もない。純粋な気持ちが音から溢れていた。
心地の良い音に、穏やかな気持ちでもう一度目を閉じる。
このまま聞いていたい気もするが、少し眠ってしまおう。少女の言葉に甘えて、存分に休むのもいいかもしれない。
「お休みなさい。良い夢を」
優しい声に導かれ、夢の中へと落ちていく。
久しぶりに、楽しい夢を見られそうだった。
20251028 『おもてなし』
10/29/2025, 9:44:34 AM