さらさらと、音が聞こえる。
落ちていく砂の音。普段ならば、気にも留めないような微かな音。
小さく咳き込めば、忽ち掻き消えてしまう。耳を澄ませても、もう聞こえはしなかった。
どこから聞こえてきたのか、聞こえなくなった今では知りようがない。だが何故だろうか。それがどこから聞こえていたのか、分かるような気がした。
――胸の中。
あれはきっと、自分の命の音だった。
「おはよう」
穏やかな声に、目を開ける。
「――おはよう」
小さく言葉を返せば彼は淡く微笑んで、部屋のカーテンを開けた。
差し込む陽の光の眩しさに、思わず目を細める。開けた窓から入り込む風が運ぶ、冷たく澄んだ秋の空気吸い込んだ。
「調子はどうだ?」
「とても良いよ。ここ最近は、ずっと苦しくない」
胸に手を当てれば、とくとくと規則正しく刻む鼓動を感じる。暖かく、優しい。この鼓動を刻んでいた、本来の主のように。
込み上げてくる涙を、きつく目を閉じることで耐える。
いつまでも泣くのはいなくなった彼女を否定するようで、無理矢理に笑みを作ってみせる。
「無理はするな。泣きたいなら、泣いていい」
彼に頭を撫でられる。髪の毛を乱すような雑さは、きっと彼なりの優しさなのだろう。作ったものではない笑みが溢れて、けれど涙も溢れ出してしまう。
「どうして……」
呟きかけた言葉を、唇を噛みしめることで呑み込んだ。
言葉にしてしまえば、止まらなくなってしまう。もう二度と届かない暖かな手を追ってしまいたい衝動を、只管に耐えていた。
「どうしてだろうな」
頭を撫でながら、彼も同じように呟いた。
「いつもそうだった。誰かのために迷わず手を差し伸べる。お人好しというか、考えなしというか……あいつは最後まで、助けた子供ばかりを心配していたな」
微笑む彼女の姿が思い浮かんで、涙が止まらない。
彼に縋り付き、声を上げて泣いた。どうしてと、寂しいと口にして、いなくなった彼女を只管に呼び続ける。
「本当に馬鹿だよ、あいつは。置いていかれる誰かの苦しみには、最後まで気づこうとしなかったのだから」
泣く自分とは対照的に、彼の声音は凪いだ海のようにとても静かだった。
さらさらと、音が聞こえた。
目を開ける。灯りの消えた室内は、ひっそりと静まりかえっている。
見える範囲には、音を立てる何かはない。体を起こして、音の在処を探す気もなかった。
ただ耳を澄ます。微かに聞こえる砂の音は決して止まることなく、急ぐこともない。それに彼女を感じて、途端に込み上げる苦しさに目を閉じた。
不意に、頭を撫でられた。
優しく繊細なその手つきに、息を呑む。
「泣かないで」
柔らかな声音。離れたくなくて、頭を撫でる手を取り目を開けた。
「――え?」
そこは暗い部屋の中ではなかった。
ざざ、と波の音がする。目の前で波が寄せては返していく。
見上げた空には青白い月が浮かび、無数の星々が煌めいていた。
夜の海辺で一人、座っている。
手の温もりはあるのに、そこには誰もいない。
「どうして……」
「泣かないで」
込み上げる涙を、見えない手が拭う。掴んでいた温もりがするりと消えて、代わりに抱き締められる腕の温もりを感じた。
「大丈夫。ちゃんとここにいるよ」
そっと囁かれる言葉と共に、さらさらと音が聞こえた。
砂の落ちる音。波の音と混じり合い、夜に解けていく。
見えない彼女に凭れながら、耳を澄ませた。砂の音は彼女からは聞こえない。それが悲しくて、涙が零れ落ちていく。
「――どうして、助けたの?」
子供を。そして私を。
自身を犠牲にしてまで誰かを助けるその行為を、理解できない。分かるのは、その献身で残される側の哀しみだけだ。
「それが私の本質だから、かな」
「本質?」
小さく笑う声がした。波のように静かに、穏やかに、彼女は言う。
「変わることのない根っこの部分。どんなに姿形が変わっても、周りが変わっても同じなのよ」
慰めるように、彼女が背を撫でる。昔から変わらない、その手の温もり。
別れは仕方がないことだと彼女は言う。その言葉一つで、すべてを受け入れられる程、大人にはなれなかった。
見えない彼女にしがみつき、嗚咽を溢す。離れたくないのだと手に力を込めれば、背を撫でる手がさらに優しくなった気がした。
「泣かないで」
静かな声が告げる。
泣きながら首を振る自分に、見えない彼女の手がそっと胸に触れた。
「私はここにいる。ちゃんと側にいるから」
彼女の手越しに、そこに触れる。緩やかな鼓動と、落ちていく砂の音を感じて、次第に意識が微睡んでいく。
「私の砂と、あなたの砂。二つが混じって、ひとつになった……ここにいるから、自由に生きて」
目を閉じて、小さく頷いた。
閉じた瞼の裏側に微笑む彼女を見て、涙と共に笑みを溢す。
鼓動の音と、砂の音。そして波の音が混じり合っていく。重なり合い、ひとつになって、小さな形を作っていく。
月明かりを浴びた波のような煌めく砂で満たされた、真白い砂時計。
さらさらと砂が落ちていく。落ちた砂は弾けて煌めき、波に攫われ海に還っていく。
「――おやすみなさい」
波のような彼女の声を聞きながら、意識が落ちていく。
寂しさも哀しみも感じない。
あるのは、揺り籠に揺られているような穏やかさだけだった。
目を覚ますと、そこはいつもの部屋の中だった。
体を起こし、そっとベッドから起き上がる。息苦しさは感じない。確かめるようにゆっくりと呼吸をした。
一歩、足を踏み出した。床の冷たさが素足から伝わり、意識が鮮明になっていく。
ゆっくりと窓へと歩いて行く。不思議な高揚感に、鼓動が跳ねた。
手を伸ばす。カーテンを引けば、途端に差し込む眩い光に、一瞬だけ目が眩んだ。
窓を開けて、外の空気を取り込む。見上げる空は、雲一つない快晴。暖かな陽射しに、笑みが浮かぶ。
「もう起きてたのか」
聞こえた彼の声に、振り返る。少しだけ驚いた表情をした彼の元へ歩み寄る。
「おはよう」
「おはよう。歩いて大丈夫なのか?」
彼の言葉に、笑って頷いた。
「お願いがあるの」
「なんだ?」
首を傾げる彼に、窓の外を指差した。
今日はきっと、出かけるのに良い日だろうから。
「海を見に行きたいの」
遠く聞こえる波の音を聞きながら願う。
すぐ側で、彼女が穏やかに笑っている気がした。
20251017 『砂時計の音』
10/19/2025, 8:33:14 AM