目の前が見えないほど深い霧の中を、当てもなく歩き続けている。
一体どれだけの時間が経ったのだろうか。変わらぬ景色からは、時間の流れを察することはできない。
立ち止まり、息を吐く。胸に手を当てると、とくとくと暖かな鼓動が感じられ、密かに安堵した。
まだ生きている。まだ歩き続けることができる。
顔を上げる。再び足を踏み出せば、霧の向こうが僅かに揺れた気がした。
初めて見る変化に、そちらに向けて歩き出す。ゆらゆらと揺れる何かが輪郭を纏い、誰かの影を形作っていく。
不意に、強い光が差した。
突然の光に目を細めながらも、影を見続ける。
正確には、目を逸らせなかった。
光によって大きく、濃くなった誰かの影。
その頭には、二本の角が生えていた。
「――という、夢を見ました」
両手で持ったマグカップに息を吹きかけながら、少女はそう締め括った。
「そうか……」
何とも言えない表情で相づちを打つ男に、少女は咎めるような視線を向ける。期待していた答えではないだろうことは少女の表情が物語っている。だが突然家に押しかけられ、前触れもなく夢の話をされた男としては、それ以外に言えるはずもない。
「ちゃんと人の話を聞いてました?」
「聞いてた。聞いてて、それしか言葉が出てこないんだよ」
男の言葉に少女は頬を膨らませるが、何も言わずにマグカップに口をつけた。すっかり機嫌を損ねてしまった少女に、男は疲れたように溜息を吐いた。
「所詮は夢の話だろう?何をそんなに気にする必要があるんだ」
「だって夢の中で見た影は、誰かに似ている気がしたんです」
問いかければ、少女は膨れながらも呟いた。
視線だけを男に向ける。その目は、表情とは裏腹に酷く凪いでいた。
「――叔父さんに、似ていました」
小さな声に、男は目を瞬いた。
遅れてその言葉の意味を理解して、男の眉が僅かに寄る。それを気にすることなく、少女は静かに言葉を続けた。
「叔父さんだと思ったから、手を伸ばしたんです。なのに影は逃げていってしまった。まるで、霧の中から外に出ることに怯えているみたいに」
ゆらりと立ち上る湯気に、少女は視線を向けた。
夢の中の霧よりも、遙かに薄いその湯気をぼんやりと見つめながら、少女はふっと息を吐く。
息で湯気が散り、再び立ち上る。それを繰り返す少女の表情は凪いでしまって、何を思っているのか察することができない。
「所詮は、夢の話だろう」
「そうですね。夢の話です」
そう言って、少女は男を見た。湯気越しに男の姿が揺らぎ、一瞬だけ二本の角が現れた。
少女は、それを見ても表情を変えない。ただ真っ直ぐに男を見つめ、だから、と呟いた。
「ただの独り言だと思って、忘れてもらっていいんですけど……全部から隠れる必要はないと思うんです。周りと姿形が少し違うから、在り方が違うからといっても、それは恥ずかしいことじゃない。人は違うものを怖れて排除しようとする生き物だけど、人類すべてがそうだという訳でもない……最初から全部怖がって引きこもっているのは、とても勿体ないことですよ、叔父さん」
息を吐き湯気を散らして、少女はマグカップの中身を飲み干した。途端に顔を顰めて、舌を出す。どうやら舌を火傷したらしい。
男は詰めていた息を吐いて。静かに立ち上がった。台所へ向かい、コップを手に冷凍庫を開ける。氷を入れ、今度は冷蔵庫からミネラルウォーターを出してコップに注ぎ、部屋へと戻る。
未だ顔を顰めている少女にコップを手渡すと、ついでとばかりに頭を強く撫でた。
「ちょっと!髪の毛ぐしゃぐしゃになったじゃない」
「別に結わえてる訳じゃなし、すぐ戻るだろうが……相変わらず、変な奴だな」
男の言葉に少女は顔を背け、コップに口をつけた。氷を口に含み、転がしながら舌を冷やす。
互いに何も言わず、沈黙が場を満たす。時折、かりと少女が氷に歯を立てる音が、やけに大きく聞こえた。
「――所詮夢だから、話半分に聞き流せばいいが」
不意に男が呟いた。少女は何も言わず、視線だけを男に向ける。
「別に引きこもってる訳じゃあない。お節介な誰かさんが煩いから、その場を離れただけだ」
「随分と失礼な言い方」
「事実だろう。どこへ行こうが、いつまでも着いてくるんだから……たまには一人でゆっくり過ごしたい時もある」
そうは言うものの、男の表情は先ほどよりも穏やかだ。少女はそんな男を一瞥して、コップの中の氷を口に含んでは噛み砕いていく。
拗ねた子供の仕草に、男は笑う。それに一層眉を寄せ、少女は無言でコップの中身を飲み干して、
「帰る」
態とらしく頬を膨らませながら、立ち上がった。
目の前が見えないほど深い霧の中、一人その場に佇んでいる。
辺りには何の気配もない。腕に抱いていたはずの幼子も、風に攫われ土に還ってしまった。
胸に手を当てる。どくどくとした無機質な鼓動に、顔を顰めた。
まだ死なない。まだ動き続けなければいけない。
嘆息して俯いた。幼子の温もりを思い出すように自身の手を見つめていれば、不意に音が聞こえてきた。
誰かの足音。軽い足取りで、こちらに近づいてくる。
顔を上げ、目を細める。静かに後退りながら、それ以上近づくなと願っていた。
不意に、強い光が差した。
自身の影が霧に浮かぶ。角の生えた異形の姿。
足音が止まった。影に恐れを成したのか、それ以上近づいてくる様子はない。だが立ち去る気配もなかった。
「大丈夫だよ」
声がした。霧の向こう側から白い手が伸ばされる。
思わず手から距離を取るように数歩、後退る。見つめる先の手は差し出されたまま、取られるのをただ待っているようだった。
「大丈夫」
声が繰り返す。感情の凪いだ、それでいて柔らかな声音。
それはいなくなった幼子を思わせて、一歩前に足を踏み出した。
そっと手を伸ばす。差し出されたままの手に、自身の手を重ね握った。
懐かしい温もりを感じて、気づけばその手を引き、華奢な体を抱き寄せていた。
「ちょっと……!」
言いかけた言葉ごと、胸の中に閉じ込める。
忘れかけていた温もり。
ようやく、帰ってきた。
「――おかえり」
そっと囁く。その言葉に、顔を上げた少女は目を瞬いて。
「ただいま!」
柔らかな微笑みを浮かべて、声を上げた。
20251018 『光と霧の狭間で』
さらさらと、音が聞こえる。
落ちていく砂の音。普段ならば、気にも留めないような微かな音。
小さく咳き込めば、忽ち掻き消えてしまう。耳を澄ませても、もう聞こえはしなかった。
どこから聞こえてきたのか、聞こえなくなった今では知りようがない。だが何故だろうか。それがどこから聞こえていたのか、分かるような気がした。
――胸の中。
あれはきっと、自分の命の音だった。
「おはよう」
穏やかな声に、目を開ける。
「――おはよう」
小さく言葉を返せば彼は淡く微笑んで、部屋のカーテンを開けた。
差し込む陽の光の眩しさに、思わず目を細める。開けた窓から入り込む風が運ぶ、冷たく澄んだ秋の空気吸い込んだ。
「調子はどうだ?」
「とても良いよ。ここ最近は、ずっと苦しくない」
胸に手を当てれば、とくとくと規則正しく刻む鼓動を感じる。暖かく、優しい。この鼓動を刻んでいた、本来の主のように。
込み上げてくる涙を、きつく目を閉じることで耐える。
いつまでも泣くのはいなくなった彼女を否定するようで、無理矢理に笑みを作ってみせる。
「無理はするな。泣きたいなら、泣いていい」
彼に頭を撫でられる。髪の毛を乱すような雑さは、きっと彼なりの優しさなのだろう。作ったものではない笑みが溢れて、けれど涙も溢れ出してしまう。
「どうして……」
呟きかけた言葉を、唇を噛みしめることで呑み込んだ。
言葉にしてしまえば、止まらなくなってしまう。もう二度と届かない暖かな手を追ってしまいたい衝動を、只管に耐えていた。
「どうしてだろうな」
頭を撫でながら、彼も同じように呟いた。
「いつもそうだった。誰かのために迷わず手を差し伸べる。お人好しというか、考えなしというか……あいつは最後まで、助けた子供ばかりを心配していたな」
微笑む彼女の姿が思い浮かんで、涙が止まらない。
彼に縋り付き、声を上げて泣いた。どうしてと、寂しいと口にして、いなくなった彼女を只管に呼び続ける。
「本当に馬鹿だよ、あいつは。置いていかれる誰かの苦しみには、最後まで気づこうとしなかったのだから」
泣く自分とは対照的に、彼の声音は凪いだ海のようにとても静かだった。
さらさらと、音が聞こえた。
目を開ける。灯りの消えた室内は、ひっそりと静まりかえっている。
見える範囲には、音を立てる何かはない。体を起こして、音の在処を探す気もなかった。
ただ耳を澄ます。微かに聞こえる砂の音は決して止まることなく、急ぐこともない。それに彼女を感じて、途端に込み上げる苦しさに目を閉じた。
不意に、頭を撫でられた。
優しく繊細なその手つきに、息を呑む。
「泣かないで」
柔らかな声音。離れたくなくて、頭を撫でる手を取り目を開けた。
「――え?」
そこは暗い部屋の中ではなかった。
ざざ、と波の音がする。目の前で波が寄せては返していく。
見上げた空には青白い月が浮かび、無数の星々が煌めいていた。
夜の海辺で一人、座っている。
手の温もりはあるのに、そこには誰もいない。
「どうして……」
「泣かないで」
込み上げる涙を、見えない手が拭う。掴んでいた温もりがするりと消えて、代わりに抱き締められる腕の温もりを感じた。
「大丈夫。ちゃんとここにいるよ」
そっと囁かれる言葉と共に、さらさらと音が聞こえた。
砂の落ちる音。波の音と混じり合い、夜に解けていく。
見えない彼女に凭れながら、耳を澄ませた。砂の音は彼女からは聞こえない。それが悲しくて、涙が零れ落ちていく。
「――どうして、助けたの?」
子供を。そして私を。
自身を犠牲にしてまで誰かを助けるその行為を、理解できない。分かるのは、その献身で残される側の哀しみだけだ。
「それが私の本質だから、かな」
「本質?」
小さく笑う声がした。波のように静かに、穏やかに、彼女は言う。
「変わることのない根っこの部分。どんなに姿形が変わっても、周りが変わっても同じなのよ」
慰めるように、彼女が背を撫でる。昔から変わらない、その手の温もり。
別れは仕方がないことだと彼女は言う。その言葉一つで、すべてを受け入れられる程、大人にはなれなかった。
見えない彼女にしがみつき、嗚咽を溢す。離れたくないのだと手に力を込めれば、背を撫でる手がさらに優しくなった気がした。
「泣かないで」
静かな声が告げる。
泣きながら首を振る自分に、見えない彼女の手がそっと胸に触れた。
「私はここにいる。ちゃんと側にいるから」
彼女の手越しに、そこに触れる。緩やかな鼓動と、落ちていく砂の音を感じて、次第に意識が微睡んでいく。
「私の砂と、あなたの砂。二つが混じって、ひとつになった……ここにいるから、自由に生きて」
目を閉じて、小さく頷いた。
閉じた瞼の裏側に微笑む彼女を見て、涙と共に笑みを溢す。
鼓動の音と、砂の音。そして波の音が混じり合っていく。重なり合い、ひとつになって、小さな形を作っていく。
月明かりを浴びた波のような煌めく砂で満たされた、真白い砂時計。
さらさらと砂が落ちていく。落ちた砂は弾けて煌めき、波に攫われ海に還っていく。
「――おやすみなさい」
波のような彼女の声を聞きながら、意識が落ちていく。
寂しさも哀しみも感じない。
あるのは、揺り籠に揺られているような穏やかさだけだった。
目を覚ますと、そこはいつもの部屋の中だった。
体を起こし、そっとベッドから起き上がる。息苦しさは感じない。確かめるようにゆっくりと呼吸をした。
一歩、足を踏み出した。床の冷たさが素足から伝わり、意識が鮮明になっていく。
ゆっくりと窓へと歩いて行く。不思議な高揚感に、鼓動が跳ねた。
手を伸ばす。カーテンを引けば、途端に差し込む眩い光に、一瞬だけ目が眩んだ。
窓を開けて、外の空気を取り込む。見上げる空は、雲一つない快晴。暖かな陽射しに、笑みが浮かぶ。
「もう起きてたのか」
聞こえた彼の声に、振り返る。少しだけ驚いた表情をした彼の元へ歩み寄る。
「おはよう」
「おはよう。歩いて大丈夫なのか?」
彼の言葉に、笑って頷いた。
「お願いがあるの」
「なんだ?」
首を傾げる彼に、窓の外を指差した。
今日はきっと、出かけるのに良い日だろうから。
「海を見に行きたいの」
遠く聞こえる波の音を聞きながら願う。
すぐ側で、彼女が穏やかに笑っている気がした。
20251017 『砂時計の音』
見上げる夜空の一角。四角く切り取られたかのように、星のない場所があった。
きつく睨みつけても、星が戻ることはない。それでもしばらく見つめていたが、やがてその行為の無意味さに空しくなって、目を逸らした。
先日、代々伝わる、祖先が書き残した星図の一枚が姿を消した。その一枚が記していた空から星が消えたと伝えた家の者は、数日後、忽然と姿を消してしまった。
まるで星のようだ。誰も何も言わなかったが
皆思うことは同じだった。
このまま、星図が戻らなければどうなるのか。
そもそも、星図はどこへ行ったのか。
何も分からない。分からないからこそ、探しに行かなければ。
きつく手を握り締める。最後にもう一度空を見上げ、祖先が星図を描いていたという、かつての屋敷に向かい歩き出した。
最低限の手入れだけはされている屋敷は、不気味な静けさを湛えていた。
息を殺して、鍵穴に鍵を差し込む。誰もいないのだから気配を殺す必要はないと思うものの、屋敷の空気がそうさせた。
鍵を開け、戸を開く。からからと戸が開く音が、やけに大きく聞こえて途端に落ち着かなくなった。
玄関に入り、戸を閉める。靴を脱いで上がった時、廊下の先で何かが動いたような気がした。 咄嗟に出かかる悲鳴を噛み殺す。視線を向けるも、そこには何の気配もない。
深く深呼吸をして、ゆっくりと足を踏み出す。
何か手がかりが見つかるかもしれない。そんな思いで、恐怖に耐えながら廊下の奥を目指した。
「あなたが来たのですね」
奥座敷の障子戸を開けた瞬間に聞こえた声に、思わず肩が震えた。
視線を向ける。暗い部屋の中心で、座る誰かが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「これは僥倖。一族の中で、あなただけが我らの祈りを継ぐことができるのだから」
不意に、誰も触れていない行灯の明かりが点いた。座る誰かの姿が露わになり、小さく息を呑む。
彼は先日姿を消した、星図が消えたと告げた者だった。
「――兄様」
呟きながら、その言葉の違和感に眉が寄る。彼は兄ではない。目の前にいる彼のことを、自分は見たこともなかった。
だというのに、体は躊躇いなく彼の元へと歩き出す。立ち上がる彼に寄り添い、促されて屋敷のさらに奥へと向かっていく。
どこへ行くのだろうか。その疑問に答えるように、自分の中の何かが離れへと向かうのだと告げている。
離れで、再び星図を描き直すのだと。
「星図に描かれている星を、理解していますか?」
不意に問われ、彼を見る。何かが告げるその答えを、言葉として紡いでいく。
「神様」
「そうです。我らが畏れ、奉ってきた神々。陽であり、雨であり、そして人でもある」
静かに頷いた。時の流れと共に忘れ去られてしまっていたことを、何かが語る。
ようやく思い出せた。不思議に安堵感を覚えて、小さく息を吐く。
気づけば、離れの一番奥の部屋の前まで来ていた。
彼が障子戸に手をかける。
音もなく開かれた戸の先に、星空が広がっていた。
「祈りを忘れ、存在を忘れた神々を、あなたの手でもう一度描くのです」
彼の指差す部屋の中央には、一枚の紙と、硯と筆が置いてあった。
消えてしまった星図だ。神々のために、描かなければ。
部屋の中へと、一歩足を踏み出す。しかし手を掴まれて、それ以上は足を進めることができなくなった。
「兄様?」
手を掴む彼に視線を向ける。
無意識だったのだろうか。その表情は自身の咄嗟の行為に、困惑しているように見えた。
「兄様」
声をかけると彼は唇を噛みしめ、俯いた。震える手が静かに離れていくのを、何故か寂しいと感じてしまう。
これは自分の感情なのか、それとも誰かの感情を感じているのか、区別がつかない。部屋の中の星空はどこまでも広がっていて、自分と自分以外の境界が酷く曖昧になっている気がした。
微睡むように、意識が揺らぐ。けれどもどんなに離れがたく感じても、行かなくてはいけない。その意思だけは強くあった。
「――我が妹よ」
凪いだ声音が呼ぶ。顔を上げた彼の顔もまた、先ほどの乱れはない。
彼は穏やかに微笑みを浮かべる。持ち上げた手にそっと髪を梳かれ、目を細めた。
「忘れ去られ、地に落ちたことを悲しく思う。だが、愛しいお前に再び逢えて、とても嬉しいよ」
「私もです。兄様」
髪を梳く手を取り、頬を寄せる。そして名残惜しさを感じながらも、その手を離した。
「行ってまいります」
「あぁ、行っておいで。私はいつまでも、この場から柱となったお前たちを想い続けていよう」
彼は今度は引き留める様子はない。微笑んで、部屋の中へと足を踏み入れる。
部屋の中央。紙と硯の前で座り、筆を取る。
空を見上げずとも、星の位置が分かる。まるで導かれるように、墨を吸わせた筆で星を描いていく。
不思議な感覚だった。一つ星を描く毎に、自分の中の何かが抜け落ちていく。それを怖ろしいと感じるのに、手は少しも澱まず星図を描き続けている。
不意に、声が聞こえた気がした。
風や星、空が囁いている。それは祈りの詞となって、描いた星図を煌めかせる。
星図は、名もなき神々を描いている。
描き終わった星図を前にして、急に畏れが込み上げた。
筆を置き、手を合わせる。
目を閉じれば、悠久の時の流れに乗って、恋しいと詠う声が聞こえた。
夜が明けた。
屋敷の中には誰もいない。静謐に満たされた屋敷は、まるで眠っているかのようにも見えた。
不意に、どこからか風が入り込んできた。
風は迷うことなく奥へと向かい、離れの一室へと吹き抜けていく。
その部屋の中央に、一枚の古ぼけた星図があった。風は星図を舞い上げて、外へと駆け抜けていく。
外で色づく葉のように、星図が揺らめきながら落ちていく。音も立てず畳に落ちた星図は静かに煌めき、霞み解けていく。
残るものは何もない。
遠くでかたり、と音がした。玄関の戸が開き、外から誰かが屋敷に入ってくる。
板張りの廊下を軋ませ、奥へと進む。離れの一室の前で止まり、障子戸を開いた。
陽を連れて、小さな影が部屋へと足を踏み入れる。その中央で足を止め、膝をついた。
手を合わせ、目を閉じる。
陽を浴びて伸びる影に、いくつもの星が煌めいていた。
20251016 『消えた星図』
「例えばさ。今の私のあなたへの愛情から、あなたと出会って初めて知った私の恋を引いたら、何が残るんだろう?」
穏やかな午後。食後の微睡みに沈みかけていた意識が、彼女の唐突な言葉で一気に覚醒する。
目を瞬いて、彼女を見た。真剣な眼差しで考え込む姿に、何と声をかければいいのかを迷う。
「そもそも愛とか恋とかって、本当にあるのかな?目に見えないし、ただ思い込んでいるだけなのかな」
彼女はいつも、答えのないことを考えている。折角先の見えない死の病から解放されたのだから、もっと幸せに過ごしたらいいだろうに。
そうは思うが、そんな所も可愛いと思ってしまえるのだから、愛とは不思議なものだ。苦笑して、気怠い体を起こして彼女を見た。
「あのさ。答えにはならないかもしれないけれど」
そう前振りをして、彼女の煌めく瞳を見ながら微笑む。
「愛という真心から、恋という下心を引いたら。残るのはさ」
ふと思い浮かぶ、誰かの背。
少しでも伝わればいい。
そんなことを願いながら、思いを口にした。
「それはきっと、祈りだと……そう思うよ」
「祈り?」
彼女は首を傾げ、自身の両手を見た。
手を組んで、目を閉じる。真剣な表情をして、何かを思っている。
ややあって目を開けた時。彼女は一瞬だけ哀しみを目に浮かべ、そっと微笑んだ。
「よく分からなかった」
でも、と彼女は窓の外を見る。目を細めて空を見上げ、呟いた。
「兄さんはきっと……誰かのことを、ただ愛しているんだね」
その言葉に、彼女が何故唐突に愛や恋を語り出したかを理解した。
彼女の兄は、毎日欠かさず社で祈りを捧げている。誰の記憶からも抜け落ちてしまった誰かを、今も思い続けているのだろう。
「この前ね、何を祈っているかを聞いてみたの……あの子が幸せでいてくれますように、だって」
「そっか……」
「あの子は誰なのかは、何も言ってくれなかったけれど」
何も言わず彼女の側に行き、そっとその体を抱き締めた。
愛しい温もりを感じながら、彼女の兄が想い続ける誰かの姿を思い浮かべてみる。けれどそれは人の形を取ることもできず、霞んで解けて何も残らない。
「兄さん、何だか前と変わった気がする。必死で何かに縋ってたのがなくなって、穏やかさというか、静けさが残ったみたいで」
ただ頷いた。
彼の変化には、誰もが気づいている。それだけ彼は必死だった。
溢れ落ちていく記憶の欠片を掻き集めるように駆け回り、社に嘆願した。それを変えてしまったのは、きっと自分だ。
目を見開き、崩れ落ちる彼の姿。
――君だけは、覚えていてくれると思っていた。
微かな呟きを、忘れることはないのだろう。
その時感じた強い憎しみ、怒りにも似た感情も含めて。
「愛から恋を引くって、とても難しいな。私にはきっとできない。相手の幸せだけ願えないもん。二人で幸せになりたい」
「僕も同じだよ。一緒に幸せになりたい」
二人で一緒に。
願いを込めて告げれば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ふと、彼女は何かに気づいたように小さく声を上げた。こちらを真っ直ぐに見つめ、腕を伸ばして抱きつく。
「何となく分かった。祈りって、相手の幸せを願うことだ。そこに恋っていう、自分の幸せを願うと、二人の幸せを願う愛になるんだよ」
ふふ、と声を上げて彼女は笑う。
彼女の答えに、目を瞬いた。遅れて言葉の意味を理解し、彼女を強く抱き締め返す。
ただ胸が痛かった。形にならなかった誰かの姿が、一瞬だけ控えめに微笑む、自分によく似た少女の姿を浮かばせた気がした。
彼女を抱き締めながら、その姿を求めて自分の傍らを見る。
そこには誰もいない。浮かんだはずの姿も千々に解けて、何一つ残らない。
「どうしたの?」
不安げに顔を覗き込む彼女に、何でもないと笑ってみせる。
何もない。残ったものは、何もなかった。
込み上げる切なさに泣きたくなるのを誤魔化して、彼女の額に唇を触れさせた。
その夜、夢を見た。
特別な何かがある訳ではない。日常の続きのような、けれどもとても暖かな、幼い頃の夢を。
母と手を繋ぎ、もう片方もまた誰かと繋いでいる。視線を向ければ、その誰かは自分と同じ顔をしていた。
父と手を繋いでいるもう一人の自分が、笑いながら繋いだ手を揺らす。前髪に差したコスモスを模ったピンが、ゆらりと揺れていた。
強く風が吹き抜けて、思わず手を離した。気づけば両親の姿はなく、もう一人の自分とふたりきり。
その顔は影になって、もう見えない。白のスカートを揺らし、こちらに背を向けて去って行く。
「どうして……」
溢れ落ちた言葉に、柔らかな声が返る。
「彼のことが、好きだから。だから祈るの。彼の願いが叶うように」
声が、風に紛れて消えていく。体が端から解けてしまう。
手を伸ばすことも、声をかけることもできずに、ただ見つめていた。
からん、と鈴の音が聞こえた。
目を瞬けば、そこにはもう誰の姿もない。誰かがいたという記憶すら、薄れてなくなっていく。
じわりと白く霞み出す世界に夢の終わりを感じながら、両手を合わせ目を閉じた。
あの子は、献身を形にしたような少女だった。
控えめで、優しくて、暖かい。大切だったはずの半身。
彼女が考えていた愛から恋を引いたその答えは、きっとあの子のことをいうのだろう。
自分には、辿り着けない。彼女を愛してしまった自分は、恋という名の執着を手放せない。
唇が震える。けれどそれは言葉になる前に、微笑む誰かが止めた気がした。
20251015 『愛ー恋=?』
瑞々しい果実の控えめな甘さに、笑みが浮かぶ。
「おいし……」
「そう。なら良かった」
淡々とした声音。表情の変わらない彼女の手が、黙々と梨を切り分けていく。
少しだけ不格好に切られた梨は、どことなく彼女に似ている気がする。思わず溢れた笑いを誤魔化すように、また一つ切られた梨を取り、口をつけた。
「――それで?」
不意に問われて、視線だけを彼女に向けた。
「今度は何を『無』にしたいの?」
彼女の表情は凪いだまま。
責められている訳ではない。それは理解できるのにどこか落ち着かず、視線を逸らしながら梨を囓った。
「何度も言うけれど、全部『無』にはならないわ」
「――分かってる」
呟くも、それがただの虚勢だということは、きっと彼女にはばれてしまっているのだろう。
全部無くしてしまいたい。
噂を頼り、彼女の元を訪れた時に願ったことだ。
それを彼女は無理だと言った。彼女にできるのはほんの僅か、余分な記憶を『無』にすることだけなのだと。
小さな梨は些細な記憶しか、外へ流せないのだと言っていた。
「分かってる。でも『無』にしないと……そうしないと、駄目な気がする」
その理由は、自分でも分からない。ただ漠然と、そうしなければいけないと感じている。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ新しく切り分けた梨を皿に出され、おとなしくそれを口にする。
「おいしい」
しゃり、と口に広がる瑞々しさ。乾きを潤すように全身を満たして、次第に何かが無くなっていく。
「それでおしまいよ。食べたら帰って」
「あ、うん」
頷きながら、梨を囓る。
「――何か、話があった気がするんだけどな」
ぼんやりと形にならない、彼女への要件。梨を食べ終える前に思い出そうと思考を巡らすが、一向に思い出す気配はない。
「思い出したら、また来たら良いわ」
相変わらず彼女は淡々としている。
だが彼女の言葉も尤もだ。仕方がないと、思い出すのを諦め梨の瑞々しさと甘さを堪能することにした。
あれから数日が経ち、再び彼女の元へと訪れた。
「また来たの」
無表情に呟いて、けれど彼女は厭う様子もなく部屋の中へと招き入れられる。
椅子に座り、彼女が梨とナイフを手に戻ってくるのをぼんやりと見つめる。
梨の皮を剥き始める彼女に、きっと何度も繰り返しただろう望みを口にした。
「全部、無くすことはできる?」
「できないわ。この梨の大きさの分だけしか『無』にはならない」
こちらに視線を向けず、手を止めず、彼女は淡々と答える。
不思議と落胆はない。何度も繰り返し望み、断られたからだろうか。
「――全部無くさないと、どこにも行けないのに」
誰にでもなく呟けば、彼女の手が止まった。
彼女の凪いだ瞳が向けられる。何も言わず、その目をただ見返した。
「あなたは……あぁ、そうなのね。逆なんだ」
僅かに見開かれた目を瞬いて、彼女は何かに気づいたように微笑んだ。
「どういうこと?」
首を傾げる。だが彼女はそれ以上何も言わず、再び梨の皮を剥いていく。
くるくると皮が皿に落ちるのを何気なく見ていれば、皮を剥かれた梨をそのまま手渡された。
切り分けられていない、少しだけ歪な丸い果実。戸惑い彼女を見るが、彼女は静かにこちらを見ているだけだ。
そっと梨に口をつけた。しゃり、と音を立てて、瑞々しく甘い果実が口に広がり、喉を潤していく。
「おいしい」
目を細め、甘さを堪能しながら梨を囓る。芯を避けて果肉を食し、丸かった果実は細く痩せていく。
芯だけを残して梨を平らげれば、彼女は静かに歩き出し、扉の前でこちらを振り向いた。
「来て」
ただ一言告げられ、立ち上がり彼女の元へと向かう。残った梨の芯をどうするべきか迷うが、何となく持っていた方が良いような気がした。
彼女の後に続いて、外へと出る。裏に広がる梨畑の一角までくると、彼女はこちらを振り向いた。
「ここに種を植えるの。芯のままでいいから」
頷いて、膝をついた。柔らかな土を掻き適度に穴を掘ると、そこに梨の芯を落とす。
その行為を意味を、疑問には思わなかった。そうすることが正しいのだと、これでもう大丈夫なのだと感じて笑みすら浮かぶ。
穴に入れた梨の芯に土をかければ、不思議と心が穏やかになっていった。
「あなたのその記憶は生きた証。決して『無』にはならない」
「だからここで咲かせるの?」
埋めた芯を見ながら、思い浮かんだ言葉を口にする。彼女に頭を撫でられて、こそばゆさと気恥ずかしさに小さく笑い声を上げた。
「きっと綺麗な花が咲くわ。そして美味しい果実になるの……誰かのために生き続けたあなたの想いは、今度は別の誰かに寄り添い、余分なものを流してくれる」
「そっか……」
自分にとってもう必要ないものでも、誰かの役に立てる。そのことが、何よりも嬉しい。
見つめる先の土が盛り上がり、小さな芽が出た。代わりに自分の中の誰かの姿が消えていく。
自分の中の記憶を糧に、梨が生長していく。無くなっていくかつての自分を感じながら、穏やかな気持ちで微笑んだ。
「ありがとう」
彼女に、そしてかつての自分に感謝の言葉を述べる。
これでもう、自分は先に進める。また新しく始めることができるのだ。
立ち上がり、彼女に深く礼をする。頭を上げれば、優しい顔をした彼女に、もう一度頭を撫でられた。
「前のあなたの生はここに置いていくことになるけれど、あなた自身の本質は変わらないわ。だから次の生も胸を張って生きればいい」
そう言って、彼女は梨畑の先にある一本道を指差した。その先から差し込む光の強さに目を細める。
「変わらないんだ」
密かに安堵しながら、戯けて呟く。そうであるならば、道を踏み外すことはないだろう。
「そうよ。全部『無』にはならないの……さあ、いってらっしゃい」
彼女に見送られ、足を踏み出した。
次に向かうため余分なものをすべて置いていくからか、とても体が軽い。跳ねるような足取りで、道の先へと進んでいく。
光に向かい歩いていく。体が小さく解けていく感じに、微睡みに似た心地良さを感じる。
「いってきます」
誰にでもなく呟いて、目を閉じる。
暖かな水の揺り籠に抱かれる感覚に、身を委ねた。
20251014 『梨』