瑞々しい果実の控えめな甘さに、笑みが浮かぶ。
「おいし……」
「そう。なら良かった」
淡々とした声音。表情の変わらない彼女の手が、黙々と梨を切り分けていく。
少しだけ不格好に切られた梨は、どことなく彼女に似ている気がする。思わず溢れた笑いを誤魔化すように、また一つ切られた梨を取り、口をつけた。
「――それで?」
不意に問われて、視線だけを彼女に向けた。
「今度は何を『無』にしたいの?」
彼女の表情は凪いだまま。
責められている訳ではない。それは理解できるのにどこか落ち着かず、視線を逸らしながら梨を囓った。
「何度も言うけれど、全部『無』にはならないわ」
「――分かってる」
呟くも、それがただの虚勢だということは、きっと彼女にはばれてしまっているのだろう。
全部無くしてしまいたい。
噂を頼り、彼女の元を訪れた時に願ったことだ。
それを彼女は無理だと言った。彼女にできるのはほんの僅か、余分な記憶を『無』にすることだけなのだと。
小さな梨は些細な記憶しか、外へ流せないのだと言っていた。
「分かってる。でも『無』にしないと……そうしないと、駄目な気がする」
その理由は、自分でも分からない。ただ漠然と、そうしなければいけないと感じている。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ新しく切り分けた梨を皿に出され、おとなしくそれを口にする。
「おいしい」
しゃり、と口に広がる瑞々しさ。乾きを潤すように全身を満たして、次第に何かが無くなっていく。
「それでおしまいよ。食べたら帰って」
「あ、うん」
頷きながら、梨を囓る。
「――何か、話があった気がするんだけどな」
ぼんやりと形にならない、彼女への要件。梨を食べ終える前に思い出そうと思考を巡らすが、一向に思い出す気配はない。
「思い出したら、また来たら良いわ」
相変わらず彼女は淡々としている。
だが彼女の言葉も尤もだ。仕方がないと、思い出すのを諦め梨の瑞々しさと甘さを堪能することにした。
あれから数日が経ち、再び彼女の元へと訪れた。
「また来たの」
無表情に呟いて、けれど彼女は厭う様子もなく部屋の中へと招き入れられる。
椅子に座り、彼女が梨とナイフを手に戻ってくるのをぼんやりと見つめる。
梨の皮を剥き始める彼女に、きっと何度も繰り返しただろう望みを口にした。
「全部、無くすことはできる?」
「できないわ。この梨の大きさの分だけしか『無』にはならない」
こちらに視線を向けず、手を止めず、彼女は淡々と答える。
不思議と落胆はない。何度も繰り返し望み、断られたからだろうか。
「――全部無くさないと、どこにも行けないのに」
誰にでもなく呟けば、彼女の手が止まった。
彼女の凪いだ瞳が向けられる。何も言わず、その目をただ見返した。
「あなたは……あぁ、そうなのね。逆なんだ」
僅かに見開かれた目を瞬いて、彼女は何かに気づいたように微笑んだ。
「どういうこと?」
首を傾げる。だが彼女はそれ以上何も言わず、再び梨の皮を剥いていく。
くるくると皮が皿に落ちるのを何気なく見ていれば、皮を剥かれた梨をそのまま手渡された。
切り分けられていない、少しだけ歪な丸い果実。戸惑い彼女を見るが、彼女は静かにこちらを見ているだけだ。
そっと梨に口をつけた。しゃり、と音を立てて、瑞々しく甘い果実が口に広がり、喉を潤していく。
「おいしい」
目を細め、甘さを堪能しながら梨を囓る。芯を避けて果肉を食し、丸かった果実は細く痩せていく。
芯だけを残して梨を平らげれば、彼女は静かに歩き出し、扉の前でこちらを振り向いた。
「来て」
ただ一言告げられ、立ち上がり彼女の元へと向かう。残った梨の芯をどうするべきか迷うが、何となく持っていた方が良いような気がした。
彼女の後に続いて、外へと出る。裏に広がる梨畑の一角までくると、彼女はこちらを振り向いた。
「ここに種を植えるの。芯のままでいいから」
頷いて、膝をついた。柔らかな土を掻き適度に穴を掘ると、そこに梨の芯を落とす。
その行為を意味を、疑問には思わなかった。そうすることが正しいのだと、これでもう大丈夫なのだと感じて笑みすら浮かぶ。
穴に入れた梨の芯に土をかければ、不思議と心が穏やかになっていった。
「あなたのその記憶は生きた証。決して『無』にはならない」
「だからここで咲かせるの?」
埋めた芯を見ながら、思い浮かんだ言葉を口にする。彼女に頭を撫でられて、こそばゆさと気恥ずかしさに小さく笑い声を上げた。
「きっと綺麗な花が咲くわ。そして美味しい果実になるの……誰かのために生き続けたあなたの想いは、今度は別の誰かに寄り添い、余分なものを流してくれる」
「そっか……」
自分にとってもう必要ないものでも、誰かの役に立てる。そのことが、何よりも嬉しい。
見つめる先の土が盛り上がり、小さな芽が出た。代わりに自分の中の誰かの姿が消えていく。
自分の中の記憶を糧に、梨が生長していく。無くなっていくかつての自分を感じながら、穏やかな気持ちで微笑んだ。
「ありがとう」
彼女に、そしてかつての自分に感謝の言葉を述べる。
これでもう、自分は先に進める。また新しく始めることができるのだ。
立ち上がり、彼女に深く礼をする。頭を上げれば、優しい顔をした彼女に、もう一度頭を撫でられた。
「前のあなたの生はここに置いていくことになるけれど、あなた自身の本質は変わらないわ。だから次の生も胸を張って生きればいい」
そう言って、彼女は梨畑の先にある一本道を指差した。その先から差し込む光の強さに目を細める。
「変わらないんだ」
密かに安堵しながら、戯けて呟く。そうであるならば、道を踏み外すことはないだろう。
「そうよ。全部『無』にはならないの……さあ、いってらっしゃい」
彼女に見送られ、足を踏み出した。
次に向かうため余分なものをすべて置いていくからか、とても体が軽い。跳ねるような足取りで、道の先へと進んでいく。
光に向かい歩いていく。体が小さく解けていく感じに、微睡みに似た心地良さを感じる。
「いってきます」
誰にでもなく呟いて、目を閉じる。
暖かな水の揺り籠に抱かれる感覚に、身を委ねた。
20251014 『梨』
10/15/2025, 9:32:06 AM