気づけば誰もいない砂浜で一人、座って空を見上げていた。
周囲には誰もいない。一人きりだ。
辺りを探索しなくとも、この狭い島には他の人はいないことを理解していた。
目を閉じる。寄せては返す波の音を聞きながら、記憶を手繰り寄せる。
無邪気なあの子の笑顔に、頭が痛くなるのを感じた。
――働き過ぎは体に良くないんだって!
テレビで得たばかりの知識を、得意げに披露していた彼女。次の瞬間に訪れた、抗えない微睡み。
ここは夢の中なのだろう。無人島にいる夢。
彼女のズレた優しさに、目眩がしそうだった。
「休憩するには波の音とかが良いんだって!ヒーリング曲?とか言ってた」
不意に隣から聞こえた声に、出かかる溜息を呑み込んだ。
視線を向ける。褒めてと言わんばかりに輝く笑顔を見てしまい、何も言えなくなってしまった。
「なんで、無人島?」
代わりに口をついて出たのは、純粋な疑問。彼女はその問いに、胸を張って答えた。
「テレビでやってたから!無人島でサバイバル体験!」
ある程度予測できてはいた答えに、乾いた笑いしかでなかった。
「テレビで見たからね。ちゃんと無人島に行くなら、何が必要かは分かってるよ。用意もしてあるの」
いつの間にか背負っていたリュックを砂浜に置き、彼女は笑う。
チャックを開けて、一つ一つ中身を取り出して見せた。
「えっとね。まずは水でしょ?それから食料と……ナイフと、ロープと……」
次々と取り出される物品が、砂浜を埋めていく。思わず口元が引き攣るが、彼女はまったく気づく様子はない。
「それからね、おやつとお弁当と……」
「待って!?」
段々と可笑しくなる荷物の数々に、咄嗟に待ったをかける。
そこまで行くとサバイバルではなく、ただのピクニックだ。けれど彼女は何故止められたのかを理解できず、ただ首を傾げて目を瞬いた。
「ちゃんとチョコレートもおせんべいもあるよ?お弁当には卵焼きも入れてあるし」
「いや、そうではなくて」
心底不思議そうな彼女に、どうしたものかと視線を彷徨わせる。純粋にこちらを心配しての行動だけに、頭ごなしに否定するのは気が引けた。
「必要なのは、全部用意できていると思うんだけどな」
広げた荷物を見回して、彼女は不思議そうに呟く。
思いつかないのか、その表情は次第に険しくなっていく。
眉を寄せ、立ち上がる。その姿が不意に揺らいで、咄嗟にその手を取って引き留めた。
「待って!どこ行こうとしてんの!?」
「え?足りないものを探しに行くだけだよ。だからちょっと待ってて」
彼女の姿がさらに揺らぐ。
何も理解していない彼女に頭が痛くなるのを感じながら、思いを乗せて声を上げた。
「足りないものなんてないから!寧ろ多すぎるんだって……そもそも、無人島に行くならば、君がいれば十分だってば!」
「――え?」
きょとんと目を瞬く。
遅れて意味を理解したのだろう。彼女の頬が赤く染まり、恥ずかしげに視線を逸らした。
波の音を聞きながら彼女と二人、砂浜で寝転び空を見上げた・
「なんで急に、無人島に行こうなんて思いついたの?」
「だから、テレビを見て……」
言いかけて、問いかけの意図が違うと気づいたのか、彼女は寝転んだままこちらに視線を向けた。
「最近、ずっと忙しそうにしてたから。いつもどこかぴりぴりしてるし、寝てる時だって魘されてることもあったし」
だからね、と彼女は眉を下げながら続けた。
「一回全部なくして、全然違う場所でゆっくり過ごせたのなら何か変わるかなって思ったの。ちょっとだけでも心が元気になったら、前みたいに笑ってくれるかなって……それだけなの」
柔らかな微笑み。気づけば彼女の手を引いて、強く抱き締めていた。
「ありがとう」
一言だけを告げて、目を閉じる。
波の音が心地好い。暖かな陽射しに眠気が誘われる。
何より彼女の優しさが、嬉しかった。
「流石に無人島は無理だけど、今度一緒に遠出しようか」
夢見心地で思いついたことを口にする。言葉にしてそれはとてもいい考えだと、口元が緩んだ。
彼女が用意した大層な荷物は必要ない。計画だってなくても、彼女と一緒ならば気の向くまま、楽しめることだろう。
目を開ける。顔を上げた彼女と目を合わせて、どちらともなく笑い出した。
「約束だからね。嘘吐いたら、もう口をきいてあげないから!」
「それはやだな。だから絶対に約束は守るよ」
くすくすと笑い、小指を絡める。指切りげんまん、と詠う声に波の音が混じる。
指を離して小さく欠伸を漏らせば、彼女も同じように欠伸をした。
「何だか眠くなってきたな……夢の中だって分かってるけど、このまま寝ちゃおうか」
「賛成!夢だから寝ちゃ駄目なんて決まり事はないんだし、のんびりお昼寝しようよ。遊ぶのも良し、のんびりするのも良しってやつだよ」
仰向けに寝転んで、彼女はくすくすと笑う。笑いながらもその瞼はゆっくりと落ちていき、しばらくすれば穏やかな寝息が聞こえ出す。
「おやすみ」
小さく呟いて、同じように目を閉じる。
波の音。風の音。彼女の寝息。
何もかもが心地好く、ささくれ立った気持ちが凪いでいく。
微睡みに浸っていれば、ふと昔聞いたことのある問いかけを思い出した。
――無人島に一つだけ持っていくとしたら。
同時に浮かぶ答えに笑みが浮かんだ。
隣で眠る彼女の手を繋ぎ、暖かな陽射しに誘われて眠りに落ちていく。
何も持たなくてもいい。
ただ彼女と一緒に行けたのなら。
そこはきっと、夢の中のように楽しい場所になるのだろう。
20251023 『無人島に行くならば』
冷たい風が吹き抜けた。
空はどこまでも青く遠く、悲しいほどに澄んでいた。
あの時言えなかった言葉が胸を締めつける。
あるのは後悔と、寂しさ。そして、今も消えないこの想いだけ。
風に手を伸ばす。舞う葉を指先で追いながら、そっと唇を震わせる。
「――さよなら」
言葉にしてみれば、少しだけ救われたような気がした。
誰の記憶からも消えた少女の一欠片を抱きながら、男は社の前で祈っていた。
少女が笑っていられることを。幸せであることを。
他の者と同じく、男の記憶からも少女の姿は消え失せてしまっている。姿も声も、思い出せるものは何もない。
唯一男が留めていたものは、少女へ対する仄かな想いだけだった。
暖かく愛おしい想いは、男にとって終わりのない苦しみをもたらしている。しかしそれは、最後に残された拠り所でもあった。
男が恋をした少女は、確かにいたのだという証明。それだけが男を留めていた。
かつての激しい感情は、男にはない。記憶の中から少女の姿が消えたと同時に、感情はすべて凪いでしまった。
今の男は、少女を想い祈ることで日々を生きている。
からん、と本坪鈴を鳴らし、手を合わせる。
冷えた空気にまた一つ季節が過ぎて行くのを感じ、吐息を溢した。
「来月、妹が結婚するよ。長くはないと医者に言われ続けてきたのに、今では俺よりも元気なくらいだ」
幸せそうに微笑んでいた自身の妹の姿を思い出し、男の口元が僅かに綻んだ。だがその目は切なげに細まり、唇を噛みしめた。
男の妹は、不治の病に冒されていた。年若くして散るはずの命を家族と共に男も惜しみ、悲しんでいた。
しかし数年前、奇跡が起きた。妹の病は癒え、幸福な未来を歩み続けている。
「君にも見て貰いたかった……できることならば、俺の隣で同じように」
自嘲して、男は目を閉じた。
一呼吸すれば、叶わぬ欲などすぐに凪いでいく。
残るのは、仄かな愛おしい想いだけだ。
「君の幸せを願うよ。どうか心穏やかに、笑顔でいてほしい」
例えその笑顔を思い出せなくとも。二度と愛することができなくとも。
男は只管に願い続ける。穏やかに祈るその姿は、どこか清廉さを纏っているように見えた。
からん、と誰も触れていない鈴が鳴った。
その音に男は目を開け、振り返る。
いつの間にか、男の背後には面布をつけた巫女がいた。その姿は酷く朧気で、向こう側の景色が透けている。
巫女は何も語らない。男も何も言わず、静かに彼女の姿を見続けていた。
からん、と鈴が鳴る。
立ち尽くす巫女に、男はそっと手を伸ばした。その手は巫女をすり抜けて、触れることはない。
男の目が一瞬、悲しげに揺れた。しかしその感情はすぐに凪ぎ、深く礼をして一歩退いた。
男の目の前を、巫女は通り過ぎていく。いつの間にかその巫女の後ろにも、同じように面布をつけた巫女たちが立っている。次々と社に向かい歩いていく巫女を、男は頭を下げたまま見送った。
祀られた神の眷属だろう巫女たちが、社の中へと消えていく。先頭にいた巫女が他の巫女たちがすべて社に戻ったことを見届けて、本坪鈴を鳴らした。
からん、からん、と鳴る鈴の音に男は頭を上げ、巫女を見つめる。巫女は変わらず何も言わない。他の巫女のように社の中へ去ることもなく、面布越しに男の顔を見返していた。
「祈りは届けられました」
不意に、巫女が呟いた。歌うようなその声音に、男は息を呑む。
「純粋な祈りは、対価と引き換えに願いを叶えることでしょう」
残酷な言葉だと、男は思った。男にとってそれは仄暗い誘惑であり、破滅を呼ぶ祝福であった。
唾を飲み込み、巫女を見る。
それ以上を語らない巫女に、男は喘ぐように口を開いた。
「あの子の幸福を……どうか……」
震える声は、純粋な祈りだけで止まらない。凪いだはずの執着を、気づけば男は口にしていた。
「あの子の側に……もう一度」
手を伸ばす。その手は今度はすり抜けることはなく、巫女の腕を掴んだ。
無抵抗な体を引き寄せ、面布を取る。露わになった巫女の素顔を見て、男は泣くように顔を歪めた。
「もう一度……今度こそ二人で幸せに……」
強く抱き締める。
からん、と鈴が鳴り。
そこで、目が覚めた。
冷たい風が吹き抜けた。
ぼんやりと男は空を見上げ、過ぎていく薄い雲を目で追った。
酷く悲しい夢を見ていた。
込み上げる空しさは、後悔からなのだろうか。
あの時、最後まで願いを口にしていたのならば。
夢の内容を思い返し、もしもを想像して男は空恐ろしい気持ちになる。
おそらくは、その願いは叶ったことだろう。ただしその対価として、誰かが犠牲になっていたのかもしれない。
その可能性に背筋が粟立ち、同時に気づく。
消えた少女の献身に。怖ろしいまでの純粋な、その祈りに。
風が過ぎていく。手を伸ばし、周囲で舞い踊る葉を一枚掴む。
赤く色づいた葉を暫し見つめ、手の中に閉じ込める。
消えない想いはもう、手放さなければならない。それを理解して、男は静かに口を開く。
――さよなら。
だが唇はただ震えるだけで、執着がそれを言葉にすることを拒んでいた。
20251022 『秋風』
風の向きが変わった。
空を見上げれば、雲ひとつない快晴。広がる薄い青は普段と変わらない。
目を閉じて、深呼吸をする。微かに薫る花の匂いを感じて、息を吐いた。
嫌だなと、誰にでもなく呟いて歩き出す。
この予感は、きっと当たることだろう。
「また来たね」
きゃらきゃらと笑う彼女は、いつもと変わらず木の枝に腰掛け足を揺らしていた。
「風が――」
言いかけて、その前に彼女が小さな石を投げ渡してくる。それは黒く艶々としていて、まるで目のような縞の模様が浮き上がっていた。
「気休めではあるけれど、頑張って」
手を振り、彼女は止める間もなく去っていく。
小さく息を吐いて、手の中の石を握り締めた。
冷たい石に手の熱が移り、生き物のような暖かさを持ち出す。
「気休め……」
呟いて、手の中の石に視線を落とした。
彼女はどこまで知っているのだろうか。何かを尋ねる前に、彼女はいつも去っていってしまう。
会えるのは、予感を感じた時だけ。気休めとして石を託して、何も言わせずに姿を消す。
もう一度息を吐いて、石をポケットの中に入れて歩き出す。
どこからか花の匂いがした。
家に帰れば、険しい顔をした大人たちが忙しそうに動き回っていた。
ポケットの中の石を握り締め、家の中に入る。誰にも声をかけずにいれば、誰からも声をかけられることはない。
そのまま部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
花の匂い。そして何かが燃えたような匂いが立ちこめている。
「嫌だな」
溜息と共に溢れ落ちた言葉に、眉を寄せた。
漠然とした、嫌だと思う気持ちが胸を締めつける。何が嫌なのか、どうして嫌なのかも分からない。
ただ何となく、この先に嫌なものが待っているのだという予感だけは確かにしていた。
「――ちょっといいか?」
声がして、返事も待たずに部屋の扉が開く。
視線を向ければ、どこか険しい顔の父が部屋に入ってきた。
「頼みたいことがあるんだ」
「――なに?」
嫌だという気持ちを隠し、体を起こす。
父に向き直れば、小さな鍵を差し出された。
「朝からお祖母ちゃんと連絡が取れなくてな。様子を見に行ってほしい」
込み上げる溜息を押し殺し、鍵を受け取る。
そのまま部屋の外に向かえば、硬い声が小さく聞こえた。
「気をつけてな」
その言葉に何も反応せず、外に出る。
いつの間にか大人たちはいなくなり、落ち着かない静けさが広がっている。
鍵と、石と。両方を握り締めながら、家の裏の山へと足を踏み入れる。
祖母はこの山奥で一人暮らしている。
巫女としての役目なのだと祖母は言うが、本心ではただ住み慣れた生家を離れたくないだけなのだろう。その証拠に、山にある社はいつ訪れても手入れが行き届いているようには見えなかった。
また荒れているであろう社を思い、溜息が出る。
祖母の様子を確認して、帰りにまた軽く掃除をしに行こう。
そんなことを考えながら、しかしそれは叶わないだろうと根拠もなく確信があった。
不意に、冷たい風が吹き抜けた。
花の香りが漂っている。甘ったるく、腐り落ちたかのような鼻をつく匂い。
それに混じり、焦げた匂いを微かに感じた。
眉を寄せて、足を速める。
嫌な予感はずっとしている。予感と言うよりも、この先に何が起こるのかを既に理解していると言った方が正しいのかもしれない。
「嫌だな」
理解した所で、戻るという選択肢はない。
気休めだという、彼女からもらった石を握り締めながら、荒れた獣道をただ進み続けた。
「お祖母ちゃん……?」
しんと静まり返った祖母の家に、眉を寄せながら玄関を上がる。
花の匂いが風に乗って届く。どこかの窓が開いているのだろうか。石を握り締め、足音を殺して家の奥へと進んでいく。
風はどうやら、祖母の部屋がある方向から吹いているらしい。近づく度に花の香りが強くなり、胸が早鐘を打ち始める。
行きたくはない。そう思いながらも、足を踏み出した時だった。
「また来たね」
静かな声がした。
振り返ると、玄関に座り笑顔で手を振る彼女がいた。
「なんで……?」
小さく呟くと、彼女は目を瞬いた。心底不思議そうに首を傾げ、立ち上がる。
一歩、彼女が近づく毎に、背後から音がした。板張りの廊下が軋み、何かがゆっくりとこちらに近づいてきている。
「止めた方がいいよ」
彼女の無邪気な声が、音を確かめるため振り向こうとした動きを止めた。そのまま動けずに、立ち尽くす。
彼女と背後の何かに挟まれて、息を呑んだ。鼓動が痛いほどに鳴っている。
風が吹いて、花と焦げた匂いを運ぶ。嫌な予感に、心臓が嫌な音を立て始めた。
彼女は誰なのか。後ろにいるのは何なのか。
耐えきれなくて、石を握り締め目を閉じた。
「予感なんてね。起きてしまったことの、再現でしかないんだよ」
彼女の声がした。慰めるように、小さな手が石を握る手を包む。
「起きてしまったことはなくならない。どんなに繰り返しても、それはすべて同じ結末に至るんだよ……例えそれが、夢の中のできごとだとしてもね」
手の中の石が熱を持つ。熱くて思わず手を離せば、ぱりん、と硝子の割れたような音が鳴った。
驚いて目を開けた。
「――え?」
視界に広がるのは、一面の黒。そこは祖母の家ではなかった。
目の前で彼女が笑う。背後に気配は感じられず、振り返っても、そこには何もなかった。
「いない?」
「いないよ。最初からね」
その言葉に、これは夢なのだと理解した。
ならば、これから行うべきことは一つだけだ。
「じゃあね。忘れることはできないだろうけど、せめて引き摺らないように」
彼女は一点を指差し、手を振った。それに頷いて、指差した方へと歩き出す。
見上げれば、いくつもの青白い光が瞬いていた。それは炎のようにゆらりゆらりと揺らめいている。
視線を下ろせば、向かう先にも光が見えた。丸く、白い光。暖かなそれに惹かれて、次第に足が速くなる。
近づくほど大きくなる光に、迷いなく飛び込んだ。視界が白に染まり、そこで意識は途切れた。
目が覚めれば、白い病室のベッドで横たわっていた。
体が重い。視線だけで辺りを見回していれば、不意にカーテンを開かれた。
「っ、起きたか……!」
驚いた顔をした父が、その次の瞬間には泣きそうに顔を歪めて抱きついてきた。
「ごめんな。様子を見に行ってほしいなんて言わなければ」
声が震えている。泣くのを耐えて、父は只管に謝罪の言葉を繰り返した。
ぼんやりとした意識がはっきりするにつれ、ある予感が胸を過る。
けれど、きっとそれは予感などではないのだろう。
20251021 『予感』
「よぉ!久しぶりだな!」
玄関を開けた瞬間に、視界が真っ暗になった。
風が吹き抜け、髪や服を揺らす。ふわりと辺りに潮の匂いが満ちていく。
内心げんなりしながらも、彼の胸を叩いて息苦しいだけの抱擁から抜け出した。彼の故郷ではこれが親しい者に対する挨拶だというが、慣れない身としては困惑するばかりだ。
「また大きくなったか?以前はこんなに小さかったのにな」
ぐしゃぐしゃと、頭ごと髪を掻き回されて視界が回る。楽しそうに親指と人差し指で隙間を作り小ささを表現する彼に、耐えきれず溜息が漏れた。
「そんなに小さいわけない。これから出かけるんだから、さっさとどっか行って」
「酷いな。俺とお前の仲だろう?そんなに冷たいことを言わないでくれよ」
笑みを崩さず擦り寄る彼に、顔を顰めてみせる。
またこの時期が来てしまった。
秋の暮れから春の始まりまでの間だけ現れる彼は、自分以外には見えないらしい。そのため彼はここにいる間の殆どを、自分の家や周りで過ごす。
溜息を吐く。また春の別れに苦しまなければならないのか。
胸に巣食う痛みが、強くなった気がした。
「なんでそんな、腹に溜まらないものを食ってるんだ」
呆れた声と共に、背後から伸びた彼の手が朝食を取り上げた。
振り返り文句を言うよりも早く、机の上に何かが置かれる。見ればそれは、皮の剥かれた果物が盛り付けられた皿だった。
「食うなら、こっちにすればいい。美味いぞ」
彼の指が葡萄を一粒摘まみ、口に押し当てられる。
眉を寄せ、首を振る。取られた朝食に手を伸ばせば、彼は肩を竦め溜息を溢した。
「こんなどろどろしたものなんて、美味くないだろうに」
口元に押し当てられていた葡萄を食べながら、朝食を机に戻す。不満げな表情をする彼から視線を逸らし、少しばかり冷めてしまった朝食を口にした。
味など関係ない。夏を迎える前に、味覚は感じられなくなっていた。
原因は分からない。春が訪れ、彼と別れてしばらくしてから、この体は原因不明の病に冒され衰弱していっている。もう固形物は、葡萄一粒さえ受け付けないのだ。
彼には何も告げてはいないが、おそらくは気づいているのだろう。感情の読めない彼の目が、こちらを見つめていることが増えていた。
「なぁ、俺たちの関係は何だ?」
不意に問われ、首を傾げる。
意味が分からず視線を向けるが、彼はやはり感情の読めない目をしてこちらの答えを待っていた。
自分たちの関係など、彼が一番良く知っているはずだ。ただの気まぐれか、それとも意味があるのか分からない。だが答えを待つ彼を見て、仕方がないと小さく息を吐き、口を開いた。
「友達」
friend。彼が普段から口にする言葉だ。
「そうだ。Friends are meant to be together always.だからお前は、俺が来ると家に招き入れ、もてなしてくれるんだろう?」
違うと否定しかけた言葉を呑み込む。
彼を招く理由は、自分でも分からない。ただ毎年訪れを待ちわびるほどには、彼に好意を抱いているのは確かだった。
彼の手が頭を撫でる。その優しさに何も告げられず、誤魔化すように俯いた。
冷たい風が、部屋の中を吹き抜けた。
胸の痛みを覚えて、ベッドの中で背を丸め、声を殺して耐える。
ベッドが軋み、布団の上から大きな手が背を撫でた。痛みや息苦しさが次第に引いて、詰めていた息を吐く。
布団から顔を出せば、いつものように表情の読めない目をして彼がこちらを見つめていた。
「どうしたの?」
問いかける声は、酷く掠れている。彼は僅かに目を細めただけで、何も言わず頭を撫でた。
かたかたと窓が音を立てる。外では風が吹き荒れているらしい。
冬が訪れようとしている。きっと自分は冬を越せないのだろう。
彼に告げなければ。そうは思うのに、彼の目を見ると言葉が紡げない。
「Friends are meant to be together always. Isn't that right?」
不意に彼が呟いた。けれど何を言っているのかは、よく分からない。
酷く疲れている。瞼を開けていられず、ゆっくりと目を閉じた。
彼の手が、頭から閉じた瞼を伝っていく。頬をなぞり、唇に触れた。
窓ががたがたと鳴っている。過ぎていく風を感じて、外ではなく家の中で風が吹き荒れていることに気づいた。
「お前のために、とびきり美味いものを用意したんだ」
彼が笑う気配がする。ぎしりとベッドが軋んで、指が唇を割った。
「――あ」
感じたのは冷たさ。そしてとろけるような甘さ。
唇を割り、差し入れられた何かを促されるままに飲み込む。
渇きを潤す瑞々しさを感じながらうっすらと目を開けると、彼は笑みを浮かべて囁いた。
「美味しかっただろう?もっと食べるか?」
布団を剥ぎ、体を起こされる。
彼の手には、皮が剥かれた葡萄が一粒。唇に押し当てられれば、自然とそれを受け入れてしまう。
瑞々しい果肉が口の中に広がって、くらくらするほどの甘さが喉を通り過ぎていく。
体が熱い。それなのに震えが止まらない。
「See? Now we're friends. We'll always be」
彼の言葉が、頭の中で反響する。彼の国の言葉が揺らいで、自分の国の言葉に変わっていく。
「分かるか?これで友達になった。これからずっとな」
次々と与えられる果実を食み、その度に体が熱を持つ。
次第に体から力が抜けて、彼に凭れかかった。差し出される果実をもう受け入れられない。
ぼんやりと果実を見つめていれば、褒めるように頭を撫でられた。
「――どうして?」
微かに呟けば、彼は瞼に唇を触れさせながら笑う。
「何度も言っただろ?友達というのは、常に一緒にいなければ……お前はそれを否定しなかった」
そう言えばと、ぼんやりと霞む記憶を辿る。
彼は時折何かを言っていた。聞き流していたが、それを彼は同意だと捉えてしまったのか。
「若い体を弱らせるのに時間がかかったが、ようやく連れて行ける。俺と同じになり、ひとつになるんだ」
彼の指が胸に触れる。弱い鼓動を楽しみ、そしてとどめを刺すように、指を沈めていく。
「――っ!」
悲鳴は喉の奥に張り付いて、言葉にはならない。
彼は胸の中に沈んだ指が脈打つ命を掴み、
「これで、ずっと一緒だ」
ぞっとするほど優しく囁いて、掴んだ命を引き抜いた。
時を止めた自分の体を、ただ見つめていた。
「そろそろ行くぞ」
腕を引かれ、視線を向ける。
そこには誰もいない。腕を掴まれたと思ったが、本当に腕を掴まれているのかも、定かではない。
体が軽かった。輪郭が朧気で、自分が本当にここにいるのかも、分からなくなってくる。
思考が定まらない。自分という意思が、なくなってしまったかのように。
「さて、最初はどこに行こうか」
彼の声がする。言葉と引かれる感覚に、部屋の外へと歩いていく。
床を踏み締める感覚も曖昧だった。歩いているつもりで、宙を漂っているのかもしれない。
暖かな熱に包まれている感覚がする。彼の輪郭と自分の輪郭が重なって、一つになっているようで落ち着かない。
「俺たちは一緒だ。friends《友達》は個じゃなくて、複数だからな」
くすくすと笑う声がすぐ隣で聞こえた。あるいはそれは自分の口から発せられたのかもしれない。
「すぐに慣れるさ。人間というひ弱な生き物よりも、強くて自由なモノになったんだ。嬉しいだろう?」
外に出て、空を見上げた。遠いはずの青空が、とても近く感じる。
一筋溢れたと思った涙は、気のせいだったのだろうか。
見えない手を伸ばす。その手を熱が包み込む。
吹き上げる風に乗るように、手を引かれ導かれるままに。
空高く舞い上がった。
20251020 『friends』
歌が聞こえていた。
いつからか聞こえるようになった歌。優しく穏やかで、どこか切ないその歌を、誰が歌っているのかは分からない。
けれど眠れない夜にそっと囁くような歌声は、自分の日常の一部になっていた。
例えば、友達と喧嘩をして一人泣いた夜。歌声はすぐ側で、静かに優しい旋律を奏でてくれた。試験の前日。緊張で眠れないでいれば、穏やかな歌声が柔らかく響いていた。
悲しい時も、嬉しい時も、夜に歌声は響いている。その歌と共に、自分は大人になった。
窓辺に寄り、カーテンを開ける。煌びやかな街の灯りが強すぎるのか、空に星を見ることはできなかった。
遠くに小さく浮かぶ白い三日月が、どこか寂しげに見えた。
窓を開ける。耳を澄ませ、街の喧騒の中から歌声を探す。
微かに聞こえる歌に聞き入りながら、小さく笑みを浮かべた。
「君は、誰なんだろうね」
そっと呟く。
答えがないことは知っている。何度問いかけても、歌声以外に、言葉は返らなかった。
歌声の主が誰であろうと、怖れる気持ちはない。それほど長く、歌声と共に過ごしていた。
知らなくとも構わない。だが知りたいと思ってしまうのは、純粋に言葉を交わしたいと願っているからだ。
側にいてくれたことへの感謝を、直接伝えたかった。
「いつも歌ってくれて、ありがとう。とても素敵な歌だよ」
返事が返らなくとも気にせず、いつものように空へ向けて言葉を紡ぐ。見上げる小さな三日月が、静かに微笑んだ気がした。
「どう致しまして。こちらこそ、いつも褒めてくれてありがとう」
不意に声がした。
弾かれたように、振り返る。薄暗い部屋の中、視線を巡らせれば、ソファで小さな影が揺れていた。
「君は……」
声をかければ揺れる影は動きを止め、首を傾げた。
「あら?私が見えているの?」
心底不思議そうな声音。影はソファから立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
近くで見ても、影は影のまま。その表情は僅かにも見えはなしない。
不思議と怖いとは思わなかった。寧ろ暖かで優しい気配を感じ、自然と笑みが浮かんでくる。
「君が、いつも歌ってくれていたの?」
そう尋ねれば、影は誇らしげに胸を張ったように見えた。
「そうよ。あなたはいつも夜更かしをするんだもの。寝かせるのが大変だったわ」
態とらしく溜息を吐いてみせ、影は笑う。子供のような無邪気さに、苦笑しながらも眉が下がる。
「ごめんね。君の歌声に気づいてから、歌を聴くために起きていたんだ」
「でしょうね。あなたはいつも、私の歌を褒めてくれたもの」
くすくすと、影が笑う。
楽しそうに窓辺でくるりと回る影が月明かりを浴びて、一瞬だけ少女の姿を浮かばせた。
「私の母から継いだ歌なのよ。相手の幸せを祈って歌うの」
そう言って、影は歌を口遊む。その輪郭はぼやけ、夜に滲んでいる。
街の灯りが強すぎるのだろう。星のように、灯りが影の姿を掻き消してしまうのだ。
何故かそんなことが思い浮かび、寂しくなった。
「大丈夫よ」
俯く自分に、影は優しく囁いた。
「私がこれからも見守っていてあげるから。だから胸を張って生きればいい……大丈夫。眠れない夜には、また歌ってあげるから」
「どうして……?」
疑問が湧き上がる。
影が歌う理由。見守る理由。
影が誰なのかも、自分は何一つ知らなかった。
思わず口に出せば、影は首を傾げた。
「どうしてって……当然じゃない」
腰に手を当て、影は胸を張る。
どこか誇らしげに、影は告げた。
「だって私、お姉ちゃんだもの!」
不意に、周囲が暗くなった。
窓の外を見れば、いつの間にか周囲には深い霧が立ちこめていた。
不思議なことに霧は街の灯りを覆い隠すだけで、見上げた空は晴れ渡っている。煌々と輝く三日月が、瞬く星々の中心に浮かんでいた。
「そろそろ寝なさい。夜更かしは体に悪いのよ」
優しい声に促されて、おとなしくベッドに向かい横になる。
頭を撫で、歌を紡ぐ少女の姿が月上かりに照らされる。その姿は、彼女のいうように姉のように優しく穏やかだ。
どこかで見たことのある、その姿。微睡む意識の中で、ふと思い出す。
曾祖父の遺影の隣に飾られていた、女性の写真。月明かりに見えた少女と、その女性の面差しが重なった。
その女性について子供の頃、両親に尋ねたことがあった。
曾祖父の姉だという、写真の女性。彼女は亡くなった母親の代わりに曾祖父を育て、守り続けたのだと言う。
曾祖父の結納の次の朝に静かに亡くなった彼女は、正しく姉であり母であったのだろう。
「おやすみなさい。良い夢が見れるように歌っていてあげるわ」
静かな旋律が、意識をさらに沈めていく。
暖かな歌だ。幸せを願う、祈りの歌。
彼女の願うように、沈む意識の先で優しい夢を見る。
両親と、弟と、青空の下で笑い合っている。
日常の一場面。他愛もない話をして、笑い、歌う。そんな些細なことに、幸せを感じる。
母の歌を口遊む。旋律に言葉を乗せて、紡いでいく。
歌えることが嬉しかった。
誰かのために祈れる幸福を、初めて知った。