sairo

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見上げる夜空の一角。四角く切り取られたかのように、星のない場所があった。
きつく睨みつけても、星が戻ることはない。それでもしばらく見つめていたが、やがてその行為の無意味さに空しくなって、目を逸らした。

先日、代々伝わる、祖先が書き残した星図の一枚が姿を消した。その一枚が記していた空から星が消えたと伝えた家の者は、数日後、忽然と姿を消してしまった。
まるで星のようだ。誰も何も言わなかったが
皆思うことは同じだった。

このまま、星図が戻らなければどうなるのか。
そもそも、星図はどこへ行ったのか。

何も分からない。分からないからこそ、探しに行かなければ。
きつく手を握り締める。最後にもう一度空を見上げ、祖先が星図を描いていたという、かつての屋敷に向かい歩き出した。



最低限の手入れだけはされている屋敷は、不気味な静けさを湛えていた。
息を殺して、鍵穴に鍵を差し込む。誰もいないのだから気配を殺す必要はないと思うものの、屋敷の空気がそうさせた。
鍵を開け、戸を開く。からからと戸が開く音が、やけに大きく聞こえて途端に落ち着かなくなった。
玄関に入り、戸を閉める。靴を脱いで上がった時、廊下の先で何かが動いたような気がした。        咄嗟に出かかる悲鳴を噛み殺す。視線を向けるも、そこには何の気配もない。
深く深呼吸をして、ゆっくりと足を踏み出す。
何か手がかりが見つかるかもしれない。そんな思いで、恐怖に耐えながら廊下の奥を目指した。



「あなたが来たのですね」

奥座敷の障子戸を開けた瞬間に聞こえた声に、思わず肩が震えた。
視線を向ける。暗い部屋の中心で、座る誰かが真っ直ぐにこちらを見ていた。

「これは僥倖。一族の中で、あなただけが我らの祈りを継ぐことができるのだから」

不意に、誰も触れていない行灯の明かりが点いた。座る誰かの姿が露わになり、小さく息を呑む。
彼は先日姿を消した、星図が消えたと告げた者だった。

「――兄様」

呟きながら、その言葉の違和感に眉が寄る。彼は兄ではない。目の前にいる彼のことを、自分は見たこともなかった。
だというのに、体は躊躇いなく彼の元へと歩き出す。立ち上がる彼に寄り添い、促されて屋敷のさらに奥へと向かっていく。
どこへ行くのだろうか。その疑問に答えるように、自分の中の何かが離れへと向かうのだと告げている。
離れで、再び星図を描き直すのだと。

「星図に描かれている星を、理解していますか?」

不意に問われ、彼を見る。何かが告げるその答えを、言葉として紡いでいく。

「神様」
「そうです。我らが畏れ、奉ってきた神々。陽であり、雨であり、そして人でもある」

静かに頷いた。時の流れと共に忘れ去られてしまっていたことを、何かが語る。
ようやく思い出せた。不思議に安堵感を覚えて、小さく息を吐く。

気づけば、離れの一番奥の部屋の前まで来ていた。
彼が障子戸に手をかける。
音もなく開かれた戸の先に、星空が広がっていた。

「祈りを忘れ、存在を忘れた神々を、あなたの手でもう一度描くのです」

彼の指差す部屋の中央には、一枚の紙と、硯と筆が置いてあった。
消えてしまった星図だ。神々のために、描かなければ。
部屋の中へと、一歩足を踏み出す。しかし手を掴まれて、それ以上は足を進めることができなくなった。

「兄様?」

手を掴む彼に視線を向ける。
無意識だったのだろうか。その表情は自身の咄嗟の行為に、困惑しているように見えた。

「兄様」

声をかけると彼は唇を噛みしめ、俯いた。震える手が静かに離れていくのを、何故か寂しいと感じてしまう。
これは自分の感情なのか、それとも誰かの感情を感じているのか、区別がつかない。部屋の中の星空はどこまでも広がっていて、自分と自分以外の境界が酷く曖昧になっている気がした。
微睡むように、意識が揺らぐ。けれどもどんなに離れがたく感じても、行かなくてはいけない。その意思だけは強くあった。

「――我が妹よ」

凪いだ声音が呼ぶ。顔を上げた彼の顔もまた、先ほどの乱れはない。
彼は穏やかに微笑みを浮かべる。持ち上げた手にそっと髪を梳かれ、目を細めた。

「忘れ去られ、地に落ちたことを悲しく思う。だが、愛しいお前に再び逢えて、とても嬉しいよ」
「私もです。兄様」

髪を梳く手を取り、頬を寄せる。そして名残惜しさを感じながらも、その手を離した。

「行ってまいります」
「あぁ、行っておいで。私はいつまでも、この場から柱となったお前たちを想い続けていよう」

彼は今度は引き留める様子はない。微笑んで、部屋の中へと足を踏み入れる。
部屋の中央。紙と硯の前で座り、筆を取る。
空を見上げずとも、星の位置が分かる。まるで導かれるように、墨を吸わせた筆で星を描いていく。
不思議な感覚だった。一つ星を描く毎に、自分の中の何かが抜け落ちていく。それを怖ろしいと感じるのに、手は少しも澱まず星図を描き続けている。

不意に、声が聞こえた気がした。
風や星、空が囁いている。それは祈りの詞となって、描いた星図を煌めかせる。

星図は、名もなき神々を描いている。

描き終わった星図を前にして、急に畏れが込み上げた。
筆を置き、手を合わせる。
目を閉じれば、悠久の時の流れに乗って、恋しいと詠う声が聞こえた。





夜が明けた。
屋敷の中には誰もいない。静謐に満たされた屋敷は、まるで眠っているかのようにも見えた。

不意に、どこからか風が入り込んできた。
風は迷うことなく奥へと向かい、離れの一室へと吹き抜けていく。
その部屋の中央に、一枚の古ぼけた星図があった。風は星図を舞い上げて、外へと駆け抜けていく。
外で色づく葉のように、星図が揺らめきながら落ちていく。音も立てず畳に落ちた星図は静かに煌めき、霞み解けていく。
残るものは何もない。

遠くでかたり、と音がした。玄関の戸が開き、外から誰かが屋敷に入ってくる。
板張りの廊下を軋ませ、奥へと進む。離れの一室の前で止まり、障子戸を開いた。
陽を連れて、小さな影が部屋へと足を踏み入れる。その中央で足を止め、膝をついた。
手を合わせ、目を閉じる。
陽を浴びて伸びる影に、いくつもの星が煌めいていた。



20251016 『消えた星図』

10/17/2025, 10:00:48 AM